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『孟子』巻第九萬章章句上 百二十三節

2018-07-30 09:51:56 | 四書解読
百二十三節

弟子の萬章が尋ねた。
「舜が歴山で百姓暮らしをしていたとき、田に出かけては、天に向かって声を挙げて泣いていた、ということですが、何故そのようにに泣き叫んでいたのでしょうか。」
孟子は言った。
「父母に愛されないことを怨みながら、それでも父母を思慕していたからだ。」
萬章が言った。
「父母が自分を愛してくれたら、喜んでいつまでも忘れない。たとい父母に憎まれているとしても、我が身の至らなさを悔いて務めて父母を怨むことをしない、というのが孝子の道だと聞いておりますが、先生のお言葉ですと、舜は父母を怨んだのでしょうか。」
「昔、長息が師匠の公明高に尋ねた、『舜が田に出て働いていたわけは、既に先生に教えていただきよく分かりましたが、天に向かい、泣きながら父母を呼んだことについては分かりません。』公明高は言った。『それはおまえに分かることではない。』あの公明高は孝子の心というものを、親を養うために力いっぱい田を耕し、子としての務めを果たすのみである、と思っている。だからと言って親が私を愛さなくても、それは私にとって何でもないことだ、と言えるほど気にかけずにおれるものではない、と言うのが公明高の考えであろう。帝堯は九人の息子と二人の娘に諸々の役人と牛羊を引き連れ穀物庫を整えて、田野にある舜に仕えさせた。すると天下の士も多く舜に帰服した。帝堯は天下のそのような様子を見て、舜に位を譲ろうとした。だが舜は父母に疎んぜられていることから、身を窮してどうすればよいのか途方に暮れていたのである。天下の士が喜んで帰服してくることは、誰もが望む所である。だがそれも舜の憂いを解くことは出来なかった。美女は誰もが望むものである。だが帝堯の娘二人を妻にしても、舜の憂いを解くことは出来なかった。富は誰もが欲する所のものである。だが天下という大きな富を手に入れても、舜の憂いを解くことは出来なかった。高い地位は誰もが望む所である。だが天子という最高の地位を得ても、舜の憂いを解くことは出来なかった。天下の人々が帰服することも、美人や富や地位も、舜にとっては,憂いを解くものではなかった。ただ父母に喜ばれることだけが、憂いを解くに足るものであった。人は、子供の頃は父母を慕い、年頃になれば、若い美女を慕い、妻子ができれば、妻子を慕い、君に仕えれば君を慕い、君に気に入られなければ、気に入られようと努力する。だが本当の孝子は生涯親を慕いつづける。五十になっても親を慕い続ける本当の孝子の姿を、私は舜に見出すのだ。」


萬章問曰、舜往于田、號泣于旻天。何為其號泣也。孟子曰、怨慕也。萬章曰、父母愛之、喜而不忘。父母惡之、勞而不怨。然則舜怨乎。曰、長息問於公明高曰、舜往于田、則吾既得聞命矣。號泣于旻天于父母、則吾不知也。公明高曰、是非爾所知也。夫公明高以孝子之心、為不若是恝。我竭力耕田、共為子職而已矣。父母之不我愛、於我何哉。帝使其子九男二女百官牛羊倉廩備、以事舜於畎畝之中。天下之士多就之者。帝將胥天下而遷之焉。為不順於父母、如窮人無所歸。天下之士悅之、人之所欲也。而不足以解憂。好色人之所欲。妻帝之二女、而不足以解憂。富人之所欲。富有天下、而不足以解憂。貴人之所欲。貴為天子、而不足以解憂。人悅之、好色富貴、無足以解憂者。惟順於父母、可以解憂。人少、則慕父母、知好色、則慕少艾、有妻子、則慕妻子、仕則慕君、不得於君則熱中。大孝終身慕父母。五十而慕者、予於大舜見之矣。

萬章問いて曰く、「舜、田に往き、旻天に號泣す。何為れぞ其れ號泣するや。」孟子曰く、「怨慕すればなり。」萬章曰く、「父母之を愛すれば、喜びて忘れず。父母之を惡めば、勞して怨みず。然らば則ち舜は怨みたるか。」曰く、「長息、公明高に問いて曰く、『舜の田に往くは、則ち吾既に命を聞くを得たり。旻天に、父母に號泣するは、則ち吾知らざるなり。』公明高曰く、『是れ爾の知る所に非ざるなり。』夫の公明高は孝子の心を以て、是の若く恝(カツ)ならずと為す。『我は力を竭くして田を耕し、子為るの職に共するのみ。父母の我を愛せざるは、我に於て何ぞや。』帝、其の子九男二女をして百官牛羊倉廩を備え、以て舜に畎畝の中に事えしむ。天下の士、之に就く者多し。帝將に天下を胥(みる)て之に遷さんとす。父母に順われざるが為に、窮人の歸する所無きが如し。天下の士之を悅ぶは、人の欲する所なり。而も以て憂いを解くに足らず。好色は人の欲する所なり。帝の二女を妻とすれども、而も以て憂いを解くに足らず。富は人の欲する所なり。富、天下を有てども、而も以て憂いを解くに足らず。貴きは人の欲する所なり。貴きこと天子と為れども、而も以て憂いを解くに足らず。人之を悅び、好色・富貴あるも、以て憂いを解くに足る者無し。惟だ父母に順わるれば、以て憂いを解く可し。人少ければ、則ち父母に慕い、好色を知れば、則ち少艾を慕い、妻子有れば、則ち妻子を慕い、仕うれば則ち君を慕い、君に得ざれば則ち熱中す。大孝は終身父母を慕う。五十にして慕う者は、予、大舜に於いて之を見る。」

<語釈>
○「舜往于田」、趙注:歴山に耕すの時を謂う。○「怨慕」、趙注:舜、自ら父母に惡まるるの厄を怨みて思慕するなり。伊藤仁斉や中井履軒などは、この解釈に反対して、父母を怨み慕うと解釈している。下文の萬章の言葉からすると、後説の方が妥当うな気がするので、後説を採用した。○「長息・公明高」、趙注:長息は公明高の弟子、公明高は曾子の弟子。○「為不若是恝」、「若是」は、下文に四句を指す。「恝」は、趙注:愁い無きの貌、○「畎畝」、「畎」(ケン)は田閒のみぞ、「畝」は田のあぜ、「畎畝」で農業を指す。○「胥」、朱注:胥は相視るなり。“みる”と訓ず。○「少艾」、朱注:艾は美好なり。若い美人の意。

<解説>
孟子の思想は道徳の思想ともいえる。その道徳のなかでも、孝道は最重要に位置づけされている。趙岐の章指にも、「夫れ孝は百行の本なり、物以て之に先だつ物は無し。」と述べられており、この節は孝道についての孟子の考えを知るうえで重要な節である。

『孫子』解説

2018-07-25 10:26:44 | 四書解読
『孫子』解説

一『孫子』と孫武について

 中国の兵法書として現代に伝えられているものに、兵法七書がある。これは『孫子』を筆頭に、『呉子』・『司馬法』・『尉繚子』・『李衛公問對』・『石公三略』・『六韜』の七書である。この中でも『孫子』は内容的に最も優れており、兵法書としてまとまったものである。
『孫子』及びその著者孫武については、多くの人が知っている所であるが、孫武とはどのような人物であったか、その詳細はほとんど分かっていない。『史記』孫子呉起列伝は、「孫子武は、斉人なり。兵法を以て呉王闔廬に見ゆ。闔廬曰く、『子の十三篇、吾尽く之を観たり。以て小しく兵を勒するを(兵をおさめ整える)試みる可きか。』對えて曰く、『可なり。』闔廬曰く、『試みるに婦人を以てす可きか。』曰く、『可なり。』是に於いて之を許し、宮中の美女を出だして、百八十人を得たり。孫子、分かちて二隊と為し、王の寵姫二人を以て各々隊長と為し、皆戟を持たせしむ。之に令して曰く、『汝、而(なんじ)の心(むね)と左右の手と背を知るか。』婦人曰く、『之を知る。』孫子曰く、『前には、則ち心を視よ。左には、左の手を視よ。右には右の手を視よ。後ろには、即ち背を視よ。』婦人曰く、『諾。』約束既に布かれ、乃ち鈇鉞(鈇はおの、鉞はまさかり)を設け、即ち之に三令五申す(命令が三回、説明が五回)。是に於いて之を右に鼓す。婦人大いに笑う。孫子曰く、『約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり。』復た三令五申して之を左に鼓す。婦人復た大いに笑う。孫子曰く、『約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり、鼓既に已に明らかにして而も法の如くにせざるは、吏士の罪なり。』乃ち左右の隊長を斬らんと欲す。呉王、台上従り観、且に愛姫を斬らんとするを見て、大いに駭き、趣(すみやか)やかに使いをして令を下さしめて曰く、『寡人已に将軍の能く兵を用うるを知れり。寡人、此の二姫に非ずんば、食するも味わいを甘しとせず、願わくは斬る勿れ。』孫子曰く、『臣、既に已に命を受けて将為り。将、軍に在りては、君命も受けざる所有り。』遂に隊長二人を斬り以て徇う。其の次を用って隊長と為し、是に於いて復た之を鼓す。婦人、左右前後跪起し、皆規矩縄墨(規は定規、矩はコンパス、縄墨はすみなわ。規定通りで乱れがないこと)に中り、敢て声を出だすもの無し。是に於いて孫氏使いをして王に報ぜしめて曰く、『兵既に整斉たり。王、試みに下りて之を観る可し。唯王の之を用いんと欲する所、水火に赴くと雖も猶ほ可なり。』呉王曰く、『将軍、罷休して舎に就け。寡人、下りて観るを願わじ。』孫氏曰く、『王、徒に其の言を好み、其の実を用うるを能わず。』是に於いて闔廬、孫子の能く兵を用うるを知り、卒に以て将と為す。西のかた彊楚を破りて、郢に入り、北のかた斉・晋を威して、名を諸侯に顕ししは、孫子與りて力有り。」と述べているが、そのほとんどはエピソードで、その人物像も功績もそれほど詳しくは書かれていない。では孫武の名が始めて見えるのはいつかと言えば、『史記』の呉太伯世家に、「三年(前512年)、呉王闔廬、子胥・伯嚭と兵を将いて楚を伐ち、舒を抜き、呉の亡将二公子を殺す。光、謀りて郢に入らんと欲す。将軍孫武曰く、『民、労る。未だ可ならず。之を待て。』」とあるのが最初であり、次いで呉太伯世家の九年の条にその名が見える。孫武の名が歴史上に現れるのはこの二か所だけである。その少なさと、更に『春秋左氏伝』では孫武の名が出てこないことから、孫武の実在を疑い、『孫子』の著者は、孫武の時代からおよそ百年ほど後の人で孫武の子孫だという齊の人孫臏だとする説もある。この問題は長らく論争が続き、決着が付かなかったのであるが、1972年7月、山東省臨浙県で発掘された前漢初期の墓から『孫子兵法』と『孫臏兵法』の二つの竹簡が発見され、孫子、孫臏それぞれに兵法書があったことが明らかになり、終止符をうとうとしている。

二『孫子』の体裁

現在伝えられている『孫子』は十三篇である。ところが『漢書』芸文志は八十二篇とあって、その篇数を異にしている。『孫子』の最も古い注釈書である魏の 武帝注『孫子』は十三篇であり、この十三篇が闔廬の見た十三篇と同じものであるのかどうかということが問題になってくるが、それは多くの方が研究しており、複雑に過ぎて私の及ぶ所ではない。唯一つ押さえておかなければならないことは、現在に伝えられている古書のほとんどは、その書の全てが著者あるいはその時代に書かれたものでなく、後世の補作が混じっていることが多いということである。だが歴史研究の史料にするわけではなく、その思想を読み取ることが目的なのだから、その事を念頭に置いて、読み解いていけばよい。

三『孫子』の注釈書

注釈書の最も古いのは、すでに述べたように魏の武帝の注である。次いで宋になると吉天保が『十家孫子會注』を著している。更に宋の元豊年間(1078年~1085年)には武学を志す者が学ぶべき書として七書を定めた。それは冒頭で述べた七書である。これより、『孫子』単独に注するよりも、『七書』に注した書が多く表れた。中でも明の時代の劉寅による『七書直解』が最も有名であり、その他多くの注釈書がある。我が国においても多くの国学者が注釈を試みているが、現存のもので最も古いの林羅山の『孫呉摘語』、『孫子諺解』、『孫子抄』であり、有名な所では、山鹿素行の『孫子諺義』・『七書要証』、荻生徂徠の『孫子國字解』などがある。参考書などによれば、さらに中国・日本の多くの注釈書が紹介されているが、ここでは取り上げない。
今回解読の定本は、服部宇之吉氏による吉天保の『十家孫子會注』に基づいた注釈書であり、富山房刊行の漢文大系に収められている。

『孟子』巻第八離廔章句下 百二十一節、百二十二節

2018-07-22 16:03:32 | 四書解読
百二十一節

齊の儲子が言った。
「王様は人をつかわして先生をこっそりとうかがわさせたそうですが、はたして先生は常人と違ったところがおありなのですか。」
孟子は言った。
「何で常人と違ったところがありましょうか。あの聖人の堯や舜でさえも、常人と何ら変わりはないのです。」

儲子曰、王使人矙夫子。果有以異於人乎。孟子曰、何以異於人哉。堯舜與人同耳。

儲子曰く、「王、人をして夫子を矙わしむ。果して以て人に異なる有るか。」孟子曰く、「何を以て人に異ならんや。堯舜も人と同じきのみ。」

<語釈>
○「儲子」、趙注:儲子は齊の人なり。○「矙」、趙注:矙は視なり。“うかがう”と訓ず。

<解説>
趙注に云う、「人の生は同じく法を天地の形に受く、當に何を以て人に異ならんや、且つ堯舜の貌、凡人と同じきのみ、其の異なる所以は、乃ち仁義の道の内に在るを以てなり。」人は全て人間と言う概念でくくれば皆同じである。その違いは心の内に在る。様子をうかがわせたのでは、その人の内なる者は分からない。故に孟子はこのように言ったのであろう。

百二十二節

齊の人で、妻と妾一人を持って、家でぶらぶらしている男がいた。その男は外出すると、必ず肉や酒をたらふく飲み食いして帰ってくる。妻が誰と一緒に飲食したのか尋ねると、相手は全て富者や貴人ばかりである。そこで妻は妾に言った。
「主人は外出すれば、必ず酒や肉をたらふく食べて帰ってきます。誰と一緒に飲食したのか尋ねると、相手は全て富者や貴人ばかりなのです。ところが今まで我が家にそのような人が尋ねてきたことがありません。どうも変なので、私は主人の跡をつけてみようと思います。」
妻は、翌日、朝早く起きて、夫の後を見え隠れにつけていった。ところが町中を歩き回っても、立ち止まって夫に話しかける人は一人もいなかった。やがて東の郊外の墓地まで行き、墓前で祭をしている者の所へ行き、余り物を乞い、足りなければ、あたりを見回して祭をしている者をさがして、又余り物を乞うのであった。これが夫のたらふく食らう道であった。妻は家に戻り、妾に、
「夫とは、女が一生涯尊敬してお仕えすべき方なのに、それがこんな有様では。」
と言って、二人して恨み言を言い、中庭で共に涙を流した。ところが夫はそんなことは露ほどにも知らず、いつも通りに誇らしげに帰ってきて、妻や妾に自慢した。この話について孟子は言った。
「君子から見れば、世の人が富貴を求め、利潤や栄達を求めるやり方は、もし妻妾が知れば、恥ずかしく思い、共に泣かない者は、ほとんどいないだろう。」

齊人有一妻一妾而處室者。其良人出、則必饜酒肉而後反。其妻問所與飲食者、則盡富貴也。其妻告其妾曰、良人出、則必饜酒肉而後反。問其與飲食者、盡富貴也。而未嘗有顯者來。吾將瞷良人之所之也。蚤起、施從良人之所之。遍國中無與立談者。卒之東郭墦閒之祭者、乞其餘。不足、又顧而之他。此其為饜足之道也。其妻歸、告其妾曰、良人者、所仰望而終身也。今若此。與其妾訕其良人、而相泣於中庭。而良人未之知也。施施從外來、驕其妻妾。由君子觀之、則人之所以求富貴利達者、其妻妾不羞也、而不相泣者、幾希矣。

齊人、一妻一妾にして、室に處る者有り。其の良人出づれば、則ち必ず酒肉に饜きて、而る後に反る。其の妻、與に飲食する所の者を問えば、則ち盡く富貴なり。其の妻、其の妾に告げて曰く、「良人出づれば、則ち必ず酒肉に饜きて、而る後に反る。其の與に飲食する者を問えば、盡く富貴なり。而も未だ嘗て顯者の來たること有らず。吾將に良人の之く所を瞷わんとす。」蚤に起き、施めに良人の之く所に從う。國中を遍くするも、與に立って談ずる者無し。卒に東郭墦閒の祭る者に之きて、其の餘りを乞う。足らざれば、又顧みて他に之く。此れ其の饜足を為すの道なり。其の妻歸り、其の妾に告げて曰く、「良人なる者は、仰ぎ望みて身を終うる所なり。今此の若し。」其の妾と與に其の良人を訕(そしる)りて、中庭に相泣く。而るに良人は未だ之を知らざるなり。施施として外從り來たり、其の妻妾に驕れり。君子由り之を觀れば、則ち人の富貴利達を求むる所以の者、其の妻妾羞ぢず、而も相泣かざる者は、幾んど希なり。

<語釈>
○「處室」、妻妾と同居していると解する説と、家でぶらぶらと過ごしていると解する説とがある。この男の行動から考えると、後説の方がいいように思うので、後説を採用する。○「施從」、趙注:施は、邪施なり。「邪施」はよこしまの意で、まっすぐでないことから、見え隠れに後をつけるという意味に解釈する。○「東郭墦閒」、趙注:墦閒は郭外の冢閒なり。東の郊外にある墓地という意味。○「訕」、朱注:訕は怨み詈るなり。“そしる”と訓ず。○「施施」、趙注:施施は、猶ほ扁扁なり、喜悦の貌なり。

<解説>
特に解説の余地はないが、士たる者は、恥を知るべきである、と言いたいのであろう。孟子の末尾の言葉からして、この時代、富貴栄達を求める者に、恥ずべき行為が多かったのだろうか。

『呂氏春秋』の解読を終え、次は『孫子』

2018-07-15 10:59:57 | 四書解読
『呂氏春秋』の解読は前回の士容論を以て何とか終えることができた。正直言って『呂氏春秋』の解読は納得のいくものではない。参考資料が手元になく、解読にかなり苦労したし、十分に読み切れていない。自分の能力不足を羞じる所である。少なくとも陳奇猷撰の『呂氏春秋校釈』があればもう少し何とかなったのではないかと思っている。又いつの日かこの書を手に入れて、再度解読を試みたいと思っている。
さて一応『呂氏春秋』を終えたので、次は何にするかであるが、『呂氏春秋』が一般的でなかったので、次は誰もが知っているものがいいかなと思い、考えた結果『孫子』を取り上げることにした。『孫子』なら漢籍に興味のない人でも大概の人は知っているし、ビジネス書などでも取り上げられている。『孫子』は一応中国最古の兵法書であるが、中國の兵法書として現代に伝えられているものに、兵法七書がある。これは、孫子を筆頭に、呉子・司馬法・尉繚子・李衛公問對・黄石公三略・六韜の七書ことである。せっかくなのでこの七書全ての解読をやりたいと思っている。先ずは『孫子』から始める。

『呂氏春秋』巻第二十六士容論

2018-07-11 10:24:19 | 四書解読
巻二十六 士容論

一 士容

一に曰く。士は偏せず黨せず、柔にして堅、虚にして實、其の狀は朖然(明るい貌)として儇(ケン、さとい)ならず、其の一を失うが若し(高注:一は道を謂うなり)。小物に傲りて志は大に屬し、勇無きに似て未だ恐猲す可からず(底本は「恐狼」に作るが、王念孫により、「恐猲」に改める。「恐喝」に同じ)。執固橫敢にして辱害す可からず、患いに臨み難を渉れども義に處りて越わず(高注:「越」は「失」なり)。南面して寡と稱すれども以て侈大ならず。今日民に君たりて海外を服せんと欲するや、節物甚だ高くして細利に賴らず(高注:節物は事なり、事を行うこと甚だ高く、細小の利に恃まず、之に頼るなり)、耳目は俗を遺(すてる)てて與に世を定む可し。富貴にも就かずして貧賤にも朅らず(畢沅云う、「朅」は「去」なり)、德行尊理にして巧衛を用うるを羞ぢ(高注:巧媚を以て自ら栄衛するを羞づ)、寬裕訾らずして中心甚だ厲に、動かすに物を以てし難くして必ず妄折せず。此れ國士の容なり。齊に善く狗を相する者有り。其の鄰假いて以て鼠を取るの狗を買わんとす(高注:「假」は猶ほ「請」なり)。期年にして乃ち之を得て、曰く、「是れ良狗なり。」其の鄰、之を畜うこと數年なれども、鼠を取らず。以て相する者に告ぐ。相する者曰く、「此れ良狗なり。其の志は獐麋豕鹿(「獐」はのろ、「麋」はおおしか。「豕」はぶた)に在り、鼠に在らず。其の鼠を取らんことを欲せば、則ち之に桎(足枷)せよ。」其の鄰、其の後ろ足に桎すれば、狗乃ち鼠を取る。夫れ驥驁の氣、鴻鵠の志、人心に諭らるる者有るは誠なればなり。人も亦た然り。誠之れ有れば則ち神、人に應ず。言豈に以て之を諭すに足らんや。此を不言の言と謂うなり。客、田駢に見ゆる者有り。被服は法に中り、進退は度に中り、趨翔閑雅、辭令遜敏(つつましくて、事に敏)なり。田駢、之を聽き畢りて之を辭る(高注:「辭」は「遣」なり。退出するように促すこと)。客出づ。田駢之を送るに目を以てす。弟子、田駢に謂いて曰く、「客は士なるか。」田駢曰く、「士に非ざるに殆し(高注:「殆」は「近」なり)。今者客の弇斂(エン・レン、収めて外にあらわさない)する所は、士の術施(畢沅云う、「術」は皆當に「述」に作るべし。述べて実行する意)する所なり。士の弇斂する所は、客の術施する所なり。客、士に非ざるに殆からん。」故に火、一隅を燭らせば、則ち室偏は光無し(高注:「偏」は「半」なり)。骨節蚤く成れば(骨と関節が早く成長すれば)、空竅哭歷して、身必ず長ぜず。衆、方(道理)を謀る無くして、謹みを視見に乞うは、故多くして良からず。志必ず公ならざれば、功を立つること能わず。得るを好むも予うるを惡めば、國、大なりと雖も王為らず。禍災日に至らん。故に君子の容は、純乎として其れ鍾山の玉の若く、桔乎として(真直ぐな貌)其れ陵上の木の若く、淳淳乎(飾り気がない)として慎謹し化を畏れて、肯て自ら足れりとせず。乾乾乎(高注:乾乾は進むこと倦まず)として取舍し悅ばずして、心甚だ素樸なり。唐尚の敵年、史と為る。其の故人、唐尚も之を願えりと謂い、以て唐尚に謂う。唐尚曰く、「吾、史と為るを得ざるに非ざるなり。羞ぢて為らざるなり。」其の故人信ぜず。魏、邯鄲を圍むに及び、唐尚、惠王に説きて之が圍いを解かしめ、以て伯陽を與えらる。其の故人乃ち其の史と為るを羞じしことを信ぜり。居ること間有りて、其の故人、其の兄の為に請う。唐尚曰く、「衛君死せば、吾將に汝の兄をして以て之に代えしめんとす。」其の故人反り興ち再拜して之を信ぜり。夫れ信ず可くして信ぜず、信ず可からずして信ず。此れ愚者の患なり。人の情(得るを好み、予うるを惡む心)知りて、自ら遺(すてる)つること能わず。此を以て君と為らば、天下を有つと雖も何ぞ益せん。故に敗は愚なるより大なるは莫し。愚の患いは、必ず自ら用うるに在り。自ら用うれば、則ち戇陋(トウ・ロウ、愚かでつまらない)の人從いて之に賀す。國を有つこと此の若くなれば、有つこと無きに若かず。古の賢に與うは、此れ從り生ず(高注:古人、位を賢に傳う、以て子不肖なれば予う可からず)。其の子孫を惡むに非ざるなり。徼めて其の名を矜るに非ざるなり。其の實に反ればなり。

二 務大

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