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『中庸』第三節

2013-09-30 09:48:34 | 漢文
          http://www.eonet.ne.jp/~suqin (史記、戦国策の解読)

               第三節
孔子が言われた、「舜はすぐれた知者と言えるだろう。舜は問い尋ねることを好み、身近な言葉を注意深く聞いてよく理解し、悪いことは隠し、善であって行いやすい事を人に進め、賢者の極端、不肖者の不及という両端を取りあげて、その中を民に及ぼした。このようであるからこそ舜は其の字が意味する道徳充満の人物で、當に舜と呼ばれるべきなのである。」

子曰、舜其大知也與。舜好問而好察邇。隱惡而揚善。執其兩端、用其中於民。其斯以為舜乎。」

子曰く、「舜は其れ大知なるかな。舜は問うを好み、而して好みて邇言を察す。惡を隠して善を揚ぐ。其の兩端を執り、其の中を民に用う。其れ斯れ以て舜と為すか。」

<解説>
中国において、聖人の代表は舜であり、君子の代表は孔子である。その孔子が、舜は中を民に用いたと述べる事に因って、中庸の重みを一段と加えている。

『中庸』第二節

2013-09-17 10:32:15 | 漢文
                第二節
孔子が言われた、「君子は中を用いることを常の道とする。小人は行為が中庸から外れているのに、自らは中庸を実践していると思っている。君子の中庸は、其の容貌からして君子であるが、その心や行いが時々に応じて、過不及無く節度にかなっている。小人の中庸は、容貌が小人であって、心や行いに恐れ憚りが無く、それを常の行いとしているのである。」孔子が言われた、「中庸は徳の本であるが、努力して修めて到達する至極ではない。それなのに長く行うことのできる人は誠に少ないものである。」孔子が言われた、「道が行われない所以を、私は知っている。知者の行いは極端に趨り、愚者の行いは下劣にして及ばないからである。道が明らかでない所以も私は知っている。賢者は極端に趨り、不肖者は下劣で及ばないからである。飲食しない人はいないが、其の味を善く知っている人は少ない。乃ち日常の事を行いながら、中庸に止まることを知らないのである。」孔子が言われた、「それを教える明君がいないから、中庸の道が行われないなあ。」

仲尼曰、君子中庸、小人反中庸。君子之中庸也、君子而時中。小人之中庸也、小人而無忌憚也。子曰、中庸其至矣乎、民鮮能久矣。子曰、道之不行也、我知之矣。知者過之,愚者不及也。道之不明也、我知之矣。賢者過之、不肖者不及也。人莫不飲食也、鮮能知味也。」子曰、道其不行矣夫。

仲尼曰く、「君子は中庸す。小人は中庸に反す。君子の中庸や、君子にして時に中す。小人の中庸や、小人にして忌憚無きなり。」子曰く、「中庸は其れ至らんか、民、能く久しくすること鮮し。」子曰く、「道の行われざるや、我、之を知れり。知者は之に過ぎ、愚者は及ばざるなり。道の明らかならざるや、我、之を知れり。賢者は之に過ぎ、不肖者は及ばざるなり。人、飲食せざる莫きも、能く味を知ること鮮きなり。」子曰く、「道は其れ行われざるか。」

<語釈>
○「庸」、鄭注:庸は常なり。中を用いて常道と為す。○「反中庸」、鄭注:中庸に反すとは、行う所中庸に非ず、然れども亦た自ら以て中庸と為す。○「君子而時中」、鄭注:君子にして時に中すとは、其の容貌君子にして又時に其の中に節するなり。○「小人而無忌憚」、鄭注:其の容貌小人にして、又畏難無きを以て、常行と為す。是れ其れ中庸に反するなり。

<解説>
「中庸」について、子程子は、「偏ならざる之を中と謂い、易わらざる之を庸と謂う。中は天下の正道なり。庸は天下の定理なり。」と述べている。鄭玄も「庸は常なり」と述べている。孔子は、「知者は之に過ぎ、愚者は及ばざるなり」、「賢者は之に過ぎ、不肖者は及ばざるなり」と述べている。乃ち偏らずに過不及無きが中庸である。
中庸の実践はそれほど難しくないが、其れを常の道として、無意識に実践できるように務めなければならない。しかしこれが、我々凡人には困難なことなのである。

『中庸』第一節

2013-09-09 09:55:44 | 漢文
             中庸第一節

本来人間は天より素晴らしい資質を賦与されている、それが性である。その性のままに行うことを道と言う。その道を自ら修得すること、それが教えである。人は道からはほんの僅かも離れることは出来ない。もし離れることが出来るとすれば、それは真の道ではない。それだから君子は表に現れているものは当然、隠されて見えないことにも戒め慎み、聞えてこないことにも恐れ慎み、その道から離れないように務めている。人には分からないから、細事な事だからと思っていても、必ず表に表れ、大事に至るものである。故に君子は人に見られず、聞かれない所でも謹慎することに務めるのである。喜怒哀楽の情が起こらず、平静な状態のときを中と言い、その情が起きたとしても、適度にして道に違わないことを和と言う。中というのは、天下の根本原理であり、和というのは、人の踏むべき普遍的な道である。故に中と和を正しく行うならば、天地はその正しい位を得て、万物は正しく養育し、天下はよく治まるのである。

天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。道也者、不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫見乎隱、莫顯乎微。故君子慎其獨也。喜怒哀樂之未發、謂之中、發而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉、萬物育焉。

天の命、之を性と謂い、性に率がう、之を道と謂い、道を修むる、之を教と謂う。道なる者は、須臾も離る可からざるなり。離る可きは道に非ざるなり。是の故に君子は其の睹えざる所にも戒慎し、其の聞えざる所にも恐懼す。隠より見わるるは莫く、微より顯らかなるは莫し。故に君子は其の獨りを慎むなり。喜怒哀樂の未だ發せざる、之を中と謂い、發して皆な節に中る、之を和と謂う。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致せば、天地位し、萬物育す。
<語釈>
○「君子慎其獨」、鄭注:「独り慎むとは其れ居の為す所を慎む。小人は隠に於いては動作言語、自ら以て睹られず、聞かれずと為す。則ち必ず肆に其の情を盡くすなり。」、『大学』の第二章第一節にも同じく「故君子必慎其獨也」とある。併せて読むと更に善く理解できるであろう。○「達道」、人の踏むべき普遍的な道。○「天地位」、鄭注:「位」は猶ほ「正」のごとし。

<解説>
この第一節は『中庸』の学説を構成している「天命」、「性」、「道」、「教」の関係を示しており、此の書の最も重要な文章である。
「天命」について、鄭玄は、「天命は天の命じて人に生ずる所の者なり。是れを性命と謂う。」と述べている。乃ち人が生まれながらに天から賦与された素晴らしい資質の事で、朱子はこれを「性」と呼び、即ち「理」であると説明している。ただこの素晴らしい「性」を純粋に保持しているのは聖人だけで、我々凡人は「情」により其の純粋なものを曇らせてしまう。そこでそれに至る道を修めなければならず、人が人として生きる限り、その道からは離れる事が出来ない。
更に「君子慎其獨」で『中庸』のもう一つの大きな命題である「誠」について触れている。『大学』第二章第一節の「意を誠にする」と併せて読めば、更に理解が深まるであろう。最後にその大本である「中」について、天下を善く治めるには中を用いることであると結んでいる。當に『中庸』の根幹を述べた章であると言うべきである。

『中庸』解読

2013-09-02 13:30:59 | 漢文
第一回目の今回は、『中庸』の簡単な解説を述べ、次回より節ごとに解読を進めて行くつもりである。

                中庸解説

『中庸』は『大学』と同じく、『禮記』の一篇として伝わってきたものである(『大学』の解説参照)。しかしながら『大学』が朱子に因って初めて別行されて重んぜられたの対して、『中庸』は既に前漢時代から尊重されていたと思われる。これを『禮記』より抜き出して、注を加えて、『中庸』として始めて表章したのは、南朝宋の戴顒の『禮記中庸伝』二巻であるとされているが、この書は現在に伝わっていない。其の後、梁の武帝が『中庸講疏』二巻を著し、『制旨中庸義』五巻を編集させた。唐に入ると李翺が『復性書』を著して『中庸』の本義を「誠」と「性」であるとし、其の解明に取り組んだ。それはやがて宋代の新儒学の開花として朱子の『中庸章句』と結実していくのである。
『中庸』の成立については、『史記』孔子世家に、「孔子、鯉を生む。字は伯魚。伯魚年五十、孔子に先立ちて死す。伯魚、伋を生む。字は子思。年六十二。嘗て宋に困し、子思、中庸を作る。」とあることから、近世に至るまで、子思の作であるとされてきた。にもかかわらず、それを疑問視する説も昔から存在している。その一つは子思の著したものとしては、『漢書』芸文志に『子思』二十三篇が著録されており、『中庸』は子思・孟子学派の後学者の手になるものとする説であり、更に『漢書』芸文志に『中庸説』二篇が著録されており、これと今に伝わる『中庸』との関係がわかっていない。
章句については、『大学』と同じく、基本的には『禮記正義』と朱子の『中庸章句』の二つである。『正義』は三十三節に、『中庸章句』は三十三章に、どちらも三十三に分けているが、朱子は『中庸』の経は第一章のみで、後は伝であるとしている。
今回の『中庸』の解読は、『大学』と同じく『正義』を中心に読んでゆきたいと思っている。『中庸』の内容も『大学』と同じく、その解釈については論の分かれるところであるが、研究書ではないので、深くは追求せず、ただ大雑把に『中庸』という書を理解することに務めたいと思っている。