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『中庸』第十四節

2014-08-19 10:26:26 | 中庸解読
                  『中庸』第十四節

魯の哀公が孔子に、どうすれば善政を行うことが出来るかを尋ねられた。孔子は、「後世の為政者が手本とすべき周の文王、武王の政は、典籍に審らかに記されておりますので、それを知ることは困難なことでありません。しかしそれは文王や武王のような聖王が世に現れたからこそ実現出来たものでございます。ひとたびそのような聖王が亡くなられますと、その治績も滅びてしまいます。」とお答えになられました。人の道が、たとえどんな世の中であろうと、善政を行おうと努力する事にあるのは、大地が、どんな天候であろうと、樹木を植え育てる事を勉めるのと同じである。真の政とは、じが蜂が桑虫の子を取り去って、負うて育てているうちに、桑虫の子もじが蜂の子供のごとくなり、懐いてくるように、君主が人民を善導し養い、いつしか人民も君主を親のごとく信愛するように教化することである。このように善政を行おうと思えば、賢人を得て、登用して力を発揮させることである。しかし賢人を得ようと思えば、己自身が身を正しく修めて名君とならなければならない。その身を修めるには道を行わなければならず、道を修めるには、其の根本に仁義を以てしなければならない。仁というのは、人を人として親愛することであり、それには自分に親しいものを親愛する事が最も大事である。義とは物事の正しい筋道を修めることであり、具体的には真の賢者を見抜いて尊敬し、登用し力を発揮させることが最も大切なことである。最も親しい者への親愛を本にして、漸次全ての人々に差をつけながら親愛の情を広めて行き、賢者を尊敬することを本にして、全ての人に等差をつけながら尊敬の念を懐く、こうすることによって社会の秩序が定まり、そこから生じてくるものが禮義なのである。だから政治の要は君子自身が正しい道に基づいて身を修めなければならない。そして身を修めようと思えば、道の根本である仁愛を以て親に仕えなければならない。善く親に仕えようと思えば、広く人々のことを知らなければならない。人々を善く知ろうとすれば、人は天により生かされているのであるから、その天の道理を知らなければならない。さて人の世には、いつでも常に変わらず行われている道が有り、それは五つ有あり、その道を現実に行うために誰もが拠り所としなければならない徳が三つある。前者は、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の交わりの五つの道であるり、後者は、知・仁・勇の三つの徳であるが、この道を知って徳を行う根本は一つである。ところでこの誰もが知らなければならない五達道は、それを知ると謂う観点から見れば、ある者は生まれながらにして知っている者もいれば、あるいは学んで知る人もいるし、苦労しながら学んで知る人もいる。このように知る事については、人それぞれに因って違いはあるが、一度知ってしまえば、皆均しく其の道を理解することが出来る。そしてそれを実践するに当たっては、自然と無理なく行う人もいれば、栄名の為に行う人もいるし、周囲の評価を気にして行う人もいる。そのやり方は違っても、道を理解し、徳を実践して功を成し遂げれば、結果として皆同じだといえる。

哀公問政。子曰、文武之政、布在方策、其人存、則其政舉、其人亡、則其政息。人道敏政、地道敏樹。夫政也者、蒲盧也。故為政在人、取人以身、修身以道、修道以仁。仁者人也、親親為大。義者宜也、尊賢為大。親親之殺、尊賢之等、禮所生也。(「在下位不獲乎上,民不可得而治矣」この十四文字は、十八章の文が誤入したものとして、ここでは削除する)故君子不可以不修身。思修身、不可以不事親。思事親、不可以不知人。思知人、不可以不知天。天下之達道五、所以行之者三。曰、君臣也、父子也、夫婦也、昆弟也、朋友之交也。五者天下之達道也。知仁勇三者、天下之達也、所以行之者一也。或生而知之、或學而知之、或困而知之、及其知之一也。或安而行之、或利而行之、或勉強而行之。及其成功一也。

哀公政を問う。子曰く、「文・武の政,布いて方策に在り、其の人存すれば、則ち其の政舉がり、其の人亡すれば、則ち其の政息む。」人道は政を敏(つとめる)め、地道は樹を敏む。夫れ政なる者は、蒲盧なり。故に政を為すは人に在り、人を取るには身を以てし、身を修むるには道を以てし、道を修むるには仁を以てす。仁なる者は人なり、親を親しむを大なりと為す。義なる者は宜なり、賢を尊ぶを大なりと為す。親を親しむの殺(サイ)、賢を尊ぶの等は、禮の生ずる所なり。(在下位不獲乎上、民不可得而治矣。)故に君子は以て身を修めざる可からず。身を修めんことを思わば、以て親に事えざる可からず。親に事えんことを思わば、以て人を知らざる可からず。人を知らんことを思わば、以て天を知らざる可からず。天下の達道は五あり、之を行う所以の者は三。曰く、君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟なり、朋友の交なり。五者は天下の達道也。知・仁・勇の三者は、天下の達なり、之を行う所以の者は一なり。或いは生まれながらにして之を知り、或いは學びて之を知り、或いは困しみて之を知る。其の之を知るに及びては一なり。或いは安んじて之を行い、或いは利して之を行い、或いは勉強して之を行う。其の功を成すに及びては一なり。

<語釈>
○「方策」、鄭注:方は版なり、策は簡なり。字を書くための板と竹簡で、典籍の意。○「敏」、鄭注:「敏」は猶ほ「勉」なり。○「樹」、種子を植えて育てる意。○「蒲盧」、鄭注:蒲盧は蜾蠃、土蜂を謂うなり、詩に曰う、螟蛉に子有り、蜾蠃之を負う、螟蛉は桑蟲なり、蒲盧、桑蟲の子を取りて去る、而して之を變化し、以て己が子と為すと、政の百姓に於けるや、蒲盧の桑蟲に於けるが若く然りなり。「土蜂」はじがばち、じがばちが桑虫の子を負うて、取り去ってわが子として育て、己になつかせるように、政も人民を教化して己に懐かせるようにすること。○「為政在人」、鄭注:賢人を得るに在り。○「殺」、サイと読んで、徐々に差をつけていくこと。○「等」、等差。

<解説>
物事にはすべて方策が有る。しかしどんなに優れた方策があっても、それを行うのは人であるから、その人奈何に因って結果は違ってくる。この節では、特に政治の世界では、君主がどれだけ徳を修めているかが問題であり、そしてこの修徳は、五つの道を理解して、三つの徳を実践することに因って得られるとする。その中で特に仁義の実践が大事で、その為には最も親しい親に対する親愛と、賢者に対する尊敬を先ず第一に実践し、それを次第に差をつけながら広めて行き、そこから生じる禮義を重んじることであると説かれている。乃ち修徳の根幹は禮義の実践である。