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『呉子』圖国第一 第三章

2020-05-11 10:19:14 | 兵書
第三章
呉子は言う。およそ国を治め軍を統御するためには、必ず人々を礼儀により教化し、正義の行いをもって励まして、正義から外れることに対して恥を知る心を持たせることである。そもそも人に正義に悖る行いに対して恥じる心があれば、大国では死をも恐れず進んで戦うに十分であり、小国では心を一つにして自国を守るに十分である。しかしながら、戦いに勝つことはたやすいが、防御によって勝つことは難しい。だから、「天下の争っている国々で、五たび勝つ国には禍が降りかかり、四たび勝つ国は疲弊し、三たび勝つ国は覇者となり、二度勝つ国は王者となり、一度勝つ国は帝となる。」と言われている。このことからして、しばしば勝って天下を得ることは稀であって、反って滅亡する国の方が多い。

呉子曰、凡制國治軍、必教之以禮、勵之以義、使有恥也。夫人有恥、在大足以戰、在小足以守矣。然戰勝易、守勝難。故曰、天下戰國、五勝者禍、四勝者弊、三勝者霸、二勝者王、一勝者帝。是以數勝得天下者稀、以亡者衆。

吳子曰く、「凡そ國を制し軍を治むるには、必ず之に教うるに禮を以てし、之を勵すに義を以てして、恥有らしむるなり。夫れ人恥有れば、大に在りては以て戰うに足り、小に在りては以て守るに足る(注1)。然れども戰いて勝つは易く、守りて勝つは難し(注2)。故に曰く、天下の戰う國、五たび勝つ者は禍なり、四たび勝つ者は弊(ついえる)え、三たび勝つ者は霸たり、二たび勝つ者は王たり、一たび勝つ者は帝たり、と。是を以て數々勝ちて天下を得る者は稀に、以て亡ぶる者は衆し。」

<語釈>
○注1、直解:夫れ人に羞恥の心有れば、必ず義に奮う、故に大に在りては以て進んで戰いて死を致すに足る、小に在りては以て固く守りて心を一にするに足るなり。大・小の解釈は、国の大小、軍の大小、力の大小などの諸説があるが、一応国の大小に解釈しておく。○注2、直解:然れども幣を交え刃を接し、人と力戦して、勝を取るは易し、所謂其の次は兵を伐つ者なり、軍を固くし塁を深くし、自ら用て堅守して、勝を取るは難し、所謂戰わずして人の兵を屈する者なり

<解説>
この章は全体的に文意が続かない。後人の加筆があると思う。その為に何とか文意を続けようとして、工夫されているが、その事はあまり深く考えず、書かれていることを単純に理解するだけに止めたいと思う。猶ほ『孫子』の謀攻篇にも、「百戦百勝は善の善なるものに非ず、戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」とあり、似た内容になっているので参照するのがよい。

『呉子』圖國第一  第二章

2020-04-21 11:32:35 | 兵書
第二章
呉子は言う。道とは事物のあるべき筋道で人が拠り所とする所のものであり、その根本をふりかえり、その始めとなる所を行うことによって天理に近づくことである。義とは心の制約に基づいて行うべきことは行い、行うべきでないことは行わない。そうすることによって適切に事を行い功を立てさせるものである。謀とは害を避け利益を得る為に智慮を使い圖りごとを為すことである。要とは礼儀を守り慎ましくすることであり、それにより生業を保持し成果を保持することができるものである。もしも為政者の行いが道に外れており、その行動が義にそむくものであり、それでいて高い地位、貴い身分に安住していれば、必ずその身に禍が及ぶだろう。このような訳で聖人は道によって民を安んじ、義によって民を治め、礼によって民を動かし、仁によって民を慰撫する。君主がこの道・義・礼・仁の四徳を修めれば国家は繁栄し、これを捨て去れば国家は衰亡する。だから殷の湯王がこの四徳を顧みなかった桀王をを討伐したとき、夏の民は皆喜んだのである。周の武王が殷の紂王を征伐したとき、殷の民は誰もそれを非難しなかった。これらは皆天命と人心とに適っていたのである。だからこのような結果になったのである。

呉子曰、夫道者、所以反本復始。義者、所以行事立功。謀者、所以違害就利。要、所以保業守成。若行不合道、舉不合義、而處大居貴、患必及之。是以聖人綏之以道、理之以義、動之以禮、撫之以仁。此四德者、修之則興、廢之則衰。故成湯討桀而夏民喜悅、周武伐紂而殷人不非。舉順天人、故能然矣。

呉子曰く、「夫れ道とは、本に反り始に復る所以なり(注1)。義とは、事を行い功を立つる所以なり(注2)。謀とは、害を違け利に就く所以なり(注3)。要とは、業を保ち成を守る所以なり(注4)。若し行、道に合わず、舉、義に合わずして、大に處り貴に居れば、患必ず之に及ぶ。是を以て聖人之を綏んずるに道を以てし、之を理むるに義を以てし、之を動かすに禮を以てし、之を撫するに仁を以てす。此の四德は、之を修むれば則ち興り、之を廢すれば則ち衰う。故に成湯、桀を討ちて、夏の民喜悅し、周武、紂を伐ちて殷人非とせず。舉、天人に順う、故に能く然るなり。」

<語釈>
○注1、直解:道とは、事物當然の理にして、人の共に由る所なり、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の如き、是れなり、人能く居る所の位に即きて、事に随いて其の根本を反求し、其の始初、天より稟受の理に復還すれば、則ち道盡くさざること無し。○注2、直解:義とは心の制にして、事の宜しきに合うなり、其の當に為すべき所は、則ち之を行い、當に為すべからざる所は、則ち之を止む、惟其の心に裁制有りて、事皆宜しきに合うは、能く事を行い功を立つる所以にして、國を圖るの義を得たるなり。○注3、直解:謀とは、智慮籌度するなり、惟其の智慮有りて能く籌度するは、害を見れば則ち避け、利を見れば則ち趨る所以なり、夫れ國を圖るの謀は專ら其の利を得て害を遠ざけんと欲するなり。○注4、直解:要とは、之を約するに禮を以てするなり、孔子曰く、「約を以て之を失う者は鮮し。」惟能く禮を以て之を約するは能く業を保ち成を守る所以なり

<解説>
国の治め方について述べられているのであるが、第一章に引き続き、この章も君主による民への対処の仕方について説かれている。君主が道・義・礼・仁の四徳を修めて人民に接すれば、人民は君主の為に死を恐れずに戦ってくれる。その目指す所は第一章と同じである。

『呉子』圖國第一 第一章

2020-03-21 16:28:22 | 兵書
第一章

呉子は言う。昔の国家を治める者は先ず民に教育を施して民と親しみ団結した。その大事な団結を乱す不和には四つある。国内の君臣上下が不和であれば軍を出してはいけない。軍の内部の将軍・官吏・士卒が不和であれば軍を進めて陣営を設けてはいけない。軍の隊伍が不和であれば軍を進めて戦ってはいけない。軍の行動に不和があれば決戦してはいけない。このようなことから有徳の君主は人民を動員する前に、先ず人民と親しみ和合してから国家の大事をなす。国家の大事をなすに当たっては、一個人の謀を信用せずに、必ず祖廟に報告して、亀甲を焼いて吉凶を判断し、天時の宜しきを得ているかを考えて、すべてが吉であって始めて大事をなすのである。人民は君主が自分たちの命を大切に思い、その死を惜しんでいるのが、これほどまでに深いことを知る。そこで君主が民と共に国の難事に臨めば、彼らは死力を尽くすことを栄誉とし、退いて生存することを恥辱とする。

呉子曰、昔之圖國家者、必先教百姓而親萬民。有四不和。不和於國、不可以出軍。不和於軍、不可以出陳。不和於陳、不可以進戰。不和於戰、不可以決勝。是以有道之主、將用其民、先和而後造大事。不敢信其私謀、必告於祖廟、啓於元龜、參之天時、吉乃後舉。民知君之愛其命、惜其死、若此之至。而與之臨難、則士以盡死為榮、退生為辱矣。

吳子曰く、「昔の國家を圖る者は、必ず先づ百姓を教えて萬民を親しむ。四つの不和有り。國に和せざれば、以て軍を出だす可からず(注1)。軍に和せざれば、以て出でて陳す可からず(注2)。陳に和せざれば、以て進みて戰う可からず(注3)。戰いに和せざれば、以て勝ちを決す可からず(注4)。是を以て有道の主は、將に其の民を用いんとすれば、先づ和して而る後に大事を造す。敢て其の私謀を信ぜず、必ず祖廟に告げ、元龜を啓き、之を天時に參し、吉なれば乃ち後に舉ぐ。民、君の其の命を愛しみ、其の死を惜しむこと(注5)、此の若くの至れるを知る。而して之と難に臨めば、則ち士は死を盡くすを以て榮と為し、退きて生くるを辱と為す。」

<語釈>
○注1、直解:國に和せざるとは、君臣上下相和協せざるなり、國既に不和なれば、民心乖違す、故に以て軍を出だす可からざるなり。○注2、直解:軍に和せざるとは、将吏士卒相和協せざるなり、軍既に不和なれば、衆の心は乖違す、故に以て出陣す可からず。○注3、直解:陳に和せざるとは、行列部伍相和協せざるなり。陳既に不和なれば、行伍乖違す、故に以て出でて戰う可からず。○注4、直解:戰いに和せざるとは、坐作進退、相和協せざるなり、戰い既に不和なれば、進退乖違す、故に以て勝を決す可からず。○注5、服部宇之吉氏云う、其の命、其の死は、民の命、民の死なり。

<解説>
この章の趣旨は、先ず和して、しかる後に大事をなす、と言うことである。それは団結が大事であることを言っているように見えるが、団結とは意義が違う。団結とは対等の立場で結ぶものであるが、ここで言う和とは、あくまで君主の立場からの目上視線であり、それは戦いに於いて民が君主の為に死を恐れずに戦うことを目的としている。民にとっては迷惑な和である。

『呉子』圖國第一 序章

2020-02-06 12:50:25 | 兵書
圖國第一

序章
呉子は儒者の服装で兵法の極意を以て魏の文侯に見えた。文侯は、「自分は戦争の事は好まない。」と言ったので、呉子は答えた、「私は外に顕れた事柄によって内に隠れている真実を推測し、過ぎ去ったことに基づいて未来を予測することができます。主君の言葉と心とがどうして相違しているのでしょうか。今、主君は戦闘用の皮衣を造る為に、一年中獣の皮を剥がして衣を造り、それに朱や漆を塗り重ね、赤や青の色どりをし、犀や象を描いて立派にしておられます。しかし冬にこれを着ても温かくならないし、夏にこれを着ても涼しくなりません。又長さ二丈四尺長い戟、一丈二尺の短い戟を造り、戸をくぐれないほどの大きな車を造り、車輪とこしきを飾りのない皮で包んでおられます。これらは見た目にも美しくありませんが、さらに実際に狩などに使用しても重くて敏捷さに欠けます。私には分かりません。ご主君はこれらを何処に用いようとされているのでしょうか。もし進んでは戦い、退いては守るという戦闘に備えての事ならば、それらを上手に用いる良将を求めなければ、譬えば卵を温めている雌鶏が卵を守る為に野猫と闘い、子犬を育てている親犬が子犬を守る為に虎に立ち向かうようなもので、戦う気持ちがあってもそれに従えば必ず死ぬでしょう。昔、承桑氏の君主は文徳のみを修め武具を廃止してその国を亡ぼしてしまいました。反対に有扈氏は軍勢の多さだけを頼みとし武勇のみを好んだのでその国家を失ってしまいました。賢明な君主はこれらの失敗を教訓として内には文徳を修め外には武具を整えるのです。敵に遭遇して進んで戦わないのは義とは言えません。戦いで倒れ伏した味方の兵の屍を見て哀しむだけでは仁とは言えません。」この話に感じ入った文侯は自ら祖先の廟のまえに席をしつらえ、文侯の夫人が杯を奉げて供え、廟に呉起を将軍として起用することを報告した。そして呉起は西河の地を守り、諸侯と七十六回戦って六十四回完勝し、あとはすべて引き分けた。また四方に領土を広げ、遠く千里の地まで達した。これらは全て呉起の功績である。

呉起儒服以兵機見魏文侯。文侯曰、寡人不好軍旅之事。起曰、臣以見占隱、以往察來。主君何言與心違。今君四時使斬離皮革、掩以朱漆、畫以丹青、爍以犀象。冬日衣之則不溫、夏日衣之則不涼。為長戟二丈四尺、短戟一丈二尺、革車奄戶、縵輪籠轂。觀之於目則不麗、乘之以田則不輕。不識主君安用此也。若以備進戰退守、而不求能用者、譬猶伏雞之搏狸,乳犬之犯虎。雖有鬭心、隨之死矣。昔承桑氏之君、修德廢武、以滅其國。有扈氏之君、恃衆好勇、以喪其社稷。明主鑒茲、必內修文德、外治武備。故當敵而不進、無逮於義矣。僵屍而哀之、無逮於仁矣。於是文侯身自布席、夫人捧觴、醮呉起於廟、立為大將、守西河。與諸侯大戰七十六、全勝六十四、餘則鈞解。闢土四面、拓地千里。皆起之功也。

呉起儒服して兵機を以て魏の文侯に見ゆ(注1)。文侯曰く、「寡人、軍旅の事を好まず。」起曰く、「臣、見を以て隱を占い、往を以て來を察す。主君何ぞ言と心と違える(注2)。今、君、四時に皮革を斬離し、掩うに朱漆を以てし、畫くに丹青を以てし、爍(かがやく)かすに犀象を以てせしむ。冬日に之を衣れば則ち温かならず、夏日に之を衣れば則ち涼しからず。長戟二丈四尺、短戟一丈二尺、革車の戸を奄い、縵輪・籠轂を為る(注3)。之を目に觀れば則ち麗しからず、之に乘りて以て田すれば則ち輕からず。識らず、主君安くにか此を用うる。若し以て進戰・退守に備えて、而も能く用うる者を求めずんば、譬えば猶ほ伏雞の狸を搏ち,乳犬の虎を犯すがごとし(注4)。鬭心有りと雖ども、之に隨いて死せん。昔、承桑氏の君は、徳を修めて武を廢して、以て其の國を滅ぼせり。有扈氏の君は、衆を恃み勇を好みて、以て其の社稷を喪えり(注5)。明主は茲を鑒みて、必ず內には文德を修め、外には武備を治む。故に敵に當りて進まざるは、義に逮ぶ無し。僵屍して之を哀むは、仁に逮ぶ無し。」是に於て文侯身自ら席を布き、夫人觴を捧げて、呉起を廟に醮し、立てて大將と為す。西河を守り、諸侯と大いに戰うこと七十六、全勝すること六十四、餘は則ち鈞しく解く。土を闢くこと四面、地を拓くこと千里なり。皆起の功なり。

<語釈>
○注1、「儒服」、儒者の服装をしていること。「兵機」、「機」はかなめ、最も大事なもののことで、兵法の極意を意味する。○注2、直解:呉起、文侯に對えて言う、曰く、臣、内に隱れたる者を以て、事の既往する者を以て、其の事の未だ來たらざる者を審察す、君の為す所を以て、之を觀れば、主君の心は、軍旅を好む、而るに好まざると曰う、何の故に言と心と相違背して同じからざるなり。○注3、「革車」は、兵車、「奄戶」は戸を掩うほどの大きな車、「縵輪」・「籠轂」は車輪とこしきとを飾りのない皮で包むこと。○注4、「伏雞」は卵を温めている雌鶏、「乳犬」は子犬を育てている犬。○注5、直解:承桑氏・有扈氏は皆古の諸侯なり、昔、承桑氏の君は但に文徳を修めて、其の武備を廢し、以て其の國家を滅亡せり、有扈氏の君は但に衆を恃み勇を好みて、文徳を修めずして、其の社稷を喪失す。

<解説>
この章は呉起が魏の文侯に仕えたいきさつを記したもので、後の人が付記したものであろうと言われている。故に『直解』はこの章を本文から独立させている。一方この章を第一章とする書もある。私は『直解』に従ってこの章を序章とした。文侯は戦国時代初期の君主で名君として知られており、積極的に学者・賢人を招いた。その結果呉起を含めて田子方・李克・魏成・翟璜・西門豹等の多才な士が集まり、魏の全盛時代を築いた。