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『呂氏春秋』解読 解説

2017-03-22 10:36:18 | 四書解読
『春秋左氏伝』の解読を先日終了した。次は『呂氏春秋』をやることにしました。先づは解説からです。

解 説

一、『呂氏春秋』の成り立ち

 『呂氏春秋』は秦の荘襄王から始皇帝の初期のころまで宰相を務めた呂不韋が、その権力と財力とを総動員して全国から集めた学者たちに著作編纂させたものである。その構成は、十二紀・八覧・六論の三部に分かれ、全二十六巻百六十篇からなっており、内容は多岐にわたり、一種の百科全書的な書であり、同じ性格の書として前漢に編纂された有名な『淮南子』の先駆けとなったものである。この書の成立事情について、『史記』の呂不韋傳は次のように記している。
   不韋の家僮万人あり。是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り。皆士に下り賓客を喜み、以て相い傾く(傾注、熱中すること)、呂不韋、秦の強きを以て、如かざるを羞じ、亦た士を招致し、厚く之を遇し、食客三千人に至る。是の時諸侯に弁士多く、荀卿の徒の如きは、書を著し天下に布く。呂不韋乃ち其の客をして人人の聞く所を著さしめ、集論(編集)し以て八覧・六論・十二紀の二十餘万言を為る。以為らく、天地の万物・古今の事を備う、と。号して呂氏春秋と曰う。
この書の編纂について、呂不韋は相当な自信を持っていたようである。之も有名な話であるが、呂不韋傳に以下の如く記されている。
   咸陽の市門に布き、千金を其の上に懸け、諸侯の游子・賓客を延き(招きよせる)、能く一字を増損する者有らば、千金を予えん、と。
この様に自信を持って世に送り出した書であったが、歴代中国における評価は低いもので、清朝になってやっと見直されるようになったのである。

二、呂不韋について

 呂不韋については、『史記』の呂不韋傳と『戦国策』の秦策五とに見える。両書の記述には若干の相違があるが、呂不韋傳を主として、その人物像を紹介しておく。呂不韋傳の冒頭に次のように記されている。
   呂不韋は陽翟の大賈人なり。往来して賤(値段が安いこと)に販(買う)い貴(値段が高いこと)に賈り、家に千金を累ぬ。
諸国を往来して商売をし、巨万の富を築いた豪商である。趙の国に行った時、秦の太子である安國君の子供で人質として趙に住んでいた子楚に出会った。呂不韋傳は記す、呂不韋、邯鄲に賈(商用で赴く)しに、見て之を憐れみ、曰く。「此れ奇貨なり居く可し。」と。これが有名な「奇貨居く可し」の出所である。子楚に投資して、安國君の太子にさせ、将来王位につければ、巨額の富を得られると読んで、資金をつぎ込み、それを実現させた。秦の宰相となり、富と権力を手に入れた。しかし秦王政、後の始皇帝が長ずるにつれて、疎んぜられて遂に嫪毐の亂に連座して罪を得て服毒自殺をする。詳細は私のホームページ、http://gongsunlong.we¬b.fc2.com/から『史記』呂不韋傳を参照してください。

三、テキスト、注釈本について
 注釈としてまず第一に挙げられるのは、後漢の高誘の注である。以後は歴代中国でそれほどの評価を得られなかったことにより、注釈本は現れず、長年の間に本文、注釈共に乱れが生じたが、清朝になって考証学の隆盛により、『呂氏春秋』も幾人かの学者によって校訂が試みられれるようになった。その中でも特筆すべきは、清朝乾隆帝時代の学者である畢沅が乾隆五十四年(1789年)に著した『呂氏春秋新校正』である。この書は元・明・清の諸本を参照して校訂を施し、高誘注に補注を加えたものである。これ以後『呂氏春秋』の研究は畢沅本を中心にして進んでいき、1933年に許維遹撰の『呂氏春秋集約』が刊行され、1984年に陳奇猷撰の『呂氏春秋校釈』が刊行された。この二書は共に畢沅の足らざる所を補注した優れた書である。
 今回、『呂氏春秋』の解読にあたっての底本は、台湾中華書局印行による畢沅の『呂氏春秋新校正』である。この本は去年の四天王寺の古本市で300円で購入したものである。台湾中華書局の本は、大陸の中華書局のような句読点や固有名詞の横線などがなく、全くの白文であり、解読にかなり苦労すると思われる。既に解読を終えている『戦国策』も白文だったが、恐らく『呂氏春秋』の方がかなり難物ではないかと思っている。
最後に、この解説を書くに当たって、明治書院の新編漢文選の『呂氏春秋』を参考にさせてもらった。

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