三十一節
孟子は言う、
「孔子の弟子の子路は、他人が自分の過ちを指摘してくれると喜んだ。夏の禹王は、人から善い言葉を聞けば慎んで受け入れお礼の言葉を述べた。偉大なる帝舜は更に秀でており、善はすべて私せずして人と共にし、人に善あれば、己を棄ててその人に從い、善言を取り入れて進んでそれを実行することを楽しんだ。舜は耕作・陶業・漁業をして暮らしていた微賤の身分の頃から、天子になるまで、人の善を学び取らないことはなかった。人の善を学んでそれを実行することは、つまり人と共に善を為すことである。だから君子とっては、人に善を為さしめて、共にそれを実行すること以上に偉大なことはないのである。」
孟子曰、子路、人告之以有過則喜。禹聞善言則拜。大舜有大焉。善與人同、舍己從人、樂取於人以為善。自耕稼陶漁以至為帝、無非取於人者。取諸人以為善、是與人為善者也。故君子莫大乎與人為善。
孟子曰く、「子路は、人、之に告ぐるに過ち有るを以てすれば、則ち喜ぶ。禹は善言を聞けば、則ち拜す。大舜は焉より大なる有り。善、人と同じうし、己を舍てて人に從い、人に取りて以て善を為すを樂しむ。耕稼陶漁自り以て帝と為るに至るまで、人に取るに非ざる者無し。諸を人に取りて以て善を為すは、是れ人と善を為す者なり。故に君子は人と善を為すより大なるは莫し。」
<語釈>
○「善與人同」、服部宇之吉氏云う、善を一人に私有せずして天下と與にす、之を善與人同と云う、即ち此は我が善、彼は人の善と云うように人我を分けざるなり。○「耕稼陶漁」、朱注に、舜の側微なりしとき、歴山に耕し、河濱に陶し、雷澤に漁す、とある。
<解説>
有徳の君子としては、己が善を為すだけでなく、人の善を学び取り、それを実行し、人と共に進んでいくこと、これが大切な事なのである。
三十二節
孟子は言う、
「伯夷は、仕えるにふさわしい君でなければ仕えないし、友とするにふさわしい人物でなければ友としない。悪人のいる朝廷には出仕しないし、悪人とは口も聞かない。悪人のいる朝廷に出仕し、悪人と口を聞くことは、礼装して泥や炭の中に座り込むようなものだと思っていた。このような伯夷の惡を惡む心を推察してみると、郷里の人たちと同席した場合に、一人でも冠の曲がっている者がいれば、恥じ入りてその場を去り、まるで自分までも汚されるかのように思うのである。それ故に諸侯からどんな丁重な言葉で招かれても。受け付けない。なぜ受け付けないかと云えば、仕えるべきでない君に仕えることを潔しとしないだけのことである。魯の大夫の柳下惠という人は、人徳が穢れた君でも仕えることを恥と思わず、低い官職でもさげすまずに務め、自分の優れている所は隠さずに発揮し、必ず自分の信じる道を行って所信を曲げない。仕える君に見捨てられても怨まず、それによって困窮しても気に病むことはなかった。だから彼は、『おまえはおまえ、わしはわしだ。たとえおまえが私の側で裸になるような無作法をしたとしても、どうしておまえが私を汚すことが出来ようか。』と言っていた。だから悠然として、悪人と同じ朝廷に立っても、何ら影響を受けることなく、自分を失うことはなかった。引き留める者がいればいつでも位に留まる。引き留める者がいれば止まるということは、職を去ることなど小さなことで、己を煩わせるほどの事ではないと思っていただけである。」
「まあ、以上の事から考えて、伯夷は頑固で心が狭く、柳下惠は放任に過ぎて慎みが足りないと言える。心が狭いのも慎みが足りないのも、ともに君子たる者の取るべき道ではない。」
孟子曰、伯夷非其君不事。非其友不友。不立於惡人之朝。不與惡人言。立於惡人之朝,與惡人言、如以朝衣朝冠坐於塗炭。推惡惡之心、思與鄉人立、其冠不正、望望然去之、若將浼焉。是故諸侯雖有善其辭命而至者、不受也。不受也者、是亦不屑就已。柳下惠不羞汙君、不卑小官。進不隱賢、必以其道。遺佚而不怨、阨窮而不憫。故曰、爾為爾、我為我。雖袒裼裸裎於我側、爾焉能浼我哉。故由由然與之偕而不自失焉。援而止之而止。援而止之而止者、是亦不屑去已。孟子曰、伯夷隘、柳下惠不恭。隘與不恭、君子不由也。
孟子曰く、「伯夷は其の君に非ざれば事えず。其の友に非ざれば友とせず。惡人の朝に立たず。惡人と言(ものいう)わず。惡人の朝に立ち、惡人と言うは、朝衣朝冠を以て塗炭に坐するが如し。惡を惡むの心を推すに、鄉人と立ちて、其の冠正しからざれば、望望然として之を去り、將に浼(けがす)されんとするが若く思う。是の故に諸侯其の辭命を善くして至る者有りと雖も、受けざるなり。受けざる者は、是れも亦た就くを屑しとせざるのみ。柳下惠は汙君を羞ぢず、小官を卑しとせず。進んで賢を隱さず、必ず其の道を以てす。遺佚せられて怨みず、阨窮して憫えず。故に曰く、『爾は爾為り、我は我為り。我が側に袒裼裸裎すと雖も、爾焉くんぞ能く我を浼さんや。』故に由由然として之と偕にして自ら失わず。援(ひく)いて之を止むれば止まる。援いて之を止むれば止まる者は、是れ亦た去るを屑しとせざるのみ。」孟子曰く、「伯夷は隘なり。柳下惠は不恭なり。隘と不恭とは、君子由らざるなり。」
<語釈>
○「伯夷」、二十五節にも出てきたが、そこでは触れなかったので、ここで紹介しておく、普通は伯夷・叔齊と兄弟で述べられることが多い、殷末周初の伝説的聖人とされている。孤竹國の公子で、父は弟の叔齊に位を譲ろうとしたが、叔齊は、長幼の禮に反するとして兄の伯夷に譲った。兄の伯夷はそれを受けず、兄弟そろって国を出た。周の評判を聞き、そこへ向かい、武王に出会ったが、武王が位牌を車に載せて、殷の紂王を討伐しようとしているのを知り、葬式も済ませずに挙兵し、臣下が君主の紂王を伐つのは、禮儀に反するとして、周の禄を食むことを恥として、首陽山に隠れて暮らし、やがて餓死したと言われている。清廉潔白の士の代名詞になっているが、その評価については意見の分かれる所である。○「推惡惡之心思」、末尾の「思」は上文につけて「心思」の意に読む説と、朱注のように、下文につける説がある。朱注を採用した。○「望望然」、趙注:望望然は、慙愧の貌なり。○「屑」、趙注:「屑」は、「潔」なり。“いさぎよし”と訓ず。○「柳下惠」、趙注:柳下惠は、魯の公族、大夫なり。○「遺佚」、朱注:遺佚は、放棄なり。○「阨窮」:朱注:阨は困なり。困窮。○「袒裼裸裎」、朱注:「袒裼」(タン・セキ)は、臂を露わにするなり、「裸裎」(ラ・テイ)は身を露わにするなり。無礼な作法を意味する。○「由由然」、ゆったりとしていて、些細な事に気を取られない貌。
<解説>
この節は中庸の道を説いたものであろう。趙岐は云う、伯夷・柳下惠は、古の大賢なるも、猶ほ闕くる所有り。介なる者は必ず偏る。中和を貴しと為す、と。末尾で孟子は云う、伯夷は隘なり。柳下惠は不恭なり。隘と不恭とは、君子由らざるなり、と。物事は偏ることなく、中庸こそが君子たる者の取るべき道なのである。