第十五節
齊の宣王が尋ねた。
「殷の湯王は夏の桀王を追放し、周の武王は殷の紂王を討伐したと言うが、それは事実か。」
孟子は答えた。
「古書ではそのように伝えられております。」
「臣下でありながら、自分の君主を殺すというのは、許されるのか。」
「仁を賊う者を賊と言います。義を賊う者を殘と言います。殘賊の人は一介の平民であって、君主たる資格はございません。ですので殘賊の人である桀・紂は君主でなく、単なる一人の平民の男に過ぎません。ひとりの男紂を討伐したとは聞いておりますが、君主の紂を殺したとは聞いておりません。」
齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂。有諸。孟子對曰、於傳有之。曰、臣弒其君、可乎。曰、賊仁者謂之賊。賊義者謂之殘。殘賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣。未聞弒君也。
齊の宣王、問いて曰く、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つ。諸れ有りや。」孟子對えて曰く、「傳に於て之れ有り。」曰く、「臣にして其の君を弒す。可ならんや。」曰く、「仁を賊(そこなう)う者之を賊と謂う。義を賊う者之を殘と謂う。殘賊の人、之を一夫と謂う。一夫紂を誅するを聞く。未だ君を弒するを聞かざるなり。」
<語釈>
○「桀」、「紂」、夏の桀王、殷の紂王は、共に桀紂として古来より暴君の代名詞になっている。○「傳」、いいつたえの義であるが、ここではそのような事を書したものであろう。○「賊」、民心に背き、天命に背く意で、“そこなう”と訓ず。
<解説>
この節は短い文章であるが、昔より問題になっている節らしい。上に立つ人が残賊の人であれば、討伐してもよいということを認めれば、それは革命思想につながる。権力の側に立っている者には容認できる内容ではない。『孟子』にはこのような過激な発言が何か所か有り、江戸時代にはそのような個所を墨で塗りつぶして講義しなかった者もいたらしい。それでは孟子は民の立場に立った革命思想の持主かと言えば、全く逆である。私は孔子以上に権力者側に立った思想家であると思っている。結局、この節の解釈は、宣王に対する戒めを説いたもので、桀紂の話は昔だから許されたので、今と時代が違うのだと割り切る考えに落ち着いているようだ。朱注で引用されている宋の王勉の言を紹介しておく、「斯の言や、唯だ下に在る者に、湯・武の仁有りて、上に在る者に、桀・紂の暴有れば、則ち可なり。然らずんば是れ未だ簒弒の罪を免れず。」
齊の宣王が尋ねた。
「殷の湯王は夏の桀王を追放し、周の武王は殷の紂王を討伐したと言うが、それは事実か。」
孟子は答えた。
「古書ではそのように伝えられております。」
「臣下でありながら、自分の君主を殺すというのは、許されるのか。」
「仁を賊う者を賊と言います。義を賊う者を殘と言います。殘賊の人は一介の平民であって、君主たる資格はございません。ですので殘賊の人である桀・紂は君主でなく、単なる一人の平民の男に過ぎません。ひとりの男紂を討伐したとは聞いておりますが、君主の紂を殺したとは聞いておりません。」
齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂。有諸。孟子對曰、於傳有之。曰、臣弒其君、可乎。曰、賊仁者謂之賊。賊義者謂之殘。殘賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣。未聞弒君也。
齊の宣王、問いて曰く、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つ。諸れ有りや。」孟子對えて曰く、「傳に於て之れ有り。」曰く、「臣にして其の君を弒す。可ならんや。」曰く、「仁を賊(そこなう)う者之を賊と謂う。義を賊う者之を殘と謂う。殘賊の人、之を一夫と謂う。一夫紂を誅するを聞く。未だ君を弒するを聞かざるなり。」
<語釈>
○「桀」、「紂」、夏の桀王、殷の紂王は、共に桀紂として古来より暴君の代名詞になっている。○「傳」、いいつたえの義であるが、ここではそのような事を書したものであろう。○「賊」、民心に背き、天命に背く意で、“そこなう”と訓ず。
<解説>
この節は短い文章であるが、昔より問題になっている節らしい。上に立つ人が残賊の人であれば、討伐してもよいということを認めれば、それは革命思想につながる。権力の側に立っている者には容認できる内容ではない。『孟子』にはこのような過激な発言が何か所か有り、江戸時代にはそのような個所を墨で塗りつぶして講義しなかった者もいたらしい。それでは孟子は民の立場に立った革命思想の持主かと言えば、全く逆である。私は孔子以上に権力者側に立った思想家であると思っている。結局、この節の解釈は、宣王に対する戒めを説いたもので、桀紂の話は昔だから許されたので、今と時代が違うのだと割り切る考えに落ち着いているようだ。朱注で引用されている宋の王勉の言を紹介しておく、「斯の言や、唯だ下に在る者に、湯・武の仁有りて、上に在る者に、桀・紂の暴有れば、則ち可なり。然らずんば是れ未だ簒弒の罪を免れず。」