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『大学』を読む 1、『大学』解題

2012-06-25 18:27:10 | 日記
1、『大学』解題


大学は、論語・孟子・中庸と並んで四書の一つである。四書と言えば、五経と共によく称せられ、其の中身は知らなくとも、我等日本人も四書五経として江戸時代より親しんできた言葉である。四書は五経の如く昔から有るのでない。五経は、詩・書・礼・易・春秋の五経であり、大学、中庸は礼記の中の一篇として扱われていた。五経は承知の如く儒教に於いて最も基本的な経書である。漢の建国当初、儒教は未だ重んぜらる事無く、道家的思想の方が一般的であったが、世の中が落ち着くに従い、今まで隠されていた書物が世に現れ、学問の風潮が興り、次第に儒教も盛んになり、武帝の時代に董仲舒が現れ、彼に傾倒した武帝は初めて五経博士をおき、儒教を以て唯一の国家公認の学問とした。以来、多くの解釈研究がなされたが、特に漢の宣帝の甘露五年(前五十一年)、学者を石渠閣に集めて五経の異同を討論させ、更に成帝の河平三年(前二十六年)に大々的に古典の収集・整理が行われ、唐の太宗の時、孔穎達等に命じて撰せしめて完成したのが『五経正義』であり、以後の古典解釈の根本となった。此くして礼記の一篇として大学も学ばれてきたのであるが、中庸と共に独立させ、論語・孟子と並べて四書としたのは、朱子が大学章句・論語集注・孟子集注・中庸章句を著し、一部の書として公にしたのが始まりである。論語・孟子は古来各別に単行されたことはあるが、大学・中庸は礼記中の篇として存在しており、大学は宋以前に別行されたものは無く、中庸は宋以前にあっては三四、別行の本があったに過ぎない。礼記は漢代に編集されたものである。古代より中国では、礼は社会特に国体にとって最も重視された規範であった。孔子の教えも礼を重視しており、根本則が三百、細則が三千あるとされていたが、漢帝国創建のときにはその内容は殆ど伝えられていなかった。前述の漢の宣帝が学者を石渠閣に集めた折に礼記の編集も行われた。特に戴徳、号して大戴が『大戴礼記』八十五篇を編集したが、現存するのは三十九篇のみである。次いで戴聖、号して小戴が『小戴礼記』四十九篇を編集した。これが現在伝えられている『礼記』であり、『大学』はその第四十二篇に治められている。その大学を礼記より抜き出して、経に功有るものとして之を表彰して単行させたのは、司馬光の大学廣義が始めてであり、二程子に至りて、大学・中庸の二篇を更に精詳し、朱子に至りて、遂に旧説に従わず、自ら章句を作り、論語・孟子と合わせて別行させ、四書として確定させ、儒教の根本理念として、五経よりも上に置いたのである。朱子は其の中でも大学を非常に重視し、大学を学べば、儒教の全てがわかるとまで述べている。
大学の解説、解釈については、古来より現在に至るまで多くの研究がなされてきたが、基本的には先に述べた孔穎達等が作った五経正義の中の礼記正義であろう。これは鄭玄の注を元に、孔穎達等が疏を作ったものである。それと朱子の大学章句である。ここでは鄭玄の説を中心にした礼記正義に基づいて読んで行きたいと思う。当然その後の研究により、礼記正義の間違いも多々指摘されているが、全ての研究成果を網羅して解説するには、私の力量不足もあり、又思想史は専門外でもあるので、敢て正義中心で解説していきたい。