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『大学』第三章

2012-10-23 14:43:02 | 漢文
『史記』はこちら http://www.eonet.ne.jp/~suqin


第一章の第二節で、「我が身を善良に修めようとする者は、それに先立って心を正しくするに在る。」とあるのは、身に怒りの心が有れば、他のことにも怒りの心を及ぼして、自分の心を正しく保つことが出来ず、恐れおののく心が有れば、何事に対しても消極的になり、心を正しく保つことが出来ず、心に嬉しいことが有れば、そちらに心が傾き、物事にに対していいかげんになり、心を正しくく保つことが出来ず、患い悩み事が有れば、何に対しても不安になり、心を正しく保つことが出来ない、それだから正しき心を持つ為に人は常に平静に変らぬ心を持つように務めなければならないことを言っているのである。というのも、心が正しきに無ければ、物事を見ても其の本質は見えず、聴いてもその本音を知ることが出来ず、美味しい者を食べても其の味が分からないように、心が正しく無ければ、善行を為そうとしても正しい判断が得られないからである。これを、乃ち善行を為そうとすれば、それに先立って自分の心を正しくするに在ると謂うのである。

所謂修身在正其心者、身有所忿懥、則不得其正、有所恐懼、則不得其正、有所好樂、則不得其正、有所憂患、則不得其正。心不在焉、視而不見、聽而不聞、食而不知其味。此謂修身在正其心。

所謂る身を修むるは其の心を正しくするに在りとは、身に忿懥(フン・チ)する所有れば、則ち其の正しきを得ず、恐懼する所有れば、則ち其の正しきを得ず、好樂する所有れば、則ち其の正しきを得ず、憂患する所有れば、則ち其の正しきを得ず。心、焉れに在らざれば、視れども見えず、聽けども聞こえず、食えども其の味を知らず。此れを身を修むるは其の心を正しくするに在りと謂う。

<語釈>
○「忿懥」、忿怒のこと。

<解説>
「身有所忿懥」以下の四句は、感情に左右されれば、心を正しくすることは出来ないことを言い、感情を制すべきを教え、「心不在焉」以下は、心が浮ついていれば、知りやすいことも知ることが出来ないことを言い、常に心を保つことを教えている。人は感情に溺れやすい。それを制して、心を正常に働かせる。これが心を正しくすると謂うことである。常にそうすれば、其の行いも善行となり、徳を高めることが出来るのである。