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『孟子』巻第十三盡心章句上 百八十節、百八十一節、百八十二節、百八十三節

2019-04-30 10:18:16 | 四書解読
百八十節
孟子は言った。
「物事全ての道理は皆わが身に備わっている。だから我が身に立ち戻って、自分の言動を照らし合わせて、それが道理に適っていれば、これより大きな楽しみはない。大いに務めて思いやりの心で行動することは、仁を求めるのにこれより近い道はない。」

孟子曰、萬物皆備於我矣。反身而誠、樂莫大焉。強恕而行、求仁莫近焉。

孟子曰く、「萬物皆我に備わる。身に反して誠なれば、樂しみ焉より大なるは莫し。強恕して行う、仁を求むること焉より近きは莫し。」

<語釈>
○「萬物」、朱注:此れ理の本然を謂うなり、大は則ち君臣父子、小は則ち事物の細微、其の当然の理なり。物事の道理を謂う。○「反」、趙注:反は、自ら其の身の施行する所を思う。わが身の言動を省みること。○「強恕」、務めて思いやること。

<解説>
「萬物皆我に備わる」とは、前節の「在我者」とほぼ同じ内容であろう。朱注に云う、「大は則ち君臣父子、小は則ち事物の細微」は前節の朱注の「仁義礼智」である。仁への道は趙岐の章指に「毎に必ず誠を以て己に恕して行う、樂しみは其の中に在り、仁の至りなり。」とあり、『説文』に恕は仁なりとあり、又論語に、「夫子の道は忠恕のみ」とある。誠に恕の心こそが仁への道である。

百八十一節

孟子は言った。
「物事を実行しても、その道理が分かっていない。繰り返し行ってもはっきりと理解することが出来ない。一生そのような状態で、物事の道理を理解できないままに終わる者は多くいる。」

孟子曰、行之而不著焉。習矣而不察焉。終身由之而不知其道者、衆也。

孟子曰く、「之を行いて而も著らかならず。習いて而も察らかならず。終身之に由りて、其の道をしらざる者は、衆きなり。」

<語釈>
○「著」、朱注:著は、知ること之れ明なり。“あきらか”と訓ず。○「察」、朱注:識ること之れ精なり。“つまびらか”と訓ず。○「終身由之而不知其道者」、この句の解釈も諸説ある。この句を前の二句を受けた句と理解する説と、前の二句と並べて三項とする説がある。前者は朱注で、後者は趙注である。朱注を採用する。

<解説>
人は一生道を理解することが出来ずに終わる者が多い。それでは道とはそれほど深淵なものであろうか。そうではない。『中庸』の冒頭に、「性に率がう、之を道と謂う」とあるように、日常の行いが道なのである。服部宇之吉氏が、「妻子を愛する如き習性が仁の一端なれば、之を万事に推及ぼさば、道に達し得べきものなることを察知する能わざるなり、故に知らず識らず仁を行いながら其の道を知らざるもの多し。」と述べているが、これがこの節の趣旨である。

百八十二節
孟子は言った。
「人は恥じる心がなければならない。羞恥心がないことをこそ恥じだと思えるようになれば、人から恥辱を受けることは無くなるものだ。」

孟子曰、人不可以無恥。無恥之恥、無恥矣。

孟子曰く、「人は以て恥づること無かる可からず。恥づること無きを之れ恥づれば、恥無し。」

<語釈>
○「恥」、趙注:人能く己の恥づる所無きを羞づれば、是れ行いを改め、善に從うの人と為り、終身復た恥辱の累有る無きなり。この注によれば、全部で四つある「恥」の字の内、最初の三つは「羞恥」の意であり、最後の「恥」は恥辱の意である。他説もあるが、趙注に從う。

<解説>
次節で一緒に解説する。

百八十三節

孟子は言った。
「人にとって、羞恥心はとても大事なものだ。機を見て態度や口先を変えるのが巧みな者は、恥を感じる心がない。他人に及ばないことを恥ずかしいと思わないようでは、どうして人並みであることができようか。」

孟子曰、恥之於人、大矣。為機變之巧者、無所用恥焉。不恥不若人、何若人有。

孟子曰く、「恥の人に於けるや、大なり。機變の巧を為す者は、恥を用うる所無し。人に若かざることを羞ぢずんば、何ぞ人に若くことか有らん。」

<語釈>
○「機變之巧」、機を見て態度や口先を変えるのが巧みであること。

<解説>
前節と合わせて、恥じ入る心の大切さが述べられている。儒家にとって「恥」は大きな命題であり、孔子も多く言及している。今の我々からしても、羞恥心の大切さはよく分かる。現代人は何事においても羞恥心が希薄になってきているように思われる。

『孫子』巻七軍爭篇

2019-04-23 10:15:17 | 四書解読
巻七 軍爭篇

孫子は言う。およそ戦争をするときの法則は、将軍が君主の命を受けて、配下の兵を合わせ、兵役を課した農民を集め、軍門を構えて敵と対陣して宿営するが、敵軍との争いほど難しいものはない。敵軍との争いが難しいのは、回り道をしながら結果的に近道になるようにし、降りかかる災難を結果的に我が軍に有利になるようにしなければならないからだ。そこで敵を避けて回り道をし、一方では利益で敵を誘い惑わせ、我が軍が前進するとは思わせないようにし、利益を与えておいて敵を遅らせ、敵に送れて出発しながら、結果的に敵に先んじて至るようにする。このような事が出来るのは迂直の計を知っている者である。敵軍との争いには利益もあれば危険もある。輜重車など直接戦わない者も含め、全軍を挙げて利益のために戦えば、俊敏性を失くして利益を得ることができない。後れる兵を棄てて利を争えば、輜重車を棄てることになる。すなわち、よろいを脱いで丸めて担いで小走りし、日夜休むことなく、通常一日で走る倍の距離を強行軍して、百里の遠方に利を爭えば、上軍・中軍・下軍の大将が捕われてしまう。それは強い兵は先行し、弱い兵は後れ、十分の一の兵だけが目的地に到着するに過ぎないからだ。五十里の遠方で利を争えば、先発の上軍の大将は捕虜と為る。半分の兵だけが目的地に到着するに過ぎないからだ。三十里の遠方で利を争えば、三分の二の兵が目的地に到着するに過ぎない。このように物資を補給する輜重車が無ければ軍は亡んでしまうし、兵に支給する食糧が無くなれば軍は亡んでしまうし、必要な財貨が無ければ軍は亡んでしまう。このほか遠征に関しては、諸侯の状況も予め理解しておかなければ、諸侯と親しく交わることができない。更に遠征途上の山林・険しい場所・湿地帯。沼地などの地形をよく知らなければ、安全に軍を進めることができない。又道案内がいなければ、地の利を得ることができない。このようなことから戦いは敵を欺くことを基本として、利を得る為に動き、部隊を分散させたり、集合させたりして変化を作り出すものである。そのゆえに、動くときは疾風のように速く、ゆったりと行進する時は林のように厳かに、侵略する時は火のように烈しく、動かない時は山のように泰然としており、我が軍の動向は曇り空で日月が見えないように知り難く、一たび動けばその勢いは雷のとどろきのように激しく、村を襲って人々を離散させ、敵地を徐々に奪い兵を分けて守らせ、敵の軽重を量り知ってから動くのである。こうして敵に先んじて迂直の計を用いるものは必ず勝つ。これが戦争をする時の法則である。軍の制度に、「戦場では指揮官の声は聞こえないから、金や太鼓を作ってそれで知らせ、指揮官が手で指揮しても見えないから、旌旗を作ってそれで指揮する。」とある。金鼓や旌旗は兵士の耳目を一つにするものである。兵士が一つになり行動するようになれば、勇気のある者だけが先に進んだり、臆病な者がしり込みするようなことが無くなる。これが兵士を用いる方法である。又夜戦では松明や金鼓を多くし、昼戰では旌旗を多くするのは、敵の耳目を惑わす為である。こうして敵軍の気力を奪い、敵の将軍の心を奪って戦意を喪失させることができる。又、朝は気力が満ちており、昼は気力が鈍っており、日暮れは気力が尽きて帰ろうとしているので、戦いの上手な者は、敵を攻撃するにも、敵の気力が満ちている時は避け、敵の気力が鈍り尽きている時に攻撃する。これが気力を上手に利用することである。我が軍をよく治めて、敵軍の秩序の乱れを待ち、我が軍は静寂を保ち、敵軍の騒然となるのを待つ。これが己の心を治めて敵の心を乱すことである。我が軍は戦場の近くに陣を構え、敵軍が遠くからやってくるのを待ち、こちらは安楽にして敵の疲れるのを待ち、こちらは十分な食事をして敵が飢えるのを待つ。これが我が軍の力を治めて敵の力を弱くすることである。隊列がよく整って進軍してくる敵は迎え撃つな。盛大な陣を構えている敵は攻撃するな。これが変化によく対応するということだ。これらのことから戦争の法則は、高い所に居る敵には向かって行くな、丘を背にしている敵は攻撃するな、偽って逃げる敵は追走するな、戦意が高く鋭い敵は攻撃するな、おとりの兵に騙されて食らいつくな、帰国する部隊は攻撃して止めようとするな、敵を包囲したときは必ず一か所は開けておけ、窮地に陥っている敵を更に追い詰めるようなことはするなということである。これが戦争をする時の法則である。

孫子曰、凡用兵之法、將受命於君、合軍聚衆、交和而舍、莫難於軍爭。軍爭之難者、以迂為直、以患為利。故迂其途、而誘之以利、後人發、先人至。此知迂直之計者也。故軍爭為利、軍爭為危。舉軍而爭利、則不及。委軍而爭利、則輜重捐。是故卷甲而趨、日夜不處、倍道兼行、百里而爭利、則擒三將軍、勁者先、疲者後、其法十一而至。五十里而爭利、則蹶上將軍、其法半至。三十里而爭利、則三分之二至。是故軍無輜重則亡、無糧食則亡、無委積則亡。故不知諸侯之謀者、不能豫交。不知山林險阻沮澤之形者、不能行軍。不用鄉導者、不能得地利。故兵以詐立、以利動、以分合為變者也。故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷震。掠鄉分衆、廓地分利、懸權而動。先知迂直之計者勝。此軍爭之法也。軍政曰、言不相聞、故為金鼓。視不相見、故為旌旗。夫金鼓旌旗者、所以一人之耳目也。人既專一、則勇者不得獨進、怯者不得獨退。此用衆之法也。故夜戰多火鼓、晝戰多旌旗、所以變人之耳目也。故三軍可奪氣、將軍可奪心。是故朝氣銳、晝氣惰、暮氣歸。故善用兵者、避其銳氣、撃其惰歸。此治氣者也。以治待亂、以靜待譁。此治心者也。以近待遠、以佚待勞、以飽待飢。此治力者也。無邀正正之旗、勿撃堂堂之陣。此治變者也。故用兵之法、高陵勿向、背邱勿逆、佯北勿從、銳卒勿攻、餌兵勿食、歸師勿遏、圍師必闕、窮寇勿迫。此用兵之法也。

孫子曰く、凡そ兵を用うるの法、將、君に命を受け、軍を合わせ衆を聚め(注1)、和を交えて舍するに(注2)、軍爭より難きは莫し。軍爭の難きは、迂を以て直と為し、患を以て利と為せばなり(注3)。故に其の途を迂にして、之を誘うに利を以てし、人に後れて發し、人に先んじて至る(注4)。此れ迂直の計を知る者なり。故に軍爭は利為り、軍爭は危為り(注5)。軍を舉げて利を爭えば、則ち及ばず(注6)。軍に委して利を爭えば、則ち輜重捐てらる(注7)。是の故に甲を卷きて趨り(注8)、日夜處らず、道を倍して兼行し、百里にして利を爭えば、則ち三將軍を擒にせられ、勁き者は先んじ、疲るる者は後れ、其の法十が一にして至る。五十里にして利を爭えば、則ち上將軍を蹶し、其の法半ば至る。三十里にして利を爭えば、則ち三分の二至る。是の故に軍、輜重無ければ則ち亡び、糧食無ければ則ち亡び、委積無ければ則ち亡ぶ(注9)。故に諸侯の謀を知らざれば、豫め交わること能わず(注10)。山林・險阻・沮澤の形を知らざれば、軍を行ること能わず。鄉導(道案内)を用いざれば、地の利を得ること能わず。故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て變を為す者なり。故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く(注11)、動くこと雷震の如し。郷を掠めて衆を分かち(注12)、地を廓むるには利を分かち(注13)、權を懸けて動く(注14)。先づ迂直の計を知る者は勝つ。此れ軍爭の法なり。軍政に曰く、「言うこと相聞えず、故に金鼓を為る。視ること相見えず、故に旌旗を為る。」夫れ金鼓旌旗は、人の耳目を一にする所以なり。人既に專一なれば、則ち勇者も獨り進むを得ず、怯者も獨り退くを得ず。此れ衆を用うるの法なり。故に夜戰には火鼓を多くし、晝戰には旌旗を多くするは、人の耳目を變ずる所以なり(注15)。故に三軍は氣を奪う可く、將軍は心を奪う可し。是の故に朝氣は銳く、晝氣は惰り、暮氣は歸る。故に善く兵を用うる者は、其の銳氣を避け、其の惰歸を撃つ。此れ氣を治むる者なり。治を以て亂を待ち、靜を以て譁を待つ。此れ心を治むる者なり(注16)。近きを以て遠きを待ち、佚を以て勞を待ち、飽を以て飢を待つ。此れ力を治むる者なり(注17)。正正の旗を邀うる無かれ、堂堂の陣を撃つ勿れ。此れ變を治むる者なり(注18)。故に兵を用うるの法、高陵には向う勿れ、邱を背にするには逆う勿れ、佯り北ぐるには從う勿れ、銳卒には攻むる勿れ、餌兵は食う勿れ、歸師は遏むる勿れ、師を圍めば必ず闕き、窮寇には迫る勿れ。此れ兵を用うるの法なり。

<語釈>
○注1、十注:梅堯臣曰く、國の衆を聚め、合して以て軍と為す。張預曰く、國人を合して、以て軍を為し、兵衆を聚めて以て陳を為す、等諸説あるが、私は「合軍」は、将軍配下のそれぞれの常備兵を合わせることで、「聚衆」は農民に兵役を課して聚める意に解釈したい。○注2、十注:梅堯臣曰く、軍門を和門と為す、兩軍交々對して舎するなり。○注3、十注:張預曰く、迂曲を變じて近直と為し、患害を轉じて便利と為す、此れ軍爭の難きなり。○注4、十注:張預曰く、形勢の地、爭い得れば則ち勝つ、凡そ近く便地を爭わんと欲せば、先づ兵を引きて遠く去る、復た小利を以て敵に啗わし、彼をして我が進むを意わず、又我が利を貪らしむ、故に我以て後れて發して先に至るを得、此れ所謂迂を以て直と為し、患いを以て利と為すなり。○注5、十注:梅堯臣曰く、軍爭の事は利有り、危有り。杜佑曰く、善なる者は則ち利を以てし、不善なる者は則ち危を以てす、兩軍交爭するに奪取する所有り、言う、之を得れば則ち利あり、之を失えば則ち危あり、と。「故に軍爭は利の為にせば、軍爭は危為り。」と読む説もあるが取らない。○注6、十注:張預曰く、軍を竭くして前めば、則ち行くこと緩やかにして、利に及ぶこと能わず。「舉軍」は、直接戦いに参加しない輜重車や工兵なども含めたすべての軍のこと。注7、「委軍」の解釈について、「委」は委棄するの意に、「軍」は、遅れる部隊の意、後れる兵は棄てて先に行くこと。○注8、「卷甲而趨」とは、よろいを脱いで丸めてかついて走ること。○注9、十注:張預曰く、輜重無ければ、則ち器用供わらず、糧食無ければ、則ち軍餉足らず、委積無ければ、財貨充たず、皆亡覆の道なり、此の三者、軍を委てて利を爭うを謂うなり。○注10、十注:梅堯臣曰く、敵國の謀を知らざれば、預め鄰國と交わりて、以て援助を為す能わず。○注11、十注:張預曰く、陰雲、天を蔽い、辰象觀る莫きが如し。○注12、「掠鄉分衆」は、“郷に掠めて衆に分かつ”と読み、奪った物資を兵士に分ける意に解釈する説が多いが、私は次句との関係を考えて、“郷を掠めて衆を分かつ”と読み、敵の人的資源を分散させる意に解釈した。○注13、「廓」は“ひろめる”と訓ず、「廓地分利」は“地を廓めて利を分かつ”と読んで、敵地を得てその利益を兵士に分ける意に解釈するのが一般的であるが、私は、“地を廓むるには利を分かち”と読み、敵地を少しづつ切り取り、兵を分けてその地の利を守らせる意味に解釈した。注12と注13とをこのように解釈した理由は、一般的な読みをすれば、それは戦後処理の内容になり、それまで述べてきた軍争の法からかけ離れるからである。○注14、十注:張預曰く、權(おもり)を衡(はかりさお)に懸くるが如く、軽重を量り知り、然る後動くなり。○注15、「多い」の解釈は、火鼓を用いることを多くする意と、火鼓を多くする意とがある。後者を採用して、夜は松明と金鼓で敵を惑わせ、昼は旌旗で敵の目をごまかす意に解釈する。十注:梅堯臣曰く、多きは、以て敵人の耳目を變惑せんことを欲するなり。張預曰く、凡そ敵と戦うに、夜なれば、則ち火鼓を息めず、晝なれば、則ち旌旗相續け、以て敵人の耳目を變亂し、其の我に備うる所以の計を知らざらしむ。○注16、「譁」(カ)は口やかましく騒ぐ意。十注:張預曰く、此れ所謂善く己の心を治め、以て人の心を奪う者なり。○注17、十注:張預曰く、此れ所謂善く己の力を治めて、以て人の力を困める者なり。○注18、十注:杜佑曰く、正正は整齊(まとめととのえる)なり、堂堂は盛大の貌。張預曰く、此れ所謂善く変化の道を治め、以て敵人に應ずる者なり。

<解説>
題意については、十注:王晳曰く、爭は、利を爭うなり、利を得れば則ち勝つ、宜しく先づ輕重を審らかにし、迂直を計り、敵をして我が勞に乘ぜしむる可からざるべし。張預曰く、軍爭を以て名を為すは、兩軍相對して利を爭を謂うなり、先づ彼我の虚實を知り、然る後人と勝を爭う、故に虚實に次すなり、とある。
 この篇は何といっても誰もが知っている武田信玄の旗印“風林火山”の出典であるということだ。戦争の心得は迂直の計を知ることであり、動と静とを上手に運用することであり、そのうえで敵を制御する四つの方法、治氣・治心・治力・治變に務めることである。

『孟子』巻第十三盡心章句上 百七十七節、百七十八節、百七十九節

2019-04-18 10:36:55 | 四書解読
百七十七節

孟子は言った。
「誰もが心の中に持っている理義を極めつくせば、人の本性が本来善であることが分かる。本性が善であることを知れば、それを与えてくれた天をも知ることになる。己の心を常に省みて察し、善なる本性を養うことが天に仕える道である。短命か長命かなどと気に掛ける事無く、ひたすら身を修めることに務めて天寿を待つ、それが立命乃ち天命を守る道なのである。」

孟子曰、盡其心者、知其性也。知其性、則知天矣。存其心、養其性、所以事天也。殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也。

孟子曰く、「其の心を盡くせば、其の性を知るなり。其の性を知れば、則ち天を知る。其の心を存し、其の性を養うは、天に事うる所以なり。殀壽貳せず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり。」

<語釈>
○「盡其心者、知其性也」、『正義』に謂う、「盡」は「極」なりと。服部宇之吉氏云う、「天下の人心同じく理義を好まざるは無し、此れ心に固有するところなり、心の固有するところを盡くし極むれば、人の性もと善なるを知る。」○「存」、安井息軒氏云う、「存」は「察」なり。○「俟之」、「之」の解釈も諸説あるが、安井息軒氏云う、「之」の字は殀壽を指す、之を俟つは、天、己を壽せば則ち壽し、己を殀せば則ち殀す、復た心を二者の間に勞せず、唯だ身を修めて以て其の至るを待つのみと。通釈はこれに従う。○「立命」、朱注:立命は、其の天の賦する所を全くし、人為を以て之を害せざるを謂う。天命を守ること。

<解説>
心、性、天とは、何であるか。分かっているようでよく分からない概念である。儒教の中心的な概念の一つであると言えるだろう。『中庸』の冒頭に、「天の命、之を性と謂い、性に率がう、之を道と謂い、道を修むる、之を教と謂う。」とあり、この「天命」について、鄭玄は、「天命は天の命じて人に生ずる所の者なり。是れを性命と謂う。」と述べている。更に理解を深める為に私のホームページ(http://gongsunlong.web.fc2.com/)から『中庸』を参照してほしい。


百七十八節

孟子は言った。
「凡そ人の寿命は皆天から与えられたものであるから、それを正しく受け入れて従うことが大事である。だからそれを知っている者は、岩石が崩れ落ちそうな所や壊れそうな垣根の側には近寄らない。天から与えられた善の道を尽くして死ぬのは、正命であるが、罪を犯して刑罰で死ぬのは正命ではないのである。」

孟子曰:「莫非命也,順受其正。是故知命者,不立乎巖牆之下。盡其道而死者,正命也。桎梏死者,非正命也。」

孟子曰く、「命に非ざる莫きなり。其の正を順受す。是の故に命を知る者は、巖牆の下に立たず。其の道を盡くして死する者は、正命なり。桎梏して死する者は、正命に非ざるなり。」

<語釈>
○「命」、この節の命の解釈も諸説ある、趙注云う、「命に三名有り、善を行い善を得るを、受命と曰う、善を行い惡を得るを、遭命と曰う、惡を行い惡を得るを、随命と曰う。」朱子は、「人物の生、吉凶禍福は皆天の命ずる所なり。」と述べ、前節の解説で紹介した鄭玄は、「天命は天の命じて人に生ずる所の者なり。」としている。私は下文との関係から、天から与えられた寿命の意味に解釈する。○「巖牆」、安井息軒氏云う、危巌壊牆を謂うと。危ない岩石や壊れそうな垣根のこと。

<解説>
前節との関係が深い節であり、併せて読めば、短い文章でありながら色々と考えさせられる。

百七十九節

孟子は言った。
「求めれば得られるが、放置しておけば失われる。このようなものは求めることが、それを得るのに有用である。それは己の内に在る天から与えられた仁義礼智を求めるからである。それを求めるには手段方法があるが、得られるかどうかは天命によるのであって、必ず得られるとは限らないようなものは、無理に求めても、それを手に入れるには役立たない。それは己の外に在る富貴栄達などを求めるからである。」

孟子曰、求則得之、舍則失之。是求有益於得也。求在我者也。求之有道。得之有命。是求無益於得也。求在外者也。

孟子曰く、「求むれば則ち之を得、舍つれば則ち之を失う。是れ求めて得るに益有るなり。我に在る者を求むればなり。之を求むるに道有り。之を得るに命有り。是れ求めて得るに益無きなり。外に在る者を求むればなり。」

<語釈>
○「在我者」、朱注:在我者は、仁義礼智を謂う。既述の天爵である。○「在外者」、朱注:在外者は、富貴利達を謂う。既述の人爵位である。

<解説>
趙岐の章指に云う、「仁を為すは己に由り、富貴は天に在り。故に孔子曰く、『如し求む可からずんば、吾の好む所に從わん。』」

『史記』張釋之馮唐列伝

2019-04-13 11:00:08 | 四書解読
張廷尉釋(セキ)之は、堵(シャ)陽の人なり。字は季。兄仲有りて同居す。訾を以て騎郎と為り(集解:如淳曰く、漢儀注に、訾五百萬は常侍郎と為るを得とあり。「訾」は「貲」に通じ、積財、家財のこと)、孝文帝に事う。十歲調ぜらるるを得ず(官位が昇進しなかった)。名を知らるる無し。釋之曰く、「久しく宦して、仲の產を減じて遂げず。」自ら免歸せんと欲す。中郎將袁盎、其の賢を知り、其の去るを惜しみ、乃ち釋之を徙して謁者に補せんことを請う。釋之既に朝し畢り、因りて前みて便宜の事(国家や国民を利する政策)を言う。文帝曰く、「之を卑くせよ。甚だしく高論すること毋く、今に施行す可からしめよ。」是に於て釋之、秦漢の閒の事、秦の失いし所以にして、漢の興こりし所以の者を言うこと、之を久しくす。文帝善しと稱す。乃ち釋之を拝して謁者僕射と為す。釋之從行し、虎圈に登る。上、上林の尉に諸々の禽獸の簿を問う,十餘問するに、尉左右に視て、盡く對うること能わず。虎圈の嗇夫(小役人)、旁從り尉に代わり上の問う所の禽獸の簿を對うること、甚だ悉くす。以て其の能を觀(しめす)さんと欲し、口對響應し、窮する者無し。文帝曰く、「吏は當に是くの若くなるべからざるか。尉は賴む無し。」乃ち釋之に詔し、嗇夫を拝して上林令と為さしめんとす。釋之之を久しくして前みて曰く、「陛下以うに、絳侯周勃は何如なる人ぞ。」上曰く、「長者なり。」又復た問う、「東陽侯張相如は何如なる人ぞ。」上復た曰く、「長者なり。」釋之曰く、「夫の絳侯・東陽侯は、稱して長者と為すも、此の兩人、事を言うに、曾て口より出だすこと能わず。豈に此の嗇夫の諜諜として利口捷給なるに斅わんや(「諜諜」は、ペラペラしゃべる貌、「利口捷給」は、口達者で素早く応対すること、「斅」は、「效」に通じ、“ならう”と訓ず)。且つ秦は刀筆の吏に任ずるを以て、吏爭いて亟疾苛察(素早い処理能力と微細な知識)を以て相高しとす。然して其の敝は徒に文具わるのみにして、惻隱(あわれみいたむ)の實無し。故を以て其の過ちを聞かず、陵遲(次第に衰微していくこと)して二世に至り、天下土崩す。今、陛下、嗇夫の口辯なるを以てして、之を超遷せんとす。臣、天下の風に隨うこと靡靡として、爭いて口辯を為して、其の實無からんことを恐る。且つ下の上に化するは、景響よりも疾し(エイ・キョウ、光と影、音と響きのように、その反響が速いこと)。舉錯(挙措に同じ、行い)は審まざる可からず。」
続きはホームページで、http://gongsunlong.web.fc2.com/

『孟子』巻第十二告子章句下 百七十四節、百七十五節、百七十六節

2019-04-09 10:21:41 | 四書解読
百七十四節

弟子の陳子が尋ねた。
「昔の君子はどのような場合に仕えたのでしょうか。」
孟子は答えた。
「仕える場合が三つ、辞職して去る場合が三つある。一つは、心から敬い、礼をつくして招聘し、ご意見は実行しますので、と言ってきた場合は仕える。しかし心から敬い、礼をつくしてくれるが、意見が取り上げられなくなれば去る。二つは、意見は未だ採用されないが、心から敬い、礼をつくして招聘されれば仕える。しかしそれらの尊敬や礼儀の心が薄らいだら去る。三つは、朝夕の食べ物も無く、飢えて外にも出られないとき、領主がそれを聞いて、『私は大にしては彼の説く道を実行することはできず、更にはその意見に従うことも出来なかったが、自分の領内で飢えさせとなれば、私の羞じる所である。』と言って、禄を与えて救済して下さるなら受けてもよい。しかしそれで餓死を免れれば、久しく止まらず去るべきである。」

陳子曰、古之君子何如則仕。孟子曰、所就三、所去三。迎之致敬、以有禮、言將行其言也、則就之。禮貌未衰、言弗行也、則去之。其次、雖未行其言也、迎之致敬、以有禮、則就之。禮貌衰、則去之。其下、朝不食、夕不食、飢餓不能出門戶。君聞之曰、吾大者不能行其道、又不能從其言也。使飢餓於我土地、吾恥之。周之、亦可受也。免死而已矣。

陳子曰く、「古の君子は何如なれば則ち仕うる。」孟子曰く、「就く所は三、去る所は三。之を迎うるに敬を致して、以て禮有り、言、將に其の言を行わんとすれば、則ち之に就く。禮貌未だ衰えざるも、言行われざれば、則ち之を去る。其の次は、未だ其の言を行わずと雖も、之を迎うるに敬を致して、以て禮有れば、則ち之に就く。禮貌衰うれば、則ち之を去る。其の下は、朝に食わず、夕に食わず、飢餓して門戶を出づること能わず。君之を聞きて曰く、『吾大にしては其の道を行うこと能わず、又其の言に從うこと能わざるなり。我が土地に飢餓せしむるは、吾之を恥づ。』之を周(すくう)わば、亦た受く可きなり。死を免るるのみ。」

<語釈>
○「免死而已矣」、この語句の解釈には諸説がある。朱注には、死を免るるのみは、則ち其の受くる所も亦た節有るを曰うなり、とある。顧炎武は、死を免るるのみは、則ち亦た久しからずして去る、故に去る所三つと曰う、と述べている。私は「就く所は三、去る所は三」の語句を重視して、顧炎武の説を採用する。

百七十五節

孟子は言った。
「舜は田野の間から身を起こし天子になり、傅說は城を築く人夫から挙用され、膠鬲は魚や塩の商売人から挙用され、管夷吾は獄官の手の内から取り立てられ、孫叔敖は海辺から取り立てられ、百里奚は市場から挙用された。これらによれば、天はその人に大きな任務を負わせようとするとき、必ず先づその精神を苦しめ、その筋骨を痛めつけ、その肉体は飢えさせ、その身を窮乏に陥らせ、行動はその意志に反するようにさせる。それは心を動かし発奮させ、忍耐強くさせ、出来ないことを増やして試練を与える為である。人という者は恒に間違いをおかすもので、間違ってはじめて改め、心に苦しみ思慮に心を塞がれ苦しんだ後に発奮し、その困苦が顔色や声に現れるほど苦しんだ後に心から悟るものだ。国家でも同じことで、国内には法度を守る譜代の臣や君主を補佐する臣がおらず、国外には対抗する国や他国からの圧力が無かったら、国は必ず滅亡する。こうしてみると、個人も国家も同じで、うれいや悩みがあってこそ生き抜くことができ、安楽の中では死ぬことが分かる。」

孟子曰、舜發於畎畝之中、傅說舉於版築之閒、膠鬲舉於魚鹽之中、管夷吾舉於士、孫叔敖舉於海、百里奚舉於市。故天將降大任於是人也、必先苦其心志、勞其筋骨、餓其體膚、空乏其身、行拂亂其所為。所以動心忍性、曾益其所不能。人恒過、然後能改、困於心、衡於慮、而後作、徴於色、發於聲、而後喻。入則無法家拂士、出則無敵國外患者、國恒亡。然後知生於憂患、而死於安樂也。

孟子曰:「舜は畎畝の中より發り、傅說は版築の閒より舉げられ、膠鬲は魚鹽の中より舉げられ、管夷吾は士より舉げられ、孫叔敖は海より舉げられ、百里奚は市より舉げらる。故に天の將に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を勞せしめ、其の體膚を餓えしめ、其の身を空乏にし、行うこと其の為さんとする所に拂亂せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむる所以なり。人恒に過ちて、然る後に能く改め、心に困しみ、慮に衡わって、而る後に作り、色に徴れ、聲に發して、而る後に喻る。入りては則ち法家拂士無く、出でては則ち敵國外患無き者は、國恒に亡ぶ。然る後に憂患に生じて、安樂に死することを知るなり。」

<語釈>
○「舜發於畎畝之中~百里奚舉於市」、これらの語句は服部宇之吉氏の解説が分かりやすいので、それを紹介する、「發は與すなり、舉げらるること、畎畝は田畠なり、舜初め歷山に耕し、三十にして徴さる、傅說は殷人、人夫となりて城壁を築く、版は土を夾む工事なり、武丁之を用いて相とす、殷の膠鬲は紂の亂を避けて魚鹽を賣る、後文王に舉げらる、管夷吾(管仲)は魯より囚われて齊に送られ、獄官(士)の中より桓公に擢引せられ、孫叔敖は海濱に居りしが、楚荘王に舉げられて令尹となり、虞人百里奚は市に隱れたるを、秦の穆公に舉げられたり」。○「空乏」、窮乏に同じ。○「拂亂」、そむき乱す。○「曾益其所不能」、「曾益」は「増益」に同じで、よく為すことのできないところを増やす意だが、それではおかしいので、今まで出来なかったことが出来るようになったと解釈するのが一般的であるが、この語句からそのように解釈するのも少し無理があるような気がする。そこで私はこの語句の意をそのまま受けて、出来ないことを増やして試練を与えるという意味に解釈する。○「衡」、趙注:「衡」は、「横」なり。○「入則無法家拂士」、趙注:入るは國内を謂うなり、法度大臣の家、輔拂の士無し。

<解説>
天はその人物に大任を果たさせようとしたとき、先ず艱難辛苦を与えて成長させる。その後大望が達成されるのだというこの節の孟子の主張は、幕末の志士たちに愛唱されたらしい。今の迫害や苦しみは待望を達成するために天が与えた試練であると心に刻んで邁進したのであろう。我々も苦しみや憂いがあっても、この孟子の主張に感化されて頑張ることが出来れば喜ばしいことである。

百七十六節

孟子は言った。
「教育も亦た多くの方法がある。私がどうしても教える気が無く断った者も、それを機に反省して、自ら学を修めて徳に進むようになれば、此の謝絶も教えの一つだと言えるだろう。」

孟子曰、教亦多術矣。予不屑之教誨也者、是亦教誨之而已矣。

孟子曰く、「教えも亦た術多し。予、之が教誨するを屑しとせざる者も、是れ亦た之を教誨するのみ。」

<語釈>
○「教誨」、「誨」も「教」の意、教え諭すこと。○「屑」、趙注:「屑」は「絜」なり。

<解説>
短い文章なので、やはり諸説があるようだ。朱注に、「其の人を以て潔しと為さずして、之を拒絶する、所謂不屑の教誨なり、其の人若し能く此に感じ、退きて自ら脩省すれば、則ち是れ亦た我之を教誨するなり。」とあり、之に基づき解釈した。