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『孟子』巻第六藤文公章句下 六十節

2017-07-29 09:59:53 | 四書解読
六十節
弟子の公都子が孟子に言った。
「人は皆、先生は議論好きだと申しております。そこで敢てお尋ねしたいのですが、どうしてでございましょうか。」
孟子は言った。
「私がどうして議論好きなことがあろうか。ただ今の世の中ではしかたがないことなのだ。この世に人間が生まれて久しいが、これまで治世と乱世を繰り返してきた。堯の時代の時、川の水が逆行して、国中が氾濫し、蛇や龍が横行して、人民は安住の地が無く、低地に住む者は木の上に鳥のように巣を作って住み、高台に住む者は崖に穴を掘って住むというありさまだった。『書経』に、『洚水、余を警む。』とあるが、洚水とは洪水のことである。そこで堯は禹に命じてこの洪水を治めさせた。禹は土を堀って水道を造り、水を海に流し、蛇や龍を駆り立てて、草の生えた沢地に追い払い、川は切り通しをきちんと流れるようにした。それが今の揚子江・淮水・黄河・漢水である。水は遠く引いて氾濫は治まり、人を害する鳥獣もいなくなり、はじめて人々は平地に住むことが出来るようになったのである。だが堯・舜が没してしまうと、次第に聖人の道は衰え、暴君が次々と現れて、民の住居を壊して池を造り、民から安らぎの場を奪い、田畑をつぶして君主の為の花園や猟場にしたので、人民は衣食にこと欠くありさまとなり、よこしまな説や乱暴な行為が発生した。しかも花園・猟場・池・草地・湿地帯が増えて、禽獣が再び人家に近づいてくるようになった。それが紂王の時代になると天下は更に乱れた。そこで周公は武王を助けて紂王を誅殺し、更に紂王を助けていた奄国を伐ち、三年後にその君主を滅ぼし、紂王の寵臣であった飛廉を海際まで追いかけて殺し、更に滅ぼした無道の国は五十に及び、虎・豹・犀・象を駆り立てて遠くに追いやったので、天下の人民は大いに喜んだ。それを『書経』では、『大いに明らかなるかな文王の謀、大いに継承せる武王の功績。それらは我が子孫を助け導き、その正しさは欠ける所がないものである。』と述べている。ところが周王朝も次第に衰え、先王の道も正しく行われなくなり、よこしまな説や乱暴な行為が再び現れてきた。臣下でありながらその君主を殺す者や、子でありながらその父を殺す者が出てくるようになった。孔子はこのような無道の世の中を憂慮して、『春秋』を書かれた。この書は人の行為に対する倫理的批判を加え、善を称え惡を批判するものであったが、本来このような仕事は天子が為すべきことであるので、孔子は、『私の志を知る者はこの春秋だろう、又私を罰するのもこの春秋だろう。』と言われた。しかしその後も聖王は現れず、諸侯は天子をないがしろにしてわがまま勝手にふるまい、在野の士は無責任な議論を唱え、楊朱と墨翟の言説が天下に満ちあふれて、今や天下の人々は楊朱か墨翟かのどちらかに賛同するというありさまである。楊朱の説は自己中心の個人主義的な考えであるから、結局主君をないがしろにすることになる。墨翟の説は万人を平等に愛するという考えなので、結局は父を無視することになる。主君を無視し父を無視するのは、まさに禽獣の行いである。魯の賢人公明儀は、『調理場には肉があり、厩舎には立派な馬がいるのに、民は飢えに苦しむ様子が見え、野にはゆきだおれが転がっている。これではあたかも獣を引き連れて人を食わせているようなものだ。』と言っている。楊朱・墨翟の説が衰えなければ、孔子の正しい道は世に現れない。それはよこしまな説が人民を陥れて、仁義の道を塞いでいるからだ。仁義の道が塞がると、獣を引き連れて人を食わせるようなことになるし、更に人が互いに食い合うようになってこよう。私はそのようになることを恐れているので、昔の聖人の道を守り、楊朱・墨翟の説を退け、でたらめな説を追放して、邪説を唱えるような者が現れないようにしているのだ。だいたい邪な考えが心に起これば、必ず仕事そのものに害を及ぼすことになり、仕事が害われば、政治も害される。この私の考えは、たとえ聖人が現れても決して反対されないだろう。先に述べた通り、昔禹が洪水を治めたので、天下は平穏になり、周公が夷狄を併合し、猛獣を追い払ったので、人民は安心して暮らせるようになり、孔子が『春秋』を作ったので、国を乱すような臣下や親を殺すような子は恐れをなした。『詩経』には、『北や西のえびすは征伐し、南の荊や舒は懲らしめた。もはや我が国にはむかう者はいない。』とあり、周公を褒めたたえている。父を無視し君主を無視する者は、周公が討ち懲らしめたものである。私もまた人心を正し邪説を抑え、偏った行いを退け、人をたぶらかす言葉を追放して、禹・周公・孔子の志を受け継ぎたいと思っているのだ。どうして議論が好きなものか。已むを得ずにやっているのだ。正しい道を説いて楊朱と墨翟の邪説を退ける者は、聖人の仲間である。」

公都子曰、外人皆稱夫子好辯。敢問何也。孟子曰、予豈好辯哉。予不得已也。天下之生久矣。一治一亂。當堯之時、水逆行、氾濫於中國。蛇龍居之、民無所定。下者為巢、上者為營窟。書曰、洚水警余。洚水者、洪水也。使禹治之。禹掘地而注之海、驅蛇龍而放之菹。水由地中行。江淮河漢是也。險阻既遠、鳥獸之害人者消。然後人得平土而居之。堯舜既沒、聖人之道衰。暴君代作、壞宮室以為汙池、民無所安息。棄田以為園囿、使民不得衣食。邪說暴行又作、園囿汙池沛澤多而禽獸至。及紂之身、天下又大亂。周公相武王、誅紂伐奄、三年討其君。驅飛廉於海隅而戮之。滅國者五十。驅虎豹犀象而遠之。天下大悅。書曰、丕顯哉、文王謨。丕承哉、武王烈。佑啓我後人、咸以正無缺。世衰道微、邪說暴行有作。臣弒其君者有之。子弒其父者有之。孔子懼、作春秋。春秋天子之事也。是故孔子曰、知我者其惟春秋乎。罪我者其惟春秋乎。聖王不作、諸侯放恣。處士橫議、楊朱墨翟之言盈天下。天下之言、不歸楊、則歸墨。楊氏為我、是無君也。墨氏兼愛、是無父也。無父無君、是禽獸也。公明儀曰、庖有肥肉、廄有肥馬、民有飢色、野有餓莩。此率獸而食人也。楊墨之道不息、孔子之道不著。是邪說誣民、充塞仁義也。仁義充塞、則率獸食人。人將相食。吾為此懼。閑先聖之道、距楊墨、放淫辭、邪說者不得作。作於其心、害於其事。作於其事、害於其政。聖人復起、不易吾言矣。昔者禹抑洪水而天下平。周公兼夷狄驅猛獸而百姓寧。孔子成春秋而亂臣賊子懼。詩云、戎狄是膺、荊舒是懲。則莫我敢承。無父無君、是周公所膺也。我亦欲正人心、息邪說、距詖行、放淫辭、以承三聖者。豈好辯哉。予不得已也。能言距楊墨者、聖人之徒也。

公都子曰く、「外人皆、夫子辯を好むと稱す。敢て問う、何ぞや。」孟子曰く、「予豈に辯を好まんや。予已むを得ざればなり。天下の生は久し。一治一亂す。堯の時に當り、水逆行し、中國に氾濫す。蛇龍之に居り、民定まる所無し。下なる者は巢を為り、上なる者は營窟を為る。書に曰く、『洚水、余を警む。』洚水とは、洪水なり。禹をして之を治めしむ。禹、地を掘りて之を海に注ぎ、蛇龍を驅りて之を菹に放つ。水地中由り行く。江・淮・河・漢、是れなり。險阻既に遠く、鳥獸の人を害する者は消ゆ。然る後、人平土を得て之に居る。堯・舜既に没し、聖人の道衰う。暴君代々る作り、宮室を壊して以て汙池と為し、民安息する所無し。田を棄て以て園囿と為し、民をして衣食を得ざらしむ。邪說暴行又作る。園囿・汙池・沛澤多くして禽獸至る。紂の身に及び、天下又大いに亂る。周公、武王を相け、紂を誅し奄を伐ち、三年其の君を討ず。飛廉を海隅に驅りて之を戮す。國を滅ぼす者五十。虎・豹・犀・象を驅りて之を遠ざく。天下大いに悅ぶ。に曰く、『丕いに顯らかなるかな、文王の謨。丕いに承げるかな、武王の烈。我が後人を佑啓し、咸正を以て缺くること無からしむ。』世衰え道微にして、邪說暴行有(また)た作る。臣にして其の君を弒する者之れ有り。子にして其の父を弒する者之れ有り。孔子懼れて春秋を作る。春秋は天子の事なり。是の故に孔子曰く、『我を知る者は、其れ惟だ春秋か。我を罪する者も、其れ惟だ春秋か。』「聖王作らず、諸侯放恣す。處士橫議し、楊朱・墨翟の言、天下に盈つ。天下の言、楊に歸せずんば、則ち墨に歸す。楊氏は我が為にす。是れ君を無みするなり。墨氏は兼愛す。是れ父を無みするなり。父を無みし君を無みするは、是れ禽獸なり。公明儀曰く、『庖に肥肉有り。廄に肥馬有り。民に飢色有り。野に餓莩(ガ・ヒョウ)有り。此れ獸を率いて人を食ましむるなり。』楊墨の道息まざれば、孔子の道著われず。是れ邪說民を誣い、仁義を充塞すればなり。仁義充塞すれば、則ち獸を率いて人を食ましむ。人將に相食まんとす。吾、此が為に懼れ、先聖の道を閑り、楊墨を距ぎ、淫辭を放ち、邪說の者作るを得ざらしむ。其の心に作れば、其の事に害あり。其の事に作れば、其の政に害あり。聖人復た起こるも、吾が言を易えじ。昔者、禹、洪水を抑えて天下平らかなり。周公、夷狄を兼ね猛獸を驅りて、百姓寧し。孔子、春秋を成して、亂臣賊子懼る。詩に云う、『戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲らす。則ち我に敢て承ること莫し。』父を無みし君を無みするは、是れ周公の膺つ所なり。我も亦た人の心を正し、邪說を息め、詖(ヒ)行を距ぎ、淫辭を放ち、以て三聖者に承がんと欲す。豈に辯を好まんや。予、已むを得ざればなり。能く言いて楊墨を距ぐ者は、聖人の徒なり。」

<語釈>
○「公都子」、趙注:公都子は孟子の弟子なり。○「外人」、趙注:「外人」は他人なり。○「天下之生久」、服部宇之吉氏云う、「天下之生久」は、天下生民あること久しの義。○「下者為巢、上者為營窟」、「下」は低地、「上」は高地、「為營窟」は、諸説あるが、大体は崖に穴を掘ったという意味。○「書曰、洚水警余~」、この句は『書経』虞書大禹謨篇にあるが、趙注では、逸篇になっており、この篇は後の偽作とされている。○「菹」、趙注:「菹」(ショ)は、澤にして草の生ずる者なり。○「水由地中行」、朱注:地中は両涯の間なり。切り通しの事。○「險阻」、朱注:「險阻」は水の氾濫を謂うなり。○「書曰丕顯哉文王謨~」、『書経』周書の君牙篇にあるが、趙注では逸篇になっており、これも後の偽作である。趙注:「丕」は「大」、「顯」は「明」なり。「謨」は、はかりごと。「烈」は功績。「佑啓」は、助け導く意。○「處士橫議」、處士は在野の士、橫議は無責任な議論。○「庖」、調理場。○「公明儀曰、庖有肥肉、~」同じ文章が梁惠王章句上の四節にある。○「兼夷狄」、朱注:「兼」は之を幷すなり。夷狄を兼併した。○「詩云」、『詩経』魯頌悶宮篇。○「莫我敢承」、朱注:「承」は「當」なり。はむかう者はいないという意味。○「詖行」、「詖」は偏る、偏った行い。

<解説>
論じている内容は特に目新しいものはないが、ここで初めて孔子が『春秋』を作ったことが記されている。これは孔子が『春秋』を作ったことを明記した最古の資料である。その意味でこの節は貴重である。

『史記』項羽本紀

2017-07-22 10:56:54 | 四書解読
『史記』項羽本紀の解読ををホームページにアップしました。
項羽本紀

項籍は、下相の人なり、字は羽。初めて起ちし時、年二十四。其の季父は項梁、梁の父は即ち楚の將項燕にして、秦の將王翦の為に戮せらるる所の者なり。項氏は世世楚の將為りて、項に封ぜらる。故に項氏を姓とす。項籍少き時、書を學び成らず、去りて劍を學ぶ、又成らず。項梁之を怒る。籍曰く、「書は以て名姓を記するに足るのみ。劍は一人の敵なり、學ぶに足らず。萬人の敵を學ばん。」是に於て項梁乃ち籍に兵法を教う。,籍大いに喜ぶ。略其の意を知り、又肯て學ぶを竟えず。項梁嘗て櫟陽の逮有り(「逮」は及の義、連座で罪を受けた)。乃ち蘄の獄掾曹咎に書を請い、櫟陽の獄掾司馬欣に抵す(韋昭曰く、「抵」は「至」なり)。故を以て事已むを得たり。項梁、人を殺し、籍と與に仇を呉中に避く。吳中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦(責任者)と為り、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒(部分けして人を統制する)す。是を以て其の能を知る。秦の始皇帝、會稽に游び、浙江を渡る。梁、籍と俱に觀る。籍曰く、「彼取って代わる可きなり。」梁、其の口を掩いて曰く、「妄言すること毋かれ。族せられん。」梁、此を以て籍を奇とす。籍、長八尺餘、力は能く鼎を扛げ(韋昭曰く「扛」は「舉」なり)、才氣は人に過ぐ。呉中の子弟と雖も、皆已に籍を憚れり。

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『呂氏春秋』巻第七孟秋紀

2017-07-18 10:32:36 | 四書解読
巻七 孟秋紀

一 孟秋

一に曰く。孟秋の月。日は翼に在り、昏に斗中し、旦に畢中す(予備の二十八宿を参照)。其の日は庚辛、其の帝は少皞、其の神は蓐收(秋の神で、刑罰を司る)、其の蟲は毛、其の音は商、律は夷則に中る。其の數は九、其の味は辛、其の臭は腥、其の祀は門、祭るには肝を先にす。涼風至り、白露降り、寒蟬鳴き、鷹乃ち鳥を祭る(高注:是の月、鷹、鳥を大沢の中に摯殺し、四面に之を陳ぬ、世に之を鳥を祭ると謂う)。始めて刑戮を用いる。天子、總章(西の明堂)の左個に居り、戎路(戎輅に同じ、君公の乘る車)に乘り、白駱(白馬)を駕し、白旂を載て、白衣を衣、白玉を服び、麻と犬とを食らう。其の器は廉にして以て深し(高注:「廉」は「利」なり。角張った深い器)。是の月や、立秋なるを以て、立秋に先だつこと三日、大史、之を天子に謁げて曰く、「某日立秋なり、盛德は金に在り。」天子乃ち齋す。立秋の日、天子親ら三公九卿諸侯大夫を率いて以て秋を西郊に迎う。還りて、乃ち軍率(グン・スイ、軍帥に同じ、将軍)武人を朝に賞す。天子乃ち將帥に命じて、士を選び兵を厲ぎ、桀儁を簡練せしめ(高注:材、萬人に過ぐるを桀と曰い、千人に過ぐるを儁と曰う。「簡練」は、選び出し訓練すること)、專ら有功に任じ、以て不義を征し、暴慢を詰誅して、以て好惡を明らかにし、彼の遠方を巡る(畢沅云う、「巡」は『月令』『淮南』は「順」に作る。之に因り多くは「巡」を「順」に改めて読んでいるが、高注に、「巡」は「行」、「遠方」は天下なりとあるので原本通りにしておく)。是の月や、有司に命じて、法制を修め、囹圄(牢屋)を繕(おさめる)め、桎梏を具え、姦を禁止し、慎みて邪を罪し、搏執を務めしむ。理に命じ(高注:「理」は獄官なり)、傷を瞻て創を察し(『月令』の鄭注に云う、「創」の浅きを「傷」と曰うと、表面上の傷からより深い傷を調べる)、折を視て斷を審らかにし(骨折や切断の状態をよく見て明らかにさせる)、獄訟を決して(高注:罪を争うを獄と曰い、財を争うを訟と曰う)、必ず正平ならしむ。有罪を戮し、斷刑を嚴にす。天地始めて肅なり(「粛」は粛殺、冷たい秋の大気が草木をしぼませ枯らすこと)、以て贏(ゆるむ)む可からず。是の月や、農乃ち穀を升む(高注:「升」は「進」なり。献上の意)。天子、新(新穀物)を嘗め、先づ寢廟に薦む。百官に命じて、始めて収斂せしむ。隄防を全くし、壅塞(とりで)を謹み、以て水潦に備え、宮室を修め、牆垣を坿(高注:「坿」は猶ほ「培」なり。“つちかう”と訓ず)い、城郭を補わしむ。是の月や、以て侯を封じ、大官を立つること無かれ。土地を割き、重幣を行い、大使を出だすこと無かれ。是の令を行えば、而ち涼風至ること三旬なり。孟秋に冬の令を行えば、則ち陰氣大いに勝ち、介蟲(甲殻の虫)、穀を敗り、戎兵乃ち來たる。春の令を行えば、則ち其の國乃ち旱し、陽氣復た還り、五穀實らず。夏の令を行えば、則ち火災多く、寒熱節ならず、民に瘧疾(おこり)多し。

二 蕩兵

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『孟子』巻第六藤文公章句下 五十九節

2017-07-13 10:02:46 | 四書解読
五十九節

宋の大夫の戴盈之が言った。
「租税は収穫の十分の一にして、関所と市場の税を廃止することは、今年すぐにはできませんので、とりあえず今年は軽減して、来年から止めるようにしたいのですが、いかがでしょうか。」
孟子は言った。
「今、仮に毎日隣の家の鶏を盗む者がいるとして、ある人がその者に、『君子のすることではない。』と言うと、『少し盗むのを減らして、月に一度にして、来年になったら止めることにしましょう』と言ったらどうでしょうか。正しくないと分かったら、すぐに止めることです。どうして来年まで待つ必要があるのですか。」

戴盈之曰、什一、去關市之征、今茲未能。請輕之、以待來年、然後已。何如。孟子曰、今有人日攘其鄰之雞者、或告之曰、是非君子之道。曰、請損之、月攘一雞、以待來年、然後已。如知其非義、斯速已矣。何待來年。

戴盈之曰く、「什一にして、關市の征を去るは、今茲は未だ能わず。請う之を輕くし、以て來年を待ち、然る後に已めん。何如。」孟子曰く、「今、人日々に其の鄰の雞を攘む者有らんに、或ひと之に告げて曰く、『是れ君子の道に非ず。』曰く、『請う之を損して、月に一雞を攘み、以て來年を待ち、然る後に已めん。』如し其の義に非ざるを知らば、斯に速やかに已めんのみ。何ぞ來年を待たんや。」

<語釈>
○「戴盈之」、趙注:戴盈之は宋の大夫。○「什一」、租税を十分の一のすること。○「關市之征」、關、市は関所と市場の税、「征」は税。○「攘」、趙注:「攘」は「取」なり。“ぬすむ”と訓ず。

<解説>
是非だけを問題にすれば孟子の言葉は正しいが、個人の善悪と実際の政治とでは同じに扱えない。前節では物事の適性を説いていることからして、孟子の態度は少し教条的に思う。

『孟子』巻第六藤文公章句下 五十七節、五十八節

2017-07-09 10:18:30 | 四書解読
五十七節

孟子は宋の臣の戴不勝に言った。
「あなたは宋の王が善政を行う立派な人になることを望んでいますか。それならはっきりと申し上げましょう。今ここに楚の大夫がいて、自分の子に齊の言葉を学ばせたいと思っているとしたら、あなたは齊の人を教育係にしますか、それとも楚の人を教育係にしますか。」
「齊の人を教育係にします。」
「一人の齊人が教育係になったとしても、まわりで多くの楚人が楚の言葉で話しかけていたのでは、鞭を持って厳しく齊の言葉を覚えさせようとしても、上達は望めません。しかしあなたが其の子を連れて齊に帰り、莊や嶽の街で数年暮らさせたら、鞭を持って厳しく楚の言葉を話させようとしても、そうならないでしょう。それと同じことで、あなたは薛居州を立派な人だと考えて、王様の近習にさせました。もし近習の者たちが、年寄りも若い者も、身分の卑しい者も尊い者も、皆薛居州のような立派な人ならば、王様は誰と善くないことをなされましょうか。逆に近習の者たちが、年寄りも若い者も、身分の卑しい者も尊い者も、皆薛居州のような立派な人でなければ、王様は誰と善いことをなされましょうか。薛居州一人の力だけでは、王様を善政を行う立派な王にすることはできません。」

孟子謂戴不勝曰、子欲子之王之善與。我明告子。有楚大夫於此、欲其子之齊語也、則使齊人傅諸。使楚人傅諸。曰、使齊人傅之。曰、一齊人傅之、衆楚人咻之、雖日撻而求其齊也、不可得矣。引而置之莊嶽之間數年、雖日撻而求其楚、亦不可得矣。子謂薛居州善士也、使之居於王所。在於王所者、長幼卑尊、皆薛居州也、王誰與為不善。在王所者、長幼卑尊、皆非薛居州也、王誰與為善。一薛居州、獨如宋王何。」

孟子、戴不勝に謂いて曰く、「子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかに子に告げん。此に楚の大夫有らんに、其の子の齊語せんことを欲すれば、則ち齊人をして諸に傅たらしめんか。楚人をして諸に傅たらしめんか。」曰く、「齊人をして之に傅たらしめん。」曰く、「一齊人之に傅たるも、衆楚人之を咻せば、雖日に撻(むちうつ)ちて其の齊たらんことを求むと雖も、得可からず。引いて之を莊嶽の間に置くこと數年ならば、日に撻ちて其の楚たらんことを求むと雖も、亦た得可からず。子、薛居州を善士と謂い、之をして王の所に居らしむ。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州ならば、王は誰と與にか不善を為さん。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州に非ざれば、王は誰と與にか善を為さん。一薛居州、獨り宋王を如何せん。」

<語釈>
○「咻」、音はキュウ、義はかまびすしくすること。○「莊嶽」、顧炎武云う、莊は是れ街の名、嶽は是れ里の名。

<解説>
教育に於いて環境の重要性を説いたものである。趙岐の章指に云う、諺に曰く、「白沙涅(デツ、黒土)に在れば、染めずして自ら黒し、蓬麻中に生ずれば、扶けずして自ずから直し。」と。この語句は『史記』や『荀子』などにも引用されており、当時環境の重要性が広く説かれていたのであろう。

五十八節

弟子の公孫丑が尋ねた。
「先生は進んで諸侯に面会をお求めになられないのは、どういうわけでございますか。」
孟子は言った。
「昔は臣下で無ければ、自分から面会を求めることはなかった。だから段干木は、魏の文公がわざわざ会いに来た時、垣根を乗り越えて逃げ出したし、泄柳は魯の繆公が尋ねてきても、門を閉じて中に入れなかった。だがこの二人の対応は少しやりすぎだ。相手が望んで会いにくれば、会ってもよいのだ。昔、魯の大夫の陽貨が孔子に会いたいと思っていたが、呼びつけては失礼になるのではと思い控えていた。そこで大夫が士に贈り物をしたとき、不在で直接受け取れなかった場合は、後日大夫の家までお礼に行かなければならないという礼の定めを利用して、孔子の不在を見計らって、蒸豚を届けさせた。孔子も亦た会いたくないので、陽貨の不在を窺って出かけてお礼を言った。この場合は、陽貨が先に礼を行ったので、孔子も訪問しないわけにはいかない。そこでこのようにして礼を失わずして会うことを避けたのである。曾子は、『肩をすぼめておせじ笑いをするのは、夏の野良仕事よりも疲れる。』と言い、子路は、『相手の言葉に賛同できないのに、調子を合わせているような人は、恥ずかしいのか顔を赤くしているように見える。だがそんな人物は私のあずかり知らぬところだ。』と言っている。これから見ても、君子の修養がどんなものか分かるというものだ。」

公孫丑問曰、不見諸侯、何義。孟子曰、古者不為臣不見。段干木踰垣而辟之、泄柳閉門而不內。是皆已甚。迫斯可以見矣。陽貨欲見孔子而惡無禮。大夫有賜於士、不得受於其家、則往拜其門。陽貨矙孔子之亡也、而饋孔子蒸豚。孔子亦矙其亡也、而往拜之。當是時、陽貨先。豈得不見。曾子曰、脅肩諂笑、病于夏畦。子路曰、未同而言、觀其色赧赧然。非由之所知也。由是觀之、則君子之所養、可知已矣。

公孫丑問いて曰く、「諸侯を見ざるは、何の義ぞ。」孟子曰く、「古者は、臣為らざれば見ず。段干木は垣を踰えて之を辟け、泄柳は門を閉じて內れず。是れ皆已甚だし。迫らば斯に以て見る可し。陽貨、孔子を見んと欲して禮無しとせらるるを惡む。大夫、士に賜うこと有るに、其の家に受くること得ざれば、則ち往きて其の門に拜す。陽貨、孔子の亡きを矙(うかがう)いて、孔子に蒸豚を饋る。孔子も亦た其の亡きを矙いて、往きて之を拜せり。是の時に當り、陽貨先んぜり。豈に見ざるを得んや。曾子曰く、『肩を脅かし諂い笑うは、夏畦よりも病る。』子路曰く、『未だ同じからずして言う、其の色を觀るに、赧(タン)赧然たり。由の知る所に非ざるなり。』是に由りて之を觀れば、則ち君子養う所、知る可きのみ。」

<語釈>
○「段干木」、朱注:段干木は魏の文公の時の人なり。○「泄柳」、朱注:泄柳は魯の繆公の時の人なり。○「陽貨」、趙注:陽貨は魯の大夫なり。○「夏畦」、夏の野良仕事。○「未同而言」、趙注:「未同」は志未だ合わざるなり。相手の言葉に賛同できないのに相槌を打つこと。○「赧赧然」、赤面の貌。

<解説>
朱注に云う、此の章は聖人の禮義の中正を言う、と。物事には適正があり、過ぎるも及ばぬも避ける可し、ということであろう。