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『論語』学而第一 13、14、15、16章

2020-04-30 11:30:44 | 漢文
13
有子は言う。約束事は事の宜しきに適っておれば、言葉通りに実行してもよい。恭敬が礼の節度に適っていれば、人から恥辱を受けることはない。人との交際で、本当に親しむべき人を見失わなずに得ることができたなら、その人を尊敬して模範とすべきだ。

有子曰、信近於義、言可復也。恭近於禮、遠恥辱也。因不失其親、亦可宗也。

有子曰く、信、義に近ければ、言復む可きなり。恭、禮に近ければ、恥辱に遠ざかる。因ること其の親を失わざれば、亦た宗ぶ可きなり。

<語釈>
○「信近於義、言可復也」、朱注:「信」は約信なり、「義」は事の宜しきなり、「復」は言を踐むなり、言、信を約して其の宜しきに合すれば、則ち言必ず踐む可し。○「恭近於禮、遠恥辱也」、恭は敬を致すなり、禮は節文なり、恭を致して其の節に中れば、則ち能く恥辱に遠し。○「因不失其親、亦可宗也」、朱注:因る所、其の親しむ可きの人を失わざれば、則ち亦た以て宗びて之を主とす可し。

<解説>
この章は人の言行交際を述べたものである。朱子は云う、「此の言は、人の言行交際、皆當に之を始めに謹みて、其の終る所を慮るべし、然らずんば、則ち因仍(因循)苟且(姑息)の閒に、将に其の自失の悔に勝えざる者有らんとするなり。」

14
孔子は言う。学問を志す人が、飽食を求めず、安楽な住居を求めず、知らない事は速やかに学び、言葉は慎重にして余計なことは言わず、分からないことがあれば有徳者に就いて事の是非を尋ねる、このようであれば本当に学問が好きな人だと言うことができる。

子曰、君子食無求飽、居無求安、敏於事而、慎於言、就有道而正焉。可謂好學也已。

子曰く、君子は食飽くことを求むる無く、居安きことを求むる無く、事に敏にして、言に慎み、有道に就きて正す。學を好むと謂う可きのみ。

<語釈>
○「君子」、集解:鄭玄曰く、學ぶ者の志、暇あらざる所有り。これに由り君子は学問に志す人と解する。○「敏於事」、朱注:敏於事は、其の足らざる所に務む。知らない事は速やかに学ぶ意。○「就有道而正」、集解:孔安國曰く、有道は道徳有る者なり、正すに事の是非を問うを謂う。

<解説>
学問を求める為の心構えが説かれている。朱注に尹焞の言葉が引用されている。面白いので紹介しておく。朱注:尹氏曰く、君子の學は、是の四者を能くすれば、篤志力行者と謂う可し、然れども正を有道に取らざれば、未だ差有るを免れず、楊墨の如く、仁義を學びて差ある者なり、其の流れは父無く君無きに至る、之を學を好むと謂うは可なるか。利己主義者の楊朱や博愛主義者の墨翟は仁義を言いながら父子の孝、君臣の忠の道から外れていった。それは有徳者に就いて事の是非を正さなかったからであり、本当に学を好んだ者とは言えないと言っている。

15
子貢が孔子に尋ねた、「貧しくても人に諂うことなく、富んでいても傲慢になることがない、こういう人物はいかがでございましょう。」孔子は答えた、「まあ結構なことである。しかし貧乏していても貧乏を忘れて道を楽しみ、富んでいても富を忘れて礼儀を愛し好む人には及ばない。」子貢は言った、「『詩経』に、『骨や角を細工する者は、これを切り取って磨き、玉や石を細工する者は、これを砕いて磨きに磨く。』とありますがこの事を言ったものでございましょうか。」孔子は言った、「賜よ、よく詩の内容を理解している、それでこそ共に詩を語りあえることが出きるというものだ。お前は聞いたことから未だ聞かない事を知る者だ。」

子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如。子曰、可也。未若貧而樂、富而好禮者也。子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨。其斯之謂與。子曰、賜也、始可與言詩已矣。告諸往而知來者。

子貢曰く、「貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは、何如。」子曰く、「可なり。未だ貧しくして樂み、富みて禮を好む者には若かざるなり。」子貢曰く、「詩に云う、『切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し。』其れ斯を之れ謂うか。」子曰く、「賜や、始めて與に詩を言う可きのみ。諸に往を告げて來を知る者なり。」

<語釈>
○「詩」、『詩経』衛風淇澳篇。○「如切如磋、如琢如磨」、切磋琢磨の語源である。朱注:骨角を治むる者は、既に之を切り復た之を磋す、玉石を治むる者は、既に之を琢して復た之を磨く、之を治むること已に精しくして益々其の精ならんことを求むなり。○「往・來」、朱注:往は、其の已に言う所の者、來は、其の未だ言わざる所の者。已に言う所の者は、孔子が言った、「未だ貧しくして樂み、富みて禮を好む者には若かざるなり。」の言葉、未だ言わざる所の者は、切磋琢磨のこと。

<解説>
朱注:子貢自ら以えらく、諂うこと無く驕ること無く、至為り、と、夫子の言を聞き、又義理の窮むる無きを知り、得る有りと雖も、未だ遽に自足す可からざるなり、故に是の詩を引きて之を明らかにす。子貢は孔子の十哲の一人で頭がよく言語に秀でた人物である。そのことがこの章で明らかにされている。

16
孔子は言う。「人が自分の徳や学力を知らないからと言って気にすることはない。それより他人の賢愚、正邪を知らないことを心配せよ。」

子曰、不患人之不己知、患不知人也。

子曰く、「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。」

<解説>
この章は学問を志す者の心構えを説いたものであると言えるが、その反面、諸国を歴遊して結局どこからも採用されなかった孔子の思いが伝わってくるようである。「人之不己知」の「人」は君主を意識しているのではなかろうか。

『呉子』圖國第一  第二章

2020-04-21 11:32:35 | 兵書
第二章
呉子は言う。道とは事物のあるべき筋道で人が拠り所とする所のものであり、その根本をふりかえり、その始めとなる所を行うことによって天理に近づくことである。義とは心の制約に基づいて行うべきことは行い、行うべきでないことは行わない。そうすることによって適切に事を行い功を立てさせるものである。謀とは害を避け利益を得る為に智慮を使い圖りごとを為すことである。要とは礼儀を守り慎ましくすることであり、それにより生業を保持し成果を保持することができるものである。もしも為政者の行いが道に外れており、その行動が義にそむくものであり、それでいて高い地位、貴い身分に安住していれば、必ずその身に禍が及ぶだろう。このような訳で聖人は道によって民を安んじ、義によって民を治め、礼によって民を動かし、仁によって民を慰撫する。君主がこの道・義・礼・仁の四徳を修めれば国家は繁栄し、これを捨て去れば国家は衰亡する。だから殷の湯王がこの四徳を顧みなかった桀王をを討伐したとき、夏の民は皆喜んだのである。周の武王が殷の紂王を征伐したとき、殷の民は誰もそれを非難しなかった。これらは皆天命と人心とに適っていたのである。だからこのような結果になったのである。

呉子曰、夫道者、所以反本復始。義者、所以行事立功。謀者、所以違害就利。要、所以保業守成。若行不合道、舉不合義、而處大居貴、患必及之。是以聖人綏之以道、理之以義、動之以禮、撫之以仁。此四德者、修之則興、廢之則衰。故成湯討桀而夏民喜悅、周武伐紂而殷人不非。舉順天人、故能然矣。

呉子曰く、「夫れ道とは、本に反り始に復る所以なり(注1)。義とは、事を行い功を立つる所以なり(注2)。謀とは、害を違け利に就く所以なり(注3)。要とは、業を保ち成を守る所以なり(注4)。若し行、道に合わず、舉、義に合わずして、大に處り貴に居れば、患必ず之に及ぶ。是を以て聖人之を綏んずるに道を以てし、之を理むるに義を以てし、之を動かすに禮を以てし、之を撫するに仁を以てす。此の四德は、之を修むれば則ち興り、之を廢すれば則ち衰う。故に成湯、桀を討ちて、夏の民喜悅し、周武、紂を伐ちて殷人非とせず。舉、天人に順う、故に能く然るなり。」

<語釈>
○注1、直解:道とは、事物當然の理にして、人の共に由る所なり、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の如き、是れなり、人能く居る所の位に即きて、事に随いて其の根本を反求し、其の始初、天より稟受の理に復還すれば、則ち道盡くさざること無し。○注2、直解:義とは心の制にして、事の宜しきに合うなり、其の當に為すべき所は、則ち之を行い、當に為すべからざる所は、則ち之を止む、惟其の心に裁制有りて、事皆宜しきに合うは、能く事を行い功を立つる所以にして、國を圖るの義を得たるなり。○注3、直解:謀とは、智慮籌度するなり、惟其の智慮有りて能く籌度するは、害を見れば則ち避け、利を見れば則ち趨る所以なり、夫れ國を圖るの謀は專ら其の利を得て害を遠ざけんと欲するなり。○注4、直解:要とは、之を約するに禮を以てするなり、孔子曰く、「約を以て之を失う者は鮮し。」惟能く禮を以て之を約するは能く業を保ち成を守る所以なり

<解説>
国の治め方について述べられているのであるが、第一章に引き続き、この章も君主による民への対処の仕方について説かれている。君主が道・義・礼・仁の四徳を修めて人民に接すれば、人民は君主の為に死を恐れずに戦ってくれる。その目指す所は第一章と同じである。

『論語』学而第一 10、11、12章

2020-04-12 11:36:47 | 中庸解読
10

子禽が兄弟子の子貢に尋ねた、「孔先生は、どこの国へ行かれても、その国の政治について相談をうけられます。これは先生から求めたのでしょうか、それともその国の君主たちが求めたのでしょうか。」子貢は答えた、「先生は、穏やかさ、素直さ、恭しさ、つつましやかさ、謙遜の五つの徳を修められた方だから、国君が敬い信じて自ら相談に来られるのだ。先生から求めることもあるにはあるが、それは世間の人が何らかの利を期待して求めるのとは大いに違うようだね。」

子禽問於子貢曰、夫子至於是邦也、必聞其政。求之與、抑與之與。子貢曰、夫子温良恭儉讓以得之。夫子之求之也、其諸異乎人之求之與。

子禽、子貢に問いて曰く、「夫子、是の邦に至るや、必ず其の政を聞く。之を求めたるか、抑も之を與えたるか。」子貢曰く。「夫子は温・良・恭・儉・讓、以て之を得たり。夫子の之を求むるや、其れ諸れ人の之を求むるに異なるか。」

<語釈>
○「子禽、子貢」、朱注:子禽、姓は陳、名は亢、子貢、姓は端木、名は賜、皆孔子の弟子、或いは曰く、亢子は子貢の弟子と、未だ孰れか是なるかを知らず。取り敢えず共に孔子の弟子として、子貢を兄弟子と解釈しておく。○「是邦」、皇侃云う、是は此なり、此の邦は毎邦を謂う、一國に非ざるなり。○「夫子温良恭儉讓以得之。~」朱注:温は和厚なり、良は易直(すなお)なり、恭は荘敬なり、倹は節制なり、讓は謙遜なり、言は、夫子未だ嘗て之を求めず、但に徳容是くの如し、故に時の君、敬信して、自ら其の政を以て就きて之に問うのみ、他人の必ず之に求めて、而る後得るが若きに非ざるなり。

<解説>
孔子は官を求めて諸国を巡り、政治について相談は受けている。しかし結局は採用されることはなかった。それと言うのも、孔子の説く徳治主義は一種の理想論である。孔子の時代、周の権威も衰え、諸国は富国強兵に務めていたのである。建前として話は聞いても、現実には実行できる内容ではない。

11
孔子は言う、父の在世中は、よく父の志を考えてそれに従うことに務め、己一人の了見で改めることなく、その没後は父の行ってきたことをよく観察して、其の行いに背かないようにする。こうして喪中の三年閒は父を哀慕して、父の歩んできた道を改めることなく守り通すのは、誠に親孝行だと言えるだろう。

子曰、父在觀其志、父沒觀其行。三年無改於父之道、可謂孝矣。

子曰く、父在せば其の志を觀、父沒すれば其の行を觀る。三年父の道を改むること無きは、孝と謂う可し。

<語釈>
○「父在觀其志」、孔安國曰く、父在せば子自ら專らするを得ず、故に其の志を観るのみ。

<解説>
この章は孝について述べられたものであるが、人の孝であるか否かを見分ける三つの基準を述べたものであるとする意見もある。乃ち父が在世中は、その子が父の考えにどれだけ忠実であるかを見ればよく、没後は父の行いをどれだけ守っているかを見ればよく、三年の喪中の間は父の道にどれだけ従順であるかを見ればよく、この三つがその人が親孝行であるか否かを見分ける目安になるということである。又「三年無改於父之道、可謂孝矣」については、朱注に尹氏曰く、其れ道の如きは、終身改むる無きと雖も可なり、其れ道に非ざるが如きは、何ぞ三年を待たん、然らば則ち三年改むる無き者は、孝子の心忍びざる所有るが故なり、とあり、道に外れたことについては守り通す必要はないと述べられている。今の我々にはこの意見の方が取り入れやすい。

12
有子は言う、礼というものは、自然の節度、人の行いの拠り所であり、それらは調和がとれていることが大切なのである、先王の道もそうであってこそ立派だとしている。しかし何事も大小にかかわらず調和を大切にしたとしても、うまくいかないことがある。それは和の大切な事を知りそのように心掛けていても、礼という節度に基づかなければ、大小にかかわらず何事もうまくいかないということである。

有子曰、禮之用和為貴。先王之道、斯為美。小大由之、有所不行。知和而和、不以禮節之、亦不可行也。

有子曰く、禮は之れ和を用て貴しと為す。先王の道も、斯を美と為す。小大之に由るも、行われざる所有り。和を知りて和すれども、禮を以て之を節せざれば、亦た行う可からざればなり。

<語釈>
○「禮之用和為貴」、朱注:禮は、天理の節文、人事の儀則なり。○「小大由之」、「之」の解釈は、「礼」を指す説と「和」を指す説があるが、後者を採用する。○「知和而和、不以禮節之、亦不可行也。」、朱注:之の如くして、復た行わざる所有るは、其の徒に和の貴しと為すを知るのみを以て、和に一にし、復た禮を以て之を節ざれば、則ち亦た復た禮の本然に非ざるなり。

<解説>
礼を行うに当たっては調和を大切にしなければならない。しかし調和を大切にするあまり、礼による節度を忘れてはいけない。服部宇之吉氏云う、禮は厳を主とす、故に和を以てして始めて中を得、又和も禮によりて中を得。

『史記』衛将軍驃騎列伝

2020-04-05 11:59:12 | 中庸解読
大將軍衛青は、平陽の人なり。其の父鄭季は吏と為りて、平陽侯の家に給事し、侯の妾衛媼と通じて、青を生む。青の同母兄は衛長子、而して姊の衛子夫は平陽公主の家自り幸を天子に得たり。故に姓を冒して衛氏と為す。字は仲卿なり。長子、字を長君に更む。長君の母は號して衛媼と為す。媼の長女は衛孺、次女は少兒、次女は即ち子夫なり。後子夫の男弟歩廣あり、皆衛氏を冒す。青、侯の家人と為る。少時其の父に歸る。其の父羊を牧せしむ。先母の子皆之を奴畜し、以て兄弟の數と為さず。青嘗て從い入りて甘泉の居室に至る。一鉗徒(ケン・ト、鉄の首枷を受けた囚人)有り、青を相して曰く、「貴人なり。官は封侯に至らん。」青笑いて曰く、「人奴の生、笞罵せらるること毋きを得ば、即ち足る。安くんぞ封侯の事を得んや。」青壯たりて侯家の騎と為り、平陽主に從う。
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