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『孟子』巻第十二告子章句下 百七十一節、百七十二節、百七十三節

2019-03-25 12:08:26 | 四書解読
百七十一節

白圭が言った。
「私の行った治水事業は禹よりも優れています。」
孟子は言った。
「あなたは間違ってます。禹の治水は水の本性に従って低い所に導いたのです。だから四方の海を谷と考えてそこに水を流したのです。ところが、あなたは隣国を谷間と考えて、そこに水を流し込んだ。流れの逆流するのを洚水と謂うが、洚水とは今の洪水の事です。これは仁者の最も憎むべきことです。このような事をしていながら、自分の方が優れているなどと言うのは、大きな間違いです。」

白圭曰、丹之治水也愈於禹。孟子曰、子過矣。禹之治水、水之道也。是故禹以四海為壑。今吾子以鄰國為壑。水逆行、謂之洚水。洚水者洪水也。仁人之所惡也。吾子過矣。

白圭曰く、「丹の水を治むるや、禹より愈れり。」孟子曰く、「子過てり。禹の水を治むるは、水の道なり。是の故に禹は四海を以て壑(たに)と為せり。今吾子は鄰國を以て壑と為す。水逆行する、之を洚水と謂う。洚水とは洪水なり。仁人の惡む所なり。吾子過てり。」

<語釈>
○「丹」、丹は白圭の名、圭は字。

<解説>
白圭のやり方は身勝手であるというのが孟子の主張である。趙岐の章指に云う、
「君子の害を除くは、普く人の為にするなり、白圭の鄰を壑とするは、亦た以て狭なり、是の故に賢者は其の大なる者遠き者を志す。」

百七十二節
孟子は言った。
「君子たる者は誠実でなかったら、君子の道をどこに求めることが出来ようか。誠実こそが君子の道である。」

孟子曰、君子不亮、惡乎執。

孟子曰く、「君子は亮ならずんば、惡にか執らん。」

<解説>
趙注には、亮は信なり、易に曰く、「君子は信を履み順を思う。」若し君子の道を為すに、信を舎つれば、将に安にか之を執らんとす、と述べられているが、他に多くの解釈がある。このような短い文章は特に解釈が分かれる。「惡乎執」の読み方も、「執ることを惡めばなり」と読む説もある。私は趙注に従って解釈した。

百七十三節

魯の国は、孟子の弟子の樂正子に政治を行わせようとした。孟子は言った。
「私はこの話を聞いて、夜も寝られないほどに喜んだ。」
公孫丑は言った。
「樂正子は果断な人ですか。」
「いや違う。」
「思慮深い人ですか。」
「いや違う。」
「博識なのですか。」
「いや違う。」
「それでは、どうして夜も寝られないほどに喜ばれるのでしょうか。」
「彼が善を好む人物だからだ。」
「善を好めばそれでよいのでしょうか。」
「善を好めば、天下を治めてもなお余裕がある。魯の一国を治めるぐらいは何でもないことだ。だいたい本当に善を好めば、天下の人々は皆千里の道も厭わずに、善いことを告げにやってくる。しかし、かりにも善が嫌いであったら、天下の人々は、知ったかぶりをして、俺は何でも知っているのだと自己満足している、と言うだろう。知ったかぶりをしている人間の言葉つきや顔色は、賢者を千里の外に追いやってしまう。そして賢者が千里の外に留まって中に入ってこなければ、讒言する者やへつらう者ばかりがやってくる。このような讒言者やへつらい者に囲まれていたのでは、国をうまく治めようとしても、治まりようがないではないか。」

魯欲使樂正子為政。孟子曰、吾聞之、喜而不寐。公孫丑曰、樂正子強乎。曰、否。有知慮乎。曰、否。多聞識乎。曰、否。然則奚為喜而不寐。曰、其為人也好善。好善足乎。曰、好善優於天下。而況魯國乎。夫苟好善、則四海之內、皆將輕千里而來、告之以善。夫苟不好善、則人將曰、訑訑。予既已知之矣。訑訑之聲音顏色、距人於千里之外。士止於千里之外、則讒諂面諛之人至矣。與讒諂面諛之人居、國欲治、可得乎。

魯、樂正子をして政を為めしめんと欲す。孟子曰く、「吾之を聞き、喜びて寐ねず。」公孫丑曰く、「樂正子は強なるか。」曰く、「否。」「知慮有るか。」曰く、「否。」「聞識多きか。」曰く、「否。」「然ら則ち奚為れぞ喜びて寐ねられざる。」曰く、「其の人と為りや善を好めばなり。」「善を好めば足るか。」曰く、「善を好めば天下に優なり。而るを況んや魯國をや。夫れ苟くも善を好めば、則ち四海の內、皆將に千里を輕しとして來たり、之に告ぐるに善を以てせんとす。夫れ苟くも善を好まざれば、則ち人將に曰わんとす、『訑訑(イ・イ)たり。予既に已に之を知れり。』訑訑の聲音顏色は、人を千里の外に距ぐ。士、千里の外に止まらば、則ち讒諂面諛の人至らん。讒諂面諛の人と居らば、國治まらんことを欲するも、得可けんや。」

<語釈>
○「強」、『正義』、「強」は猶ほ「果」の如し。果断の意。○「優」、朱注:「優」は、餘裕有るなり、天下を治むと雖も、猶ほ餘力有り。○「訑訑」、朱注:「訑訑」(イ・イ)は、自ら其の智を足れりとし、善言を嗜まざるの貌。

<解説>
趙岐の章指に云う、
「善を好み人に從うは、聖人一概なり、禹、讜言(善言)を聞き、之に答えて拝す、訑訑たりて之を吐かば、善人も亦た逝き、善去り惡來たる、道は符に合うが若し。」

『孟子』巻第十二告子章句下 百六十九節、百七十節

2019-03-19 10:19:42 | 四書解読
百六十九節

孟子は言った。
「現在、諸侯に仕えている者は皆、『私は君にために取りを切り開き、税収を増やして国庫を充たすことが出来る。』と言う。このような者は今の時代では良臣と言われるが、昔は民の敵と呼ばれていた。主君が正しい道に向かわず、仁を志さないのに、それを諫めもせずに、ただ主君を富まそうとする。それではまるで暴君桀王を富ませようとするものだ。又、『私は主君の為に、友好国を増やし同盟の条約を締結し、戦争をすれば必ず勝つ。』と言う。このような者も今の時代では良臣と言われるが、昔は民の敵と呼ばれていた。主君が正しい道に向かわず、仁を志さないのに、それを諫めもせずに、無理に戦争を起こそうとする。それではまるで暴君桀王を助けるようなものだ。このような今にやり方を続け、悪風を改めないならば、その君に天下を与えて王としたところで、一日もその位に安居することはできないだろう。」

孟子曰、今之事君者曰、我能為君辟土地、充府庫。今之所謂良臣、古之所謂民賊也。君不鄉道、不志於仁、而求富之。是富桀也。我能為君約與國、戰必克。今之所謂良臣、古之所謂民賊也。君不鄉道、不志於仁、而求為之強戰。是輔桀也。由今之道、無變今之俗、雖與之天下、不能一朝居也。

孟子曰く、「今の君に事うる者は曰く、『我能く君の為に土地を辟き、府庫を充たす。』今の所謂良臣は、古の所謂民の賊なり。君、道に鄉わず、仁に志さざるに、而も之を富まさんことを求む。是れ桀を富ますなり。『我能く君の為に與國を約し、戰えば必ず克つ。』今の所謂良臣は、古の所謂民の賊なり。君、道に鄉わず、仁に志さざるに、而も之が為に強戰せんことを求む。是れ桀を輔くるなり。今の道に由り、今の俗を變ずること無くば、之に天下を與うと雖も、一朝も居ること能わざるなり。」

<語釈>
○「辟」、朱注:「辟」は、開墾なり。○「約」、朱注:「約」は、要結なり。○「與國」、友好国、同盟国。

<解説>
前節に続き、孟子の平和主義の理論である。根本は民を無視して、富国強兵はあり得ないと言うことだ。

百七十節

白圭が言った。
「私は租税の税率を二十分の一にしたいと思うのですが、いかがでしょうか。」
孟子は言った。
「それはだめです。あなたのやり方は、北方の夷狄の貉のやり方です。戸数が一万戸もあるような国で、陶器を焼く職人がたった一人しかいないとして、それでやっていけると思うか。」
「それはだめです。必要な陶器が全く足りません。」
「あの貉の国では、五穀は成長せず、ただ植えることが出来るのは黍だけだ。城郭も宮殿も無く、宗廟も無く祭祀の禮も無く、諸侯閒の礼物のやり取りも無く、客をもてなす宴会も無く、各種の役人もいない。だから二十分の一の税率でも十分にやっていける。だが今この文明の地の中国で、人の道としての君臣・祭祀・交際の禮を捨て去り、各種の役人も無くしてしまったとしたら、それでどうしていいと言えるだろうか。陶工が足りないだけでも、国を十分に治めることが出来ないのに、まして各種の役人がいなければ、どうして国を治めることが出来ようか。税率を堯や舜の時代よりも軽くしようとするのは、大なり小なり貉の国のやり方であり、堯や舜の税率よりも重くしようとするのは、桀王のやり方である。」

白圭曰、吾欲二十而取一。何如。孟子曰、子之道、貉道也。萬室之國、一人陶、則可乎。曰、不可。器不足用也。曰、夫貉、五穀不生、惟黍生之。無城郭宮室宗廟祭祀之禮、無諸侯幣帛饔飧、無百官有司。故二十取一而足也。今居中國、去人倫、無君子、如之何其可也。陶以寡、且不可以為國。況無君子乎。欲輕之於堯舜之道者、大貉小貉也。欲重之於堯舜之道者、大桀小桀也。

白圭曰く、「吾、二十にして一を取らんと欲す。何如。」孟子曰く、「子の道は、貉(ハク)の道なり。萬室の國、一人陶すれば、則ち可ならんか。」曰く、「不可なり。器用うるに足らざるなり。」曰く、「夫れ貉は、五穀生ぜず、惟だ黍のみ之に生ず。城郭・宮室・宗廟・祭祀の禮無く、諸侯の幣帛・饔飧(ヨウ・ソン)無く、百官有司無し。故に二十にして一を取るも足れり。今中國に居り、人倫を去り、君子無くんば、之を如何して其れ可ならん。陶にして以て寡きすら、且つ以て國を為むる可からず。況んや君子無きをや。之を堯舜の道より輕くせんと欲する者は、大貉小貉なり。之を堯舜の道より重くせんと欲する者は、大桀小桀なり。」

<語釈>
○「二十而取一」、租税二十分の一を徴収する意。服部宇之吉氏云う、「租税十分の一を徴収するは三代の通制なり、白圭今之より一層軽減して二十分の一を取らんとす、よりて孟子に其可否を問えり。」。○「貉」、朱注:「貉」(ハク)は、北方の夷狄の國の名。○「饔飧」、朱注:饔飧(ヨウ・ソン)は、飲食を以て客に饋(おくる、食事を勧める意)るの禮なり。○「去人倫」、朱注:君臣・祭祀・交際の禮無し、是れ人倫を去るなり。○「無君子」、百官有司無し、是れ君子無きなり。

<解説>
趙岐の章指に云う、
「先王の典礼は、萬世遵う可し、什にして一、貢を供せば、下富み上尊ばる、裔土(荒れた辺地)簡惰は二十にして税す、貉の道なり、然り有らば、貴を為すに足らず、圭、之に法らんと欲す、孟子、之を斥くるに、王政を以てするなり。」

『孟子』巻第十二告子章句下 百六州七節、百六十八節

2019-03-14 10:24:09 | 四書解読
百六十七節

孟子は言った。
「春秋時代の五霸と呼ばれている人たちは、古代の三王にとっては罪人である。今の諸侯たちは、五霸にとっては罪人である。今の大夫たちは、今の諸侯にとっては罪人である。天子が諸侯の領地に出かけて視察するのを巡狩と言う。諸侯が天子のもとへ参内して報告するのを述職と言う。天子は諸侯の報告を聞いて、春なら、農具の不足が有れば補ってやり、秋なら、収穫に人手が足りなければ人手を回してやったりした。そして巡狩で諸侯の領地に入ったとき、土地がよく開墾され、田野は手入れが行き届き、国内では年寄りを大切にし賢者を尊び、すぐれた人物がそれに見合った位に就いていれば、恩賞として土地を与えた。だが領地に入ると、土地は荒れており、老人は省みられず、賢者はうち捨てられ、民から過酷な税を取りたてるような者が官職に就いておれば、責めて罰を与える。定期的な述職を一たび怠れば爵位を下げ、二たび怠れば領地を削り、三たび怠れば軍隊を差し向けて追放する。そうであるから天子は罪を責めて討伐することはあるが、利益のために征伐することはしない。それに対して諸侯は互いに利害などにより征伐することはあるが、討伐はない。ところが五人の覇者たちは、天子の命を受けずに諸侯を引き連れて他の諸侯を討伐した。だから私は、五覇の者は古代の三王にとっては罪人である、と言うのだ。五覇の中では齊の桓公が最も勢いが盛んであった。桓公が主催した葵丘の会盟では、犠牲は束ねて縛り、其の上に誓約書を載せただけで、犠牲を殺して血を啜ることをせずに、一同は誓約を交わした。その誓約書は、第一条、『不孝者は誅し、一度定めた嗣子は変更せず、妾を本妻とせぬこと。』第二条、『賢者を尊び、才能のある人物を育て、有徳者を顕彰すること。』第三条、『年寄りを敬い、幼い者を慈しみ、賓客や旅人をおろそかにするな。』第四条、『官職は世襲させず、官職を兼任させず、採用する時は必ず適材を選び、むやみに大夫を殺さないこと。』第五条、『私利を図って堤防を曲げて作らず、他国が凶作で米を輸入するのを妨げず、人に土地を与えて領主としたときは、必ず盟主に報告すること。』というものであった。そして最後に、『我ら同盟の者は、ここに誓い合ったのだから、これからは互いに友好を保っていこう。』と約束した。ところが今の諸侯たちは皆この五か条の誓約を犯している。だから私は、今の諸侯は五人の覇者にとっては罪人である、と言うのだ。主君の惡を諫めもせず増長させるのは、もちろん罪であるが、その罪はまだ小さいほうで、主君に媚びへつらい、そそのかして悪心を引き出すに至っては、その罪は誠に大である。今の大夫たちは皆主君をそそのかして悪心を引き出している。だから私は、今の大夫は今の諸侯にとっては罪人である、と言うのだ。」

孟子曰、五霸者、三王之罪人也。今之諸侯、五霸之罪人也。今之大夫、今之諸侯之罪人也。天子適諸侯曰巡狩、諸侯朝於天子曰述職。春省耕而補不足、秋省斂而助不給。入其疆、土地辟、田野治、養老尊賢、俊傑在位、則有慶。慶以地。入其疆、土地荒蕪、遺老失賢、掊克在位、則有讓。一不朝、則貶其爵、再不朝、則削其地、三不朝、則六師移之。是故天子討而不伐、諸侯伐而不討。五霸者、摟諸侯以伐諸侯者也。故曰、五霸者、三王之罪人也。五霸、桓公為盛。葵丘之會、諸侯束牲、載書而不歃血。初命曰、誅不孝、無易樹子、無以妾為妻。再命曰、尊賢育才、以彰有德。三命曰、敬老慈幼、無忘賓旅。四命曰、士無世官、官事無攝、取士必得、無專殺大夫。五命曰、無曲防、無遏糴、無有封而不告。曰、凡我同盟之人、既盟之後、言歸于好。今之諸侯、皆犯此五禁。故曰、今之諸侯,五霸之罪人也。長君之惡其罪小。逢君之惡其罪大。今之大夫、皆逢君之惡。故曰、今之大夫、今之諸侯之罪人也。

孟子曰く、「五霸は、三王の罪人なり。今の諸侯は、五霸の罪人なり。今の大夫は、今の諸侯の罪人なり。天子の諸侯に適くを巡狩と曰い、諸侯の天子に朝するを述職と曰う。春は耕やすを省みて足らざるを補い、秋は斂むるを省みて給らざるを助く。其の疆に入るに、土地辟け、田野治まり、老を養い賢を尊び、俊傑位に在れば、則ち慶有り。慶するに地を以てす。其の疆に入るに、土地荒蕪し、老を遺て賢を失い、掊克(ホウ・コク)位に在れば、則ち讓有り。一たび朝せざれば、則ち其の爵を貶(おとす)し、再び朝せざれば、則ち其の地を削り、三たび朝せざれば、則ち六師之を移す。是の故に天子は討じて伐せず、諸侯は伐して討ぜず。五霸者、諸侯を摟(ひく)きて以て諸侯を伐する者なり。故に曰く、五霸は、三王の罪人なり、と。五霸は桓公を盛んなりと為す。葵丘の會に、諸侯、牲を束ね書を載せて、血を歃らず。初命に曰く、『不孝を誅せよ。樹子を易うる無かれ。妾を以て妻と為すこと無かれ。』再命に曰く、『賢を尊び才を育し、以て有徳を彰せ。』三命に曰く、『老を敬い幼を慈しみ、賓旅を忘るること無かれ。』四命に曰く、『士は官を世々にすること無かれ。官事は攝せしむること無かれ。士を取ること必ず得よ。專に大夫を殺すこと無かれ。』五命に曰く、『防を曲ぐること無かれ。糴を遏(とどめる)むること無かれ。封有りて告げざること無かれ。』曰く、『凡そ我が同盟の人、既に盟うの後、言に好に歸せん。』今の諸侯は、皆此の五禁を犯せり。故に曰く、今の諸侯は五霸の罪人なりと。君の惡を長ずるは其の罪小なり。君の惡を逢うるは其の罪大なり。今の大夫は、皆君の惡を逢う。故に曰く、今の大夫は今の諸侯の罪人なりと。」

<語釈>
○「五霸」、春秋の五霸と呼ばれている者で、趙注では、齊の桓公・晉の文公・秦の繆公・宋の襄公・楚の荘王である。これが一般的であるが、荀子は、齊の桓公・晉の文公・楚の荘王・呉の闔閭・越の句践を挙げている。私の考えでは宋の襄公を外して越の句践を入れるのがよいのではと思う。○「三王」、趙注:夏の禹・商の湯・周の文王、是れなり。○「春~、秋~」、この句について、天子が巡狩することによってと解釈するのが普通であるが、私は述職によってではないかと考える。○「慶」、趙注:「慶」は、賞なり。○「荒蕪」、「蕪」も荒れる意、「荒蕪」で土地が荒れていること。○「掊克」、朱注:掊克(ホウ・コク)は、聚斂なり。苛税を取りたてること。○「討・伐」、趙注:「討」は、上、下を討ずるなり、「伐」は、敵國相征伐するなり。「討」は上のものが下の者の罪を責めて討伐することで、「伐」は対等のものが利害などにより征伐すること。○「樹子」、嗣子、後継ぎの子。○「攝」、官を兼ねること。○「無曲防」、朱注:無曲防とは、曲げて堤防を為り、泉を壅ぎ水を激し、以て小利を專らにし、鄰國を病しむを得ず。○「無遏糴」、朱注:無遏糴とは、鄰國凶荒にして、糴を閉ざすを得ず。「糴」(テキ)はかいよね、米を買い入れること。○「逢君之惡」、趙注:「逢」は、「迎」なり、君の惡心未だ發せざるに、臣、諂媚を以て逢迎して、君を導き非を為す。

<解説>
この節の趣旨は、趙岐の章指に、「王道、浸衰し、轉じて罪人を為す、孟子之を傷む、是を以て博く古法を思い、時の君を匡すなり。」とある。それよりこの節の重要な部分は、歴史上有名な齊の桓公が主催した葵丘の会盟で諸侯が誓い合った誓約文の内容が述べられていることだ。その内容に関する史料がほとんどないことから、この節の重要性が増す。

百六十八節

魯では、慎子を将軍に任命して、齊と一戦を交えようとしていた。それを見て孟子は言った。
「民を教え導きもせず戦争に用いるのは、民を不幸にするというものだ。民を不幸にするものは、堯や舜の治世では許されない。一戦交えて、たとい齊に勝って南陽の地を得ることが出来たとしても、戦うのはよくないことだ。」
慎子は顔色を変えて悦ばずに言った。
「そのようなことは、私には分からない事です。」
「でははっきり申し上げよう。天子の領地は千里四方ということになっているが、それくらいなければ、その収入で諸侯を待遇することが出来ないからだ。諸侯の領地は百里四方ということになっているが、それくらいなければ、先祖の廟を守り、定められた祭祀を行うことが出来ないからだ。周公が魯に封ぜられたとき、その領地は百里四方であった。別に与える土地が不足していたのでなく、百里四方に止めたのだ。太公望が齊に封ぜられたときも、領地は百里四方であった。同じく与える土地が不足していたのではなく、百里四方に止めたのだ。ところが今の魯の領地は百里四方の五倍もある。今もし王者が現れたとしたら、魯の領地は削られるだろうか、それとも増やされるだろうか。あなたはどちらだと思う。彼の國から土地を取り上げて、他の國に与えるということは、たといそれが人を殺さず平和的な手段であっても、仁者はしないものだ。まして人を殺して奪い取るなどはもってのほかである。君子が君に仕えるのは、主君を導いて正しい道に進ませ、仁道に志すようにさせることだ。それ以外の事はない。」

魯欲使慎子為將軍。孟子曰、不教民而用之、謂之殃民。殃民者、不容於堯舜之世。一戰勝齊、遂有南陽、然且不可。慎子勃然不悅曰、此則滑釐所不識也。曰、吾明告子。天子之地方千里。不千里、不足以待諸侯。諸侯之地方百里。不百里、不足以守宗廟之典籍。周公之封於魯、為方百里也。地非不足。而儉於百里。太公之封於齊也、亦為方百里也。地非不足也。而儉於百里。今魯方百里者五。子以為有王者作、則魯在所損乎、在所益乎。徒取諸彼以與此、然且仁者不為。況於殺人以求之乎。君子之事君也、務引其君以當道志於仁而已。

魯、慎子をして將軍為らしめんと欲す。孟子曰く、「民を教えずして之を用うるは、之を民を殃すと謂う。民を殃する者は、堯舜の世に容れられず。一たび戰いて齊に勝ち、遂に南陽を有つとも、然も且つ不可なり。」慎子勃然として悅ばずして曰く、「此は則ち滑釐の識らざる所なり。」曰く、「吾、に明らかに子に告げん。天子の地は方千里。千里ならざれば、以て諸侯を待つに足らず。諸侯の地は方百里。百里ならざれば、以て宗廟の典籍を守るに足らず。周公の魯に封ぜらるるや、方百里為り。地足らざるに非ず。而も百里に儉せり。太公の齊に封ぜらるるや、亦た方百里為り。地足らざるに非ず。而も百里に儉せり。今魯は方百里なる者五あり。子以為らく、王者作ること有らば、則ち魯は損する所在るか、益する所在るかと。徒に諸を彼に取りて以て此に與うるすら、然も且つ仁者は為さず。況んや人を殺して以て之を求むるに於てをや。君子の君に事うるや、務めて其の君を引きて、以て道に當り仁に志さしむるのみ。」

<語釈>
○「滑釐」、趙注:滑釐は慎子の名。○「宗廟之典籍」、趙注:典籍は、先祖の常籍法度の文。朱注:宗廟典籍は、祭祝會同の常制なり。両注から、先祖代々から伝わってきた記録。

<解説>
力を否定し仁義を説く平和主義者孟子の侵略主義否定論である。この節だけでなく、多くの節で説かれている平和主義の理論は非常に貴重であるが、この様な考え方が戦国時代の諸侯に受け入れられないのは当然である。

『孫子』巻第七軍爭篇

2019-03-10 11:52:22 | 四書解読
巻七 軍爭篇

孫子は言う。およそ戦争をするときの法則は、将軍が君主の命を受けて、配下の兵を合わせ、兵役を課した農民を集め、軍門を構えて敵と対陣して宿営するが、敵軍との争いほど難しいものはない。敵軍との争いが難しいのは、回り道をしながら結果的に近道になるようにし、降りかかる災難を結果的に我が軍に有利になるようにしなければならないからだ。そこで敵を避けて回り道をし、一方では利益で敵を誘い惑わせ、我が軍が前進するとは思わせないようにし、利益を与えておいて敵を遅らせ、敵に送れて出発しながら、結果的に敵に先んじて至るようにする。このような事が出来るのは迂直の計を知っている者である。敵軍との争いには利益もあれば危険もある。輜重車など直接戦わない者も含め、全軍を挙げて利益のために戦えば、俊敏性を失くして利益を得ることができない。後れる兵を棄てて利を争えば、輜重車を棄てることになる。すなわち、よろいを脱いで丸めて担いで小走りし、日夜休むことなく、通常一日で走る倍の距離を強行軍して、百里の遠方に利を爭えば、上軍・中軍・下軍の大将が捕われてしまう。それは強い兵は先行し、弱い兵は後れ、十分の一の兵だけが目的地に到着するに過ぎないからだ。五十里の遠方で利を争えば、先発の上軍の大将は捕虜と為る。半分の兵だけが目的地に到着するに過ぎないからだ。三十里の遠方で利を争えば、三分の二の兵が目的地に到着するに過ぎない。このように物資を補給する輜重車が無ければ軍は亡んでしまうし、兵に支給する食糧が無くなれば軍は亡んでしまうし、必要な財貨が無ければ軍は亡んでしまう。このほか遠征に関しては、諸侯の状況も予め理解しておかなければ、諸侯と親しく交わることができない。更に遠征途上の山林・険しい場所・湿地帯。沼地などの地形をよく知らなければ、安全に軍を進めることができない。又道案内がいなければ、地の利を得ることができない。このようなことから戦いは敵を欺くことを基本として、利を得る為に動き、部隊を分散させたり、集合させたりして変化を作り出すものである。そのゆえに、動くときは疾風のように速く、ゆったりと行進する時は林のように厳かに、侵略する時は火のように烈しく、動かない時は山のように泰然としており、我が軍の動向は曇り空で日月が見えないように知り難く、一たび動けばその勢いは雷のとどろきのように激しく、村を襲って人々を離散させ、敵地を徐々に奪い兵を分けて守らせ、敵の軽重を量り知ってから動くのである。こうして敵に先んじて迂直の計を用いるものは必ず勝つ。これが戦争をする時の法則である。軍の制度に、「戦場では指揮官の声は聞こえないから、金や太鼓を作ってそれで知らせ、指揮官が手で指揮しても見えないから、旌旗を作ってそれで指揮する。」とある。金鼓や旌旗は兵士の耳目を一つにするものである。兵士が一つになり行動するようになれば、勇気のある者だけが先に進んだり、臆病な者がしり込みするようなことが無くなる。これが兵士を用いる方法である。又夜戦では松明や金鼓を多くし、昼戰では旌旗を多くするのは、敵の耳目を惑わす為である。こうして敵軍の気力を奪い、敵の将軍の心を奪って戦意を喪失させることができる。又、朝は気力が満ちており、昼は気力が鈍っており、日暮れは気力が尽きて帰ろうとしているので、戦いの上手な者は、敵を攻撃するにも、敵の気力が満ちている時は避け、敵の気力が鈍り尽きている時に攻撃する。これが気力を上手に利用することである。我が軍をよく治めて、敵軍の秩序の乱れを待ち、我が軍は静寂を保ち、敵軍の騒然となるのを待つ。これが己の心を治めて敵の心を乱すことである。我が軍は戦場の近くに陣を構え、敵軍が遠くからやってくるのを待ち、こちらは安楽にして敵の疲れるのを待ち、こちらは十分な食事をして敵が飢えるのを待つ。これが我が軍の力を治めて敵の力を弱くすることである。隊列がよく整って進軍してくる敵は迎え撃つな。盛大な陣を構えている敵は攻撃するな。これが変化によく対応するということだ。これらのことから戦争の法則は、高い所に居る敵には向かって行くな、丘を背にしている敵は攻撃するな、偽って逃げる敵は追走するな、戦意が高く鋭い敵は攻撃するな、おとりの兵に騙されて食らいつくな、帰国する部隊は攻撃して止めようとするな、敵を包囲したときは必ず一か所は開けておけ、窮地に陥っている敵を更に追い詰めるようなことはするなということである。これが戦争をする時の法則である。

孫子曰、凡用兵之法、將受命於君、合軍聚衆、交和而舍、莫難於軍爭。軍爭之難者、以迂為直、以患為利。故迂其途、而誘之以利、後人發、先人至。此知迂直之計者也。故軍爭為利、軍爭為危。舉軍而爭利、則不及。委軍而爭利、則輜重捐。是故卷甲而趨、日夜不處、倍道兼行、百里而爭利、則擒三將軍、勁者先、疲者後、其法十一而至。五十里而爭利、則蹶上將軍、其法半至。三十里而爭利、則三分之二至。是故軍無輜重則亡、無糧食則亡、無委積則亡。故不知諸侯之謀者、不能豫交。不知山林險阻沮澤之形者、不能行軍。不用鄉導者、不能得地利。故兵以詐立、以利動、以分合為變者也。故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷震。掠鄉分衆、廓地分利、懸權而動。先知迂直之計者勝。此軍爭之法也。軍政曰、言不相聞、故為金鼓。視不相見、故為旌旗。夫金鼓旌旗者、所以一人之耳目也。人既專一、則勇者不得獨進、怯者不得獨退。此用衆之法也。故夜戰多火鼓、晝戰多旌旗、所以變人之耳目也。故三軍可奪氣、將軍可奪心。是故朝氣銳、晝氣惰、暮氣歸。故善用兵者、避其銳氣、撃其惰歸。此治氣者也。以治待亂、以靜待譁。此治心者也。以近待遠、以佚待勞、以飽待飢。此治力者也。無邀正正之旗、勿撃堂堂之陣。此治變者也。故用兵之法、高陵勿向、背邱勿逆、佯北勿從、銳卒勿攻、餌兵勿食、歸師勿遏、圍師必闕、窮寇勿迫。此用兵之法也。

孫子曰く、凡そ兵を用うるの法、將、君に命を受け、軍を合わせ衆を聚め(注1)、和を交えて舍するに(注2)、軍爭より難きは莫し。軍爭の難きは、迂を以て直と為し、患を以て利と為せばなり(注3)。故に其の途を迂にして、之を誘うに利を以てし、人に後れて發し、人に先んじて至る(注4)。此れ迂直の計を知る者なり。故に軍爭は利為り、軍爭は危為り(注5)。軍を舉げて利を爭えば、則ち及ばず(注6)。軍に委して利を爭えば、則ち輜重捐てらる(注7)。是の故に甲を卷きて趨り(注8)、日夜處らず、道を倍して兼行し、百里にして利を爭えば、則ち三將軍を擒にせられ、勁き者は先んじ、疲るる者は後れ、其の法十が一にして至る。五十里にして利を爭えば、則ち上將軍を蹶し、其の法半ば至る。三十里にして利を爭えば、則ち三分の二至る。是の故に軍、輜重無ければ則ち亡び、糧食無ければ則ち亡び、委積無ければ則ち亡ぶ(注9)。故に諸侯の謀を知らざれば、豫め交わること能わず(注10)。山林・險阻・沮澤の形を知らざれば、軍を行ること能わず。鄉導(道案内)を用いざれば、地の利を得ること能わず。故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て變を為す者なり。故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く(注11)、動くこと雷震の如し。郷を掠めて衆を分かち(注12)、地を廓むるには利を分かち(注13)、權を懸けて動く(注14)。先づ迂直の計を知る者は勝つ。此れ軍爭の法なり。軍政に曰く、「言うこと相聞えず、故に金鼓を為る。視ること相見えず、故に旌旗を為る。」夫れ金鼓旌旗は、人の耳目を一にする所以なり。人既に專一なれば、則ち勇者も獨り進むを得ず、怯者も獨り退くを得ず。此れ衆を用うるの法なり。故に夜戰には火鼓を多くし、晝戰には旌旗を多くするは、人の耳目を變ずる所以なり(注15)。故に三軍は氣を奪う可く、將軍は心を奪う可し。是の故に朝氣は銳く、晝氣は惰り、暮氣は歸る。故に善く兵を用うる者は、其の銳氣を避け、其の惰歸を撃つ。此れ氣を治むる者なり。治を以て亂を待ち、靜を以て譁を待つ。此れ心を治むる者なり(注16)。近きを以て遠きを待ち、佚を以て勞を待ち、飽を以て飢を待つ。此れ力を治むる者なり(注17)。正正の旗を邀うる無かれ、堂堂の陣を撃つ勿れ。此れ變を治むる者なり(注18)。故に兵を用うるの法、高陵には向う勿れ、邱を背にするには逆う勿れ、佯り北ぐるには從う勿れ、銳卒には攻むる勿れ、餌兵は食う勿れ、歸師は遏むる勿れ、師を圍めば必ず闕き、窮寇には迫る勿れ。此れ兵を用うるの法なり。

<語釈>
○注1、十注:梅堯臣曰く、國の衆を聚め、合して以て軍と為す。張預曰く、國人を合して、以て軍を為し、兵衆を聚めて以て陳を為す、等諸説あるが、私は「合軍」は、将軍配下のそれぞれの常備兵を合わせることで、「聚衆」は農民に兵役を課して聚める意に解釈したい。○注2、十注:梅堯臣曰く、軍門を和門と為す、兩軍交々對して舎するなり。○注3、十注:張預曰く、迂曲を變じて近直と為し、患害を轉じて便利と為す、此れ軍爭の難きなり。○注4、十注:張預曰く、形勢の地、爭い得れば則ち勝つ、凡そ近く便地を爭わんと欲せば、先づ兵を引きて遠く去る、復た小利を以て敵に啗わし、彼をして我が進むを意わず、又我が利を貪らしむ、故に我以て後れて發して先に至るを得、此れ所謂迂を以て直と為し、患いを以て利と為すなり。○注5、十注:梅堯臣曰く、軍爭の事は利有り、危有り。杜佑曰く、善なる者は則ち利を以てし、不善なる者は則ち危を以てす、兩軍交爭するに奪取する所有り、言う、之を得れば則ち利あり、之を失えば則ち危あり、と。「故に軍爭は利の為にせば、軍爭は危為り。」と読む説もあるが取らない。○注6、十注:張預曰く、軍を竭くして前めば、則ち行くこと緩やかにして、利に及ぶこと能わず。「舉軍」は、直接戦いに参加しない輜重車や工兵なども含めたすべての軍のこと。注7、「委軍」の解釈について、「委」は委棄するの意に、「軍」は、遅れる部隊の意、後れる兵は棄てて先に行くこと。○注8、「卷甲而趨」とは、よろいを脱いで丸めてかついて走ること。○注9、十注:張預曰く、輜重無ければ、則ち器用供わらず、糧食無ければ、則ち軍餉足らず、委積無ければ、財貨充たず、皆亡覆の道なり、此の三者、軍を委てて利を爭うを謂うなり。○注10、十注:梅堯臣曰く、敵國の謀を知らざれば、預め鄰國と交わりて、以て援助を為す能わず。○注11、十注:張預曰く、陰雲、天を蔽い、辰象觀る莫きが如し。○注12、「掠鄉分衆」は、“郷に掠めて衆に分かつ”と読み、奪った物資を兵士に分ける意に解釈する説が多いが、私は次句との関係を考えて、“郷を掠めて衆を分かつ”と読み、敵の人的資源を分散させる意に解釈した。○注13、「廓」は“ひろめる”と訓ず、「廓地分利」は“地を廓めて利を分かつ”と読んで、敵地を得てその利益を兵士に分ける意に解釈するのが一般的であるが、私は、“地を廓むるには利を分かち”と読み、敵地を少しづつ切り取り、兵を分けてその地の利を守らせる意味に解釈した。注12と注13とをこのように解釈した理由は、一般的な読みをすれば、それは戦後処理の内容になり、それまで述べてきた軍争の法からかけ離れるからである。○注14、十注:張預曰く、權(おもり)を衡(はかりさお)に懸くるが如く、軽重を量り知り、然る後動くなり。○注15、「多い」の解釈は、火鼓を用いることを多くする意と、火鼓を多くする意とがある。後者を採用して、夜は松明と金鼓で敵を惑わせ、昼は旌旗で敵の目をごまかす意に解釈する。十注:梅堯臣曰く、多きは、以て敵人の耳目を變惑せんことを欲するなり。張預曰く、凡そ敵と戦うに、夜なれば、則ち火鼓を息めず、晝なれば、則ち旌旗相續け、以て敵人の耳目を變亂し、其の我に備うる所以の計を知らざらしむ。○注16、「譁」(カ)は口やかましく騒ぐ意。十注:張預曰く、此れ所謂善く己の心を治め、以て人の心を奪う者なり。○注17、十注:張預曰く、此れ所謂善く己の力を治めて、以て人の力を困める者なり。○注18、十注:杜佑曰く、正正は整齊(まとめととのえる)なり、堂堂は盛大の貌。張預曰く、此れ所謂善く変化の道を治め、以て敵人に應ずる者なり。

<解説>
題意については、十注:王晳曰く、爭は、利を爭うなり、利を得れば則ち勝つ、宜しく先づ輕重を審らかにし、迂直を計り、敵をして我が勞に乘ぜしむる可からざるべし。張預曰く、軍爭を以て名を為すは、兩軍相對して利を爭を謂うなり、先づ彼我の虚實を知り、然る後人と勝を爭う、故に虚實に次すなり、とある。
 この篇は何といっても誰もが知っている武田信玄の旗印“風林火山”の出典であるということだ。戦争の心得は迂直の計を知ることであり、動と静とを上手に運用することであり、そのうえで敵を制御する四つの方法、治氣・治心・治力・治變に務めることである。

『孟子』巻第十二告子章句下 百六十五節、百六十六節

2019-03-03 11:01:08 | 四書解読
百六十五節

孟子が鄒に住んでいた時、任国の留守居役で、国君の弟季任が礼物を贈って交際を求めてきた。孟子は礼物は受け取ったが、答礼には行かなかった。平陸に滞在していたときも、齊の宰相であった儲子が、礼物を贈って交際を求めてきた。孟子は礼物は受け取ったが、答礼には行かなかった。後日、鄒から任国に出かけたとき、季任に会って答礼をしたが、平陸から齊に出かけたときは、儲子に会わなかった。弟子の屋廬子は、これで先生の考えに付け込む隙間を見つけたと喜んで、孟子に尋ねた。
「先生は任国に行かれた時は、季任にお会いになられましたが、齊に出かけたときは儲子にお会いになられませんでした。それは儲子が宰相で、国君の弟である季任より身分が低いからですか。」
「そうではない。『書経』の周書洛誥篇に、『物を贈るには礼儀を厚くするものだ。物を贈るのに礼儀が伴わないことを、贈らないのと同じで、不享と言う。それは贈り物に真心がこもっておらないからだ。』とあるが、私が儲子に会わなかったのは、心のこもった真の贈り物で無かったからだ。」
屋廬子は納得し悦んだ。だがそれを納得しないある人が屋廬子に尋ねた。屋廬子は言った。
「季子は任国の留守居役で鄒に行くことは出来なかったので、あれで礼を尽くしたことになるが、儲子は平陸に行くことが出来たのに行かなかった。これは礼を欠いているのだ。」

孟子居鄒。季任為任處守。以幣交。受之而不報。處於平陸。儲子為相。以幣交。受之而不報。他日由鄒之任、見季子、由平陸之齊、不見儲子。屋廬子喜曰、連得閒矣。問曰、夫子之任見季子、之齊不見儲子、為其為相與。曰、非也。書曰、享多儀。儀不及物曰不享。惟不役志于享。為其不成享也。屋廬子悅。或問之。屋廬子曰、季子不得之鄒、儲子得之平陸。

孟子、鄒に居る。季任、任の處守為り。幣を以て交る。之を受けて報ぜず。平陸に處る。儲子、相為り。幣を以て交る。之を受けて報ぜず。他日、鄒由り任に之き、季子を見、平陸由り齊に之き、儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、「連、閒を得たり。」問いて曰く、「夫子、任に之きて季子を見、齊に之きて儲子を見ざるは、其の相為るが為か。」曰く、「非なり。書に曰く、『享は儀を多くす。儀、物に及ばざるを不享と曰う。惟れ志を享に役せざればなり。』其の享を成さざるが為なり。」屋廬子悅ぶ。或ひと之を問う。屋廬子曰く、「季子は鄒に之くことを得ざるも、儲子は平陸に之くことを得たりしなり。」

<語釈>
○「季任」、趙注:任は薛の同性の小国なり、季任は任君の季弟(末弟)なり。○「儲子」、趙注:儲子は齊の相なり。○「連得閒」、趙注:連は屋廬子の名なり。「得閒」の解釈は諸説ある、服部宇之吉氏云う、得閒とは、孟子の行為に就いて乘ずべき間隙を得たりとの意。付け込む隙を見つけたということで、これを採用する。○「享」、朱注:享は、上に奉ずるなり。物を献上する意。

<解説>
進物はただ贈ればよいというものでなく、それに心がこもっていることが大切なのである。だが実際には形式的に物を贈ることは多々あり、それはそれでよいと思うが、儒教の世界では許されないのだろう。趙岐の章指を紹介しておく。
「君子の交接の動は、禮に違わず、享見の儀は、亢答に差あらず、是を以て孟子或いは見、或いは否らず、各々其の宜しきを以てするなり。」

百六十六節

淳于髡が言った。
「名誉と功績を第一に考える人は、人の為に尽くそうとする者です。名誉と功績を二の次に考える人は、ひたすらわが身を修めようとする者です。先生は齊の三大臣の一人でありながら、名誉功績が未だ上は国君、下は民にまで及んでゆかないのに、お止めになって齊を去ろうとしておられます。仁者とはそういうものなのですか。」
孟子は言った。
「賢者でありながら民間に隠れて不肖の君に仕えなかったのが、伯夷である。民を救おうとして、五たびも桀王に仕え湯王に仕えたのは、伊尹である。心の汚れた君でも気にせず仕え、どんな低い官職でも辞退しなかったのは、柳下惠である。この三人の者の進んだ道はそれぞれ異なっていたが、目指す所は同じであった。その目指す所とは何か、仁である。君子たる者が目指す所のものも亦た仁である。目指す所の仁が同じであればよいのであって、同じ行動をとる必要はないのだ。」
「魯の繆公の時には、公儀子が国を治めていて、賢者で知られる子柳・子思が臣として仕えておりながら、魯の領土は以前にもまして削り取られていきました。賢者とはこのように国にとっては何の役にもたたない者なのでしょうか。」
「虞国は百里奚を用いなかったために滅亡し、秦の繆公は彼を用いて覇者となった。このように賢者を用いなかった場合には亡びてしまうのであって、地を削られるぐらいで済めばよいほうだ。」
「昔、歌の上手な衛の王豹が淇水のほとりに住んでいたので、その付近の河西地方の人たちはみな歌がうまくなった。緜駒は齊の西の方の高唐に住んでいたので、齊の西部の人たちは歌が上手になった。華周・杞梁の妻は夫が戦死したとき、その痛み悲しんで哭する姿は人々をを感動させ、以後齊の風俗をすっかり変えてしまった。このように内にある者は必ず外に感化を及ぼすもので、仕事をきちんとしているにもかかわらず、その実績が現れないということは、私は未だ嘗て見たことがありません。このことからして齊の国がいっこうに実績が上がらないということは、齊の国には賢者がいないのでしょう。もしいれば私にも必ず分かるずです。」
「昔、孔子が魯の司寇という名の大臣になったとき、その意見はほとんど用いられなかった。ある時主君に従って祭りに参列したが、祭祀が終わっても、礼として分配されるべき供え物の焼き肉が分配されなかった。そこで孔子は礼服の冠を脱ぐ暇も惜しんで、そそくさと魯国を去った。この行為に対して、孔子を知らない人たちは、焼き肉が分配されなかったからだと言い、知っている人たちは、魯君の態度が礼に欠けていたが為だと言った。だが実際はどちらでもなく、孔子は以前から魯を去りたいと思っていたが、口実がなく去れなかったので、今君の礼に欠ける態度を見て、これは大臣である自分の微罪でると思い、それを理由に魯を去ったのであって、むやみに去ろうとされたのではない。このように君子の行いは、凡人にはとうてい分からないものだ。」

淳于髡曰、先名實者為人也。後名實者自為也。夫子在三卿之中、名實未加於上下而去之。仁者固如此乎。孟子曰、居下位、不以賢事不肖者、伯夷也。五就湯、五就桀者、伊尹也。不惡汙君、不辭小官者、柳下惠也。三子者不同道、其趨一也。一者何也。曰、仁也。君子亦仁而已矣。何必同。曰、魯繆公之時、公儀子為政、子柳・子思為臣。魯之削也滋甚。若是乎、賢者之無益於國也。曰、虞不用百里奚而亡、秦繆公用之而霸。不用賢則亡。削何可得與。曰、昔者王豹處於淇、而河西善謳。緜駒處於高唐、而齊右善歌。華周・杞梁之妻善哭其夫、而變國俗。有諸內必形諸外。為其事而無其功者、髡未嘗覩之也。是故無賢者也。有則髡必識之。曰、孔子為魯司寇、不用。從而祭、燔肉不至。不稅冕而行。不知者以為為肉也。其知者以為為無禮也。乃孔子則欲以微罪行。不欲為苟去。君子之所為、衆人固不識也。

淳于髡曰く、「名實を先にする者は人の為にするなり。名實を後にする者は自ら為にするなり。夫子は三卿の中に在りて、名實未だ上下に加えずして之を去る。仁者は固より此の如きか。」孟子曰く、「下位に居り、賢を以て不肖に事えざる者は、伯夷なり。五たび湯に就き、五たび桀に就く者は、伊尹なり。汙君を惡まず、小官を辭せざる者は、柳下惠なり。三子の者は道を同じうせざるも、其の趨は一なり。一とは何ぞや。曰く、仁なり。君子も亦た仁のみ。何ぞ必ずしも同じからん。」曰く、「魯の繆公の時、公儀子、政を為し、子柳・子思、臣為り。魯の削られるや、滋々甚し。是の若きか、賢者の國に益無きことや。」曰く、「虞、百里奚を用いずして亡び、秦繆公之を用いて霸たり。賢を用いざれば則ち亡ぶ。削らるること何ぞ得可けんや。」曰く、「昔者、王豹、淇に處り、而して河西善く謳う。緜駒(メン・ク)、高唐に處り、而して齊右善く歌う。華周・杞梁の妻、善く其の夫を哭し、而して國俗を變ず。諸を內に有すれば、必ず諸を外に形わす。其の事を為して其の功無き者は、髡未だ嘗て之を覩ざるなり。是の故に賢者無きなり。有らば則ち髡必ず之を識らん。」曰く、「孔子、魯の司寇と為りて、用いられず。從って祭りしに、燔肉至らず。冕を脱がずして行る。知らざる者は以て肉の為なりと為し、其の知る者は以て禮無きが為なりと為す。乃ち孔子は則ち微罪を以て行らんと欲す。苟くも去ることを為すを欲せざるなり。君子の為す所は、衆人固より識らざるなり。」

<語釈>
○「名實」、趙注:名は道徳を有するの名なり、實は、國を治め民を惠するの功實なり。名誉と功績。○「五就湯、五就桀者」、趙注:伊尹は湯の為に桀に貢せられ、桀用いずして湯に歸す、湯復た之を貢す、此の如くすること五たび、民を濟わんことを思い、其の道を施行せんことを冀うなり。○「趨」、服部宇之吉氏云う、趨は心の趨く所なり、此にては履むところの道を云う。○「削何可得與」、趙注:賢無くんば國亡ぶ、何ぞ但に削らるるを得るのみならんや、豈に賢を用いざる可けんや。他の解釈もあるが趙注に從う。○「王豹」、趙注:王豹は衛の善く謳う者なり。○「緜駒」、朱注:緜駒(メン・ク)は、齊人、善く歌う。○「燔肉不至」、「燔肉」は、祭祀に供えられた焼肉。「燔肉不至」とは、祭祀が終われば供え物の燔肉は大臣たちに分配するのが礼であるのに、分配されなかったこと。○「欲以微罪行」、趙注:微罪を以て行らんと欲するは、燔肉至らず、我黨として祭りに從うの禮備わらざるは、微罪有らんや。主君に従って参列した祭祀で主君が礼を欠いたことは、大臣である自分の微罪であると思ったという意。他にも諸説あるが、趙注に從う。

<解説>
さすがに淳于髡と言うべきか。かの孟子もその返答に窮しているさまがよくうかがえる。淳于髡の三つの質問に対して、孔子の答えはどれもその真意から外れているようだ。孟子お得意のごまかしと言う所か。
孔子について、「苟くも去ることを為すを欲せざるなり。」と孟子は述べているが、其の心の中は誰にも分らない。