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『史記』匈奴列伝

2020-01-24 12:31:07 | 四書解読
匈奴は、其の先祖夏后氏の苗裔なり、淳維と曰う(集解:漢書音義曰く、匈奴の始祖の名。索隠:張晏曰く、淳維、殷の時を以て北邊に奔る)。唐・虞以上は山戎・獫狁(ケン・イン)・葷粥(クン・イク)有り、北蠻に居り、畜牧に随いて轉移す。其の畜うの多き所は則ち馬・牛・羊なり。其の奇畜は則ち橐駞(タク・ダ、駱駝)・驢(ロ、ろば)・驘(ラ、らば)・駃騠(ケツ・テイ、集解:徐廣曰く、北狄の駿馬)・騊駼(トウ・ト、集解:徐廣曰く、馬に似て青)・騨騱(テン・ケイ、索隠:説文に野馬の屬。野生馬の一種)あり。水草を逐いて遷徙し、城郭・常處・耕田の業毋し、然るに亦た各々分地有り。文書毋く、言語を以て約束を為す。兒能く羊に騎するより、弓を引き鳥鼠を射る。少長なれば則ち狐兔を射て、用て食と為す。士の力能く弓を彎き(原本は「毋弓」に作るが、漢書は「彎弓」に作る、これに従い改める)、盡く甲騎為り。其の俗、寬なれば則ち畜に随い、射に因りて禽獸を獵りて生業と為し、急なれば則ち人戰攻に習いて以て侵伐す。其れ天性なり。其の長兵は則ち弓矢、短兵は則ち刀鋋(セン、小さな戈)。利あれば則ち進み、利あらざれば則ち退き、遁走を羞ぢず。茍しくも利の在る所、禮義を知らず。君王自り以下、咸畜肉を食し、其の皮革を衣、旃裘(セン・キュウ、毛織の服)を被る。壯者は肥美を食し、老者は其の餘を食す。壯健を貴び、老弱を賤しむ。父死せば、其の後の母を妻とす。兄弟死せば、皆其の妻を取りて之を妻とす。其の俗は名有りて諱まず、而して姓字無し。夏の道衰えて、公劉、其の稷官を失い(集解:徐廣曰く、后稷の曾孫なり)、西戎に變わり(西戎の風習に染まった)、豳(ヒン)に邑す。其の後三百有餘歲、戎狄、大王亶父を攻め、亶父、岐下に亡げ走る。而して豳人悉く亶父に從いて焉に邑し、周作る。其の後百有餘歲、周の西伯昌、畎夷氏を伐つ(索隠:韋昭曰く、『春秋』は以て犬戎と為す)。後十有餘年、武王、紂を伐ちて、雒邑を營み、復た酆鄗に居る,戎夷を涇・洛の北に放逐し、時を以て入貢せしめ、命づけて荒服と曰う。其の後二百有餘年、周の道衰えて、穆王、犬戎を伐ち、四白狼・四白鹿を得て以て歸る。是れ自りの後、荒服至らず。是に於て周遂に甫刑の辟を作る(周の穆王が甫公に作らせた刑法、辟は法律)。穆王の後二百有餘年、周の幽王、寵姬褒姒の故を用て、申侯と卻有り。申侯怒りて犬戎と共に攻めて周の幽王を驪山の下に殺し、遂に周の焦穫を取り、而して涇・渭の閒に居り、中國を侵暴す。秦の襄公、周を救う。是に於て周の平王、酆鄗を去りて、東して雒邑に徙る。
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『論語』学而第一 4、5、6章

2020-01-11 12:08:44 | 四書解読
4

弟子の曾子が言う、私は毎日次の三つのことで自分の行いを反省している。人から相談を受けた時、心を尽くして対応しただろうか。友達との交際に於いては信義に欠けることはなかっただろうか。先生から教わったことを、自身がよく理解していないのに、分かったような顔をして人に教えてはいないだろうか。

曾子曰、吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。

曾子曰く、吾日に吾身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを傳えしか。

<語釈>
○「三省」、三について、朱注は、「此の三者を以て日に其の身を省む。」と述べているように、下文の三事を指すとしている。服部宇之吉氏は、「三省の三は屡々の義なり、下文の三事を指して云うにあらず。」と述べているように、屡々の義に解しており、我が国の注釈書は多くこの説を採用しているが、私は朱注を採用する。

<解説>
『大學』の第二章第三節に、「湯の盤の銘に曰く、「苟(まことに)に日に新たにして、日に日に新た、又日に新たなり。」とあり、又『孟子』巻第八離婁章句下百十七節に「此に人有り、其の我を待つに横逆を以てすれば、則ち君子必ず自ら反するなり。『我必ず不仁ならん、必ず禮無からん。此の物奚ぞ宜しく至るべけんや。』と。其の自ら反して仁なり。自ら反して禮有り。其の橫逆由ほ是のごとくなるや、君子必ず自ら反するなり。『我必ず不忠ならん。』と。」とあるように、儒家にとって日々の反省は為すべき最も重要な行為なのである。

5
孔子言う、兵車千乘も出すことが出来るほどの諸侯の国を治める要は、敬い慎む心で政治を行い、民から信頼されるようにし、無駄な費用を節約して人々を愛し、人民を使役する時は農繁期を避けて、農閑期に行うことだ。

子曰、道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時。

子曰く、千乘の國を道むるに、事を敬して信に、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。

<語釈>
○「道千乘之國」、朱注:「道」は治なり、千乘は諸侯の國なり、其の地兵車千乘を出だす可き者なり。○「敬事而信」、集解:包咸曰く、國を為むる者は、事を舉ぐるに必ず敬愼し、民に與するに必ず誠信す。○「使民以時」、この時代、民とはほとんど農民である。故に農民を使役する時は、農業が暇な時期を選ぶことが大事であることを言っている。

<解説>
この章は国を治める要を説いたものである。朱注:程子曰く、「此の言至淺なり、然れども當時の諸侯、果たして此を能くせば、亦た以て其の國を治むるに足る、聖人の言、至近なりと雖も、上下皆通ず、此の三言は、若し其の極を推せば、堯舜の治も、亦た此に過ぎず、常人の近きを言うが若きは、則ち淺近なるのみ。」と述べられているように、この三言は特に難しいことを述べたものではない。ただいずれも其の本を為しているのは民であり、民こそが政治の要であることを説いているのである。

6
孔子言う、若者は家庭内では父母に孝を尽くし、外では年長者に従順につかえ、行動は慎み深く決まり事を守り、言葉はでたらめを言わず真実を述べ、広く人を愛し、特に仁者には親しみ近づき、その影響を受けるようにせよ。これらの事を行って、猶ほ余力があれば、詩書六藝の文を学ぶのがよい。

子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有餘力、則以學文。

子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて餘力有らば、則ち以て文を學べ。

<語釈>
○「弟子入則孝」、弟子は、若者全般を指す。入は、家の中。家庭では父母に孝を尽くすこと。○「出則弟」、出は、家の外、乃ち世間。弟は、悌順、乃ち年長者によくつかえること。○「謹而信」、朱注:謹は、行いの常有るなり、信は、言の實有るなり。行動は慎み深く決まり事を守り、言葉は真実があること。○「文」、朱注:文は詩書六藝の文を謂う。

<解説>
朱注に、洪氏曰く、「未だ餘力有らずして、文を學べば、則ち文、其の質を滅す、餘力有りて、文を學ばざれば、則ち質勝ちて野なり。」とあるように、学問とは知識を先づ身につけるより、正しい行いと仁義を身につけ実践することが大事であることが述べられている。

『呉子』解説

2020-01-04 12:00:49 | 四書解読
呉子解説
一、呉子について

 呉子については、『説苑』や『韓非子』や『戦国策』魏策などに説話が記録されているが、何といっても基本史料は『史記』の呉起傳であろう。それによれば呉起は衛の人であり、嘗て曾子に学び、それから魯に仕え、後魏にゆき、次いで楚にゆき、宰相となったが、その政策が下に暑く王公貴族を疎んずるものであったため、悼王が亡くなると王公貴族により殺されたことになっている。曾子は年代から言って孔子の弟子の曾參でなく、子の曾申であろうと言われている。呉起の人と為りは、下の者を大事にすることであった。その為に楚で殺されたのである。この人と為りをあらわしたものに魏の時代の説話を『史記』は伝えている。「起の将為るや、士卒の最下の者と衣食を同じくす。臥するに席(寝床)を設けず。行くに騎乗せず、親ら糧を裹(つつむ)み贏(になう)い、士卒と労苦を分かつ。卒に疽を病む者有り、起、為に之を吮う。」これが誠であるならば、将に王公貴族の忌み嫌う所であって、この当時では殺されるのも当然であるかもしれない。より詳しく知りたい方は私のホームページから『史記』孫子呉起列伝を参照してください。http://gongsunlong.web.fc2.com/

二、『呉子』書

 現在伝えられている『呉子』の内容は六篇であり、『漢書』芸文志には「呉起四十八篇」と記載されており、又『史記』孫子呉子列伝の太史公の論賛に、「世俗の師旅(軍事兵法)を称するは、皆孫子の十三篇を道い、呉起の兵法、世に多く有り。故に論ぜず。」とあり、多くの篇があったことが推測される。しかしその多くは魏晉南北朝頃には散逸してしまい、言行の六篇のみが残されたと言われている。又一方ではこの六篇も『漢書』芸文志に述べられている四十八篇の中に含まれるものではなく、後のものであるという説もある。この六篇が呉起の手になるものかどうかは判然としないが、その内容は戦国時代の兵法を説いたものであり、この時代の兵法を知るうえで『孫子』と並んで尊重すべきものである。

三、『呉子』の注釈書及び底本

 『呉子』の注釈書については、『隋書』に見える賈詡注が最古であるとされているが現在に伝わっていない。北宋の神宗の時代になって、『孫子』・『呉子』・『司馬法』・『尉繚子』・『李衛公問對』・『石公三略』・『六韜』の七書を兵法書として修学させたことに始まり、七書の注釈がなされることになり、『呉子』の注釈も見られるようになった。その中で明の時代の劉寅による『七書直解』が最も有名である。その他鄭霊の『武經通鑑』、黄献臣の『武經開宗』、彭継耀の『武經七書集註大全』など数多くある。我が国においても多くの注釈本がある。今回解読の定本は、服部宇之吉氏による劉寅の『七書直解』基づいた注釈書であり、富山房刊行の漢文大系に収められている。

『史記』李将軍列伝

2019-12-21 10:44:51 | 四書解読
李將軍廣は、隴西の成紀の人なり。其の先は李信と曰い、秦の時將為り。逐いて燕の太子丹を得たる者なり。故槐裏におり、成紀に徙る。廣家は世世射を受く。
孝文帝十四年、匈奴大いに蕭關に入る。而して廣、良家の子を以て軍に從い胡を撃つ。善く騎射を用い、殺首虜多く、漢の中郎と為る。廣の從弟李蔡も亦た郎と為り、皆武騎常侍と為り、秩八百石。嘗に狩猟に從い、陥に衝し關に折し猛獣を格すに及びて、(「有所衝陷折關及格猛獸」この句は難解である。戦場での行為と狩猟での行為との両説がある。『漢書』はこの部分を「數從射猟、格殺猛獣」に作る。これにより狩猟での行為と解し、「衝陷折關」は穴に落として仕留め、柵に追い込んで仕留める意に解す),文帝曰く、「惜乎、子、時に遇わず。如し子をして高帝の時に當らしめば、萬戶侯も豈に足ると道わんや。」孝景初めて立つに及ぶや、廣、隴西都尉と為り、徙りて騎郎將と為る。呉楚軍する時、廣、驍騎都尉と為り、太尉亞夫に從い、呉楚の軍を撃ち、旗を取り、功名を昌邑の下に顯す。梁王、廣に將軍の印を授くるを以て、還りて賞行われず(将軍の印を授けたのは漢朝が認めたものでないので恩賞がなかった)。徙りて上谷の太守と為り、匈奴と日々以て合戰す。典屬國(索隠:案ずるに、典屬國は、官名なり)の公孫昆邪、上の為に泣きて曰く、「李廣の才氣は、天下無雙にして、自ら其の能を負み、數々虜敵と戰う。之を亡わんことを恐る。」是に於て乃ち徙して上郡の太守と為す。後廣轉じて邊郡の太守と為り、上郡に徙る。
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『論語』学而第一

2019-12-14 10:43:32 | 四書解読
1
孔子言う、詩経や書経等の先人の教えを、常に繰り返し暗誦して学んでいれば、自然と理解が深まり、益々学ぶことを止めることが出来なくなる。これは誠に嬉しいことではないか。そうして学んでいれば、近くはもちろん、遠くからも道を同じくする人がやってきて、学んだことを共に語り合うようになる。これはなんと楽しいことではないか。このように学問をすると言うことは、己自身を向上させることであり、誠の喜びが得られるのであるから、世間から認められなくても全く気にかからないし怨む心も懐かない。このような道を楽しんで世間の評価を気にしない人こそ、成徳の高い君子というべき人ではないか。

子曰、學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。

子曰く、學びて時に之を習う、亦た說ばしからずや。朋遠方自り來たる有り、亦た樂しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。

<語釈>
○「子」、集解:馬融曰く、子は、男子の通称、孔子を謂うなり。○「學而時習之」、集解:王粛曰く、時・學ぶは、時を以て誦習するなり、誦習するに時を以てせば、學ぶこと廢業する無し。○「不亦說乎」、朱注:既に學びて又時時之を習わば、則ち學ぶ所は熟して、中心喜説し、其の進むこと自ら已むること能わず。○「朋」、集解:包咸曰く、同門を朋と曰う。朱注:朋は、同類なり。ここでは同門も含めて学ぶべき道を同じくする人。○「慍」、朱注:慍は、怒意を含む。これから“うらむ”と訓ず。○「君子」、朱注:君子は、成徳の意。尹氏曰く、學は己に在り、知る知らずは人に在り、何ぞ慍むこと之れ有らん。

<解説>
この章を首篇としたことについて朱注は、「此れ書の首篇為り、故に記す所本に務むるの意多し、乃ち道に入るの門、徳を積むの基、學者の先づ務なり、凡そ十六章。」と述べている。論語は学に始まりに学に終わると言われるように学問を勧める書でもある。その首篇にふさわしく、学問の根本について三段階に分けて述べられている。第一段階は、学問というものは絵空事を学ぶのではなく、先人の教えを繰り返し学んで身につけることから始まると言っている。第二段階は、同学の志を持つ者と共に語り合い、さらに道を深めていき、周囲に影響を及ぼしていくことの重要性が述べられている。第三段階は、学問は己の為にするものであって、人から認められたり、地位を得たりするのは人との関わり合いによるものなので、得られないからと言って怨むことではない、『論語』三百七十篇でも、「我を知る者は其れ天か。」と述べられている。

2
弟子の有子が言う、父母には孝行をつくし、兄には従順な人柄で、目上の人に好んで逆らう者は滅多にいない。目上の人にたてつくことを好まない人柄で、反逆して争うことを好む者は、未だ嘗ていない。君子は何事においても根本に力を注ぐ。根本が確立すれば道は自然に生じるのであって、この孝弟というものは仁を行う根本である。

有子曰、其為人也、孝弟而好犯上者鮮矣。不好犯上而好作亂者、未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者、其為仁之本與。

有子曰く、其の人と為りや、孝弟にして上を犯すことを好む者は鮮し。上を犯すを好まずして亂を作すを好む者は、未だ之れ有らざるなり。君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か。

<語釈>
○「有子」、朱注:有子は孔子の弟子、名は若、善く父母に事え、孝を為し、善く兄長に事え、弟を為す。○「作亂者」、朱注:「作亂」は、則ち悖亂争闘の事を為す、此れ人能く孝弟ならば、則ち其の心和順にして、上を犯すを好むこと少なく、必ず亂を作すを好まざるを言うなり。

<解説>
孔子の生まれた春秋時代は、乱臣賊子が輩出しどこの国も大いに乱れていた。国の乱れは秩序の乱れによるもので、その秩序の乱れは人として最も大切にしなければならない秩序、乃ち父母には孝行、兄には従順という秩序が乱れているからで、此の秩序を正すことによって国も正しく治まると孔子は説くのである。この孝弟を正しく守り行うことが仁の根本であり、孔子の思想の根幹をなす仁の重要性を説いている。

3
孔子言う、言葉を巧みにし、愛想のよい顔つきをして取り入ろうとする人には、仁愛の心がないものだ。

子曰、巧言令色、鮮矣仁。

子曰く、巧言令色、鮮し仁。

<語釈>
○「巧言令色」、集解:包咸曰く、巧言は、其の言語を好む、令色は、その顔色を善くし、皆人をして之を説ばしめんと欲す。

<解説>
この句は、『論語』の中でももっともよく知られた言葉であろう。孔子は巧言令色の人物をもっとも忌み嫌っている。此の事については『論語』の各所に見られることで、この短い文章の中に孔子の強い意志が見られる。又程子が、「巧言令色の仁に非ざるを知らば、則ち仁を知る。」と述べているように、外見に捉われることを誡めた節である。