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『孟子』巻二梁惠王章句下第十五節

2016-05-30 10:07:13 | 漢文解読
                          第十五節
齊の宣王が尋ねた。
「殷の湯王は夏の桀王を追放し、周の武王は殷の紂王を討伐したと言うが、それは事実か。」
孟子は答えた。
「古書ではそのように伝えられております。」
「臣下でありながら、自分の君主を殺すというのは、許されるのか。」
「仁を賊う者を賊と言います。義を賊う者を殘と言います。殘賊の人は一介の平民であって、君主たる資格はございません。ですので殘賊の人である桀・紂は君主でなく、単なる一人の平民の男に過ぎません。ひとりの男紂を討伐したとは聞いておりますが、君主の紂を殺したとは聞いておりません。」

齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂。有諸。孟子對曰、於傳有之。曰、臣弒其君、可乎。曰、賊仁者謂之賊。賊義者謂之殘。殘賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣。未聞弒君也。

齊の宣王、問いて曰く、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つ。諸れ有りや。」孟子對えて曰く、「傳に於て之れ有り。」曰く、「臣にして其の君を弒す。可ならんや。」曰く、「仁を賊(そこなう)う者之を賊と謂う。義を賊う者之を殘と謂う。殘賊の人、之を一夫と謂う。一夫紂を誅するを聞く。未だ君を弒するを聞かざるなり。」

<語釈>
○「桀」、「紂」、夏の桀王、殷の紂王は、共に桀紂として古来より暴君の代名詞になっている。○「傳」、いいつたえの義であるが、ここではそのような事を書したものであろう。○「賊」、民心に背き、天命に背く意で、“そこなう”と訓ず。

<解説>
この節は短い文章であるが、昔より問題になっている節らしい。上に立つ人が残賊の人であれば、討伐してもよいということを認めれば、それは革命思想につながる。権力の側に立っている者には容認できる内容ではない。『孟子』にはこのような過激な発言が何か所か有り、江戸時代にはそのような個所を墨で塗りつぶして講義しなかった者もいたらしい。それでは孟子は民の立場に立った革命思想の持主かと言えば、全く逆である。私は孔子以上に権力者側に立った思想家であると思っている。結局、この節の解釈は、宣王に対する戒めを説いたもので、桀紂の話は昔だから許されたので、今と時代が違うのだと割り切る考えに落ち着いているようだ。朱注で引用されている宋の王勉の言を紹介しておく、「斯の言や、唯だ下に在る者に、湯・武の仁有りて、上に在る者に、桀・紂の暴有れば、則ち可なり。然らずんば是れ未だ簒弒の罪を免れず。」

『春秋左氏傳』巻第九襄公五

2016-05-24 10:00:07 | 漢文解読
                        襄公五
     『經』
・二十有六年(前547年)、春、王の二月辛卯、衛の喜、其の君剽を弒す。
・衛の孫林父、戚に入りて以て叛く。
・甲午、衛侯衍、衛に復帰す。
・夏、晉侯、荀呉をして來聘せしむ。
・公、晉人・鄭の良霄(ショウ)・宋人・曹人に澶(セン)淵に會す。
・秋、宋公、其の世子痤を殺す。
・晉人、衛の喜を執らう。
・八月壬午、許男、楚に卒す。
・冬、楚子・蔡侯・陳侯、鄭を伐つ。
・許の霊公を葬る。

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『孟子』巻二梁惠王章句下、第十四節

2016-05-16 15:11:03 | 漢文解読
                           第十四節
孟子が齊の宣王に見えて言った、
「由緒ある古い国とは、国を守る神木が立派な大木であることを言うのではありません。世々君を助ける修徳の臣下がいることをいうのです。ところが今の王様は、そのような信任できる臣下がおりません。昨日任用した者が、今日には逃げてしまうかもしれないという事を見抜くことがお出来になりません。」
王は言った、
「私はどのようにしたら、そのような無能な人物を見抜いて用いないようにすることが出来るのか。」
「君主が賢者を任用する際には、誰が見てもこの人を用いるのは当然で、是非任用すべきだ、となって始めて起用するのでなければなりません。身分の低い者を高い者より上位に抜擢し、自分とは疎遠の者を近親の者より上位に置いて用いるのですから、慎重にしなければなりません。左右の者が皆賢者であると謂うだけでは不十分です。諸大夫が皆賢者であると言ってもやはり用いる可きではありません。国じゅうが皆賢者であると言えば、王様が自ら観察して、誠に賢者であるとお認めになればご起用なさいませ。退ける場合も、左右の者があれはいけませんと謂うだけでは不十分です。諸大夫が皆あれはいけませんと言ってもやはり退けるべきではありません。國中が皆退けるべきだと言えば、王様自らよく観察して、退けるべきだと思えば罷免なさいませ。左右の者が皆殺すべきだと言うだけでは不十分です。諸大夫が皆殺すべきだと言ってもやはり殺すべきではありません。國中が皆殺すべきだと言えば、王様自らよく観察して、殺すのが当然であると思えば初めて処刑なさいませ。そうすることによって、王様が処刑なされても、人民が処刑に処したと言われるのです。こうして初めて民の父母となることが出来るのです。」

孟子見齊宣王曰、所謂故國者、非謂有喬木之謂也。有世臣之謂也。王無親臣矣。昔者所進、今日不知其亡也。王曰、吾何以識其不才而舍之。曰、國君進賢、如不得已、將使卑踰尊、疏踰戚、可不慎與。左右皆曰賢、未可也。諸大夫皆曰賢、未可也。國人皆曰賢、然後察之、見賢焉、然後用之。左右皆曰不可、勿聽。諸大夫皆曰不可、勿聽。國人皆曰不可、然後察之、見不可焉、然後去之。左右皆曰可殺、勿聽。諸大夫皆曰可殺、勿聽。國人皆曰可殺、然後察之、見可殺焉、然後殺之。故曰、國人殺之也。如此、然後可以為民父母。

孟子、齊の宣王に見えて曰く、「所謂故國とは、喬木有るの謂を謂うに非ざるなり。世臣有るの謂なり。王には親臣無し。昔者(セキ・ジャ)進むる所、今日其の亡を知らざるなり。」王曰く、「吾、何を以て其の不才を識りて之を舍てん。」曰く、「國君、賢を進むること已むを得ざるが如くす。將に卑をして尊を踰え、疏をして戚を踰えしめんとす。慎まざる可けんや。左右皆賢なりと曰うも、未だ可ならざるなり。諸大夫皆賢と曰うも、未だ可ならざるなり。國人皆賢と曰う、然る後に之を察し、賢なるを見て、然る後に之を用いよ。左右皆不可と曰うも、聽く勿れ。諸大夫皆不可と曰うも、聽く勿れ。國人皆不可と曰う、然る後に之を察し、不可なるを見て、然る後に之を去れ。左右皆殺す可しと曰うも、聽く勿れ。諸大夫皆殺す可しと曰うも、聽く勿れ。國人皆殺す可しと曰う、然る後に之を察し、殺す可きを見て、然る後に之を殺せ。故に曰く、國人之を殺すなり、と。此の如くにして、然る後以て民の父母為る可し。」

<語釈>
○「故國」、趙注:「故」は「舊」なり。由緒正しい古い国のことを言う。○「喬木」、趙注:「喬」は「高」なり。背の高い大木のこと。○「世臣」、世々徳を修めた臣下。○「無親臣」、趙注:今の王、新任す可きの臣無し。○「昔者」、むかしの意であるが、ここでは“セキ・ジャ”と読んで、昨日の意。

<解説>
春秋時代以前は大体において門閥政治である。それが次第に崩れていくのが春秋時代であり、如何に賢者を登用するかが大事になってきた。それを表しているのが、「將に卑をして尊を踰え、疏をして戚を踰えしめんとす。」という言葉である。これが戦国時代になると、更に賢者登用の重要性が高まり、諸子百家、遊説の徒が活躍するようになる。それが落ち着くと、専制君主の下での官僚制の時代になっていく。歴史の流れである。

『春秋左氏傳』巻第九襄公四

2016-05-09 10:09:55 | 漢文解読
                    襄公四
『經』
・二十有三年(前550年)、春、王の二月癸酉朔、日之を食すること有り。
・三月己巳、杞伯カイ(“つつみがまえ”の中に“亡”の字)卒す。
・夏、邾の畀我(ヒ・ガ)來奔す。
・杞の孝公を葬る。
・陳、其の大夫慶虎と慶寅を殺す。
・陳侯の弟黄、楚自り陳に歸る。
・晉の欒盈、復た晉に入り、曲沃に入る。
・秋、齊侯、衛を伐ち、遂に晉を伐つ。
・八月、叔孫豹、師を帥いて晉を救い、雍楡に次す。
・己卯、仲孫速卒す。
・冬、十月乙亥、臧孫紇、邾に出奔す。
・晉人、欒盈を殺す。
・齊侯、莒を襲う。

『傳』
・二十三年、春、杞の孝公卒す。晉の悼夫人(杜注:悼夫人は晉の平侯の母、杞の孝公の姊妹)、之に喪す。平侯、樂を徹せず。禮に非ざるなり。禮は、鄰國の為にも闕く(楊注:「闕」は即ち徹樂。隣国でも喪があれば、樂を徹するのが禮である)。

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『孟子』巻九梁惠王章句下第十三節

2016-05-03 10:24:10 | 漢文解読
第十三節
孟子が齊の宣王に言った、
「王様のご家来で、自分の妻子を友人に預けて、楚の国へ旅行に行った者がいるとして、その者が国に帰ってきたら、友人が妻子を凍え飢えさせていたとしたら、その者をどうなさいますか。」
王は言った、
「そのような者は見限って、用いない。」
「裁判官がその部下を上手に管理することが出来ず、職務を果たせないとしたら、どうなさいますか。」
王は言った、
「これを罷免するであろう、」
「それでは、国内が治まらなかったら、どうなさいますか。」
王は自分の責任を言われていることに気づき、返事に困ってしまい、左右の者を見て、話をそらしてしまった。

孟子謂齊宣王曰、王之臣有託其妻子於其友、而之楚遊者、比其反也、則凍餒其妻子、則如之何。王曰、棄之。曰、士師不能治士、則如之何。王曰、已之。曰、四境之內不治、則如之何。王顧左右而言他。

孟子、齊の宣王に謂いて曰く、「王の臣、其の妻子を其の友に託して、楚に之きて遊ぶ者有らんに、其の反るに比びてや、則ち其の妻子を凍餒(トウ・ダイ)せば、則ち之を如何せん。」王曰く、「之を棄てん。」曰く、「士師、士を治むること能わずんば、則ち之を如何せん。」王曰く、「之を已めん。」曰く、「四境の內、治まらずんば、則ち之を如何せん。」王、左右を顧みて他を言う。



<語釈>
○「遊」、日本語の遊ぶとは意味が少し違い、その地へ出かけることを言う。○「凍餒」、「餒」(ダイ)は飢える意、凍え飢えること。○「棄之」、解釈に二説がある、趙注、朱子は、友人と絶交する意に解する、安井息軒を始めとしてわが国では、文字通り棄て去る意に解する人が多い、最初に「王之臣」という言葉が有るのが根拠になっている、私もそれに賛成である。○「士師」、趙注:「士師」は、獄の官吏なり。監獄の番人ではない、裁判官のような訴訟を掌る者、猶ほこの下の「士」は部下の官吏そ指す。○「王顧左右而言他」、趙注:王、慙ぢて、左右顧みて視、他事を道う。

<解説>
さほど解説の余地もないので、趙岐の章旨を挙げておく。
「君臣上下、各々其の任に勤め、其の職を堕ること無くんば、乃ち其の身を安んずるなり。」