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『史記』李将軍列伝

2019-12-21 10:44:51 | 四書解読
李將軍廣は、隴西の成紀の人なり。其の先は李信と曰い、秦の時將為り。逐いて燕の太子丹を得たる者なり。故槐裏におり、成紀に徙る。廣家は世世射を受く。
孝文帝十四年、匈奴大いに蕭關に入る。而して廣、良家の子を以て軍に從い胡を撃つ。善く騎射を用い、殺首虜多く、漢の中郎と為る。廣の從弟李蔡も亦た郎と為り、皆武騎常侍と為り、秩八百石。嘗に狩猟に從い、陥に衝し關に折し猛獣を格すに及びて、(「有所衝陷折關及格猛獸」この句は難解である。戦場での行為と狩猟での行為との両説がある。『漢書』はこの部分を「數從射猟、格殺猛獣」に作る。これにより狩猟での行為と解し、「衝陷折關」は穴に落として仕留め、柵に追い込んで仕留める意に解す),文帝曰く、「惜乎、子、時に遇わず。如し子をして高帝の時に當らしめば、萬戶侯も豈に足ると道わんや。」孝景初めて立つに及ぶや、廣、隴西都尉と為り、徙りて騎郎將と為る。呉楚軍する時、廣、驍騎都尉と為り、太尉亞夫に從い、呉楚の軍を撃ち、旗を取り、功名を昌邑の下に顯す。梁王、廣に將軍の印を授くるを以て、還りて賞行われず(将軍の印を授けたのは漢朝が認めたものでないので恩賞がなかった)。徙りて上谷の太守と為り、匈奴と日々以て合戰す。典屬國(索隠:案ずるに、典屬國は、官名なり)の公孫昆邪、上の為に泣きて曰く、「李廣の才氣は、天下無雙にして、自ら其の能を負み、數々虜敵と戰う。之を亡わんことを恐る。」是に於て乃ち徙して上郡の太守と為す。後廣轉じて邊郡の太守と為り、上郡に徙る。
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『論語』学而第一

2019-12-14 10:43:32 | 四書解読
1
孔子言う、詩経や書経等の先人の教えを、常に繰り返し暗誦して学んでいれば、自然と理解が深まり、益々学ぶことを止めることが出来なくなる。これは誠に嬉しいことではないか。そうして学んでいれば、近くはもちろん、遠くからも道を同じくする人がやってきて、学んだことを共に語り合うようになる。これはなんと楽しいことではないか。このように学問をすると言うことは、己自身を向上させることであり、誠の喜びが得られるのであるから、世間から認められなくても全く気にかからないし怨む心も懐かない。このような道を楽しんで世間の評価を気にしない人こそ、成徳の高い君子というべき人ではないか。

子曰、學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。

子曰く、學びて時に之を習う、亦た說ばしからずや。朋遠方自り來たる有り、亦た樂しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。

<語釈>
○「子」、集解:馬融曰く、子は、男子の通称、孔子を謂うなり。○「學而時習之」、集解:王粛曰く、時・學ぶは、時を以て誦習するなり、誦習するに時を以てせば、學ぶこと廢業する無し。○「不亦說乎」、朱注:既に學びて又時時之を習わば、則ち學ぶ所は熟して、中心喜説し、其の進むこと自ら已むること能わず。○「朋」、集解:包咸曰く、同門を朋と曰う。朱注:朋は、同類なり。ここでは同門も含めて学ぶべき道を同じくする人。○「慍」、朱注:慍は、怒意を含む。これから“うらむ”と訓ず。○「君子」、朱注:君子は、成徳の意。尹氏曰く、學は己に在り、知る知らずは人に在り、何ぞ慍むこと之れ有らん。

<解説>
この章を首篇としたことについて朱注は、「此れ書の首篇為り、故に記す所本に務むるの意多し、乃ち道に入るの門、徳を積むの基、學者の先づ務なり、凡そ十六章。」と述べている。論語は学に始まりに学に終わると言われるように学問を勧める書でもある。その首篇にふさわしく、学問の根本について三段階に分けて述べられている。第一段階は、学問というものは絵空事を学ぶのではなく、先人の教えを繰り返し学んで身につけることから始まると言っている。第二段階は、同学の志を持つ者と共に語り合い、さらに道を深めていき、周囲に影響を及ぼしていくことの重要性が述べられている。第三段階は、学問は己の為にするものであって、人から認められたり、地位を得たりするのは人との関わり合いによるものなので、得られないからと言って怨むことではない、『論語』三百七十篇でも、「我を知る者は其れ天か。」と述べられている。

2
弟子の有子が言う、父母には孝行をつくし、兄には従順な人柄で、目上の人に好んで逆らう者は滅多にいない。目上の人にたてつくことを好まない人柄で、反逆して争うことを好む者は、未だ嘗ていない。君子は何事においても根本に力を注ぐ。根本が確立すれば道は自然に生じるのであって、この孝弟というものは仁を行う根本である。

有子曰、其為人也、孝弟而好犯上者鮮矣。不好犯上而好作亂者、未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者、其為仁之本與。

有子曰く、其の人と為りや、孝弟にして上を犯すことを好む者は鮮し。上を犯すを好まずして亂を作すを好む者は、未だ之れ有らざるなり。君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か。

<語釈>
○「有子」、朱注:有子は孔子の弟子、名は若、善く父母に事え、孝を為し、善く兄長に事え、弟を為す。○「作亂者」、朱注:「作亂」は、則ち悖亂争闘の事を為す、此れ人能く孝弟ならば、則ち其の心和順にして、上を犯すを好むこと少なく、必ず亂を作すを好まざるを言うなり。

<解説>
孔子の生まれた春秋時代は、乱臣賊子が輩出しどこの国も大いに乱れていた。国の乱れは秩序の乱れによるもので、その秩序の乱れは人として最も大切にしなければならない秩序、乃ち父母には孝行、兄には従順という秩序が乱れているからで、此の秩序を正すことによって国も正しく治まると孔子は説くのである。この孝弟を正しく守り行うことが仁の根本であり、孔子の思想の根幹をなす仁の重要性を説いている。

3
孔子言う、言葉を巧みにし、愛想のよい顔つきをして取り入ろうとする人には、仁愛の心がないものだ。

子曰、巧言令色、鮮矣仁。

子曰く、巧言令色、鮮し仁。

<語釈>
○「巧言令色」、集解:包咸曰く、巧言は、其の言語を好む、令色は、その顔色を善くし、皆人をして之を説ばしめんと欲す。

<解説>
この句は、『論語』の中でももっともよく知られた言葉であろう。孔子は巧言令色の人物をもっとも忌み嫌っている。此の事については『論語』の各所に見られることで、この短い文章の中に孔子の強い意志が見られる。又程子が、「巧言令色の仁に非ざるを知らば、則ち仁を知る。」と述べているように、外見に捉われることを誡めた節である。

『孫子』巻第十三用間篇 最終回

2019-12-08 12:13:45 | 四書解読
『孫子』はこの篇を以て最終回となります。次は『呉子』を解読します。

巻十三 用閒篇

孫子言う。およそ十万と謂う大軍を編成し、千里の彼方へ遠征すれば、人民や政府が負担する費用は日に千金に及び、国の内外は騒然となり、民は食糧の輸送などにこき使われ路上に疲れ果てて倒れ伏し、本業の農事に手が回らない者が七十万人に達する。こうして数年にわたって国を守りながら、最後の決着は一日で終わる。それにもかかわらず、間者に官位・俸給・百金を与えることを惜しんで、間者によって敵の実情を知ろうとしないのは、不仁の極みであり、多くの人を率いる将軍にふさわしくなく、君主を補佐する者としてもふさわしくなく、勝敗を左右する者としてもふさわしくない。そのような訳で、賢明な君主や将軍が軍を動かせば敵に勝ち、功を成せば人に抜きんでている理由は、人より先に予め敵の実情を知ることにある。予め敵の実情を知るのは、鬼神に祈って知り得るのではなく、亀卜や筮竹により類するものから知り得るのではなく、数字にして知り得るものではない。必ず人を使って敵の実情を知るのである。だから間者を用いるのであって、それには、郷閒・內閒・反閒・死閒・生閒の五つがある。この五間は同時に任用されるが、それぞれの間者は他の間者がどのようにして敵情を探っているかは知らない。それは主君だけが知っている神妙な綱紀であり君主の宝である。郷間とは敵国の村人を利用して情報を得るものであり、内間とは敵国の役人を利用して情報を得るものであり、反間とは敵の間者を利用して情報を得るものであり、死間とは、偽りの情報を流し我が方の間者を敵のもとへやり、偽りの情報を告げさせる。それがばれた時は殺される。このように命を懸けた間者のことである。生間とは、無事に帰国して敵の情報を報告する間者の事である。だから国の軍事に於いて間者は最も身近な存在であり、最も厚い恩賞を与えられる者であり、軍事上の秘密に最も関与しているも者である。これほどに軍事上の要を為す間者は、それを使う君主や将軍も非常に優れた智恵が無ければ用いることはできないし、仁義に篤くなければ使いこなすこともできないし、精微の心で対応しなければ真実の情報を得ることはできない。微細な事よ、微細な事よ、どんな微細な事も間者を用いないことはない。それ故に間者によりもたらされた情報に基づいて謀を立て実行するのであるが、実行する前にそれを言いふらす者があれば、その者と間者とは殺す必要がある。およそ敵を撃ち、城を攻め、敵将を殺そうとするなら、守っている将軍、その左右に仕えている者、取次ぎ役の者、門番、食客などの姓名を知ることが必要であり、その為に間者を送り込んで先づそれを探らせるのが大事である。他方我が軍に潜入して探っている敵の間者がいれば、種々の利益を与え導いて長く留まらせて、これを反閒として利用する。そしてこの反閒によって利用できる敵の村人や役人を求めて郷間・内間として働かせる。この反閒によって偽の情報を流す死閒を敵の内部に送り込む。この反閒によって戻ってきて報告する生間は期日を守ることが出来る。この五つの間者の働きについては、君主は必ず把握しており、それは必ず反閒によりもたらされているのである。だから反閒は厚遇しなければいけない。昔、殷の湯王が国を興したとき、夏の国に住んでいた伊尹の働きがあった。周の武王が殷を滅ぼしたときは、殷に住んでいた呂尚の働きがあった。このように賢明な君主や将軍のみが優れた智恵を持つ者を間者に仕立てることができ、大きな成果を遂げることが出来る。間者は軍事の要であり、全軍が頼みとして動く所のものである。

孫子曰、凡興師十萬、出征千里、百姓之費、公家之奉、日費千金、內外騷動、怠于道路、不得操事者、七十萬家、相守數年、以爭一日之勝。而愛爵祿百金、不知敵之情者、不仁之至也、之將也、非主之佐也、非勝之主也。故明君賢將、所以動而勝人、成功出于衆者、先知也。先知者、不可取于鬼神、不可象于事、不可驗于度。必取于人、知敵之情者也。故用閒有五。有郷閒、有内閒、有反閒、有死閒、有生閒。五閒俱起、莫知其道。是謂神紀。人君之寶也。郷閒者、因其鄉人而用之。内閒者、因其官人而用之。反閒者、因其敵閒而用之。死閒者、為誑事于外、令吾閒知之、而傳于敵。生閒者、反報也。故三軍之事、莫親于閒、賞莫厚于閒、事莫密于閒。非聖智不能用閒、非仁義不能使閒、非微妙不能得閒之實。微哉、微哉、無所不用閒也。閒事未發而先聞者、閒與所告者皆死。凡軍之所欲撃、城之所欲攻、人之所欲殺、必先知其守將左右謁者門者舍人之姓名、令吾閒必索知之。必索敵人之閒來閒我者、因而利之、導而舍之。故反閒可得而用也。因是而知之。故鄉閒內閒可得而使也。因是而知之。故死閒為誑事、可使告敵。因是而知之。故生閒可使如期。五閒之事、主必知之。知之必在于反閒。故反閒不可不厚也。昔殷之興也、伊摯在夏。周之興也、呂牙在殷。故惟明君賢將、能以上智為閒者、必成大功。此兵之要、三軍之所恃而動也。

孫子曰く、「凡そ師を興すこと十萬、出征すること千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費やし、內外騷動し、道路に怠りて(注1)、事を操るを得ざる者、七十萬家、相守ること數年にして、以て一日の勝ちを爭う。而して爵祿百金を愛しみて、敵の情を知らざるは、不仁の至りなり(注2)、人の將に非ず、主の佐に非ず、勝の主に非ざるなり。故に明君賢將の、動きて人に勝ち、成功衆より出づる所以は、先知なり。先知は、鬼神に取る可からず、事に象る可からず(注3)、度に驗す可からず(注4)。必ず人に取りて、敵の情を知る者なり。故に閒を用うるに五有り。郷閒有り(注5)、内閒有り、反閒有り、死閒有り、生閒有り。五閒俱に起こりて、其の道を知ること莫し(注6、)。是を神紀と謂う。人君の寶なり。郷閒とは、其の鄉人に因りて之を用う。内閒とは、其の官人に因りて之を用う。反閒とは、其の敵の閒に因りて之を用う。死閒とは、誑事を外に為し,吾が閒をして之を知らしめて、敵に傳うるなり(注7)。生閒とは、反りて報ずるなり。故に三軍の事、閒より親しきは莫く、賞は閒より厚きは莫く、事は閒より密なるは莫し。聖智に非ざれば閒を用うる能わず、仁義に非ざれば閒を使う能わず、微妙に非ざれば閒の實を得る能わず(注8)。微なるかな、微なるかな、閒を用いざる所無し。閒事未だ發せずして先づ聞ゆれば、閒と告ぐる所の者とは皆死す(注9)。凡そ軍の撃たんと欲する所、城の攻めんと欲する所、人の殺さんと欲する所、必ず先づ其の守將・左右・謁者・門者・舍人の姓名を知るに、吾が閒をして必ず之を索め知らしむ。必ず敵人の閒來りて我を閒する者を索め、因りて之を利し、導きて之を舍す。故に反閒は得て用う可きなり(注10)。是に因りて之を知る(注11)。故に鄉閒內閒は得て使う可きなり。是に因りて之を知る。故に死閒は誑事を為し、敵に告げしむ可し。是に因りて之を知る。故に生閒は期の如くならしむ可し。五閒の事、主必ず之を知る。之を知るは必ず反閒に在り。故に反閒は厚くせざる可からざるなり。昔殷の興るや、伊摯、夏に在り。周の興るや、呂牙、殷に在り。故に惟だ明君賢將のみ、能く上智を以て閒と為す者にして、必ず大功を成す。此れ兵の要にして、三軍の恃みて動く所なり。

<語釈>
○注1、十注:梅堯臣曰く、糧を輸り用を供し、公私煩役にして、道路に疲る。○注2、十注:李筌曰く、爵賞を惜しみ間諜に與え、敵の動静を窺わしめざるは、是れ不仁の至りを為すなり。○注3、十注:梅堯臣曰く、卜筮を以て知る可からず、象類を以て求む可からず。○注4、十注:李筌曰く、度は數なり、夫れ長短。闊狭・遠近・小大は、即ち之を度數に驗す可し、人の情偽は度りて知る能わず。○注5、「郷閒」は原文では「因閒」に作るが、十注:張預曰く、因閒は、當に郷閒に為るべし、故に下文に云う、郷閒は得て使う可し、と。これにより次の「因閒」も含めて「郷閒」に改める。○注6、十注:曹公曰く、同時に五閒を任用するなり。「莫知其道」の主語を何にするかにより諸説がる。任用された間者、敵人、一般的な人、間者同士などである。私は文の流れから、間者同士に解釈する。○注7、十注:杜佑曰く、誑詐の事を外に作し、佯りて之を漏泄し、吾が閒をして之を知らしむ、吾が閒敵中に至り、敵の得る所を為すに必ず誑事を以て敵に輸す、敵從いて之に備え、吾が行く所然らざれば、閒は則ち死す。○注8、十注:張預曰く、閒は利害を以て來り告ぐ、須らく心を用うるに淵微精妙に、乃ち能く其の真偽を察すべし。○注9、十注:張預曰く、敵を閒いしの事、謀定まりて未だ發せず、忽ち聞く者有りて來り告ぐれば、必ず閒と俱に之を殺す、一は其の泄るるを惡み、一は其の口を減らす。○注10、十注:張預曰く、敵閒の來り我を窺う者を求め、因りて厚利を以て誘導し、之を館舎し、反って我が閒と為すなり。○注11、「是」は何を指すか、「之」は何を指すかは、諸説のある所だが、私は「是」は反閒、「之」は敵情と解釈する。

<解説>
題意について張預は云う、「素より敵情を知らんと欲するは、閒に非ざれば不可なり、然るに閒を用うるの道は、尤も須らく微密にすべし、故に火攻に次す。」
王晳は云う、「未だ敵情を知らざるや、動く可からず。」又地形篇に云う、「彼を知り己を知れば、勝乃ち殆うからず」と。およそ戦いというものは、先づ敵を知ることである。その為には間者を活用することが最も大切な事であり兵の要である。しかし実際には敵を知っただけで敵に勝つことはできない、そこでこれまで述べられてきた計篇・作戦篇など各篇を学ぶことが大切になってくる。乃ち孫子の教えは用閒篇十三を以て終わるのではなく、各篇を繰り返し学ぶことであり、攻めるだけが戦いではないと言うことである。李筌曰く、「孫子、兵を論ずるに、計に始まり、閒に終ふるは、蓋し攻を以て主と為さず、将為る者は之を慎まざる可きや。」

『論語』解読スタート 解説

2019-12-01 10:50:22 | 四書解読
論語解説
一 『論語』とは

『論語』は、孔子の言葉、弟子との問答、弟子同士の問答などを、孔子の没後、弟子たちの手により編纂されたものである。このことについて『漢書』藝文志に、「論語者、孔子應答弟子時人、及弟子相與言、而接聞於夫子之語也。當時弟子各有所記。夫子既卒、門人相與輯而論篹。故謂之論語。」(論語とは、孔子、弟子時人に應答し、及び弟子相與に言いて、夫子に接聞せしの語なり。當時弟子各々記する所有り。夫子既に卒して、門人相與に輯めて論篹す。故に之を論語と謂う。)とあり、いろんな形で孔子の思想が述べられている書物である。それでは具体的に誰が『論語』を編纂したのかという問題は、古来より多くの人により研究されてきているが定説とされるものはない。
『論語』は、漢文大系に掲載されている服部宇之吉氏の解題に、「此の書漢初に三種有り、即ち齊・魯及び古是れなり。齊論語は齊人の傳えしもの、魯論語は魯人の傳えしものにて、古論語は孔子の舊宅の壁中より出でし古文なり、古論語は孔安國之が訓解を為りしが、世に傳わらず、齊・魯二論語は各其傳有りて、漢代には之を治めたる学者少なからざりき。古・齊二論語は早く亡びて魯論語獨り今に傳わる。」とある。
聖人の中の聖人として位置づけられてきた孔子を理解する上に於いて『論語』以上の書物はなく、古来より多くの人に読み継がれてきた名著である。

二 孔子について

孔子については、『史記』の孔子世家が一番詳しい。できれば私のホ―ムページにアクセス(http://gongsunlong.web.fc2.com/)『史記』世家の孔子世家を読んでいただくのが一番良いのであるが、一応簡単にに紹介しておく。
孔子は魯の昌平郷の陬邑に生まれ、名は丘、字は仲尼、姓は孔氏という。魯の襄公二十二年(前551年)に生まれた。襄公二十一年(前550年)とする説もある。七十三歳にして、魯の哀公十六年(前479年)に亡くなった。
孔子の青春時代は、魯の国政を季孫子・孟孫氏・叔孫氏の所謂三桓氏が恣にし、君主の権威が著しく損なわれた時代であった。この背景が孔子の思想に大きな影響を与えたと思う。壮年時代には政治家として魯の国政に携わったが、結局三桓氏の壁を討ち破ることが出来なかった。己の思想を実現させるために、弟子を連れて13年間、諸国を遊説して歩いたが、遂に用いられることなく魯に戻り、晩年は弟子の育成に務めた。門人は三千人ともいわれ、その中で特に六芸に秀でた者が七十二人いたと言われている。この七十二人については、『史記』の仲尼弟子列伝に述べられている。更に詩・書・春秋等の古典を整理し、今に伝わる儒学の基礎を築き上げた。

三 注釈本

『論語』は中国でもわが国でも、多くの人に読み継がれてきた書物である。その為先人による多くの注釈本が存在し、それらすべてを舉げることは不可能である。そこで主だったものだけを紹介しておく。
○「論語集解十巻」 248年、魏の何晏らの編集による。漢代の孔安国・包咸・周氏・馬融・鄭玄、魏では陳羣・王粛・周生烈の八家の説の善なるものを選びて之を取り、異論のある所は、自分らの解釈を施した。現在完全な姿で伝わっている注釈書としては最古のものである。
○「論語義疏十巻」 545年、梁の皇侃(オウ・ガン)の編集による。何晏の「論語集解」を本とし、晉の衛瓘等十三家の説を參取した。この書は北宋頃までは存在したらしいが、その後亡びた。しかし幸いにもわが国では早くから伝わっており、室町時代の写本が保存されていた。これにより我が国でも中国でもこの書を読むことが出来るのである。
○「論語正義二十巻」 999年、北宋の邢昞(ケイ・ヘイ、「昞」の本字は「日」が上につく)等の編集による。「論語集解」・「論語義疏」を修正し、一段と詳細な注釈書を作り上げた。
○「論語集注十巻」 南宋の朱熹の著である。前の三注が古注と呼ばれるのに対し、これは新注と呼ばれる。これは論語の注釈のなかでも、最も有名なもので多くの人に影響を与えた書である。
次いで我が国における注釈本である。
○「論語古義十巻」 江戸時代の大儒伊藤仁斎の著である。朱注に捉われず、古注を尊重した。
○「論語徴十巻」 伊藤仁斎より四十年ほど後の大儒荻生徂徠の著である。同じく古注を尊重している。
○「論語集説六巻」 幕末の大儒安井息軒の著である。古注を本としながら、朱注や伊藤仁斎、荻生徂徠を交え取ったもので、論語の注釈本としては非常に価値の高いものである。

四 テキスト本と解読に当たって
今回解読に使用した底本は、影璜川呉氏仿宋刊本の論語集注(朱熹)で、参考書は安井息軒の「論語集説」である。「論語集説」では古注が紹介されているので、それと朱注と息軒の見解などを参考にしながら、私見を交えて解読していきたいと思う。私は常々、論語の訳本や、論語から学ぶといった式の本を目にして思うのは、孔子は本当にそこまでの意味を込めて述べているのか、という疑問である。そのことから、解読の基本的な姿勢として、原文を重視し、拡大解釈は極力排して読んでみたいと思っている。どの程度其の試みがなし得るかは分からないが、その内容の稚拙さに対しては寛大な心でもってお許し下さることを切望しております。