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口語訳『荀子』巻第三 非十二子篇第六

2020-12-20 11:24:00 | 漢文
非十二子篇第六
 今の時代に、邪説を弄し姦言を飾り立てて天下をかき乱し、人を欺く誇大な言や理解し難いこまごまとした邪な言を為し、天下を混乱させて事の是非や治乱の原因がどこにあるか分からないようにさせる者がいる。意の向くままに勝手気ままな行いをし、禽獣のような行いで、礼儀に適い治道に通ずることはできない。それでもその行いは根拠があり、弁説は筋道が立っており、愚昧な民衆を欺き惑わすには十分である。它囂(タ・ゴウ)や魏牟がそういった人物である。意を押し殺して、世間から離れて超然と我が道を行き、人と異なることを以て高尚だと考える。それでもその行いは根拠があり、弁説は筋道が立っており、愚昧な民衆を欺き惑わすには十分である。陳仲や史鰌がそういった人物である。天下を統一し国家をたてる基準を知らず、功利主義、倹約主義を唱えて、君臣の上下を軽んじて労苦を共にすることを主張し、社会的な差別を設け、君臣の上下関係を秩序たてることができない。それでもその行いは根拠があり、弁説は筋道が立っており、愚昧な民衆を欺き惑わすには十分である。墨翟や宋鈃がそういった人物である。法を尊ぶべきことを強調しながら実は法を無視し、学問修養を軽蔑しながら好んで書物を著し、上は王に聴き入れられ、下は世俗に從われ、終日弁論して立派な論議をするが、繰り返してよく之を調べれば、実際とかけ離れていて帰着する結論がなく、国家を治めて社会的身分の秩序を定めることはできない。それでもその行いは根拠があり、弁説は筋道が立っており、愚昧な民衆を欺き惑わすには十分である。愼到や田駢がそういった人物である。先王の教えに従わず、礼儀を否定し、好んで怪しげな説を述べ、奇異な言葉を弄び、甚だ明察であるが実際的でなく、雄弁であるが役には立たず、為すことは多いが成果は少なく、とても国を治める法度とすることはできない。それでもその行いは根拠があり、弁説は筋道が立っており、愚昧な民衆を欺き惑わすには十分である。惠施や鄧析がそういった人物である。概ね先王の教えに従っているがその根本を知らず、態度はゆったりとしているが性質は激しく志は大きく、見聞は博いが大雑把で、上古の事を考えて自説をなし、それを五行と呼んでいるが、甚だひがみ偏っていて規範性がなく、その説は奥深そうであるが自ら解説することができず、その言葉を飾り立てて、それを慎み敬い、「これこそ真に先君子孔子の説である。」と言っている。子思が唱えて、孟子がこれに和した。世俗の愚かで心の暗い儒者は、口やかましく論じ立てるだけでそれが間違っていることが分からず、そのまま受け継いで伝え、孔子や子游が後世に重んぜられるようになったのはそのおかげであると思い込んでいる。これこそ子思や孟子の罪である。もし誰かが方策を統べて、言行を等しくし、大小の筋道を一定にする。そうして天下の英雄を集め、古の教えを告げ、至順の徳を教えたならば、部屋の隅に居り、敷物に坐しながら、聖王の美なる教えが自然と集まってきて完備し、太平の風俗が勢いよく起こってくるであろう。そうなれば先の邪な六説は人の心に入り込むことができず、かの十二人の者は人々に近づくことも出来ない。たとい針が立つほどの領地すら持っていなくとも、王公も彼と名声を争うことができず、まして一大夫の位に在れば、一君主だけで召し抱えることも出来ず、一国だけで留めておくことも出来ず、その名声は諸侯に遍く知られ、臣にしたいと願わない者はいない。このような人は聖人でありながら権勢と地位とからかけ離れた人物、それが孔子や子弓である。天下を統一し、万物を成就し、人民を養い、兼ねて天下を利し、交通の及ぶ所で服従しない人々はなく、六説を唱えるものはたちどころに止め、かの十二子は感化されて考えを改める。このような聖人であって権勢と地位とを手に入れた人、それが舜や禹である。今の世、仁人たるものは何に努力すべきか。上は舜・禹の定めた制度に法り、下は孔子。子弓の道義に法り、十二子の邪説を無くすことに努力すべきである。そうすれば天下の害は除かれ、仁人の成すべきことは終わり、聖王の事跡が現れてくる。
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『論語』為政第二 34、35、36章

2020-12-07 11:22:45 | 漢文
34

弟子の子張が仕えて俸禄を求めるにはどうしたらよいかを尋ねた。孔子は言った、「多くの事を聞いて、その中から疑わしいものを取り除き、その残りの確かな事を慎重に述べるようにすれば、人から咎められることは少ないし、多くのものを見て、その中から不安に感じるものを取り除き、その残りの安全な事を慎重に行えば後悔することは少ない。言葉は人から咎められることが少なく、行いは自ら後悔することが少なければ、必ず人から信用されて用いられるので、俸禄は自然とついてくるものだ。」

子張學干祿。子曰、多聞闕疑、慎言其餘、則寡尤。多見闕殆、慎行其餘、則寡悔。言寡尤、行寡悔、祿在其中矣。

子張、祿を干むることを學ぶ。子曰く、「多く聞きて疑わしきを闕き、慎みて其の餘を言えば、則ち尤寡し。多く見て殆きを闕き、慎みて其の餘を行えば、則ち悔寡し。言に尤寡く、行いに悔寡ければ、祿は其の中に在り。」

<語釈>
○「子張」、孔子の弟子、姓は顓孫、名は師、字は子張。○「學」、『史記』の仲尼列伝に、子張、禄を干(もとめる)むるを問う、とあることから、「學」は「問」の義に解す。○「殆」、朱注:「殆」とは、未だ安ぜざる所。不安の意。

<解説>
修飾活動は知識や技術を身につけるのではなく、言行を正しく慎重にすることであると述べている。これは現在の就職活動にも言えることであろうか。これが全てだとは言えないかもしれないが、大切な事であることは間違いない。

35

魯の哀公が、「どうしたら民が服従するだろうか。」と尋ねた。孔子は答えた、「正直な人を任用して、邪で正直でない人を捨て去れば民は服従します。邪で正直でない人を用いれば民は服従しません。」

哀公問曰、何為則民服。孔子對曰、舉直錯諸枉、則民服。舉枉錯諸直、則民不服。

哀公問いて曰く、「何を為さば則ち民は服せん。」孔子對えて曰く、「直を舉げて諸を枉に錯けば、則ち民は服す。枉を舉げて諸を直に錯けば、則ち民は服せず。」

<語釈>
○「舉直錯諸枉」、集解:包咸曰く、「錯」は置くなり、正直な人を舉げて之を用い、邪枉の人を廢置せば、則ち民は其の上に服す。「邪枉」は邪で正直でない人

<解説>
君主たる者は常に民が己に心服することを望んでいるが、それが可であるか不可であるかは君主の側に要因があるのに、それを理解している君主が少ない。『荀子』の君道篇に、「君なる者は、民の原なり。原清めば則ち流清み、原濁れば則ち流濁る。故に社稷を有つ者にして、民を愛すること能わず、民を利すること能わずして、而も民の己を親愛せんことを求むるは、得可からざるなり。民の親しまず愛せずして、而も己が為に用(はたらく)き、己が為に死せんことを求むるは、得可らざるなり。民の己が為に用かず、己が為に死せずして、而も兵の勁く、城の固きを求むるも、得可からざるなり。」と述べられているように、民から心服されることを望むなら、君主自身が身を修めることに努力しなければいけないのだ。

36
魯の大夫である季康子が尋ねた、「民に上を尊敬し上に忠義を尽くさせ、進んで善を行うようにさせるには、どうしたらよいでしょうか。」孔子は答えた、「民に対して言行を慎んで厳かに接すれば、民もその上を尊敬するようになります。又上の者が親に孝行であり、民を慈しむようであれば、民も上に忠義を尽くすようになります。善人を挙用して、善を行うことができない者は教え導くようにすれば、人々は皆善を行うようになります。」

季康子問、使民敬忠以勸、如之何。子曰、臨之以莊則敬。孝慈則忠。舉善而教不能則勸。

季康子問う、「民をして敬忠にして以て勸ましむるには、之を如何せん。」子曰く、「之に臨むに莊を以てすれば則ち敬す。孝慈なれば則ち忠なり。善を舉げて不能を教うれば則ち勸む。」

<語釈>
○「季康子」、朱注:季康子は、魯の大夫季孫子、名は肥。○「臨之以莊則敬」、集解:包咸曰く、「莊」は厳なり、君、民に臨むに厳を以てすれば、則ち民其の上を敬す。

<解説>
この章も前章と同じく、民を治めるには、先ず君主自身が正しくあるべきだと説いている。『荀子』君道篇にも、「君なる者は、民の原なり。原清めば則ち流清み、原濁れば則ち流濁る。」とある。