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『大学』第一節第二章

2012-07-12 16:12:17 | 日記
古の至徳を身につけて、それを天下に明らかにしようとした聖王達は、それに先立ってその国を安らかに治めた。国を安らかに治めようとする者は、それに先立って家の中を秩序正しくよく整えた。家の中を秩序正しく整えようとする者は、それに先立って我が身を善良に修めた。我が身を善良に修めようとする者は、それに先立って心を正しくする。その心を正しくしようとする者は、それに先立ってその心を誠実にした。その心を誠実にしようとする者は、それに先立って事の善悪吉凶を識別した。その善悪吉凶を識別するには、それを判断できるように、知を極めて正しく明晰にすることである。このように知が極めて明晰になってこそ、事を正しく判断できるようになる。事を正しく判断できるようになってこそ、思いが誠実になる。重いが誠実になってこそ、心が正しくなる。心が正しくなってこそ、身が善良に修まる。身が善良に修まってこそ、家の中が秩序正しくよく整う。家の中が秩序正しくよく整ってこそ、国は安らかに治まる。国が安らかに治まってこそ、天下は平和になるのである。だからこそ天子から庶民に至るまで、人は皆身を善良に修めることが根本なのである。その根本が乱れて、末である天下・国・家が治まると言う事はない。本来厚いはずの所が薄くて、薄いはずの所が厚いという矛盾したことはありえないからである。このように身を善良に修めるという根本があってこそ、家・国・天下が治まるということを知るのが、本を知ると謂うことであり、そうなってこそ、知が極めて正しく明晰になったと謂えるのである。

古之欲明明於天下者、先治其國。欲治其國者、先齊其家。欲齊其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。物格而后知至。知至而后意誠。意誠而后心正。心正而后身修。身修而后家齊。家齊而后國治。國治而后天下平。自天子以至於庶人、壹是皆以修身為本。其本亂而末治者否矣。其所厚者薄、而其所薄者、厚未之有也。此謂知本、此謂知之至也。

古の明を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の國を治む。其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊(ととのう)う。其の家を齊えんと欲する者は、先に其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しくす。其の心を正しくせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。知を致すは物を格(きたす)すに在り。物格りて而して后に知至る。知至りて而して后に意誠なり。意誠にして而して后に心正し。心正くして而して后に身修まる。身修まりて而して后に家齊う。家齊いて而して后に國治まる。國治りて而して后に天下平ぐ。天子自り以て庶人に至るまで、壹に是に皆以て身を修むるを本と為す。其の本亂れて而して末治まる者は否(あらず)ず。其の厚くする所の者は薄くして、而して其の薄くする所の者、厚きは未だ之有らざるなり。此れを本を知ると謂う。此れを知の至ると謂うなり。

<語釈>
○「明明於天下」、明徳は前節で述べた通りである。それを天下に明らかにするとは、学びて至徳を身につけて天下に明らかにすること。○「齊」、家の中を秩序正しく整えること。○「致其知」、知は鄭注に、「知は善悪吉凶の終始する所を知るを謂うなり。」とある。致は善悪吉凶を識別すること○「格物」、格については多くの説があるが、主なものは、鄭玄の「来たす」、朱子の「至る」、王陽明の「正す」である。ここでは鄭玄の説に従う。鄭玄曰く、「格は来すなり。物は猶ほ事の如きなり。其の知、善に於いて深ければ、則ち善物を来たし、其の知、悪に於いて深ければ、則ち悪物を来たす。事は人の好む所に縁りて来るを言うなり。」

<解説>
第一節に於いて大学の道は、明徳を章明し、それを章顕することである、と明言し、明徳を章明して身につけるには、何が大事であるかを述べている。そしてこの第二節では、それを天下に章顕するには国を安らかに治めることであるが、それには先ず家を秩序正しく治めなければならず、その為には我が身を善良に修めなければならないと述べている。是を以て本来国家を修めるための学問である儒教が、人、個人をも対象にした学問へとなり得る所以であり、ここにこそ儒教の本質があるように思えるのである。真に是を以て朱子をして大学を学べば、儒教の全てがわかるとまで言わしめたのではなかろうか。
朱子はこの第一章の第一節と第二節を大学の経とし、後は曽子がつけた伝であるとしている。これについての是非は別にしても、第一節で大学の道を説き、第二節でそれを身に修めるについて述べており、この第一章は『大学』の綱領的役割を果たしていることは確かである。

『大学』第一章第一節

2012-07-02 17:56:44 | 日記
『大学』第一章第一節

大学の道は明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り。止まるを知りて后に定まる有り。定まりて后に能く静か。静かにして后に能く安し。安くして后に能く慮る。慮りて后に能く得。物に本末有り。事に終始有り。先後する所を知れば、則ち道に近し。

大学之道在明明徳。在親民。在止於至善。知止而后有定。定而后能静。静而后能安。安而后能慮。慮而后能得。物有本末。事有終始、知所先後。則近道矣

<通尺>
大学の道は光明の至徳を身につけて、それにより民を治め、その至徳を天下に明らかにし、人民を教化することである。その為には民を親愛し、至善の極みに自ずから達することを目指して行動することである。そして至善の極みに達して変わらず行うべき事を知ってこそ、至善に向う人の志は一定することになる。志が一定してこそ、内外の誘惑に動かされること無く、至善に集中して心が静かになる。心が静かになってこそ、心は安らかに、のびやかになり、ゆとりを持って物事に対処できる。心がそのように安らかになってこそ、物事に対して熟慮して正しい判断を下せる。そうなると如何なる局面に立っても、最も適切な処理をすることが出来るようになる。大体に於いて、物事には根本的なことと、そうでない事の重要度、どちらを先にしなければならないか、と言う優先順位があるもので、それを正しく知って、明徳を明らかにし、民に親しみ、至善に止まって、処理することが出来れば、ほとんど道を修得したことになるのである。

<語釈>
○「大学之道在明明徳」、「大学之道」について正義の疏は、「大学の道は、己の光明の徳を章明するに在り。身に明徳を有ちて、更に之を章顕するを謂う。」と述べている。「明」は至徳を身につけて民を化することによって明らかにすると云う意味である。「明徳」は至徳のこと。因って大学の道は光明の至徳を博く身につけて政を行うと云うこと。○「在親民」、民を治めんとする者は、民を親愛しなければならない。○「在止於至善」、「止」は鄭注に、「止は自ら處るがごときなり。」とあり、至善の極みに止まりて遷らず、民を化すこと。○「定」、至善への志が一定すること。○「静」、心が集中して妄りに心を動かされないこと。○「安」、心が安らかでゆとりのある状態を言う。○「慮」、熟慮して正しい判断を降せること。○「慮而后能得」、「得」は鄭注に「得は事の宜しきを得るを謂うなり。」とあり、物事に対して最も適切に処理することが出来ることを謂う。

<解説>
大学について、鄭玄は、「大学とは、其の博く学んで、以て政を為む可きを以てなり。」と、乃ち治民為政の道を教えることであるとしている。そして、明明徳、在親民、在止於至善の、この三事が大学の綱領である。儒教の教えは古の聖人の至徳を身につけて、民を治めることにある。中国は家族主義の国であり、君は父であり、民は子である。故に民を治める道は、家族における父の子に対する道でもあり、結局全てに通ずる道なのであり、人が修めるべきものである。

『大学』を読む 1、『大学』解題

2012-06-25 18:27:10 | 日記
1、『大学』解題


大学は、論語・孟子・中庸と並んで四書の一つである。四書と言えば、五経と共によく称せられ、其の中身は知らなくとも、我等日本人も四書五経として江戸時代より親しんできた言葉である。四書は五経の如く昔から有るのでない。五経は、詩・書・礼・易・春秋の五経であり、大学、中庸は礼記の中の一篇として扱われていた。五経は承知の如く儒教に於いて最も基本的な経書である。漢の建国当初、儒教は未だ重んぜらる事無く、道家的思想の方が一般的であったが、世の中が落ち着くに従い、今まで隠されていた書物が世に現れ、学問の風潮が興り、次第に儒教も盛んになり、武帝の時代に董仲舒が現れ、彼に傾倒した武帝は初めて五経博士をおき、儒教を以て唯一の国家公認の学問とした。以来、多くの解釈研究がなされたが、特に漢の宣帝の甘露五年(前五十一年)、学者を石渠閣に集めて五経の異同を討論させ、更に成帝の河平三年(前二十六年)に大々的に古典の収集・整理が行われ、唐の太宗の時、孔穎達等に命じて撰せしめて完成したのが『五経正義』であり、以後の古典解釈の根本となった。此くして礼記の一篇として大学も学ばれてきたのであるが、中庸と共に独立させ、論語・孟子と並べて四書としたのは、朱子が大学章句・論語集注・孟子集注・中庸章句を著し、一部の書として公にしたのが始まりである。論語・孟子は古来各別に単行されたことはあるが、大学・中庸は礼記中の篇として存在しており、大学は宋以前に別行されたものは無く、中庸は宋以前にあっては三四、別行の本があったに過ぎない。礼記は漢代に編集されたものである。古代より中国では、礼は社会特に国体にとって最も重視された規範であった。孔子の教えも礼を重視しており、根本則が三百、細則が三千あるとされていたが、漢帝国創建のときにはその内容は殆ど伝えられていなかった。前述の漢の宣帝が学者を石渠閣に集めた折に礼記の編集も行われた。特に戴徳、号して大戴が『大戴礼記』八十五篇を編集したが、現存するのは三十九篇のみである。次いで戴聖、号して小戴が『小戴礼記』四十九篇を編集した。これが現在伝えられている『礼記』であり、『大学』はその第四十二篇に治められている。その大学を礼記より抜き出して、経に功有るものとして之を表彰して単行させたのは、司馬光の大学廣義が始めてであり、二程子に至りて、大学・中庸の二篇を更に精詳し、朱子に至りて、遂に旧説に従わず、自ら章句を作り、論語・孟子と合わせて別行させ、四書として確定させ、儒教の根本理念として、五経よりも上に置いたのである。朱子は其の中でも大学を非常に重視し、大学を学べば、儒教の全てがわかるとまで述べている。
大学の解説、解釈については、古来より現在に至るまで多くの研究がなされてきたが、基本的には先に述べた孔穎達等が作った五経正義の中の礼記正義であろう。これは鄭玄の注を元に、孔穎達等が疏を作ったものである。それと朱子の大学章句である。ここでは鄭玄の説を中心にした礼記正義に基づいて読んで行きたいと思う。当然その後の研究により、礼記正義の間違いも多々指摘されているが、全ての研究成果を網羅して解説するには、私の力量不足もあり、又思想史は専門外でもあるので、敢て正義中心で解説していきたい。