gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『史記』韓信盧綰列伝

2018-05-28 10:17:30 | 四書解読
韓王信は、故の韓の襄王の孽孫(ゲツ・ソン、庶子)なり。長八尺五寸。項梁の楚の後懷王を立つるに及び、燕・齊・趙・魏皆已に前に王たり。唯だ韓のみ後有る無し。故に韓の諸公子橫陽君成を立てて韓王と為し、以て韓の故地を撫定せんと欲す。項梁敗れて定陶に死するや、成、懷王に奔る。沛公、兵を引きて陽城を撃ち、張良をして韓の司徒を以て韓の故地を降下せしむ。信を得、以て韓の將と為す。其の兵を将いて沛公に從いて武關に入る。沛公立ちて漢王と為る。韓信從いて漢中に入る。乃ち漢王に説きて曰く、「項王、諸將を近地に王とし、而して王獨り遠く此に居る。此れ左遷なり。士卒は皆山東の人、跂(つまだてる)てて歸るを望む。其の鋒の東に鄉うに及ばば、以て天下を爭う可し。」漢王還りて三秦を定む。乃ち信に韓王と為るを許し、先づ信を拜して韓の太尉と為し、兵を將いて韓の地を略せしむ。項籍の諸王を封ずるや、皆國に就かしめしが、韓王成は從わずして功無きを以て、遣りて國に就かしめず、更めて以て列侯と為す。漢が韓信をして韓の地を略せしむと聞くに及び、乃ち故と項籍が呉に游びし時の呉の令鄭昌をして韓王と為し、以て漢を距がしむ。
 続きはホームページで、http://gongsunlong.web.fc2.com/

『呂氏春秋』巻第二十三貴直論

2018-05-21 10:36:06 | 四書解読
巻二十三 貴直論

一 貴直

一に曰く。賢主の貴ぶ所は士に如くは莫し。士を貴ぶ所以は、其の直言の為なり。言直なれば則ち枉れる者見ゆ。人主の患いは、枉れるを聞かんと欲して直言を惡む。是れ其の源を障ぎて其の水を欲するなり。水奚に自りてか至らん。是れ其の欲する所を賤しみて、其の惡む所を貴ぶなり。欲する所奚に自りてか來たらん。能意、齊の宣王に見ゆ。宣王曰く、「寡人、子が直を好むと聞く。之れ有りや。」對えて曰く、「意惡くんぞ直を能くせん。意聞く、直を好むの士は、家、亂國に處らず、身、污君に見えず、と。身、今王に見ゆるを得て、家、齊に宅る。意惡くんぞ直を能くせん。」宣王怒りて曰く、「野士なり。」將に之を罪せんとす。能意曰く、「臣少くして事を好み、長じて之を行う。王胡ぞ野士を與うること能ざわるや(高注:「與」は猶ほ「用」なり)。將に以て其の好む所を彰わさんか。」王乃ち之を舍す。能意なる者は、主の側に於いて論を謹まからしめば、亦必ず主に阿らじ。主に阿らざれば、得る所は、豈に少なからんや。此れ賢主の求む所にして、不肖の主の惡む所なり。狐援、齊の湣王に説きて曰く、「殷の鼎は周の廷に陳ねられ、其の社は周の屏に蓋われ、其の干戚の音は(干はたて、戚はまさかり、それを持って舞うこと)、人の游に在り。亡國の音は、廟に至ることを得ず。亡國の社は、天に見わるることを得ず。亡國の器、廷に陳ぬるは、戒めと為す所以なり。王必ず之に勉めよ。其れ齊の大呂をして之を廷に陳ねしむること無く、太公の社をして之を屏に蓋われしむること無く、齊の音をして人の游に充てしむること無かれ。」齊王受けず。狐援出でて國に哭すること三日、其の辭に曰く、「先づ出づるや、絺紵を衣(「絺」(チ)は葛布、「紵」
麻布、共に粗末な衣の意)、後れて出づるや、囹圄に満たされん。吾今、民の洋洋然として東に走りて處る所を知らず。」齊王、吏に問いて曰く、「國に哭するの法は若何。」吏曰く、「斮らん(高注:「斮」は「斬」なり)。」王曰く、「法を行え。」吏、斧質を東閭に陳ね、之を殺すことを欲せずして、之を去らしめんと欲す。狐援聞きて、蹶往(「蹶」はつまづくこと、つまづきながら行く)して之に過る。吏曰く、「國に哭するの法斮らる。先生の老たるか昏せるか。」狐援曰く、「曷為れぞ昏せんや。」是に於て乃ち言いて曰く、「人有り、南方自り來たり、鮒入して鯢居す(「鮒」はふなで小魚を指し、「鯢」(ゲイ)は山椒魚で大魚を指す、低い身分でやってきて高い地位を得て居座っている貌を言っている)。人の朝をして草と為り、國をして墟と為らしむ。殷に比干有り、呉に子胥有り、齊に狐援有り。已に若き言を用いず、又之を東閭に斮らんとす。斮るに毎る者は(高注:「毎」は猶ほ「當」なり)、吾を以て夫の二子に參せしむる者か。」狐援は斮らるることを樂しむに非ざるなり。國已に亂れ、上已に悖る。社稷と民人を哀しみ、故に若き言を出だせり。若き言を出だすは平論(平常の論)に非ざるなり。將に以て敗を救わんとするなり。固より危うきに嫌し(高注:「嫌」は猶ほ「近」なり)。此れ觸子の之を去る所以なり、達子の之に死する所以なり(觸子、達子共に湣王の臣)。趙簡子、衛の附郭を攻むるに、自ら兵を將う。戰うに及びて、且に遠くに立たんとし、又犀蔽屏櫓の下に居る、之に鼓すれども士起たず。簡子、桴(フ、ばち)を投じて歎じて曰く、「鳴呼、士の遬弊すること(「遬」は速やか、「弊」は疲れる)一に此の若きか。」行人燭過、冑を免き戈を横たえて進みて曰く、「亦(「唯」の義に読む)君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子艴然(顔色を変えて怒る貌)として色を作して曰く、「寡人の使う無くして、身自ら是の衆を将いるや、子親しく寡人の無能を謂う。說有らば則ち可なるも、說無くんば則ち死せん。」對えて曰く、「昔吾が先君獻公は位に即きて五年、國を兼ぬること十九、此の士を用いたるなり。惠公は位に即きて二年、淫色暴慢にして、身は玉女を好む。秦人我を襲い、絳を遜去すること七十(絳の都を去ること七十里)、此の士を用いたるなり。文公位に即きて二年、之を底(いたす)すに勇を以てす。故に三年にして士盡く果敢なり。城濮の戰い、五たび荊人を敗り、衛を圍み曹を取り、石社を抜き、天子の位を定め、尊名を天下に成す。此の士を用いたるなり。亦だ君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子乃ち犀蔽屏櫓を去りて、矢石の及ぶ所に立ち、一鼓して士畢く之に乘ず。簡子曰く、「吾、革車千乘を得ん與りは、行人燭過の一言を聞くに如かず。」行人燭過は能く其の君を諫めたりと謂う可し。戰鬭の上、枹鼓方に用いらる。賞は厚きを加えず、罰は重きを加えざるに、一言にして士皆其の上の為に死するを樂しむ。

二 直諫


続きはホームページで、http://gongsunlong.web.fc2.com/

『孟子』巻第八離婁章句下 百十三節

2018-05-15 10:03:45 | 四書解読
百十三節

昔、逢蒙は弓を名人の羿に学んだが、その奥義を極めつくして、もはや天下で私より弓の優れた人物は羿しかいない、と思った。そこで羿を殺してしまった。孟子はこの言い伝えを評して言った。
「羿にも罪がある。」
すると公明儀が言った。
「羿には殆ど罪はないようだ。」
「それはただ輕いだけです。輕いからと言ってどうしておちどがないと言えましょうか。嘗て鄭の国が子濯孺子に命じて衛の国を攻めさせました。衛では庾公之斯に命じて之を追い払わせたのですが、その際、子濯孺子は突然に病の発作を起こし、『今日は急に病が起こり、弓を引くことが出来ない。恐らく死ぬだろう。』と言って、従者に、『私を追いかけてくる者は誰か。』と尋ねました。従者が、『庾公之斯でございます。』と答えると、子濯孺子は、『私は助かったぞ。』と言ったので、その従者は、『庾公之斯は衛の弓の名人です、それなのにあなたさまは助かったぞと言われましたが、それはどういうことでございますか。』と尋ねました。子濯孺子は言いました、『庾公之斯は弓を尹公之他に教わった。尹公之他は私の門人だ。あの尹公之は心の正しい人だ。その彼が選んで門人としたのだから、庾公之斯もきっと心の正しい人に違いない。』やがて庾公之斯が追い付いてきて、子濯孺子を見て言いました、『あなたはどうして弓を取らないのか。』子濯孺子は言いました、『今日、突然病に罹り、弓を取ることが出来ないのだ。』庾公之斯は、『私は弓を尹公之他に学び、尹公之他はあなたに学んだ。そうして受け継がれたあなたの弓道を以て、あなたを傷つけることは私には耐えられません。だからと言って、今日の事は、君命によるものなので、私の私情で止めるわけにはいきません。』と言い、矢を取り、乗っている車の車輪にたたきつけて矢じりを外し、礼に法り四本の矢を放ってから、軍を返したということでございます。羿も庾公之斯のような心の正しい人を弟子にすれば、殺されることはなかった。人柄を見抜けなかった羿にも罪があるのです。」

逢蒙學射於羿。盡羿之道、思天下惟羿為愈己。於是殺羿。孟子曰、是亦羿有罪焉。公明儀曰、宜若無罪焉。曰、薄乎云爾。惡得無罪。鄭人使子濯孺子侵衛。衛使庾公之斯追之。子濯孺子曰、今日我疾作、不可以執弓。吾死矣夫。問其僕曰、追我者誰也。其僕曰、庾公之斯也。曰、吾生矣。其僕曰、庾公之斯、衛之善射者也。夫子曰吾生、何謂也。曰、庾公之斯學射於尹公之他。尹公之他學射於我。夫尹公之他,端人也。其取友必端矣。庾公之斯至、曰、夫子何為不執弓。曰、今日我疾作、不可以執弓。曰、小人學射於尹公之他。尹公之他學射於夫子。我不忍以夫子之道反害夫子。雖然、今日之事、君事也。我不敢廢。抽矢叩輪、去其金、發乘矢而後反。

逄蒙、射を羿に學ぶ。羿の道を盡くし、思えらく、天下惟だ羿のみ己に愈れりと為すと。是に於て羿を殺せり。孟子曰く、「是れ亦た羿も罪有り。」公明儀曰く、「宜ど罪無きが若し。」曰く、「薄しと云うのみ。惡んぞ罪無きを得ん。鄭人、子濯孺子をして衛を侵さしむ。衛、庾公之斯をして之を追わしむ。子濯孺子曰く、『今日、我が疾作り、以て弓を執る可からず。吾死なんかな。』其の僕に問いて曰く、『我を追う者は誰ぞや。』其の僕曰く、『庾公之斯なり。』曰く、『吾れ生きん。』其の僕曰く、『庾公之斯は、衛の射を善くする者なり。夫子曰く、吾れ生きんと。何の謂ぞや。』曰く、『庾公之斯は射を尹公之他に學ぶ。尹公之他は射を我に學ぶ。夫れ尹公之他は、端人なり。其の友を取ること必ず端ならん。』庾公之斯至りて曰く、『夫子何為れぞ弓を執らざる。』曰く、『今日、我疾作り、以て弓を執る可からず。』曰く、『小人は射を尹公之他に學び、尹公之他は射を夫子に學ぶ。我、夫子の道を以て、反って夫子を害するに忍びず。然りと雖も、今日の事は、君の事なり。我敢て廢せず。』矢を抽き輪に叩き,其の金を去り、乘矢を發して而る後に反れり。」

<語釈>
○「公明儀」、四十七節に既出、魯の賢人、孟子より年長者である。○「端人」、高注:端人は心を用うるに、邪辟せず。心の正しい人のこと。○「乘矢」、趙注:乘は四なり。四本の矢。

<解説>
この節は、公明儀との問答なのか、それとも公明儀の言葉にたいする評論なのか、意見の分かれる所である。私は問答であり、且つ公明儀が年長者であるという理解の下に言葉を選び通釈した。
内容的には難しい点はないが、任命した人間が悪事を働けば、任命した本人も罪があるということだ。

『呂氏春秋』巻第二十二愼行論

2018-05-09 10:32:21 | 四書解読
一 愼行

一に曰く。行は孰せざる可からず。孰せざれば、深谿に赴くが如く、悔ゆと雖も及ぶ無し。君子は行を計りて義を慮り、小人は行を計りて利を其(「期」に通ず)するも、乃ち利ならず。不利の利を知る者有れば、則ち與に理を言う可し。荊の平王に臣有り、費無忌と曰う。太子建を害(にくむ)み、之を去らんと欲す。王、建の為に妻を秦より取るに美なり。無忌、王に勸めて奪う。王已に之を奪いて、太子を疏ず。無忌、王に說きて曰く、「晉の霸たるや、諸夏に近ければなり。而るに荊は僻なり。故に與に爭うこと能わず。大いに城父に城きて、太子を置き、以て北方を求めしめ、王は南方を収むるに若かず。是れ天下を得るなり。」王說び、太子をして城父に居らしむ。居ること一年、乃ち之を惡りて曰く、「建、連尹(高注:連尹は呉奢、子胥の父なり)と將に方城の外を以て反せんとす。」王曰く、「已に我が子為り。又尚ほ奚をか求めん。」對えて曰く、「妻の事を以て怨む。且つ自ら以為えらく、猶ほ宋のごとし、と。齊・晉又之を輔け、將に以て荊を害せんとす。其の事已に集(なる)れり。」王之を信じ、連尹を執らえしむ。太子建は出奔す。左尹郤宛は、國人之を說ぶ。無忌又之を殺さんと欲し、令尹子常に謂いて曰く、「郤宛は令尹に酒を飲ましめんと欲す。」又郤宛に謂いて曰く、「令尹、酒を子の家に飲まんと欲す。」郤宛曰く、「我賤人なり。以て令尹を辱くするに足らず。令尹必ず來たりて辱くせば、我且に何を以てか之を給待せん。」無忌曰く、「令尹は甲兵を好む。子出だして之を門に寘き、令尹至りなば、必ず之を觀ん。已にして因りて以て酬と為せ。」饗日に及び、門の左右に惟(畢沅云う、「惟」は「帷」に古は通ずと。これに因り“まくする”と訓ず)して甲兵を寘く。無忌因りて令尹に謂いて曰く、「吾幾んど令尹に禍いせんとす。郤宛將に令尹を殺さんとす。甲門に在り。」令尹、人をして之を視しむるに、信なり。遂に郤宛を攻めて、之を殺す。國人大いに怨み、胙を進むる者(底本は「動作者」に作るが、畢沅云う、左傳は「進胙者」に作ると。これにより改めた)、令尹を非らざるもの莫し。沈尹戍、令尹に謂いて曰く、「夫の無忌は、荊の讒人なり。太子建を亡せしめ(底本は「亡夫太子建」に作るが、畢沅は「夫」を衍字とする、それにより削る)、連尹奢を殺し、王の耳目を屏う。今令尹又之を用い、衆く不辜を殺し、以て大謗を興し、患い幾んど令尹に及ばんとす。」令尹子常曰く、「是れ吾が罪なり。敢て良く圖らざらんや。」乃ち費無忌を殺し、盡く其の族を滅ぼし、以て其の國を說ばす。動くに其の義を論ぜず、人を害するを知るも、人の己を害するを知らず、以て其の族を滅ぼすは、費無忌の謂か。崔杼、慶封と齊の莊公を謀殺す。莊公死して、更に景公を立て、崔杼之に相たり。慶封、又崔杼を殺して之に代りて相たらんと欲す。是に於て崔杼の子を椓(タク、そそのかす意)し、之をして後を爭わしむ。崔杼の子相與に私闀す(高注:「闀」(コウ)は「鬭」なり)。崔杼往きて慶封に見えて之を告ぐ。慶封、崔杼に謂いて曰く、「且く留まれ。吾將に甲を興して以て之を殺さんとす。」因りて盧滿嫳(ベツ)をして甲を興して以て之を誅し、盡く崔杼の妻子及び枝屬を殺し、其の室屋を燒かしむ。崔杼に報じて曰く、「吾已に之を誅せり。」崔杼歸るに歸るところ無く、因りて自絞す。慶封、景公に相たり。景公之に苦しむ。慶封、獵に出づるに、景公、陳無宇・公孫竈・公孫蠆(タイ)と、封を誅せんとす。慶封、其の屬を以て鬭うも勝たず。走りて魯に如く。齊人以て讓を為す。又魯を去りて呉に如く。王、之に朱方(呉の邑)を予う。荊の靈王、之を聞き、諸侯を率いて以て呉を攻め、朱方を圍み、之を拔き、慶封を得て、之に斧質を負わしめ、以て諸侯の軍に徇(めぐる)り、因りて其れをして之を呼ばしめて曰く、「齊の慶封の如く、其の君を弒して其の孤を弱しとし、以て其の大夫に亡せしむること或る毋かれ(畢沅云う、「以亡」は、左氏の昭四年の傳に、「以盟」に作ると。これに因り「亡」を「盟」の義に読んでおく)。」乃ち之を殺す。黄帝の貴くして死す、堯・舜の賢にして死す、孟賁の勇にして死す。人は固より皆死す。慶封の若き者は、死を重ぬと謂う可し。身は僇と為り、支屬は以て完うす可からず(底本は「以見」に作るが、王念孫により、「以完」に改める)。忮(高注:「忮」(シ)は「惡」なり)を行うの故なり。凡そ亂人の動くや、其の始めは相助くも、後必ず相惡む。義を為す者は則ち然らず,始めにして相與にし、久しくして相信じ、卒わりにして相親しみ、後世以て法程と為す(高注:「程」は「度」なり。「法程」は「法度」で、規範の意)。

二 無義


続きはホームページで、http://gongsunlong.web.fc2.com/

『史記』淮陰侯列伝

2018-05-04 10:18:19 | 四書解読
淮陰侯韓信は、淮陰の人なり。始め布衣為りし時、貧しくして行い無く、推擇されて吏と為ることを得ず。又生を治め商賈すること能わず。常に人に從いて食飲を寄す。人、之を厭う者多し。常に數々其の下鄉の南昌の亭長に從い寄食す。數月にして、亭長の妻、之を患う。乃ち晨に炊ぎては蓐(しとね)に食す。食時に信往くも、為に食を具えず。信も亦た其の意を知り、怒りて、竟に絕去す。信、城下に釣りするに、諸母漂す(「漂」は“さらす”と訓じ、川でさらしものをしていること)。一母有り、信の饑えたるを見て、信に飯す。漂しを竟わるまで數十日。信喜び、漂母に謂いて曰く、「吾必ず以て重く母に報ゆること有らん。」母怒りて曰く、「大丈夫の自ら食すること能わず、吾、王孫(集解:蘇林曰く、公子と言うが如きなり。相手を尊んでの呼称)を哀れみて食を進む。豈に報いを望まんや。」淮陰の屠中(者の仲間)の少年に、信を侮る者有り。曰く、「若長大にして、好みて刀劍を帯ぶと雖も、中情は怯なるのみ。」衆に之を辱めて曰く、「信能く死せば、我を刺せ。死すること能わずんば、我が袴下(集解:徐廣曰く、袴は一に胯に作る、胯は股なり)より出でよ。」是に於て信、之を孰視し、俛(伏す)して袴下より出でて蒲伏す。一市の人皆信を笑い、以て怯と為す。項梁、淮を渡るに及び、信、劍を杖きて之に從い戲下に居るも、名を知らるる所無し。項梁敗れ、又項羽に屬す。羽以て郎中と為す。
続きはホームページで、http://gongsunlong.web.fc2.com/