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『孟子』巻第十萬章章句下 百三十七節

2018-11-28 10:27:49 | 四書解読
百三十七節

萬章は尋ねた。
「士たる者は、他国の諸侯に身を寄せて養われるものではないと言うのは、どうしてでございなすか。」
孟子は答えた。
「そういうことは、強いてやらないものである。諸侯が国を失って、他国の諸侯に身を寄せることは、対等の間柄だから礼に適っているが、士が諸侯に身を寄せることは、身分が違うのだから礼に外れている。」
萬章は言った。
「それでは、亡命先の君主が、哀れに思い食料をくれたときは、それを受けますか。」
「受ける。」
「それは何故でございますか。」
「君たる者は、民を救うのが務めだからだ。」
「では、救済なら受け取る、俸禄として下賜されたものなら受け取らないというのは、どういうわけでございますか。」
「受け取るわけにはいかないのだ。」
「強いてお尋ねします。受け取るわけにはいかないというのは、どういうことでございますか。」
「門番や夜警の者でも、一定の職務が有って禄を受けているのだ。職務もないのに禄を受けるのは、慎みのない行為だからだ。」
「救済として贈られたものなら受け取るとおっしゃいましたが、引き続き何回も受けてよいものでしょうか。」
「昔、魯の繆公は子思に対して、しばしば使者を遣わして安否を尋ね、しばしば鼎で煮た肉を贈られた。君命で贈られて来るので、その度に拝して受け取らねばならず、ありがた迷惑に思っていた。とうとうある日、使者を差し招いて、大門の外に出てもらい、北面して臣下の礼を取り、稽首再拝して贈り物を辞退して、『今になってやっと殿様が私を犬や馬あつかいをなさっておられるのが分かりました。』と言った。思うに、繆公も自分の非を悟り、それ以後下役に贈り物をを届けさせなかっただろう。いくら賢者を好むと言っても、挙用することもできず、正しいやり方で養うことができなくて、本当に賢者を好むと言えるだろうか。」
「あえてお尋ねします。国君が君主を養うことを望んだとして、どのようにしたら真に養うと申せるのでしょうか。」
「最初は君命として贈り物を届けさせ、受け取る側も再拝稽首して受け取るが、二回目以降は、穀物は倉庫係が、肉は料理係りがそれぞれ補給して、君命を表に出さないのである。子思は、鼎煮の肉に、いちいち再拝稽首して受け取らせる、それがが煩わしく、これは君子を養う道ではない、と思ったのだ。堯は舜に対して、九人の息子を舜に仕えさせ、二人の娘を舜に嫁がせ、多くの召使・牛・羊・穀物庫などを整えて郷村に住む舜を援助した。そうして舜の賢なるを見極めてから、高い地位、摂政に取り立てたのであった。だから私は、堯を王公の中で賢者を尊んだ者だと言うのである。」

萬章曰、士之不託諸侯、何也。孟子曰、不敢也。諸侯失國、而後託於諸侯、禮也。士之託於諸侯、非禮也。萬章曰、君餽之粟、則受之乎。曰、受之。受之何義也。曰、君之於氓也、固周之。曰、周之則受、賜之則不受、何也。曰、不敢也。曰、敢問其不敢何也。曰、抱關撃柝者、皆有常職以食於上。無常職而賜於上者、以為不恭也。曰、君餽之、則受之、不識可常繼乎。曰、繆公之於子思也、亟問、亟餽鼎肉。子思不悅。於卒也、摽使者出諸大門之外、北面稽首再拜而不受。曰、今而後知君之犬馬畜伋。蓋自是臺無餽也。悅賢不能舉、又不能養也、可謂悅賢乎。曰、敢問國君欲養君子、如何斯可謂養矣。曰、以君命將之、再拜稽首而受。其後廩人繼粟、庖人繼肉、不以君命將之。子思以為鼎肉、使己僕僕爾亟拜也。非養君子之道也。堯之於舜也、使其子九男事之、二女女焉、百官牛羊倉廩備、以養舜於畎畝之中、後舉而加諸上位。故曰、王公之尊賢者也。

萬章曰く、「士の諸侯に託せざるは、何ぞや。」孟子曰く、「敢てせざるなり。諸侯國を失いて、而る後諸侯に託すは、禮なり。士の諸侯に託するは、禮に非ざればなり。」萬章曰く、「君、之に粟を餽れば、則ち之を受けんか。」曰く、「之を受けん。」「之を受くるは何の義ぞや。」曰く、「君の氓に於けるや、固より之を周うべければなり。」曰く、「之を周えば則ち受け、之を賜えば則ち受けざるは、何ぞや。」曰く、「敢てせざるなり。」曰く、「敢て問う、其の敢てせざるは、何ぞや。」曰く、「抱關撃柝の者は、皆常の職有りて、以て上に食む。常の職無くして、上より賜る者は、以て不恭と為せばなり。」曰く、「君之を餽れば、則ち之を受くと、識らず、常に繼ぐ可きか。」曰く、「繆公の子思に於けるや、亟々問いて、亟々鼎肉を餽れり。子思悅ばず。卒りに於いてや、使者を摽(さしまねく)きて、諸を大門の外に出だし、北面し、稽首再拜して受けず。曰く、『今にして後、君の犬馬もて伋を畜いたるを知る。』蓋し是れ自り臺、餽ること無きなり。賢を悦びて舉ぐる能わず、又養う能わずんば、賢を悦ぶと謂う可けんや。」曰く、「敢て問う、國君、君子を養わんと欲す。如何にせば斯に養うと謂う可き。」曰く、「君命を以て之を將い、再拜稽首して受く。其の後は、廩人、粟を繼ぎ、庖人、肉を繼ぐ。君命を以て之を將わず。子思以為えらく、鼎肉、己をして僕僕爾として亟々拜せしむ,君子を養うの道に非ざるなり、と。堯の舜に於けるや、其の子九男をして之に事え、二女をして焉に女わし、百官・牛羊・倉廩備え、以て舜を畎畝の中に養わしむ。後、舉げて諸を上位に加う。故に曰く、『王公の賢を尊ぶ者也なり。』」

<語釈>
○「託」、朱注:「託」は「寄」なり、仕えずして其の禄を食むなり。○「周」、朱注:「周」は「救」なり。○「抱關撃柝」、前節に既出。○「臺」、趙注:臺は、賤官、使令を主る者なり。○「僕僕爾」、趙注:僕僕は、煩猥の貌。わずらわしく、みだりがわしい。

<解説>
この節は前半と後半とで論旨が異なっているようだ。前半では、士の諸侯に対する身の寄せ方を解いており、後半では賢者に対する道が説かれておるようである。特に解説することはないが、諸侯に身を寄せることは、身分が対等なら礼に適っており、身分違いなら禮に外れているとするなら、士が他国の士に寄食するのは礼に適っており、諸侯が他国の士に寄食するのは礼に外れていることになるのだろうか。

『史記』劉敬叔孫通列伝

2018-11-25 10:34:02 | 四書解読
劉敬叔孫通列伝

劉敬は、齊人なり。
漢の五年、隴西を戍り、洛陽を過ぐ。高帝在り。婁敬輓輅(バン・カク、索隠:輓は、牽なり、輅は、鹿車(小さい車)の前の横木、二人前に輓き、一人後ろに之を推す)を脫し、其の羊裘を衣、齊人虞將軍に見えて曰く、「臣願わくは上に見え、便事を言わん。」虞將軍、之に鮮衣(索隠:鮮衣は、美服なり)を與えんと欲す。婁敬曰く、「臣、帛を衣たらば、帛を衣て見え、褐を衣たらば、褐を衣て見えん。」終に敢て衣を易えず。是に於て虞將軍入りて上に言う。上召し入れて見、食を賜う。已にして婁敬に問う。婁敬說きて曰く、「陛下、洛陽に都す。豈に周室と隆とを比せんと欲するや。」上曰く、「然り。」婁敬曰く、「陛下の天下を取るは、周室と異なれり。周の先は后稷自りし、堯之を邰(タイ)に封ず。徳を積み善を累ぬること十有餘世。公劉は桀を避け豳(ヒン)に居る。太王は狄の伐つを以ての故に、豳を去り、馬箠(バ・スイ、馬用の竹のむち)を杖つき岐に居る。國人爭いて之に隨う。文王の西伯と為るに及び、虞芮の訟を斷じ、始めて命を受く。呂望・伯夷、海濱自り來たりて之に歸す。武王、紂を伐つ。期せずして孟津の上に會する八百諸侯、皆曰く、紂、伐つ可し、と。遂に殷を滅ぼす。成王、位に即き、周公の屬、傅相たり。迺ち成周を洛邑に營む。此を以て天下の中と為すなり。諸侯、四方より貢職を納れ、道里は均し。德有らば則ち以て王たり易く、德無ければ則ち以て亡び易し。凡そ此に居る者は、周をして務めて德を以て人を致さしめんと欲し、阻險に依りて、後世をして驕奢にして以て民を虐げしむるを欲せざるなり。周の盛んなる時に及び、天下は和洽し、四夷は風に鄉い、義を慕い徳に懷き、附離(索隠:案ずるに離るる者をして相附せしむるを謂うなり)して並び天子に事う。一卒を屯せず、一士を戰わせず、八夷大國の民、賓服して、其の貢職を效さざるは莫し。周の衰うるに及ぶや、分かれて兩つと為り、天下に朝するもの莫し。周制すること能わざるなり。其の德の薄れたるに非ざるなり。而して形勢の弱ければなり。今、陛下、豐沛より起こり、卒三千人を収め、之を以て徑(ただちに)ちに往きて、蜀漢を卷き、三秦を定む。項羽と滎陽に戰い、成皋の口を争う。大戰七十、小戰四十なり。天下の民の肝腦をして地に塗れしめ、父子の骨を中野に暴すこと、勝げて數う可からず。哭泣の聲未だ絕えず、傷痍の者は未だ起たず。而して隆を成康の時に比せんと欲す。臣竊かに以為えらく侔(したがう)わざるなりと。且つ夫れ秦の地は山を被り河を帶び、四塞して以て固めと為す。卒然として急有らば、百萬の衆、具す可きなり。秦の故に因り、甚だ美き膏腴の地に資(よる)る。此れ所謂天府の者なり。陛下、關に入りて之に都せば、山東亂ると雖も、秦の故地は全うして有つ可きなり。夫れ人と鬬うに、其の亢(集解:張晏曰く、亢は、喉嚨なり。のどぶえのこと)を搤(しめる)め、其の背を拊たずんば、未だ其の勝ちを全うすること能わざるなり。今、陛下、關に入りて都し、秦の故地を案(おさえる)えば、此れ亦た天下の亢を搤めて、其の背を拊つなり。」
続きはホームページで http://gongsunlong.web.fc2.com/

『孟子』巻第十萬章章句下 百三十六節

2018-11-20 10:19:27 | 四書解読
百三十六節

孟子は言った。
「仕官するのは本来食の為ではないが、時には食の為に仕官することもある。妻を娶るのは生活上の養い手を得るためではないが、時には養い手を得るために妻を娶ることもある。食の為に仕官する者は、高い位を辞退して低い官職に甘んじ、高給は辞退し低い給料に甘んじるのがよい。それでは高位高給を辞退し、位も給料も低い官職に就くとなるとどんな職が適当かというと、門番や夜警の職ぐらいがよい。昔、孔子も生活の為に、倉庫の積み荷を管理する仕事をしていたことがあったが、『出入の計算を間違わないように努めただけだ。』と言われた。又牧畜の仕事に就かれていたことがあるが、『牛や羊がよく成長して肥えるように努めただけだ。』と言われた。このように孔子は己の職分を理解して、それを守っていた。低い地位にありながらその職分を越えて高言するのは許されないことだ。しかし朝廷で高い地位にいながら、道を行わないでいるのは、責任を果たさないことで、恥ずべき行為である。」

孟子曰、仕非為貧也。而有時乎為貧。娶妻非為養也。而有時乎為養。為貧者、辭尊居卑、辭富居貧。辭尊居卑、辭富居貧、惡乎宜乎。抱關撃柝。孔子嘗為委吏矣。曰、會計當而已矣。嘗為乘田矣。曰、牛羊茁壯長而已矣。位卑而言高、罪也。立乎人之本朝、而道不行。恥也

孟子曰く、「仕うるは貧の為に非ざるなり。而れども時に有りてか貧の為にす。妻を娶るは養いの為に非ざるなり。而れども時に有りてか養いの為にす。貧の為にする者は、尊を辭して卑に居り、富を辭して貧に居る。尊を辭して卑に居り、富を辭して貧に居るには、惡くにか宜しきか。抱關撃柝(タク)なり。孔子嘗て委吏と為る。曰く、『會計當るのみ』。嘗て乘田と為る。曰く、『牛羊茁(サツ)として壯長するのみ。』。位卑しくして言高きは、罪なり。人の本朝に立ちて、道行われざるは、恥なり。」

<語釈>
○「抱關撃柝」、趙注は、「抱關撃柝」で門番だとする。服部宇之吉氏云う、抱關は關(かんぬき)を抱くにて門番の義、撃柝は柝(タク、拍子木)を撃ちて夜回りすること。服部氏の説を採用して、門番と夜回りとする。○「委吏」、朱注:委吏は、委積を主どるの吏なり。倉庫のの荷物を管理する倉庫番。○「乘田」、朱注:苑囿芻牧を主どるの吏なり。牧畜を掌ること。○「茁」、朱注:茁(サツ)は、肥ゆる貌。成長して肥えるさま。

<解説>
現代の我々にとっては、すっきりしない内容である。当時ではこのような内容が受け入れられたのであろう。

『孟子』巻第十萬章章句下 百三十五節

2018-11-15 10:28:53 | 四書解読
百三十五節

萬章は尋ねた。
「あえてお尋ねいたしますが、交際にはどんな心掛けが必要でございましょうか。」
孟子は答えた。
「恭、乃ち慎み敬う心だ。」
「では相手の贈り物は辞退すべき理由があるときは、受け取るべきではないと思うのですが、そうすると不恭だと言われるのはどうしてでございますか。」
「尊貴の方が贈り物をされた時、尊貴の方がそれを手に入れたのは義に適っているか、いないかということを考えて、義に適っていれば受け取ると言うのは、尊貴の方の行動を疑っていることで、相手に対して不恭である。だから何も言わずに受け取るべきである。」
「ではその贈り物が不義な手段で手に入れたとして、それを断るのにその事を口にせず、心の中では、これは不義な手段で手に入れたのもだから受け取らないのだと言い聞かせ、実際は他の言い訳で断るのはいけないでしょうか。」
「尊者が道に適った交わりを求め、礼に適って接してくださるなら、孔子でも断らないだろう。」
萬章は言った。
「仮に都の外で強盗した男がいるとして、その男が道に適った交際を求め、礼に適った方法で贈り物をしたら、それが強奪したものでも受け取るべきなのでしょうか。」
「受け取るべきではない。『書経』の康誥篇にも、『人を斬り倒して殺し、その財貨を奪い、愚かにも死を懼れないような者は、すべての民が怨みに思う。』とあるように、そのような者は教え諭すまでもなく、即座に死罪に処すべきである。これは夏から殷へ、殷から周へと伝えられてきた厳然たる明法である。このような悪人からどうして受け取ることができようか。」
「今の諸侯が、人民から取り立てるのは、全く強盗と変わる所が有りません。それでも礼儀に適って贈り物をしてくれば、先生のような立派な君主でもお受け取りになります。それはどいうわけでございますか。」
「お前は、今もし真の王者が出現したとしたら、諸侯を片端から誅殺すると思うか、それとも先ず教え諭して、それでも改めなければ誅殺すると思うか。勿論後者だと思うが、自分の所有でない物を取ることを盗と言うが、諸侯が人民から取り立てる物を民から盗んだ不義の財貨だというのは、あまりにも極論ではないか。孔子が魯に仕えたとき、狩り比べをして獲物の数を競いあったが、孔子もこれに参加した。意に沿わない諸侯の狩り比べにさえ参加するのだから、贈り物を受け取ることぐらいは許されてよいものだ。」
「それでは孔子が魯に仕えたのは道を行う為ではなかったのですか。」
「道を行う為である。」
「道を行う為ならば、どうして狩り比べなどに参加したのでしょうか。」
「孔子は是認したのではなく、いきなり廃止するのは難しいと思い、先ず祭祀用の道具の数や供え物の量や種類を正しく定めた帳簿を作り、四方に産する得難い珍奇な食物を供えないようにした。そうして自然と狩り比べのような風習が無くなることを期待したのだ。」
「孔子は道が行われないのに、どうして魯を去らなかったのですか。」
「道を行える兆しがあるかどうかを見るためだ。その兆しはあったのだが、結局行われなかった。そこで去られたのである。だから孔子は一国に三年も滞在したことがなかったのだ。孔子には三種の仕え方があった。その君主が道を行えることを見極めて仕える見行可の仕え、その君主が礼を尽くして迎えてくれる場合に仕える際可の仕え、君主が賢者を養う礼をもって遇する場合に仕える公養の仕えである。魯の季桓子の場合は、見行可の仕えである。衛の靈公の場合は、際可の仕えである。衛の孝公の場合は、公養の仕えである。」

萬章問曰、敢問交際何心也。孟子曰、恭也。曰、卻之卻之為不恭、何哉。曰、尊者賜之、曰其所取之者、義乎、不義乎、而後受之。以是為不恭。故弗卻也。曰、請無以辭卻之、以心卻之、曰其取諸民之不義也、而以他辭無受、不可乎。曰、其交也以道、其接也以禮、斯孔子受之矣。萬章曰、今有禦人於國門之外者、其交也以道、其餽也以禮、斯可受禦與。曰、不可。康誥曰、殺越人于貨、閔不畏死。凡民罔不譈。是不待教而誅者也。殷受夏、周受殷、所不辭也。於今為烈。如之何其受之。曰、今之諸侯取之於民也、猶禦也。苟善其禮際矣、斯君子受之、敢問何說也。曰、子以為有王者作、將比今之諸侯而誅之乎、其教之不改而後誅之。夫謂非其有而取之者盜也、充類至義之盡也。孔子之仕於魯也、魯人獵較、孔子亦獵較。獵較猶可。而況受其賜乎。曰、然則孔子之仕也、非事道與。曰、事道也。事道奚獵較也。曰、孔子先簿正祭器、不以四方之食供簿正。曰、奚不去也。曰、為之兆也。兆足以行矣。而不行。而後去。是以未嘗有所終三年淹也。孔子有見行可之仕、有際可之仕、有公養之仕也。於季桓子、見行可之仕也。於衛靈公、際可之仕也。於衛孝公、公養之仕也。

萬章問いて曰く、「敢て問う、交際は何の心ぞや。」孟子曰く、「恭なり。」曰く、「之を卻くべきに、之を卻くるを不恭と為すは、何ぞや。」曰く、「尊者、之を賜うに、其の之を取る所の者は、義か、不義か、と曰いて、而る後に之を受く。是を以て不恭と為す。故に卻けざるなり。」曰く、「請う辭を以て之を卻くること無く、心を以て之を卻け、其の諸を民に取るの不義なるを曰いて、而して他辭を以て受くること無きは、不可ならんか。」曰く、「其の交わるや道を以てし、其の接するや禮を以てせば、斯ち孔子も之を受けたり。」萬章曰く、「今、人を國門の外に禦する者有りとせん、其の交わるや道を以てし、其の餽(おくる)るや禮を以てせば、斯ち禦を受く可きか。」曰く、「不可なり。康誥に曰く、『人を貨に殺越し、閔として死を畏れざる、凡民譈(うらむ)まざること罔し。』是れ教うるを待たずして誅する者なり。殷、夏を受け、周、殷を受け、辭せざる所なり。今に於て烈と為す。之を如何ぞ、其れ之を受けん。」曰く、「今の諸侯は、之を民に取る、猶ほ禦のごときなり。苟も其の禮際を善くせば、斯ち君子之を受るは、敢て問う何の說ぞや。」曰く、「子以為えらく、王者作る有らば、將に今の諸侯を比して之を誅せんか、其れ之を教え、改めずして而る後之を誅せんか、と。夫れ其の有に非ずじて之を取る者を盜と謂うは、類を充て義の盡くるに至るなり。孔子の魯に仕うるや、魯人、獵較すれば、孔子も亦た獵較せり。獵較すら猶ほ可なり。而るを況んや其の賜を受くるをや。」曰く、「然らば則ち孔子の仕うるや、道を事とするに非ざるか。」曰く、「道を事とするなり。」「道を事とせば、奚ぞ獵較するや。」曰く、「孔子は先づ祭器を簿正し、四方の食を以て簿正に供しめず。」曰く、「奚ぞ去らざるや。」曰く、「之が兆を為すなり。兆以て行うに足る。而るに行われず。而して後去る。是を以て未だ嘗て三年終うるまで淹(とどまる)る所有らざるなり。孔子には行可を見るの仕え有り、際可の仕え有り、公養の仕有り。季桓子は見行可の仕えなり。衛の靈公に於いては、際可の仕えなり。衛の孝公に於いては、公養の仕えなり。」

<語釈>
○「交際」、朱注:際は接なり、交際は、人、禮儀幣帛を以て、相交接するを謂うなり。○「禦人」、趙注:禦人とは、兵を以て人を塞ぎ、之が貨を奪う。強盗のこと。○「殺越人于貨」、朱注:「越」は顛越なり、人を殺して之を顛越し、因りて其の貨を取るを言う。人を切り倒して殺して財貨を奪うこと。○「閔」、閔然で、暗愚の貌、愚かなこと。○「譈」、音はタイ、朱注:「譈」は「怨」なり。○「殷受夏~於今為烈」、この十四字は諸説あり、朱子は衍文とする。趙注は、三代相傳うるに此の法を以てし、辭問を須たず、今に於いて烈烈たる明法為り、と述べている。趙注を採用する。○「比」、朱注:「比」は連なり。片端から。○「充類至義之盡」、諸説あるようだが、服部宇之吉氏云う、一の事理を極端まで論じ詰めるを云う、苟も自分の所有にあらずして取るを盗なりと云いて、諸侯の財貨は皆民の物を盗みたる不義の財貨なりと云うは、余りに極端に論じ詰めたる議論なりとなり、と。この説を採用する。○「獵較」、安井息軒氏云う、獲る所の多寡を較べて、多く獲る者が少なく獲る者の禽を奪うなり、と。狩り比べ。獲物の数を競うこと。○「簿正祭器」、趙注:先づ簿書を為り、以て其の宗廟祭祀の器を正し、其の舊體に即う。○「見行可之仕」、朱注:「見行可」とは、其の道の行う可きを見る。○「際可之仕」、朱注:際可は、接遇するに禮を以てす。○「公養之仕」、朱注:公養は、国君の賢を養うの禮なり。

<解説>
この節は分かりづらい句が多い。故に通釈は、趙注、朱注を始めとして、安井息軒や服部宇之吉の説を参考にしながら、かなり拡大解釈をした。
前節では友と交わる心得が問題であったが、この節では交際の心得を説いている。これだけでは似たような命題に感じるが、この節の交際は、友との交際で無く、どちらかと言えば、尊貴な者との付き合い方、仕官の仕方について述べられている。

『孟子』巻第十萬章章句下 百三十四節

2018-11-10 10:22:16 | 四書解読
百三十四節

萬章は尋ねた。
「友と交わる心得をぜひお聞かせください。」
孟子は答えた。
「年長者であるとか、身分が高いとか、兄弟に実力者がいるとかいうことを鼻にかけずに交わることだ。友になるということは、その人の人格と友になることで、自分の持っているものを自慢気に見せびらかしたりはしないものである。魯の卿であった孟獻子は兵車百乘を有する家柄であったが、友人と言える人物が五人いた。樂正裘と牧仲と、後の三人は名前を忘れたが、獻子がこの五人を友としたのは、彼らが獻子の家柄や富を問題にしなかったからである。もしこの五人の者たちが獻子の家柄により近づいたとしたら、獻子は彼らと友達にはならなかったであろう。これは兵車百乘の家柄だけの話ではない。小国の君主でも言えることである。費の惠公が、『私は子思に対しては先生だと思い、顔般に対しては友と思い、王順・長息は私の家来である。』と言っているのはその例だ。だがこのことは小国の君主だけの話ではない。大国の君主でも同じである。晉の平公は、隠者亥唐に対して、彼を訪問した時も、彼がお入りくださいと言えば入り、お食べくださいと言えば食べ、玄米と野菜だけの汁物という粗末な食事でも満腹になるまで食べた。思うにこれは亥唐の勧めだから腹いっぱい食べたのであろう。だが平公の亥唐に対する態度はこれだけであって、彼を挙用して、天の与える位を共有し、天の与える職を分担し、天の与える禄を共に食むということはしなかった。これは士などが賢者を貴ぶやり方であって、王公が賢者を貴ぶやり方ではない。舜は帝堯の二女を娶って、帝堯にお目にかかった。帝堯は婿である舜を留めている離宮を訪ね、又舜を招いて饗宴を催し、互いに賓客となり主人となり、身分を忘れて交際したのである。これは天子が一平民を友にした例である。下の者が上の者を敬うのを、『貴者を貴ぶ』と言い、上の者が下の者を敬うのを、『賢者を尊ぶ』と言うのである。この『貴者を貴ぶ』のも『賢者を尊ぶ』のも、尊敬すべき所があるから尊敬するという点に於いて、その道理は同じことである。」

萬章問曰、敢問友。孟子曰、不挾長、不挾貴、不挾兄弟而友。友也者、友其德也。不可以有挾也。孟獻子、百乘之家也。有友五人焉。樂正裘・牧仲、其三人、則予忘之矣。獻子之與此五人者友也、無獻子之家者也。此五人者、亦有獻子之家、則不與之友矣。非惟百乘之家為然也。雖小國之君亦有之。費惠公曰、吾於子思、則師之矣。吾於顏般、則友之矣。王順・長息則事我者也。非惟小國之君為然也。雖大國之君亦有之。晉平公之於亥唐也、入云則入、坐云則坐、食云則食。雖疏食菜羹、未嘗不飽。蓋不敢不飽也。然終於此而已矣。弗與共天位也。弗與治天職也。弗與食天祿也。士之尊賢者也。非王公之尊賢也。舜尚見帝。帝館甥于貳室、亦饗舜、迭為賓主。是天子而友匹夫也。用下敬上、謂之貴貴。用上敬下、謂之尊賢。貴貴、尊賢、其義一也。

萬章問いて曰く、「敢て友を問う。」孟子曰く、「長を挾まず、貴を挾まず、兄弟を挾まず、而して友たり。友なる者は、其の德を友とするなり。以て挾むこと有る可からざるなり。孟獻子は、百乘の家なり。友五人有り。樂正裘・牧仲、其の三人は則ち予之を忘れたり。獻子の此の五人の者と友たるや、獻子の家を無しとする者なり。此の五人の者も、亦た獻子の家を有りとせば、則ち之と友たらず。惟だ百乘の家のみ然りと為すに非ざるなり。小國の君と雖も亦た之れ有り。費の惠公曰く、『吾、子思に於いては、則ち之を師とす。吾、顏般に於いては、則ち之を友とす。王順・長息は則ち我に事うる者なり。』惟だ小國の君のみ然りと為すに非ざるなり。大國の君と雖も亦た之有り。晉の平公の亥唐に於けるや、入れと云えば則ち入り、坐せと云えば則ち坐し、食えと云えば則ち食う。疏食菜羹と雖も、未だ嘗て飽かずんばあらず。蓋し敢て飽かずんばあらざるなり。然れども此に終わるのみ。與に天位を共にせざるなり。與に天職を治めざるなり。與に天祿を食まざるなり。士の賢を尊ぶ者なり。非王公の賢を尊ぶに非ざるなり。舜尚せられて帝に見ゆ。帝、甥を貳室に館し、亦た舜を饗し、迭(たがいに)に賓主と為る。是れ天子にして匹夫を友とするなり。下を用て上を敬する、之を貴を貴ぶと謂う。上を用て下を敬する、之を賢を尊ぶと謂う。貴を貴び、賢を尊ぶ、其の義は一なり。」

<語釈>
○「挟」、朱注:挟とは、兼有して之に恃むの稱。自分の持っているものを頼みとして、それを鼻にかけること。○「疏食菜羹」、高注:疏食(ソ・シ)は糲食なり。糲食は玄米、菜羹は野菜だけのスープ。粗末な食事を指す。○「舜尚見帝。帝館甥于貳室」、服部宇之吉氏云う、尚は上なり、下より舉げらるるなり、甥は壻なり、堯、其の二女を以て舜に妻わす、故に壻という、館は留むるなり、貮室は副宮にて離舎なり。「館」については服部氏の説は採用しない。中井履軒氏の館舎を尋ねて面会する意味という説を採用する。

<解説>
「以て挾むこと有る可からざるなり。」とは、友を得ようとする者の心得であり、古今東西を通じて言える事だろう。ところが現実にはこの事を正しく理解している人は少ない。特に今の世は、友や親友について勘違いしている人が多い。ママ友や学校における親友のいじめなどが話題になることがあるが、いじめをするような人間は初めから友でもなければ親友でもない。