gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『呉子』圖國第一 第五章

2020-06-28 10:26:43 | 漢文
第五章
魏の武侯は尋ねた、「どうか軍を整え治め、兵士たちの才能を見極め、国家の守りを固くする方法を聞かせてもらいたい。」呉子は答えた、「昔の賢明な王は君臣の礼を大切にし、身分の威儀を整え飾り、役人と庶民とを安住させ、その地の風俗に従って民を教え導いて、すぐれた人材を選び募って、万一の戦争に備えたのであります。昔、斉の桓公は士五万人を募って覇者となり、晋の文公は先陣を成す勇士四万人を集めて志を得て覇者となり、秦の繆公は敵陣を陥れる突撃部隊三万人を組織して周囲の敵国を服従させました。だから強国の君主は必ず我が民の能力力量を推し図ります。そして胆力勇気があり精神力の強い者を集めて一部隊を編成します。死を厭わずに進んで戦い力を発揮して、真心と勇気を顕そうとする者を集めて一部隊を編成します。高く飛び上がり遠方まで疲れずに行くことができ、敏速によく走ることができる者を集めて一部隊を編成します。現在罪を犯して臣下ではないが、功績を挙げて君主に認めてもらいたいと望んでいる者を集めて一部隊を編成します。一度は城を棄てて守りを放棄したが、その恥を何とか雪ぎたいと思っている者を集めて一部隊を編成します。この五つの部隊は軍の精鋭部隊であります。このような精兵が三千人もいれば、敵に囲まれたとしても、内より出撃してはどんな囲みも打ち破ることができ、外より攻め入ればどんな城でも攻め落とすことができるのであります。」

武侯問曰、願聞治兵、料人、固國之道。起對曰、古之明王、必謹君臣之禮、飾上下之儀、安集吏民、順俗而教、簡募良材、以備不虞。昔齊桓募士五萬、以霸諸侯。晉文召為前行四萬、以獲其志。秦繆置陷陳三萬、以服鄰敵。故強國之君、必料其民。民有膽勇氣力者、聚為一卒。樂以進戰效力、以顯其忠勇者、聚為一卒。能踰高超遠、輕足善走者、聚為一卒。王臣失位而欲見功於上者、聚為一卒。棄城去守、欲除其醜者、聚為一卒。此五者、軍之練銳也。有此三千人、内出可以決圍、外入可以屠城矣。

武侯問いて曰く、「願わくは兵を治め、人を料り、國を固くするの道を聞かん(注1)。」起對えて曰く、「古の明王は、必ず君臣の禮を謹み、上下の儀を飾り、吏民を安集し、俗に順いて教え、良材を簡募して、以て不虞に備う。昔齊桓は士五萬を募りて、以て諸侯に霸たり。晉文は前行を為す四萬を召して、以て其の志を獲たり。秦繆は陷陳三萬を置きて(注2)、以て鄰敵を服せり。故に強國の君は、必ず其の民を料る。民の膽勇氣力有る者は、聚めて一卒と為す。樂しみて以て進みて戰い、力を效して、以て其の忠勇を顯す者は、聚めて一卒と為す。能く高きを踰え遠きを超え、輕足にして善く走る者は、聚めて一卒と為す。王臣の位を失いて功を上に見わさんと欲する者は、聚めて一卒と為す。城を棄て守りを去りて、其の醜を除かんと欲する者は,聚めて一卒と為す。此の五者は軍の練銳なり。此の三千人有れば、内より出でては以て圍みを決す可く、外より入りては以て城を屠る可し。」

<語釈>
○注1、直解:武侯は魏の文侯の子、名は撃、呉起に問いて曰く、願わくは師旅を整治し、敵情を料度し、國家を固守するの、三者の道を聞かん。直解は「料人」を敵情を料度するの意に解しているが、これは採用しない。自軍の兵たちの才能を推し図る意に解す。○注2、「陷陳」は敵陣を陥れる意で、突撃部隊を指す。

<解説>
いつの世も同じである。人材こそが命である。戦いに勝つためには精鋭部隊を編成することが大事であると説いている。しかしこれは一面真理であるが、必ずしもそうでないこともある。漢の劉邦と楚の項羽との戦いを見ればよく分かる。劉邦の軍は烏合の衆の集りで、項羽の軍は精鋭部隊であった。だから初めの内は劉邦の軍が圧倒的に負けていた。しかし最終的には烏合の衆の多さに少ない精鋭部隊が敗れる形となった。長期戦になれば精鋭部隊と雖も次第にやせ細っていくし、精鋭部隊はそう簡単に補充がきかない。消耗戦になれば、圧倒的に数が多い方が勝つのである。呉子がこの楚漢の戦いを見ていれば、どのように思うか興味のある所である。

『論語』為政第二 20、21、22章

2020-06-11 10:41:45 | 漢文
20
孔子言う。私は十五歳にして五経の学問に志し、三十歳にして五経全てを学び終え、四十歳になって事理に通じて迷わなくなり、五十歳にして天の命ずる所を知り、その本源を理解できるようになり、六十歳にして知識も博くなり、人の言う事を聞けば、直ちにその理を理解することができるようになり、七十歳になれば心の欲するままに行動しても人道から外れることがなくなった。

子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩。

子曰く、「吾十有五にして學に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に從えども、矩を踰えず。」

<語釈>
○「志于學、三十而立」、學について、朱子は、「古は十五にして大學に入る」と述べ、学校の大学に解しているが、清の方觀旭云う、「尚書周傳に云う、王子・公卿・大夫・元士の適子は、十五にして小學に入り、二十にして大學に入る、書傳略説に云う、餘子十五にして小學に入り、十八にして大學に入る、並に十五にして大學に入るの文無し。」これにより朱氏の説は無理があるようだ。皇侃云う、「古の人、三年にして一經に明らか、十五従り三十に至るまで、是れ又十五年、故に五経の業に通ず。」これにより「學」は五経の学問と理解し、一經に三年かけて、十五年で五経を学び終えたと解釈する。○「知天命」、天の命ずる所を知るということであるが、これには二つの意味がある。一つは世の中の出来事や己の行動などは全て天の意思である、所謂天命であり、先ずこの事を理解することである。二つ目はこの天の意思は何に基づいているのか、その本源は何かということを明らかにすることである。○「六十而耳順」、皇侃云う、順は、逆わざるを謂う、人は年六十、識知廣博、凡そ厥の萬事、悉く觀見を須うるを待たず、但に其の言を聞き、即ち其の微旨を解す、是れ聞く所耳に逆わず、故に耳順うと曰うなり。」

<解説>
よく知られた章である。人間の成長について述べている。人間の成長は、学問と共に在るということが一番大切なことであり、その行きつく所は、「七十にして心の欲する所に從えども、矩を踰えず。」と言う境地である。無理をせず自然のままに行動していても人道から外れず、生活を楽しむことができるのは誠に人格の完成である。『中庸』の第二十章に、「誠は天の道なり、之を誠にする者は人の道なり、誠は勉めずして中り、思わずして得、従容として道に中る。」とあり、當に孔子のこの言葉を言ったものであろう。

21
魯の大夫孟懿子が孝について孔子に尋ねた。孔子は、「違わないことです。」と答えた。その帰り道、御者をしている弟子の樊遲に、「孟孫氏が私に孝について尋ねたので、違わないことだとだ、と答えたよ。」と話された。すると樊遲は、「それはどういうう意味ですか。」と尋ねた。そこで孔子は、「親が生きている時は礼を以て仕え、死んだ時は礼を以て葬り、年次の祭りは礼を以て営むということで、違わないと言うことは礼に違わないことであって、親の命令に違わない事ではない。」と説明した。

孟懿子問孝。子曰、無違。樊遲御。子告之曰、孟孫問孝於我。我對曰、無違。樊遲曰、何謂也。子曰、生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮。

孟懿子、孝を問う。子曰く、「違うこと無し。」樊遲御たり。子、之に告げて曰く、「孟孫、孝を我に問う。我對えて曰く、『違うこと無し。』」樊遲曰く、「何の謂ぞや。」子曰く、「生けるには之に事うるに禮を以てし、死せるには之を葬るに禮を以てし、之を祭るに禮を以てす。」

<語釈>
○「孟懿子」、孔安國曰く、魯の大夫仲孫何忌なり。○「樊遲御」、朱注:樊遲は孔子の弟子、名は須、御は、孔子の為に車を御するなり。○「子告之」、朱注:夫子、懿子未だ達せずして問うこと能わざるを以て、其の指を失いて親の令に從うを以て孝と為さんことを恐れ、故に樊遲に語りて以て之を發す。

<解説>
この時代、いずれの国も君主の権力が弱まり、公族が力を増していた。とくに魯の国ではそれが顕著で、三桓氏と言われる季孫氏・孟孫氏・叔孫氏の三家が国政を握り、僭越な行いが多かった。そこで孔子は、「違うこと無し」と述べ、非礼な行いを誡めようとしたのである。

22
孟武伯は孝について尋ねた。孔子は答えた、「父母というものは、常に子供が病にかからないかと心配しているものです。だから体を大切にすることが親孝行になります。」

孟武伯問孝。子曰、父母唯其疾之憂。

孟武伯、孝を問う。子曰く、「父母は唯だ其の疾を之れ憂う。」

<語釈>
○「孟武伯」、集解:馬融曰く、武伯は懿子の子仲孫彘なり、武は謚なり。

<解説>
この内容は今の時代も同じである。親という者は常に子供の体の事を心配する。これは親になればだれもが感じることである。