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『孟子』巻第十二告子章句下 百六十三節、百六十四節

2019-02-27 10:23:15 | 四書解読
百六十三節

公孫丑が尋ねた。
「高子は、『詩経』の小弁の詩はつまらない男の作ったものだ、と言っておりますが。」
孟子は言った。
「どうしてそう言っているのか。」
「親の過ちを怨んでいるからです。」
「偏狭だね、高老先生の詩の学び方は。今、ここに一人の男がいるとして、越人に弓で殺されかけたことがあったとして、後日、こんなことがあったよ、と話すのに、男は笑いながら言うだろう。それは外でもない、相手が疎遠な人物だからだ。ところが自分の兄が弓で殺そうとしたのなら、後日人に話すのに、涙を流しながら語るだろう。それは外でもない、相手が肉親だからである。小弁の詩が親を怨んでいるのは、親に親しみを懐いているからこそ、親の過失を哀れみ恨みに思うのだ。その親を思い愛する心が仁なのだ。偏狭だね、高老先生の詩の学び方は。」
「では『詩経』の凱風の詩では、なぜ母親を怨まないのですか。」
「凱風の親の過失は小さいもので、小弁の親の過失は大きい。親の過ちが大きいのに、平然として怨まないでいれば、ますます親を疎んじることになる。親の過ちが小さいのに怨むのは、それとなく諫めることもせずに見捨てることだ。疎んずることも親不孝であるが、見捨てるのも亦た親不孝である。孔子も、『舜は親孝行の鏡だ、五十になっても親を慕ったのだから。』と言っておられる。」

公孫丑問曰:、高子曰、小弁、小人之詩也。孟子曰、何以言之。曰、怨。曰、固哉、高叟之為詩也。有人於此。越人關弓而射之、則己談笑而道之。無他。疏之也。其兄關弓而射之、則己垂涕泣而道之。無他。戚之也。小弁之怨、親親也。親親、仁也。固矣夫、高叟之為詩也。曰、凱風何以不怨。曰、凱風、親之過小者也。小弁、親之過大者也。親之過大而不怨、是愈疏也。親之過小而怨、是不可磯也。愈疏、不孝也。不可磯、亦不孝也。孔子曰、舜其至孝矣。五十而慕。

公孫丑問うて曰く、「高子曰く、『小弁は小人の詩なり。』と。」孟子曰く、「何を以てか之を言う。」曰く、「怨みたればなり。」曰く、「固なるかな、高叟の詩を為むるや。此に人有り。越人、弓を關きて之を射んとせば、則ち己談笑して之を道わん。他無し。之を疏ずればなり。其の兄、弓を關きて之を射んとせば、則ち己涕泣を垂れて之を道わん。他無し。之を戚めばなり。小弁の怨めるは、親を親しめばなり。親を親しむは、仁なり。固なるかな、高叟の詩を為むるや。」曰く、「凱風は何を以てか怨みざる。」曰く、「凱風は、親の過ち小なる者なり。小弁は、親の過ち大なる者なり。親の過ち大にして怨みざるは、是れ愈々疏ずるなり。親の過ち小にして怨むは、是れ磯す可からざるなり。愈々疏ずるは、不孝なり。磯す可からざるも、亦た不孝なり。孔子曰く、『舜は其れ至孝なり。五十にして慕う。』」

<語釈>
○「小弁」、『詩経』の小雅節南山之什小弁篇。父が後妻の子を愛し、自分を棄てたことを怨んだ詩。○「怨」、趙注:怨むは、親の過ちを怨むなり。○「高叟」、「叟」は老人、高叟は、高老先生の意。○「道之」、「道」は、「曰」なり、「道之」は、弓を射る人に止めなさいと言う、と解釈する説と、後日こんなことがあったよと人に話した、と解釈する説がある。殺そうとする人に笑いながら止めなさいなどと言うのは、私には不自然に思えるので後説を採用した。○「凱風」、『詩経』邶風の凱風篇。母親が夫の死後再婚しようとしたとき、子供たちが母親を責めずに、孝行が足りなかったと自らを責めた詩。○「不可磯」、「磯」は、趙注、朱注は「激」の意に解釈し、焦循は、「磯」は「幾」で、幾諫、遠回しに諫める意であるとする。焦循説を採用する。

百六十四節

宋牼が楚に行く途中、石丘で孟子に出会った。孟子は言った。
「先生はどちらへお出かけですか。」
「私は秦と楚とが兵を構えて戦おうとしていると聞いたので、楚王にお目にかかって、止めるように説得するつもりです。楚王が聞き入れなければ、秦王にお会いして、止めるように説得するつもりです。二王のうちどちらかは私に賛成してくれるものと思ってます。」
「詳しくはお聞きしませんが、できれば要点だけでもお聞かせ願えませんか。」
「私は戦争がいかに利益にならないかを説こうと思っている。」
「先生のお志は大変立派でございますが、その呼びかけは不可能でしょう。先生が利益をもって秦・楚の王を説得し、秦・楚の王も利益につられて先生の説得を喜んで受け入れて軍を収めたら、全軍の将兵たちは戦争の終わったことを楽しむも、利益をも悦ぶことになりましょう。かくして臣下は利益を考えて君に仕え、子供は利益を考えて親に仕え、弟は利益を考えて兄に仕えるようになると、君臣・父子・兄弟はついに仁義の心を捨て去り、利益だけを考えて互いに接触するようになるでしょう。こうなってしまって亡ばなかった国はこれまでにありません。しかし先生が仁義を以て秦・楚の王を説得し、王たちも仁義の心を喜んで受け入れ戦争を止めたなら、全軍の将兵たちも戦争の終わったことを楽しみ、仁義を悦ぶことになりましょう。かくして臣下は仁義の心で君に仕え、子供は仁義の心で親に仕え、弟は仁義の心で兄に仕えるようになると、君臣・父子・兄弟はついに利益を捨て去り、仁義だけを考えて互いに接触するようになるでしょう。そうなって天下の王者とならなかった者は、これまでございません。どうして利益などで説得する必要がありましょうか。」

宋牼將之楚,孟子遇於石丘。曰:「先生將何之?」曰:「吾聞秦楚構兵,我將見楚王說而罷之。楚王不悅,我將見秦王說而罷之,二王我將有所遇焉。」曰:「軻也請無問其詳,願聞其指。說之將何如?」曰:「我將言其不利也。」曰:「先生之志則大矣,先生之號則不可。先生以利說秦楚之王,秦楚之王悅於利,以罷三軍之師,是三軍之士樂罷而悅於利也。為人臣者懷利以事其君,為人子者懷利以事其父,為人弟者懷利以事其兄。是君臣、父子、兄弟終去仁義,懷利以相接,然而不亡者,未之有也。先生以仁義說秦楚之王,秦楚之王悅於仁義,而罷三軍之師,是三軍之士樂罷而悅於仁義也。為人臣者懷仁義以事其君,為人子者懷仁義以事其父,為人弟者懷仁義以事其兄,是君臣、父子、兄弟去利,懷仁義以相接也。然而不王者,未之有也。何必曰利?」

宋牼(ケイ)將に楚に之かんとす。孟子、石丘に遇う。曰く、「先生將に何くに之かんとす。」曰く、「吾、秦・楚兵を構うと聞く。我將に楚王に見えて、說きて之を罷めしめんとす。楚王悅ばざれば、我將に秦王に見えて、說きて之を罷めしめんとす。二王の、我將に遇う所有らんとす。」曰く、「軻や請う、其の詳を問う無きも、願わくは其の指を聞かん。之を說くこと將に何如せんとする。」曰く、「我將に其の不利を言わんとす。」曰く、「先生の志は則ち大なり。先生の號は則ち不可なり。先生、利を以て秦・楚の王に説き、秦・楚の王、利を悅び、以て三軍の師を罷めば、是れ三軍の士、罷むるを樂しんで利を悅ばん。人の臣為る者利を懷いて以て其の君に事え、人の子為る者利を懷いて以て其の父に事え、人の弟為る者利を懷いて以て其の兄に事えば、是れ君臣・父子・兄弟、終に仁義を去り、利を懷いて以て相接するなり。然り而して亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。先生、仁義を以て秦・楚の王に説かんに、秦楚の王、仁義を悅び、而して三軍の師を罷めば、是れ三軍の士、罷むるを樂しんで仁義を悅ばん。人の臣為る者仁義を懷いて以て其の君に事え、人の子為る者仁義を懷いて以て其の父に事え、人の弟為る者仁義を懷いて以て其の兄に事えば、是れ君臣・父子・兄弟、利を去り、仁義を懷いて以て相接するなり。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利と曰わん。」

<語釈>
○「宋牼」、趙注:宋牼は宋人なり、名は牼、學士にして年長者、故に之を先生と謂う。孟子より年長者だったので、孟子は敬して彼を先生と呼んだ。○「號」、服部宇之吉氏云う、號とは構兵の不可を稱する名號即ち旨趣をいう。兵を止めるようにとの呼びかけ。

<解説>
相手を説得するのに、利をもって説いてはならない、というのが孟子の主張である。理想主義者の孟子にとっては当然の主張であろう。だが実際には利益を以て説得する方がはるかに有効である場合もある。相手を説得する場合は、臨機応変に対応すべきであるというのが、今の我々の感覚であろう。

『孟子』巻第十二告子章句下 百六十一節、百六十二節

2019-02-22 11:05:09 | 四書解読
百六十一節

任国の人が孟子の弟子の屋廬子に尋ねた。
「礼義と食い気とではどちらが大切ですか。」
「礼義の方です。」
「結婚と礼儀とではどちらが大切ですか。」
「礼義の方です。」
「では、礼義に従って食べようとすれば飢えて死ぬが、礼儀を無視して食べることに重きを置けば、食を得て生きられるという時でも、必ず礼義に従わなければいけないのですか。婚礼の作法に従って妻を迎えようとすれば得ることはできないが、それを無視すれば迎えられるという時でも、婚礼の作法を守らねばいけないのですか。」
屋廬子は答えることが出来ず、翌日、孟子が住んでいる芻に行きその話を告げた。孟子は言った。
「それに答えるのは何でもないことだ。根底を考えずに、末端だけを比べようとすれば、一寸四方の木でも小山よりも高くすることが出来る。金属は羽より重いと言うのは、帯留め一つの金と車一台の羽とを比較して言っているのではない。生きるか死ぬかという食の重大事と、比較的軽い食事の礼と比べた場合、単に食の方が大切だというだけではすまされない。結婚という人にとっての一大事と、親迎という比較的軽い礼と比べた場合、単に結婚の方が大切だというだけではすまされない。戻って屋廬子にこう言ってやれ、『兄さんの腕をねじり上げて奪い取れば、その食物を手に入れることが出来るが、そうしなければ得られない時、君は兄さんの腕をねじり上げるか。垣根を飛び越えて東隣りの家の処女を連れ出せば妻を得られるが、そうしないと得られない時、君は垣根を乗り越えて連れ出そうとするか。』と。」


任人有問屋廬子。曰、禮與食孰重。曰、禮重。色與禮孰重。曰、禮重。曰、以禮食、則飢而死、不以禮食,則得食。必以禮乎。親迎、則不得妻、不親迎、則得妻。必親迎乎。屋廬子不能對。明日之鄒以告孟子。孟子曰、於答是也何有。不揣其本而齊其末、方寸之木可使高於岑樓。金重於羽者、豈謂一鉤金與一輿羽之謂哉。取食之重者與禮之輕者而比之、奚翅食重。取色之重者與禮之輕者而比之、奚翅色重。往應之曰、紾兄之臂而奪之食則得食、不紾則不得食。則將紾之乎。踰東家牆而摟其處子、則得妻、不摟則不得妻。則將摟之乎。

任人、屋廬子に問う有り。曰く、「禮と食と孰れか重きか。」曰く、「禮重し。」「色と禮と孰れか重きか。」曰く、「禮重し。」曰く、「禮を以て食すれば、則ち飢えて死し、禮を以てせずして食すれば、則ち食を得。必ず禮を以てせんか。親迎すれば、則ち妻を得ず、親迎せざれば、則ち妻を得。必ず親迎せんか。」屋廬子、對うること能わず。明日、鄒に之き、以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「是に答うるに於いてや何か有らん。其の本を揣らずして其の末を齊しうすれば、方寸の木も岑樓(シン・ロウ)より高からしむ可し。金は羽より重しとは、豈に一鉤金と一輿羽との謂を謂わんや。食の重き者と禮の輕き者とを取りて之を比せば、奚ぞ翅(ただに)に食重きのみならん。色の重き者と禮の輕き者とを取りて之を比せば、奚ぞに翅に色重きのみならんや。往きて之に應えて曰く、『兄の臂を紾りて之が食を奪えば則ち食を得るも、紾らざれば則ち食を得ず。則ち將に之を紾らんとするか。東家の牆を踰えて、其の處子を摟けば則ち妻を得るも、摟かざれば則ち妻を得ず。則ち將に之を摟かんとするか。』」

<語釈>
○「任人有問屋廬子」、朱注:任は國の名、屋廬子の名は連、孟子の弟子なり。○「色」、色気、色欲の類でなく、ここでは下句との関係から、妻を娶る意。○「親迎」、婚姻の礼義の一つで、新郎が新婦を迎えに行く儀式。費用がかさみ貧乏人は行い難し。○「岑樓」、趙注:岑樓は、山の鋭嶺なる者なり。討尼の鋭い峰。○「揣」、音はシ、おしはかる意、“はかる”と訓ず。○「紾」、音は、シン、“ねじる”と訓ず。○「摟」、音は、ロウ、引き寄せる意、“ひく”と訓ず。

<解説>
物事を比較する時は、同じ条件でなければならず、軽重を推しはかるには根本を見なければならない、ということである。趙岐の章指を紹介しておく。
「事に臨み宜しきを量るには、其の軽重を權る、禮を以て先と為し、食色を後と為すは、偏殊有るが若し、其の大なる者に從うこと、屋廬子未だ達せず、故に摟紾に譬う。

百六十二節

曹国の君主の弟の曹交が孟子に尋ねた。
「人は誰でも堯や舜のような人物になれるというが、それは本当でしょうか。」
孟子は言った。
「その通りです。」
「聞く所によると、周の文王は身長が十尺あり、殷の湯王の身長は九尺あったそうです。私は九尺四寸もあるのに、無駄飯を食らっているだけです。どうすれば堯や舜のような人物になれるのでしょうか。」
「身長などは関係ありません。ただ仁義の道を行うだけです。今一匹の鴨の雛さえ持ち上げることが出来ない人がいれば、世間は力のない人だと言うでしょうし、百鈞を持ち上げると言う人がいれば、世間は力持ちだと言うでしょう。それならば、力持ちで有名な烏獲が持ち上げることが出来るものを持ち上げる人がいれば、その人も烏獲と同じだと言うほかはありません。ですから、人は力が足りないことを悩む必要はないのです。努力しないことに問題があるのです。年長者と同行する時、ゆっくり歩いて後ろから従っていくのが弟の徳で、速足で年長者の前を歩くのを不弟と言うのです。ゆっくり歩くことは、どうして人のできないことでありましょうか。出来ないのではなく、そうしないだけの事です。堯・舜の道は、ただ孝弟の徳を行うだけの事です。あなたが堯と同じ礼に適った服を着、堯と同じ仁義に適った正しい言葉を述べ、堯の考弟の正しい行いを実行すれば、あなたは堯になれるでしょう。これに反して、あなたが桀と同じ非礼の服を着、仁義に悖る言葉を述べ、暴虐な行いをしたならば、あなたは桀と同じ人間にほかありません。」
「私は鄒君にお目見えしたら、屋敷を借りることが出来ます。できればしばらく滞在して、先生よりお教えを受けたいと存じます。」
「いや、人の道は大路のようなものです。どうしてそれを知るのに難しいことが有りましょうか。求めないことが問題なのです。求める気さえあれば、帰られても師とすべき人物が必ずおられるでしょう。無理にここに留まる必要はありません。」

曹交問曰、人皆可以為堯舜。有諸。孟子曰、然。交聞、文王十尺、湯九尺、今交九尺四寸以長。食粟而已。如何則可。曰、奚有於是。亦為之而已矣。有人於此。力不能勝一匹雛、則為無力人矣。今曰舉百鈞、則為有力人矣。然則舉烏獲之任、是亦為烏獲而已矣。夫人豈以不勝為患哉。弗為耳。徐行後長者謂之弟。疾行先長者謂之不弟。夫徐行者、豈人所不能哉。所不為也。堯舜之道、孝弟而已矣。子服堯之服、誦堯之言、行堯之行、是堯而已矣。子服桀之服、誦桀之言、行桀之行、是桀而已矣。曰、交得見於鄒君、可以假館。願留而受業於門。曰、夫道、若大路然。豈難知哉。人病不求耳。子歸而求之、有餘師。

曹交問いて曰く、「『人皆以て堯舜為る可し』と。諸れ有りや。」孟子曰く、「然り。」「交聞く、文王は十尺、湯は九尺と。今、交は九尺四寸、以て長し。粟を食らうのみ。如何せば則ち可ならん。」曰く、「奚ぞ是に有らんや。亦た之を為さんのみ。此に人有り。力は一匹雛に勝うること能わずとせば、則ち力無き人と為さん。今、百鈞を舉ぐと曰わば、則ち力有る人と為さん。然らば則ち烏獲の任を舉ぐれば、是れ亦た烏獲為るのみ。夫れ人豈に勝えざるを以て患と為さんや。為さざるのみ。徐行して長者に後る、之を弟と謂う。疾行して長者に先だつ、之を不弟と謂う。夫れ徐行は、豈に人の能くせざる所ならんや。為さざる所なり。堯舜の道は、孝弟のみ。子、堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行いを行わば、是れ堯のみ。子、桀の服を服し、桀の言を誦し、桀の行いを行わば、是れ桀のみ。」曰く、「交、鄒君に見ゆるを得て、以て館を假る可し。願わくは留まりて業を門に受けん。」曰く、「夫れ道は、大路の若く然り。豈に知り難からんや。人求めざるを病むのみ。子歸りて之を求めば、餘師有らん。」

<語釈>
○「曹交」、趙注:曹交は、曹君の弟。○「一匹雛」、朱注は、「匹」は本、左に“匹」、右に”鳥“の字であったが、省略されて”匹“になったとし、義は「鴨」だち言う。一匹の鴨の雛。○「烏獲」、秦の武王のお抱え力士、力持ちで名を残している。

<解説>
立派な人物になるのは、難しいことはない、ただそれを為そうと努力しないだけである、というのが趣旨である。趙岐の章指にも、天下の大道、人並び之に由る、為さざるを病い、能わざるを患えず、と述べられている。

『孟子』巻十一告子章句上 百五十七節、百五十八節、百五十九節、百六十節

2019-02-13 10:19:17 | 四書解読
百五十七節

孟子は言う。
「貴くなりたいと願うのは、誰もが同じ気持ちであり、誰もが自分自身の中に仁義廣譽という貴いものを持っている。ただそれに気づかないだけである。世俗の人が貴いとしているのは富貴であって、それは本来の貴さではない。晉の権力者趙孟が与えた地位や富という貴さは、趙孟自身の手により賤しくされるものである。『詩経』の既酔篇に、『酔うほどに酒はいただきました、徳も飽きるほどです。』とあるが、これは仁義の徳に満ち足りて満足していることを言っているのだ。人は仁義の徳に心が満たされば、肥えた肉やおいしい穀物もそれほどほしいとは思わなくなる。又よい評判や広く知られた名誉が、わが身を覆うので、縫い取りを施した美しい衣服も欲しいとは思わなくなるのである。」

孟子曰、欲貴者、人之同心也。人人有貴於己者、弗思耳。人之所貴者、非良貴也。趙孟之所貴、趙孟能賤之。詩云、既醉以酒、既飽以德。言飽乎仁義也。所以不願人之膏粱之味也。令聞廣譽施於身。所以不願人之文繡也。

孟子曰く、「貴きを欲するは、人の同じき心なり。人人己に貴き者有り、思わざるのみ。人の貴くする所の者は、良貴に非ざるなり。趙孟の貴くする所は、趙孟能く之を賤しくす。詩に云う、『既に醉うに酒を以てし、既に飽くに德を以てす。』仁義に飽くを言うなり。人の膏粱の味を願わざる所以なり。令聞廣譽、身に施く。人の文繡を願わざる所以なり。」

<語釈>
○「有貴於己者」、趙注:己に在る者は、仁義廣譽なり。○「詩」、『詩経』大雅の生民之什既酔篇。○「膏粱」、朱注:「膏」は、肥肉、「粱」は、美穀。○「令聞廣譽」、「令」は「善」、「令聞」は、よい評判。「廣譽」は、広く知られた名誉。○「文繡」、美しく縫い取りを施した衣服。

<解説>
趙孟の例で言われているように、人より与えられたものは、人により奪われるものである、ということは、常に考えておかなければならない大切なことである。だがそれは人より与えられたものがすべて悪いということではない。努力をして人から与えられることもある。大事なことは常に己を正しく見つめていることであろう。

百五十八節

孟子は言う。
「仁が不仁に打ち勝つのは、水が火に勝つ様なものだ。だが、今の仁を行う人は、一杯の水によって車一台に積まれた薪の火を消そうとするようなものである。消えないのは当然であるのに、消えなければ水は火に打ち勝つことはできないと言う。これでは、仁を行うどころか、不仁に味方することがはなはだしい。ついにはわずかばかりの仁すらも失ってしまうだろう。」

孟子曰、仁之勝不仁也、猶水勝火。今之為仁者、猶以一杯水、救一車薪之火也。不熄、則謂之水不勝火。此又與於不仁之甚者也。亦終必亡而已矣。

孟子曰く、「仁の不仁に勝つは、猶ほ水の火に勝つがごとし。今の仁を為す者は、猶ほ一杯の水を以て、一車薪の火を救うがごときなり。熄まずんば、則ち之を水は火に勝たずと謂う。此れ又不仁に與するの甚しき者なり。亦た終に必ず亡せんのみ。」

<解説>
百五十三節では事の軽重を知ることを説き、百五十四節では事の大小を判別することの大切さを説いており、これらと合わせてこの節を読めばより深く理解することが出来る。

百五十九節

孟子は言う。
「五穀は種子の中では上等なものであるが、熟していなければ、それより下のひえの類のほうがまだましだ。それと同じで仁も成熟したところにその価値があるのだ。」

孟子曰、五穀者、種之美者也。苟為不熟、不如荑稗。夫仁亦在乎熟之而已矣。

孟子曰く、「五穀は、種の美なる者なり。苟くも熟せずと為さば、荑稗(テイ・ハイ)に如かず。夫れ仁も亦た之を熟するに在るのみ。」

<語釈>
○「荑稗」、朱注に、荑稗は草の穀に似たる者なり、其の實も亦た食す可し、とあり、「荑」(テイ)は、いぬびえ、イネ科の一般的な雑草、「稗」は、ひえ。

<解説>
論旨は前節と同じである。

百六十節

孟子は言う。
「古の弓の名人である羿が人に弓を教えるときは、必ず弓を引き絞り矢を放つ頃合いを主として教え、学ぶ者もそれを中心に学んだ。大工がその技術を人に教えるときは、コンパスや定規の使い方を中心に教え、学ぶ者もそれを中心に学んだ。聖人の道を学ぶのも同じことで、必ず学ぶべき中心がある。」

孟子曰、羿之教人射、必志於彀。學者亦必志於彀。大匠誨人、必以規矩。學者亦必以規矩。

孟子曰く、「羿(ゲイ)の人に射を教うるには、必ず彀(コウ)に志す。學者も亦た必ず彀に志す。大匠の人に誨うるには、必ず規矩を以てす。學者も亦た必ず規矩を以てす。」

<語釈>
○「羿」、趙注:羿(ゲイ)は、古の射を工みにする者なり。○「彀」、朱注:「彀」(コウ)は、弓、満つなり、満ちて而る後に發す、射の法なり。弓を引き絞り、発射のタイミングを大事にする射の技方。○「學者」、趙注:學者は、道を志すもの。朱注:學ぶ、射を學を謂う。どちらの説を採用するか迷う所である。取り敢えず朱注を採用しておく。○「大匠」、大工。○「規矩」、「規」は、ぶんまわし、コンパス、「矩」は定規。

<解説>
弓射の技術、大工の技術には、みな中心となる学ぶべきものが有る、道を学ぶのも同じことで、中心的に学ぶべきことがある。それは古の聖人の教えである、と言うのがこの節の趣旨であろう。服部宇之吉氏の解釈が面白いので、紹介しておく。「射法の秘訣は弓を張る時に在り、張ることその道に適えば自ら的に中ることを期すべし、弓を張るは天爵を修むるに似たり、的に中るは人爵を得るに似たり、既に天爵を修むれば人爵自ら之に從う。」

『孟子』巻第十一告子章句上 百五十五節、百五十六節

2019-02-07 10:21:51 | 四書解読
百五十五節

公都子が尋ねた。
「同じく人間でありながら、或る者は大人物になり、或る者は小人物になるのは何故でしょうか。」
孟子は言った。
「大体、乃ち心に従って行動すれば大人物になれるし、小体、乃ち耳目の欲に従って行動すれば小人物になる。」
「同じく人間でありながら、或る者は心に従い、或る者は耳目の欲に従うのは何故でしょうか。」
「耳や目の器官には心がないので判断することが出来ず、外物に影響されてしまう。耳目が外物に接すれば、耳目はその外物に引き寄せられてしまう。それに対して、心の働きは考えることができる。考えることが出来れば、正しい道を得ることが出来るが、考えなければ得られない。この耳目も心も天が与えてくれたものだが、その中で、まず大なる物、乃ち心を第一に考えて確立すれば、小なる物、乃ち耳や目の欲が心を奪い惑わすことは出来ない。これが大人物なのだ。」

公都子問曰、鈞是人也。或為大人、或為小人、何也。孟子曰、從其大體為大人、從其小體為小人。曰、鈞是人也。或從其大體、或從其小體、何也。曰、耳目之官不思、而蔽於物。物交物、則引之而已矣。心之官則思。思則得之、不思則不得也。此天之所與我者、先立乎其大者、則其小者弗能奪也。此為大人而已矣。

公都子問うて曰く、「鈞しく是れ人なり。或いは大人と為り、或いは小人と為るは、何ぞや。」孟子曰く、「其の大體に從えば大人と為り、其の小體に從えば小人と為る。」曰く、「鈞しく是れ人なり。或いは其の大體に從い、或いは其の小體に從うは、何ぞや。曰く、「耳目の官は思わずして、物に蔽わる。物、物に交われば、則ち之を引くのみ。心の官は則ち思う。思えば則ち之を得るも、思わざれば則ち得ざるなり。此れ天の我に與うる所の者、先づ其の大なる者を立つれば、則ち其の小なる者奪うこと能わざるなり。此れ大人為るのみ。」

<語釈>
○「大體、小體」、朱注:大體は心なり、小體は耳目の類なり。

<解説>
この節の論旨も、前節の、「其の小を養う者は小人為り、其の大を養う者は大人為り。」の内容と同じであり、前節の続きの感がある。

百五十六節

孟子は言う。
「天爵というものがあり、人爵というものがある。仁・義・忠・信の四徳を具え、善を楽しんで倦むことを知らない。これが天から与えられた天爵である。公・卿・大夫という世俗の身分。これが人から与えられた人爵である。古の人はその天爵を修めることに務め、その結果人爵が勝手についてきた。今の人はその天爵を修めることに務めるのは、それにより人爵を手に入れようとするためで、その人爵を手に入れてしまえば、その天爵を棄ててしまう。これは心の惑いの甚だしいものである。そんなことではせっかく手に入れた人爵もやがて失ってしまうに違いない。」

孟子曰、有天爵者、有人爵者。仁義忠信、樂善不倦、此天爵也。公卿大夫、此人爵也。古之人修其天爵、而人爵從之。今之人修其天爵、以要人爵。既得人爵、而棄其天爵、則惑之甚者也。終亦必亡而已矣。

孟子曰く、「天爵なる者有り、人爵なる者有り。仁義忠信、善を樂しみて倦まざるは、此れ天爵なり。公卿大夫、此れ人爵なり。古の人は其の天爵を修めて、人爵之に從う。今の人は其の天爵を修めて、以て人爵を要む。既に人爵を得て、其の天爵を棄つるは、則ち惑の甚しき者なり。終に亦た必ず亡せんのみ。」

<語釈>
○「終亦必亡而已矣」、朱注:終には必ず其の得る所の人爵を幷せて、之を亡うなり。

<解説>
天爵とは仁・義・忠・信の徳義であり、それを修めるとは學ぶということである。すなわちここで説かれているのは、学問は何のためにするのかということであり、学問を立身出世の手段としてはいけないということである。立身出世の為に学問することが必ずしも悪いことではないと思うが、朱子の言う「修己治人」を忘れないことが肝要ではなかろうか。

『孫子』巻六虚實篇

2019-02-02 10:26:58 | 四書解読
巻六 虚實篇

孫子は言った、およそ敵より先に戦場に到着して敵を待ち受けるものは、余裕があり戦いを有利に進めることが出来る。反して敵より遅れて戦場に到着したものは、余裕がなく不利な戦いを強いられる。だから戦争の上手な者は、敵を招き寄せて疲れさせるのであって、こちらから出かけて余裕をなくすようなことはしない。敵を引き寄せる為には、自分が有利だと思わせることだ。敵が先に有利な地を占めないようにするには、それを妨害して不利だと思わせることだ。だから敵に余裕があるようなら、手段を用いて敵を疲れさせ、敵の食糧に余裕があるなら、手段を用いて食糧不足にさせ、敵が安心しているようなら、手段を用いて動揺させ、敵が来そうな所は先回りして待ち伏せし、敵が思ってもいない所に打って出る。このように戦えば、千里の遠い道を進んでも苦労しないのは、無人の地を行くようなものであるからだ。攻めて必ず敵陣を奪い取るには、守っていない所を攻めればよい。守備が堅く破られないためには、敵が攻めない所を守ればよい。だから攻めるのが上手な者が攻撃すると、敵はどこを守備すればよいか分からないし、守備が巧みな者が守ると、敵はどこを攻撃したらよいのか分からない。分からない、分からない、敵が気づかない陣形、神妙に、神妙に、敵に気づかれないように音を立てない。だから敵の運命・生死を握ることが出来る。進撃して敵が防ぎきれないのは、守備の薄い所を攻めるからであり、退却して敵が追撃できないのは、退却が迅速で敵が追い付くことが出来ないからである。だから我が軍が敵と戦うことを望めば、たとえ敵が砦の壁を高くし堀を深くして守備を固めても、我が軍と戦わざるを得なくなるのは、敵が守り通さなければならない所を攻めるからだ。こちらが戦いたくないと思ったら、守備陣地は簡単にして、敵が攻めて来れば素早く陣地を空にして移動して敵の目をごまかすのである。敵の態勢を有形で固定化させ、我が軍は無形で変幻自在にしておけば、味方の力は集中し、敵の力は分散される。我が軍の力が集中されて一丸となり、敵の力が分散されて十になれば、我が軍は十倍の力で敵の一つを攻めることになる。これは我が軍が多く、敵軍が少ないのと同じで、多数を以て少数を撃てば、少ない力で多くの功績をあげることが出来る。何れの地に於いて戦わんとするかを相手は知ることができない。知ることが出来なければ、防備する場所が多くなる。分散して多くの場所を守れば、我が軍に対する兵力は少なくなる。すなわち前方を固く守れば後方が手薄になり、後方に備えれば前方が手薄になり、左方を固く守れば右方が手薄になり、右方に備えれば左方が手薄になる。すべての場所を守るということは、全ての場所が手薄になるということである。兵数が少ないのは、分散して多くの場所を守るからであり、兵数が多いのは、敵兵は分散させて、我が軍は一丸となって当たるからである。従って敵に先んじて戦いの地を知り、戦いの日を知っておれば、たとえ千里の遠い地に遠征しても勝つことが出来る。だがそれに反して、どこで戦うのか、どの地で戦うのかを知らなければ、左陣の部隊は右陣の部隊を救援することが出来ないし、右陣の部隊は左陣の部隊を救援することが出来ないし、前陣の部隊は後陣の部隊を救援することが出来ないし、後陣の部隊は前陣の部隊を救援することが出来ない。まして遠い所では数十里、近い所では数里の所まで救援に出かけることはなおさらできない。私が考えますに、越国の兵が多いからと言って、それがどうして勝敗に有利になると言えるでしょうか。だから言うのです、勝利は作り出すものである、敵兵が多ければ分散させて我が軍と戦う気を起こさせないようにするのだ、と。それ故に敵情をよく観察して得失の計を知り、それに基づいて働きかけて敵の動静を知り、敵に陣形を取らせて敵陣の厚い所、薄い所を把握して、彼我の力を比べて有余不足の所を知る。だから軍の最上の形は敵が窺い知ることができないようにその形を無くすことである。形が無ければ、深く潜入した敵の間者もこちらの計画を窺い知ることができないし、敵の智者も作戦を練ることができない。敵の陣形により我が兵力を配置して勝を制するが、兵士たちは何故勝つことができたのかは知らない。勝った軍形は知っているが、何故その軍形にしたのかは知らない。だから勝ったからと言ってその軍形を再び取ることはない。軍形は敵の変化に応じて無限に生ずるものである。軍の形というものは、水の形と同じである。水は様々な形をとって高い所を避けて低い所に流れていく。軍形も敵の厚い所を避けて、薄い所を攻める。水は地形によってその流れを変える。軍は敵に因って勝ち方を変える。だから軍は敵に対して一定不変の勢いを取ることが無く、水には一定不変の形はない。敵に応じてさまざまに変化して勝を治める者は、まさに神といえるだろう。それはまた宇宙の五行の働きにも似ている。木・火・土・金・水の五行が相克して万物の変化を生み、四季も春・夏・秋・冬とめぐり常に変化し、日の長さも常に変化しており、月も満ちたり欠けたりして、常に変化している。

孫子曰、凡先處戰地而待敵者佚、後處戰地而趨戰者勞。故善戰者、致人而不致于人。能使敵人自至者、利之也。能使敵不得至者、害之也。故敵佚能勞之、飽能飢之、安能動之。出其所必趨、趨其所不意。行千里而不勞者、行于無人之地也。攻而必取者、攻其所不守也。守而必固者、守其所不攻也。故善攻者、敵不知其所守。善守者、敵不知其所攻。微乎微乎、至于無形。神乎神乎、至于無聲。故能為敵之司命。進而不可禦者、衝其虚也。退而不可追者、速而不可及也。故我欲戰、敵雖高壘深溝、不得不與我戰者、攻其所必救也。我不欲戰、雖畫地而守之、敵不得與我戰者、乖其所之也。故形人而我無形、則我專而敵分。我專為一、敵分為十。是以十攻其一也。則我衆而敵寡。能以衆撃寡、則我之所與戰者約矣。吾所與戰之地不可知。不可知、則敵所備者多。敵所備者多、則我所與戰者寡矣。故備前則後寡、備後則前寡、備左則右寡、備右則左寡。無所不備、則無所不寡。寡者、備人者也。衆者,使人備己者也。故知戰之地、知戰之日、則可千里而會戰。不知戰地、不知戰日、則左不能救右、右不能救左、前不能救後、後不能救前。而況遠者數十里、近者數里乎。以吾度之、越人之兵雖多、亦奚益于勝敗哉。故曰、勝可為也。敵雖衆、可使無鬭。故策之而知得失之計、作之而知動靜之理、形之而知死生之地、角之而知有餘不足之處。故形兵之極、至于無形。無形、則深間不能窺、智者不能謀。因形而措勝于衆。衆不能知。人皆知我所以勝之形、而莫知吾所以制勝之形。故其戰勝不復、而應形於無窮。夫兵形象水。水之形、避高而趨下。兵之形、避實而撃虚。水因地而制流、兵因敵而制勝。故兵無常勢、水無常形。能因敵變化而取勝、謂之神。故五行無常勝、四時無常位、日有短長、月有死生。

孫子曰く、凡そ先に戰地に處りて敵を待つ者は佚し、後れて戰地に處りて戰に趨く者は勞す。故に善く戰う者は、人を致して人に致されず(注1)。能く敵人をして自ら至らしむるは、之を利すればなり(注2)。能く敵人をして至るを得ざらしむるは、之を害すればなり(注3)。故に敵佚すれば能く之を勞し、飽けば能く之を飢えしめ、安んずれば、能く之を動かす。其の必ず趨る所に出で、其の意わざる所に趨る(注4)。千里を行きて勞せざるは、無人の地を行けばなり。攻めて必ず取るは、其の守らざる所を攻むればなり。守りて必ず固きは、守其の攻めざる所を守ればなり。故に善く攻むる者は、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず。微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無聲に至る。故に能く敵の司命を為す(注5)。進みて禦ぐ可からざるは、其の虚を衝けばなり。退きて追う可からざるは、速にして及ぶ可からざればなり。故に我戰わんと欲すれば、敵、壘を高くし溝を深くすと雖も、我と戰わざるを得ざるは、其の必ず救う所を攻むればなり(注6)。我戰を欲せざれば、地に畫して之を守るも(注7)、敵、我と戰を得ざるは、其の之く所に乖けばなり(注8)。故に人を形せしめて我無形なれば、則ち我專にして敵分る(注9)。我專にして一と為り、敵分れて十と為らば、是れ十を以て其の一を攻むるなり。則ち我衆くして敵寡し。能く衆を以て寡を撃てば、則ち我の與に戰う所の者は約なり(注10)。吾が與に戰う所の地、知る可からず。知る可からざれば、則ち敵の備うる所の者多し。敵の備うる所の者多ければ、則ち吾が與に戰う所の者寡し。故に前に備うれば則ち後ろ寡く、後ろに備うれば則ち前寡く、左に備うれば則ち右寡く、右に備うれば則ち左寡し。備えざる所無ければ、則ち寡からざる所無し。寡きは、人に備うる者なり、衆きは、人をして己に備えしむる者なり(注11)。故に戰いの地を知り、戰いの日を知れば、則ち千里にして會戰す可し。戰いの地を知らず、戰いの日を知らざれば、則ち左は右を救うこと能わず、右は左を救うこと能わず、前は後ろを救うこと能わず、後ろは前を救うこと能わず。而るを況んや遠きは數十里、近きは數里なるをや。吾を以て之を度るに(注12)、越人の兵多しと雖も、亦た奚ぞ勝敗に益あらん。故に曰く、勝ちは為す可きなり。敵衆しと雖も、鬭うこと無からしむ可し、と。故に之を策りて得失の計を知り(注13)、之を作して動靜の理を知り、之を形して死生の地を知り(注14)、之を角りて有餘不足の處を知る(注15)。故に兵を形するの極は、無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺う能わず、智者も謀る能わず。形に因りて勝を衆に措く。衆知る能わず。人皆我が勝つ所以の形を知りて、吾が勝を制する所以の形を知る莫し。故に其の戰いに勝つに復びせずして、形を無窮に應ず。夫れ兵の形は水に象る。水の形は、高きを避けて下きに趨き、兵の形は、實を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵は常勢無く、水は常形無し。能く敵に因りて變化し、而して勝ちを取る者は、之を神と謂う。故に五行に常勝無く、四時に常位無く、日に短長有り、月に死生有り。

<語釈>
○注1、十注:梅堯臣曰く、能く敵をして來らしめば、則ち敵勞す、我往きて就かざれば、則ち我佚す。○注2、十注:李筌曰く、利を以て敵を誘えば、適は則ち遠きよりして至るなり。○注3、十注:梅堯臣曰く、敵、來るを得ざらしむるは、當に之を制する害するを以てすべきのみ。○注4、「出其所必趨」は原文では「出其所不趨」に作るが、孫星衍が上文の注や『御覧』などにより、「出其所必趨」の誤りであるとし、これに従う者は多い。上文の曹公の注に、其の必ず愛しむ所を攻め、其の必ず趨る所に出でれば、則ち敵をして相救わざるを得ざらしむとある。よってこの説により改めて解釈した。○注5、司命は、人の運命生死を司る神の名、又は星の名、ここでは運命・生死のこと。○注6、十注:曹公・李筌曰く、其の糧道を絶ち、其の帰路を守り、其の君主を攻むるなり。梅堯臣曰く、其の要害を攻むるなり。適がどうしても守り通さなければならない所を攻めれば、敵は出てきて戦わざるを得ない。○注7、十注:孟氏曰く、物を以て地を畫して守るは、其の易きを喩うるなり。簡易な守りの陣地のこと。○注8、十注:張預曰く、營壘の固きを為さずと雖も、敵必ずしも敢て來りて我と戰わざるは、示すに疑形を以てし、其の往く所に乖けばなり。○注9、十注:梅堯臣曰く、他人、形有りて、我が形は見わさず、故に敵、兵を分けて、以て我に備う。有形は固定的であり、無形は変幻自在。○注10、十注:杜牧曰く、「約」は、猶ほ「少」なり。「我之所與戰者約矣」の解釈には二通りある、十注の多くは我が軍の力が少なくて済むの意に解釈しているが、わが国では、相手の力が少ない、貧弱である意に解するものが多い。私は張預の注、「夫れ勢い聚まれば、則ち彊く、兵散れば、則ち弱し、衆彊の勢いを以て、寡弱の兵を撃てば、則ち力を用うること少なくして、功を成すこと多し。」を採用する。○注11、十注:張預曰く、左右前後、處りて備えを為さざる無ければ、則ち處りて兵寡からざる無し、寡き所以は、兵分かちて廣く人に備うればなり、衆き所以は、勢い專らにして、人をして己に備えしむるが為なり。○注12、私、孫武が考えますに、という意味である。「吾」は「呉」の誤りであるとする説もある、その方が理解はしやすいが、取り敢えず前者の説に従っておく。○注13、十注:張預曰く、敵情を籌策し、其の計の得失を知る。他に諸説が多いが張預の説を採用した。○注14、服部宇之吉氏云う、両軍相対して我能く敵陣の力薄き處と厚き處とを知る、是れ死性の地なり。○注15、王晳曰く、角は、相角(はかる)るを謂うなり、彼我の力を角れば、則ち有余不足の處を知る、然る後以て攻守の利を謀る可し。

<解説>
十注:杜牧曰く、夫れ兵は實を避け虚を撃つ、先づ須からく彼我の虚実を識るべし。彼我の虚実を知って、実を以て敵の虚を撃つということであるが、それだけでなく、李筌曰く、善く兵を用うる者は、虚を以て實と為し、善く敵を破る者は、實を以て虚と為す、とあるように虚を実に見せ、実を虚に見せるという、虚々実々の駆け引きが大切であるということである。結局だましきった者が勝つのである。