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『呂氏春秋』巻第九季秋紀

2017-08-29 10:14:55 | 四書解読
巻九 季秋紀

一 季秋

一に曰く。季秋の月。日は房に在り、昏に虚中し、旦に柳中す。其の日は庚辛、其の帝は少皞、其の神は蓐收、其の蟲は毛、其の音は商、律は無射に中る。其の數は九、其の味は辛、其の臭は腥、其の祀は門、祭るには肝を先にす。候鴈來たり、賓爵、大水に入りて蛤と為る(高注:「賓爵」は老爵なり、「大水」は海なり。「爵」は雀)。菊に黄華有り。豺は則ち獸を祭り禽を戮す。天子は總章の右個に居り、戎路に乘り、白駱を駕し、白旂を載て、白衣を衣、白玉を服び、麻と犬とを食らう。其の器は廉にして以て深し。是の月や、申ねて號令を嚴にし、百官貴賤に命じて、入るを務めざること無く、以て天地の藏に曾い、宣出(放出)有ること無からしむ。冢宰(百官の長、宰相)に命じて、農事備を收め、五種の要を舉げ(五穀の集計を帳簿に記す)、帝籍の收を神倉に藏め、祗敬(つつしみうやまう)して必ず飭(ととのえる)えしむ。是の月や、霜始めて降り、則ち百工休す。乃ち有司に命じて曰く、「寒氣總て至り、民力堪えず、其れ皆室に入れ。」上丁に(上旬の丁の日)、學に入り吹を習わしむ。是の月や、大いに帝を饗し、犧牲を嘗す。備わるるを天子に告ぐ。諸侯を合わせ、百縣に制し、來歲の為に朔日と、諸侯が民に稅する所の輕重の法とを受く。貢職の數は、遠近と土地の宜しき所とを以て度と為し、以て郊廟の事に給し、私する所有る無からしむ。是の月や、天子乃ち田獵を教えて、以て五戎を習わせ、馬を獀(えらぶ)ぶ。僕(天子の車を掌る者)及び七騶(天子の馬を掌る者)に命じ咸駕し、旍旐(セイ・チョウ、亀蛇を描いた旗足の長い黒旗)を載て、輿は(高注:「輿」は衆なり、衆は當に田車を受くる者)車を受くるに級を以てし、整えて屏外に設(つらねる)ぬ。司徒、扑を搢み(「扑」は鞭、「搢」は“さしはさむ”と訓ず)、北に嚮いて以て之に誓う。天子乃ち厲服厲飭(いかめしく武装すること)し、弓を執り矢を操りて以て射る。主祠(高注:祀りを掌るの官)に命じて、禽を四方に祭らしむ。是の月や、草木黄落す。乃ち薪を伐り炭を為る。蟄蟲咸俯して穴に在り、皆其の戶を墐(ふさぐ)ぐ。乃ち獄刑を趣して、有罪を留むること無く、祿秩の當らざる者(高注:「不當者」は、功徳無くして禄秩を受くるを謂うなり)、共養の宜しからざる者を収む(不当にぜいたくな生活をしている者、「収」は没収)。是の月や、天子乃ち犬を以て稻を嘗め、先づ寢廟に薦む。季秋に夏の令を行えば、則ち其の國大水あり、冬藏殃敗(冬の為の貯蔵物が腐敗すること)し、民に鼽窒(キュウ・チツ、高注:鼻通ぜず)多し。冬の令を行えば、則ち國に盜賊多く、邊境寧からず、土地分裂す。春の令を行えば、則ち暖風來たり至り、民氣解墮し、師旅必ず興る。

二 順民

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『孟子』巻第七離婁章句上 六十三節

2017-08-21 10:03:38 | 四書解読
六十三節

孟子は言った。
「コンパスと定規とは方形と円とを描くための最高の道具である。聖人は人倫を窮めた最高の人間である。立派な君主になろうと思えば、君主としての道を尽くさねばならず、立派な臣下になろうと思えば、臣下としての道を尽くさねばならぬが、それは俱に堯・舜を手本とすればよい。舜が堯に仕えたのと同じような心で自分の主君に仕えない者は、自分の主君を敬わない者だ。堯が人民を治めたのと同じような心で人民を治めない者は、その人民をそこなう者だ。孔子は、『道は二つである。仁と不仁とのみ。』と言われた。民を虐げることが甚だしければ、やがては我が身は殺され国は亡ぶことになる。そこまで甚だしくない場合でも、我が身は危険にさらされ、国はは他国に削り取られれて細っていく。このような君主は幽とか厲という謚をつけられる。一旦そのように謚が定まってしまえば、たとえ後世に先祖思いの子孫が現れても、永久に改めることはできない。『詩経』(大雅蕩之什蕩篇)に、『殷にとって教戒とすべき鑑は遠い昔を見るまでもなく、近くに在る夏王朝の桀王の時代に在る。』とあるのは、このことを言っているのだ。」

孟子曰、規矩方員之至也。聖人人倫之至也。欲為君盡君道、欲為臣盡臣道。二者皆法堯舜而已矣。不以舜之所以事堯事君、不敬其君者也。不以堯之所以治民治民、賊其民者也。孔子曰、道二、仁與不仁而已矣。暴其民甚、則身弒國亡。不甚、則身危國削。名之曰幽厲,雖孝子慈孫、百世不能改也。詩云、殷鑒不遠、在夏后之世。此之謂也。

孟子曰く、「規矩は方員の至りなり。聖人は人倫の至りなり。君為らんと欲せば君の道を盡くし、臣為らんと欲せば臣の道を盡くす。二者皆堯舜に法るのみ。舜の堯に事うる所以を以て君に事えざるは、其の君を敬せざる者なり。堯の民を治むる所以を以て民を治めざるは、其の民を賊する者なり。孔子曰く、『道は二つ、仁と不仁とのみ。』其の民を暴すること甚だしければ、則ち身弒せられ國亡ぶ。甚だしからざれば、則ち身危うく國削らる。之を名づけて幽厲と曰う。孝子慈孫と雖も、百世改むること能わざるなり。詩に云う、『殷鑒遠からず、夏后の世に在り。』此を之れ謂うなり。」

<語釈>
○「名之曰幽厲」、趙注:「名之」とは、之に謚するを謂う、謚するに幽厲を以てするは、以て其の惡を章らかにし、百世之を傳う。幽は暗、厲は虐の意。○「殷鑒不遠」、殷にとっての教戒とすべき鑑は近くに在る。

<解説>
前節では道具の重要性が説かれていたが、この節では君主の道、臣下の道を目指す為の道具は堯舜の道であると述べられている。更に謚の重要性についても述べられている。一度謚を定められたら、永久に改めることはできない。幽や厲のような恥づべき謚をつけられることは、この時代の人間にとって、非常な恥辱であった。それ故に「君為らんと欲せば君の道を盡くせ」ということであり、その為には堯舜の道という道具に法らねばならないのである。

『孟子』巻第七離婁章句上 六十二節

2017-08-17 10:15:13 | 四書解読
六十二節

孟子は言った。
「離婁のような優れた目や、名工で知られた公輸子のような優れた腕があっても、コンパスや定規が無ければ正確な丸や方形を描くことはできない。師曠のような聡明な耳があっても、陰・陽それぞれ六つの調子笛が無ければ、五音の音階を正しくすることはできない。それと同じことで、堯や舜のように道を知っている人でも、実際に仁政を施さなかったら、天下を平穏に治める事は出来ないのだ。ところが今の時代、実際に人を愛する心を持っている諸侯や、そのような評判が聞こえてくる諸侯はいるのだが、人民はいっこうにその恩恵を被らず、後世の模範となることが出来ない。それは昔の聖王の優れた道を行わないからだ。だから昔から、「善の心があるだけでは、立派な政治は出来ない、法や制度が備わっているだけでは、その実効は上がらない。」と言われている。『詩経』(大雅生民之什仮樂篇)にも、『誤ることなく、忘れることなく、先王の法度に從う。』とある通り、先王の法に従って過ちを犯した者は、いまだかっていないのである。昔の聖人は、其の優れた眼力を使い尽くしたうえで、更にコンパス・定規・水準器・墨縄などを用いたので、方形・円形・水平面・直線を作るのに窮することはなかった。同様に、すぐれた聴力を使い果たしたうえで、六つの調子笛を用いたので、五音の音階を正しく定めるのに窮することはなかった。又心の思いを尽くしたうえで、民の不幸を見るに忍びない心で政治を行ったので、その仁愛はあまねく天下に行き渡ったのである。だから昔から、『高台を造るには、丘陵を利用して造るのがよい、低い所に造るなら、谷川や沢地を利用するのがよい。』と言われているが、政治於いても既にある先王のすぐれた道に因らなければ、智者とは言えないだろう。それだから、真の仁者だけが高い位に在るべきで、不仁の者が高い位に在れば、それはただ害悪を民にまき散らすだけで、君主は道理を以て事を進めず、臣下は法制度を守らず、朝廷では道理が信じられず、職人は基準を信じず、高い位に在る者は道義を犯し、小人は刑罰を犯すようになる。そうなって未だ国が存在しているのは単に運がいいだけである。だから昔から、『城郭が不完全であるとか、武器や甲冑が不足しているというのは、必ずしも国の災いではない。田野が開拓されないとか、財かが集まらないとかいうのも、必ずしも国の害にはならない。』と言われている。国家にとって真の災害とは、上に立つ者に礼が無く、下の者に学問がないということで、そうなれば乱賊の民が現れてきて、国家が亡びるのもそれほど先の事ではない。『詩経』に、『天が周室を覆そうとしている、群臣は何もせず泄泄としていてはいけない。』とあるが、泄泄とは、猶ほだらだらとおしゃべりをしていることだ。君に仕えて義を立てず、その行動には礼がなく、口を開けば先王の道を非難するだけの者、それを沓沓の者と言うのである。それだから昔から、『善行であれば困難であっても、君に実行するように勧めるのが、恭というもので、主君に善言を述べ、邪の道を遠ざけるのが、敬というもので、主君を善も行うことが出来ない、善言も聞き入れることが出来ない駄目なな人物だと見限ってしまう者は、これを賊というのである。』と言われている。」

孟子曰、離婁之明、公輸子之巧、不以規矩、不能成方員。師曠之聰、不以六律、不能正五音。堯舜之道、不以仁政、不能平治天下。今有仁心仁聞、而民不被其澤、不可法於後世者、不行先王之道也。故曰、徒善不足以為政、徒法不能以自行。詩云、不愆不忘、率由舊章。遵先王之法而過者、未之有也。聖人既竭目力焉、繼之以規矩準繩。以為方員平直,不可勝用也。既竭耳力焉、繼之以六律。正五音、不可勝用也。既竭心思焉、繼之以不忍人之政。而仁覆天下矣。故曰、為高必因丘陵、為下必因川澤。為政不因先王之道、可謂智乎。是以惟仁者宜在高位。不仁而在高位、是播其惡於衆也。上無道揆也、下無法守也、朝不信道、工不信度、君子犯義、小人犯刑、國之所存者幸也。故曰、城郭不完、兵甲不多、非國之災也。田野不辟、貨財不聚、非國之害也。上無禮、下無學、賊民興、喪無日矣。詩曰、天之方蹶、無然泄泄。泄泄、猶沓沓也。事君無義、進退無禮、言則非先王之道者、猶沓沓也。故曰、責難於君、謂之恭。陳善閉邪、謂之敬。吾君不能、謂之賊。

孟子曰く、「離婁の明、公輸子の巧も、規矩を以てせざれば、方員を成すこと能わず。師曠の聰も、六律を以てせざれば、五音を正すこと能わず。堯舜の道も、仁政を以てせざれば、天下を平治すること能わず。今、仁心仁聞有りて、而も民其の澤を被らず、後世に法る可からざる者は、先王の道を行わざればなり。故に曰く、『徒善は以て政を為すに足らず、徒法は以て自ら行わるること能わず。』詩に云う、『愆らず忘れず、舊章に率い由る。』先王の法に遵いて過つ者は、未だ之れ有らざるなり。聖人既に目の力を竭くし、之に繼に規矩準繩を以てす。以て方員平直を為すこと、用うるに勝う可からざるなり。既に耳力を竭くし、之に繼ぐに六律を以てす。五音を正すこと、用うるに勝う可からざるなり。既に心思を竭くし、之に繼ぐに人に忍びざるの政をを以てす。而うして仁天下を覆う。故に曰く、『高きを為すには、必ず丘陵に因り、下きを為すには、必ず川澤に因る。』政を為すに、先王の道に因らずんば、智と謂う可けんや。是を以て惟だ仁者のみ宜しく高位に在るべし。不仁にして高位に在るは、是れ其の惡を衆に播するなり。上に道揆無く、下に法守無く、朝は道を信ぜず、工は度を信ぜず、君子は義を犯し、小人は刑を犯して、國の存する所の者は幸いなり。故に曰く、『城郭完からず、兵甲多からざるは、國の災いに非ざるなり。田野辟けず、貨財聚まらざるは、國の害に非ざるなり。』上、禮無く、下、學無ければ、賊民興り、喪ぶること日無けん。詩に曰く、『天の方に蹶(くつがえす)えさんとする、然く泄泄すること無かれ。』泄泄とは、猶ほ沓沓のごときなり。君に事えて義無く、進退禮無く、言えば則ち先王の道を非る者は、猶ほ沓沓のごときなり。故に曰く、『難きを君に責む、之を恭と謂う。善を陳べ邪を閉づる、之を敬と謂う。吾が君能わずとす、之を賊と謂う。』」

<語釈>
○「離婁」、黄帝の時の人、百歩先の小さなものでも見分けることが出来る目を持っていたと言われる伝説の人物。○「公輸子」、趙注:公輸子は魯班、魯の巧人なり。○「規矩」、規はコンパス、矩は定規。○「仁心仁聞」、朱注:「仁心」は人を愛するの心なり、「仁聞」は人を愛するの聲、人に聞こゆる有り(評判のこと)。○「徒善、徒法」、「徒」は朱注に「空」なり、とあり。「徒善」は実質の伴わない形だけの善、「徒法」は形だけの法。○「道揆」、朱注:「揆」は「度」なり、「道揆」は、義理を以て物事を度量して、其の宜しきを制するを謂う。○「詩曰、天之方蹶、無然泄泄」、詩は『詩経』大雅の板篇、「天之方蹶」の解釈は諸説あるが、朱注に従っておく、朱注:「蹶」は顚覆の意、「泄泄」は、怠緩悦従の貌、天、周室を顚覆せんと欲す、羣臣、泄泄然として急ぎ之を救正するを得んとすること無かれ。

<解説>
「離婁の明、公輸子の巧も、規矩を以てせざれば、方員を成すこと能わず。」どんなに才能があっても、それだけで物事を完全にやり遂げることは難しい。物事には必ずそれを助ける手段がある。それを利用して初めて満足のいく仕事が出来るということである。納得のいく論である。しかしそれが政治の面で、手段とするのが先王の道であるとするのは、今の我々には納得できないが、それはこの時代が儒教に基づく尚古主義の時代であるので当然の事であろう。

『呂氏春秋』巻第八仲秋紀

2017-08-10 10:09:10 | 四書解読
巻八 仲秋紀

一 仲秋

一に曰く。仲秋の月。日は角に在り、昏に牽牛中し、旦に觜嶲(シ・ケイ)中す(予備の二十八宿を参照)。其の日は庚辛、其の帝は少皞、其の神は蓐收、其の蟲は毛、其の音は商、律は南呂に中る(予備の音・律を参照)。其の數は九、其の味は辛、其の臭は腥、其の祀は門、祭るには肝を先にす。涼風生じ、候鴈來たり、玄鳥(つばめ)歸り、群鳥、羞を養う(高注:寒気将に至らんとして、羣鳥、その毛羽を養進して寒を御すなり。『月令』の鄭注は、「養羞」を食物を保存する意に解している)。天子、總章の太廟に居り(予備の明堂を参照)、戎路に乘り、白駱を駕し、白旂を載て、白衣を衣、白玉を服び、麻と犬とを食らう。其の器は廉にして以て深し。是の月や、衰老を養い、几杖を授け、麋粥飲食を行う(高注:麋粥(ビ・シュク、おかゆ)を飲食するの禮を行う)。乃ち司服に命じて、衣裳を具え飭えしむ。文繡に常有り、制に小大有り、度に短長有り、衣服に量有り。必ず其の故に循う。冠帶に常あり、有司に命じて、申ねて百刑を嚴にし、斬殺必ず當り、枉橈(事実を枉げて罰すること)或ること無からしむ。枉橈して當らざれば、反って其の殃を受く。是の月や、乃ち宰祝(祭祀を司る役人)に命じて、犠牲を巡行せしむ(犠牲の飼育状況を視察させる)。全具を視、芻豢を案じ(芻は、草食の動物、豢(カン)は、穀物を食べる動物)、肥瘠を瞻、物色を察し、必ず比類して、大小を量り、長短を視、皆度に中らしむ。五つの者備に當りて、上帝其れ享く。天子乃ち儺(ダ、おにやらい、悪鬼を祓い、疫病を除くこと)して、佐疾を禦ぎ、以て秋氣を通ず。犬を以て麻を嘗め(犬肉を添えて麻を食すこと)、先づ寢廟を祭る。是の月や、以て城郭を築き、都邑を建て、竇窌(トウ・ホウ、穀物保存用の穴)を穿ち、囷倉を修めしむ可し。乃ち有司に命じて、民を趣して收斂せしめ、務めて菜を蓄え、積聚を多からしむ。乃ち麥を種うることを勸め、時を失うこと或る無からしむ。罪を行いて疑うこと無し。是の月や、日夜分(ひとしい)しく、雷乃ち始めて聲を収め、蟄蟲戸に俯す(畢沅云う、「俯戸」、月令は坏戸に作る。「坏」の義はふさぐ、冬眠用の穴の入り口を土で塞いだ)。殺氣(陰気)浸(ようやく)く盛にして,陽氣日衰え、水始めて涸る。日夜分しければ、則ち度量を一にし、權衡を平らかにし、鈞石(おもり)を正しくし、斗甬(ます)を齊しくす。是の月や、關市を易くし、商旅を來たし、貨賄(貨財)を入れ、以て民事に便す。四方來たり襍(あつまる)まり、遠鄉皆至れば、則ち財物匱(とぼしい)しからず。上、用に乏しきこと無く、百事乃ち遂ぐ。凡そ事を舉ぐるには、天數(高注:天數は天道なり)に逆らうこと無く、必ず其の時に順い、乃ち其の類に因る。是の令を行えば、白露降ること三旬なり。仲秋に春の令を行えば、則ち秋雨降らず、草木榮を生じ(「榮」は華、すももや梅の類)、國乃ち大恐有り。夏の令を行えば、則ち其の國は旱し、蟄蟲藏れず、五穀復た生ず。冬の令を行えば、則ち風災數々起こり、收雷先だちて行われ、草木早く死す。

二 論威
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『孟子』巻第六藤文公章句下 六十一節

2017-08-06 10:15:17 | 四書解読
六十一節

齊の人、匡章が言った。
「我が国の陳仲子は誠に清廉潔白な人物ではありませんか。名家に生まれながら兄の世話になることを快しとせず、家を出て於陵に住んでいましたが、三日間も食糧が無く、衰弱して耳が聞こえず、目も見えないという状態になったことがありました。その時、井戸の側に半分以上きくいむしに食われた桃が落ちているのを見つけ、這って行ってそれを取り、三口ほど飲み込んで、やっと耳が聞こえ、目が見えるようになったということです。」
孟子は言った。
「齊の国の中での立派な人物と言えば、私もその筆頭に仲子を挙げるだろう。しかしそうだとしても仲子が清廉潔白な人物だとどうして言えるだろうか。仲子のような節操を完全に実行しようとするなら、ミミズのように生きてはじめて可能であろう。ミミズは乾いた土を食べ、濁った水を飲んでいればよいのだから。そもそも仲子の住んでいる家は清廉潔白の士として知られる伯夷が築いたものか、それとも大泥棒の盜跖が築いたものか、又仲子の食べている穀物も伯夷が植えたものか、盜跖が植えたものか、そういうことはまったくわからないではないか。」
「そのようなことは何の差支えも無いのではありませんか。彼自身は稾を編んで靴を作り、妻は麻を紡いで、それを必需品と交換して暮らしているのです。」
「仲子は代々齊に仕えた譜代の家柄だ。兄の戴は領地の蓋から一万鍾もの禄を得ている。ところが兄の禄を不義の禄だとして食わず、兄の家は不義の家だとして住まず、兄を避け母から離れて於陵に住んでいる。ある日兄の家に戻った時、兄に生きた鵝鳥を贈り届けてきた者がいたが、仲子だけは眉をしかめて、『こんなガアガア鳴くものを、どうしようというのか。』と言った。後日、母親がその鵝鳥を料理して仲子に食べさせた。そこへ兄が外出より戻ってきて、『それはガアガア鳴くものの肉だぞ。』と言ったので、彼は外に出て吐き出した。母の料理したものだと、その材料を詮索して食べず、妻の料理だと詮索せずに食べる。兄の家は不義の家だとして住まず、於陵なら誰が作った家かも詮索せずに住んでいる。こんなことで己の主義を貫いていると言えるだろうか。仲子のような考えは、ミミズにでもならなければ、その節操を守り抜くことはできないのだ。」

匡章曰、陳仲子豈不誠廉士哉。居於陵、三日不食、耳無聞、目無見也。井上有李、螬食實者過半矣。匍匐往將食之。三咽、然後耳有聞、目有見。孟子曰、於齊國之士、吾必以仲子為巨擘焉。雖然、仲子惡能廉。充仲子之操、則蚓而後可者也。夫蚓、上食槁壤、下飲黃泉。仲子所居之室、伯夷之所築與、抑亦盜跖之所築與。所食之粟、伯夷之所樹與、抑亦盜跖之所樹與。是未可知也。曰、是何傷哉。彼身織屨、妻辟纑、以易之也。曰、仲子、齊之世家也。兄戴蓋祿萬鍾。以兄之祿為不義之祿而不食也。以兄之室為不義之室而不居也。辟兄離母、處於於陵。他日歸、則有饋其兄生鵝者。己頻顣曰、惡用是鶃鶃者為哉。他日、其母殺是鵝也、與之食之。其兄自外至曰、是鶃鶃之肉也。出而哇之。以母則不食、以妻則食之。以兄之室則弗居、以於陵則居之。是尚為能充其類也乎。若仲子者、蚓而後充其操者也。

匡章曰く、「陳仲子は、豈に誠の廉士ならずや。於陵に居り、三日食わず、耳は聞ゆる無く、目は見ゆる無きなり。井上に李有り。螬(ソウ)、實を食らう者半ばに過ぎたり。匍匐して往き、將(とる)りて之を食う。三咽して、然る後に耳聞ゆる有り、目見ゆる有り。」孟子曰く、「齊國の士に於いて、吾必ず仲子を以て巨擘(ハク)と為さん。然りと雖も、仲子惡くんぞ能く廉ならん。仲子の操を充てば、則ち蚓にして而る後可なる者なり。夫れ蚓は、上、槁壤を食い、下、黄泉を飲む。仲子居る所の室は、伯夷の築ける所か、抑々亦た盜跖の築ける所か。食う所の粟は、伯夷の樹えし所か、抑々亦た盜跖の樹えし所か。是れ未だ知る可からざるなり。」曰く、「是れ何ぞ傷まん。彼は身、屨を織り、妻は辟纑して、以て之に易うるなり。」曰く、「仲子は、齊の世家なり。兄の戴が蓋の祿萬鍾あり。兄の祿を以て不義の祿と為して食らわざるなり。兄の室を以て不義の室と為して居らざるなり。兄を辟け母を離れて、於陵に處る。他日歸れば、則ち其の兄に生鵝を饋る者有り。己頻顣(ヒン・シュク)して曰く、『惡ぞ是の鶃鶃の者を用て為さんや。』他日、其の母、是の鵝を殺すや、之に與えて之に食らわしむ。其の兄外自り至りて曰く、『是れ鶃鶃の肉なり。』出でて之を哇く。母を以てすれば則ち食わず、妻を以てすれば則ち之を食う。兄の室を以てすれば則ち居らず、於陵を以てすれば則ち之に居る。是れ尚ほ能く其の類を充すと為さんや。仲子の若き者は、蚓にして、而る後其の操を充たす者なり。」

<語釈>
○「匡章曰・陳仲子」、趙注:匡章は、齊の人、仲子は齊の一介の士なり。○「螬」、音はソウ、きくいむし。○「巨擘」、服部宇之吉氏云う、巨擘は親指なり。衆中の優者の義に用う。○「充仲子之操」、「操」は節操、「充」は完全に実行する意、○「槁壤」、朱注:槁壤は乾いた土。○「黃泉」、黃泉は濁った水。○「頻顣」、眉をしかめる。○「充其類」、服部宇之吉氏云う、「充其類」は、一の事理を之と同じ場合に応用する子となれば、ここにては、其の主義を何処までも貫くと解すべし。

<解説>
この節も孟子の教条的な一面がよく表れている節である。ただ孟子の言い分としては、范氏が述べている、「天の生ずる所、地の養う所は、惟だ人を大と為す。人の大なる所以の者は、其れ人倫に有るなり。仲子、兄を避け、母を離るるは、親戚・君臣・上下無し。是れ人倫無きなり。豈に人倫無くして、以て廉を為す可けんや。」と言う所にあるのだろう。