六十節
弟子の公都子が孟子に言った。「人は皆、先生は議論好きだと申しております。そこで敢てお尋ねしたいのですが、どうしてでございましょうか。」
孟子は言った。
「私がどうして議論好きなことがあろうか。ただ今の世の中ではしかたがないことなのだ。この世に人間が生まれて久しいが、これまで治世と乱世を繰り返してきた。堯の時代の時、川の水が逆行して、国中が氾濫し、蛇や龍が横行して、人民は安住の地が無く、低地に住む者は木の上に鳥のように巣を作って住み、高台に住む者は崖に穴を掘って住むというありさまだった。『書経』に、『洚水、余を警む。』とあるが、洚水とは洪水のことである。そこで堯は禹に命じてこの洪水を治めさせた。禹は土を堀って水道を造り、水を海に流し、蛇や龍を駆り立てて、草の生えた沢地に追い払い、川は切り通しをきちんと流れるようにした。それが今の揚子江・淮水・黄河・漢水である。水は遠く引いて氾濫は治まり、人を害する鳥獣もいなくなり、はじめて人々は平地に住むことが出来るようになったのである。だが堯・舜が没してしまうと、次第に聖人の道は衰え、暴君が次々と現れて、民の住居を壊して池を造り、民から安らぎの場を奪い、田畑をつぶして君主の為の花園や猟場にしたので、人民は衣食にこと欠くありさまとなり、よこしまな説や乱暴な行為が発生した。しかも花園・猟場・池・草地・湿地帯が増えて、禽獣が再び人家に近づいてくるようになった。それが紂王の時代になると天下は更に乱れた。そこで周公は武王を助けて紂王を誅殺し、更に紂王を助けていた奄国を伐ち、三年後にその君主を滅ぼし、紂王の寵臣であった飛廉を海際まで追いかけて殺し、更に滅ぼした無道の国は五十に及び、虎・豹・犀・象を駆り立てて遠くに追いやったので、天下の人民は大いに喜んだ。それを『書経』では、『大いに明らかなるかな文王の謀、大いに継承せる武王の功績。それらは我が子孫を助け導き、その正しさは欠ける所がないものである。』と述べている。ところが周王朝も次第に衰え、先王の道も正しく行われなくなり、よこしまな説や乱暴な行為が再び現れてきた。臣下でありながらその君主を殺す者や、子でありながらその父を殺す者が出てくるようになった。孔子はこのような無道の世の中を憂慮して、『春秋』を書かれた。この書は人の行為に対する倫理的批判を加え、善を称え惡を批判するものであったが、本来このような仕事は天子が為すべきことであるので、孔子は、『私の志を知る者はこの春秋だろう、又私を罰するのもこの春秋だろう。』と言われた。しかしその後も聖王は現れず、諸侯は天子をないがしろにしてわがまま勝手にふるまい、在野の士は無責任な議論を唱え、楊朱と墨翟の言説が天下に満ちあふれて、今や天下の人々は楊朱か墨翟かのどちらかに賛同するというありさまである。楊朱の説は自己中心の個人主義的な考えであるから、結局主君をないがしろにすることになる。墨翟の説は万人を平等に愛するという考えなので、結局は父を無視することになる。主君を無視し父を無視するのは、まさに禽獣の行いである。魯の賢人公明儀は、『調理場には肉があり、厩舎には立派な馬がいるのに、民は飢えに苦しむ様子が見え、野にはゆきだおれが転がっている。これではあたかも獣を引き連れて人を食わせているようなものだ。』と言っている。楊朱・墨翟の説が衰えなければ、孔子の正しい道は世に現れない。それはよこしまな説が人民を陥れて、仁義の道を塞いでいるからだ。仁義の道が塞がると、獣を引き連れて人を食わせるようなことになるし、更に人が互いに食い合うようになってこよう。私はそのようになることを恐れているので、昔の聖人の道を守り、楊朱・墨翟の説を退け、でたらめな説を追放して、邪説を唱えるような者が現れないようにしているのだ。だいたい邪な考えが心に起これば、必ず仕事そのものに害を及ぼすことになり、仕事が害われば、政治も害される。この私の考えは、たとえ聖人が現れても決して反対されないだろう。先に述べた通り、昔禹が洪水を治めたので、天下は平穏になり、周公が夷狄を併合し、猛獣を追い払ったので、人民は安心して暮らせるようになり、孔子が『春秋』を作ったので、国を乱すような臣下や親を殺すような子は恐れをなした。『詩経』には、『北や西のえびすは征伐し、南の荊や舒は懲らしめた。もはや我が国にはむかう者はいない。』とあり、周公を褒めたたえている。父を無視し君主を無視する者は、周公が討ち懲らしめたものである。私もまた人心を正し邪説を抑え、偏った行いを退け、人をたぶらかす言葉を追放して、禹・周公・孔子の志を受け継ぎたいと思っているのだ。どうして議論が好きなものか。已むを得ずにやっているのだ。正しい道を説いて楊朱と墨翟の邪説を退ける者は、聖人の仲間である。」
公都子曰、外人皆稱夫子好辯。敢問何也。孟子曰、予豈好辯哉。予不得已也。天下之生久矣。一治一亂。當堯之時、水逆行、氾濫於中國。蛇龍居之、民無所定。下者為巢、上者為營窟。書曰、洚水警余。洚水者、洪水也。使禹治之。禹掘地而注之海、驅蛇龍而放之菹。水由地中行。江淮河漢是也。險阻既遠、鳥獸之害人者消。然後人得平土而居之。堯舜既沒、聖人之道衰。暴君代作、壞宮室以為汙池、民無所安息。棄田以為園囿、使民不得衣食。邪說暴行又作、園囿汙池沛澤多而禽獸至。及紂之身、天下又大亂。周公相武王、誅紂伐奄、三年討其君。驅飛廉於海隅而戮之。滅國者五十。驅虎豹犀象而遠之。天下大悅。書曰、丕顯哉、文王謨。丕承哉、武王烈。佑啓我後人、咸以正無缺。世衰道微、邪說暴行有作。臣弒其君者有之。子弒其父者有之。孔子懼、作春秋。春秋天子之事也。是故孔子曰、知我者其惟春秋乎。罪我者其惟春秋乎。聖王不作、諸侯放恣。處士橫議、楊朱墨翟之言盈天下。天下之言、不歸楊、則歸墨。楊氏為我、是無君也。墨氏兼愛、是無父也。無父無君、是禽獸也。公明儀曰、庖有肥肉、廄有肥馬、民有飢色、野有餓莩。此率獸而食人也。楊墨之道不息、孔子之道不著。是邪說誣民、充塞仁義也。仁義充塞、則率獸食人。人將相食。吾為此懼。閑先聖之道、距楊墨、放淫辭、邪說者不得作。作於其心、害於其事。作於其事、害於其政。聖人復起、不易吾言矣。昔者禹抑洪水而天下平。周公兼夷狄驅猛獸而百姓寧。孔子成春秋而亂臣賊子懼。詩云、戎狄是膺、荊舒是懲。則莫我敢承。無父無君、是周公所膺也。我亦欲正人心、息邪說、距詖行、放淫辭、以承三聖者。豈好辯哉。予不得已也。能言距楊墨者、聖人之徒也。
公都子曰く、「外人皆、夫子辯を好むと稱す。敢て問う、何ぞや。」孟子曰く、「予豈に辯を好まんや。予已むを得ざればなり。天下の生は久し。一治一亂す。堯の時に當り、水逆行し、中國に氾濫す。蛇龍之に居り、民定まる所無し。下なる者は巢を為り、上なる者は營窟を為る。書に曰く、『洚水、余を警む。』洚水とは、洪水なり。禹をして之を治めしむ。禹、地を掘りて之を海に注ぎ、蛇龍を驅りて之を菹に放つ。水地中由り行く。江・淮・河・漢、是れなり。險阻既に遠く、鳥獸の人を害する者は消ゆ。然る後、人平土を得て之に居る。堯・舜既に没し、聖人の道衰う。暴君代々る作り、宮室を壊して以て汙池と為し、民安息する所無し。田を棄て以て園囿と為し、民をして衣食を得ざらしむ。邪說暴行又作る。園囿・汙池・沛澤多くして禽獸至る。紂の身に及び、天下又大いに亂る。周公、武王を相け、紂を誅し奄を伐ち、三年其の君を討ず。飛廉を海隅に驅りて之を戮す。國を滅ぼす者五十。虎・豹・犀・象を驅りて之を遠ざく。天下大いに悅ぶ。に曰く、『丕いに顯らかなるかな、文王の謨。丕いに承げるかな、武王の烈。我が後人を佑啓し、咸正を以て缺くること無からしむ。』世衰え道微にして、邪說暴行有(また)た作る。臣にして其の君を弒する者之れ有り。子にして其の父を弒する者之れ有り。孔子懼れて春秋を作る。春秋は天子の事なり。是の故に孔子曰く、『我を知る者は、其れ惟だ春秋か。我を罪する者も、其れ惟だ春秋か。』「聖王作らず、諸侯放恣す。處士橫議し、楊朱・墨翟の言、天下に盈つ。天下の言、楊に歸せずんば、則ち墨に歸す。楊氏は我が為にす。是れ君を無みするなり。墨氏は兼愛す。是れ父を無みするなり。父を無みし君を無みするは、是れ禽獸なり。公明儀曰く、『庖に肥肉有り。廄に肥馬有り。民に飢色有り。野に餓莩(ガ・ヒョウ)有り。此れ獸を率いて人を食ましむるなり。』楊墨の道息まざれば、孔子の道著われず。是れ邪說民を誣い、仁義を充塞すればなり。仁義充塞すれば、則ち獸を率いて人を食ましむ。人將に相食まんとす。吾、此が為に懼れ、先聖の道を閑り、楊墨を距ぎ、淫辭を放ち、邪說の者作るを得ざらしむ。其の心に作れば、其の事に害あり。其の事に作れば、其の政に害あり。聖人復た起こるも、吾が言を易えじ。昔者、禹、洪水を抑えて天下平らかなり。周公、夷狄を兼ね猛獸を驅りて、百姓寧し。孔子、春秋を成して、亂臣賊子懼る。詩に云う、『戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲らす。則ち我に敢て承ること莫し。』父を無みし君を無みするは、是れ周公の膺つ所なり。我も亦た人の心を正し、邪說を息め、詖(ヒ)行を距ぎ、淫辭を放ち、以て三聖者に承がんと欲す。豈に辯を好まんや。予、已むを得ざればなり。能く言いて楊墨を距ぐ者は、聖人の徒なり。」
<語釈>
○「公都子」、趙注:公都子は孟子の弟子なり。○「外人」、趙注:「外人」は他人なり。○「天下之生久」、服部宇之吉氏云う、「天下之生久」は、天下生民あること久しの義。○「下者為巢、上者為營窟」、「下」は低地、「上」は高地、「為營窟」は、諸説あるが、大体は崖に穴を掘ったという意味。○「書曰、洚水警余~」、この句は『書経』虞書大禹謨篇にあるが、趙注では、逸篇になっており、この篇は後の偽作とされている。○「菹」、趙注:「菹」(ショ)は、澤にして草の生ずる者なり。○「水由地中行」、朱注:地中は両涯の間なり。切り通しの事。○「險阻」、朱注:「險阻」は水の氾濫を謂うなり。○「書曰丕顯哉文王謨~」、『書経』周書の君牙篇にあるが、趙注では逸篇になっており、これも後の偽作である。趙注:「丕」は「大」、「顯」は「明」なり。「謨」は、はかりごと。「烈」は功績。「佑啓」は、助け導く意。○「處士橫議」、處士は在野の士、橫議は無責任な議論。○「庖」、調理場。○「公明儀曰、庖有肥肉、~」同じ文章が梁惠王章句上の四節にある。○「兼夷狄」、朱注:「兼」は之を幷すなり。夷狄を兼併した。○「詩云」、『詩経』魯頌悶宮篇。○「莫我敢承」、朱注:「承」は「當」なり。はむかう者はいないという意味。○「詖行」、「詖」は偏る、偏った行い。
<解説>
論じている内容は特に目新しいものはないが、ここで初めて孔子が『春秋』を作ったことが記されている。これは孔子が『春秋』を作ったことを明記した最古の資料である。その意味でこの節は貴重である。