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『孟子』巻第三公孫丑章句上二十四節

2016-08-22 11:26:56 | 四書解読
二十四節

弟子の公孫丑が孟子に尋ねた、
「先生がもし齊の政治に当たられたら、管仲や晏子に匹敵するような功業を期待出来ましょうか。」
孟子は言った、
「お前は本当に齊の人間だな。世に優れた人物と言えば、管仲や晏子しか知らないのだから。昔、或者が曾參の孫の曾西に『あなたと子路とではどちらが優れておりますか。』と尋ねたところ、曾西は姿勢を正して、『子路は吾が祖父の曾參でさえ畏敬の念を懐いたお方です。私などとても及びません。』と答えた。すると又『それではあなたと管仲とではどちらが優れておりますか。』と尋ねると、むっとして不機嫌に、『お前は、どうして私を管仲などと比べるのか、管仲は君主の信任を一身に集め、国政をあれほど長く行ってきたのに、其の功業は王道ではなく、卑しい覇道に過ぎぬ。お前はどうしてこのような者と私とを比べるのだ。』と言った。このように管仲は曾西さえも相手にしなかった人物である、それなのにお前は私が管仲のようになることを望むのか。」
「管仲は仕えた桓公を諸侯の覇者にしました。晏子は君主の景公を助けてその名を天下にとどろかせました。それでもこの二子は取るに足りない者でしょうか。」
「齊ほどの大国ならば、覇者にするのも、王者にするもの、手のひらを返すように簡単な事である。」
「そのようにおっしゃられますと、弟子である私たちは、ますます分からなくなってしまいます。かの文王はあれほど徳が高く、百年もの長寿を保ったにもかかわらず、その徳は天下に行き渡らず、その子の武王や周公が受け継いで、やっと天下に周の徳が行われるようになったのです。それなのに先生は今、王者となるのはいとも簡単な事のように言われました。それでは文王も模範とするに足りませんか。」
「文王はどうして彼の者たちと比べられようか。殷は始祖の湯王より中興の賢王高宗に至るまで、すぐれた賢王が六、七人も出て、天下は長きにわたり殷に帰服した。安定した状態が長く続けば変化は起こりにくい。だから高宗が諸侯を朝貢させて、天下を治めることは、掌に転がすほどに簡単に行えたのである。殷の最後の王である紂の時代は高宗からそれほど時が経っていないので、国内には、功績のある古い家柄や、昔ながらの習俗、遺徳や善政のしきたりなどが残っており、更に微子・微仲・王子比干・箕子・膠鬲等の賢れた臣下が居り、紂を補佐したので、あれほどの暴虐の政治を行いながら、亡ぶまでに長い年月を要したのである。一尺の地も一人の民も紂王のものでないものは無いという状況の中に在って、文王は百里四方の国から興ったのだから、その道は実に困難だったのである。齊の諺にも、『智恵が有っても、時の勢いにはかなわない。鋤などの農具が有っても、耕作の時期を間違えれば役に立たない。』とあるではないか。その時ということで言えば、今は王業を成しやすい時世なのだ。夏・殷・周の盛んな時期でも、その領土が千里四方を越えるものはなかった。ところが齊は既に千里四方の領土を持っており、しかも土地は開け人家は密集し、多くの民を抱えている。これ以上土地を広げ、民を集めなくても、仁政を行うて王者となるのに、誰もそれを止める者はいないのである。しかも今ほど王者が長く現れなかった時期はないし、人民が虐政に苦しんでいるのも今ほど甚だしい時はなかった。飢えている者は食べられるものを選ばないし、飲み水も選ばない。孔子は、『徳の感化が天下に伝わっていくのは、宿舎の早馬を使って命令を伝えるより速やかである。』と言われた。今の時に当たって戦車一万輌を出せるほどの大国が仁政を行ったならば、人民は、あたかも逆さ吊りの拷問による苦しみから解き放たれたように喜ぶであろう。それゆえ昔の人の半分の苦労で、きっと倍の成果が得られるだろう。今こそ、その絶好の時なのだ。」

公孫丑問曰、夫子當路於齊、管仲晏子之功、可復許乎。孟子曰、子誠齊人也。知管仲晏子而已矣。或問乎曾西曰、吾子與子路孰賢。曾西蹴然曰、吾先子之所畏也。曰、然則吾子與管仲孰賢。曾西艴然不悅、曰、爾何曾比予於管仲。管仲得君、如彼其專也。行乎國政、如彼其久也。功烈、如彼其卑也。爾何曾比予於是。曰、管仲、曾西之所不為也。而子為我願之乎。曰、管仲以其君霸、晏子以其君顯。管仲晏子猶不足為與。曰、以齊王、由反手也。曰、若是、則弟子之惑滋甚。且以文王之德、百年而後崩、猶未洽於天下。武王周公繼之、然後大行。今言王若易然。則文王不足法與。曰、文王何可當也。由湯至於武丁、賢聖之君六七作。天下歸殷久矣。久則難變也。武丁朝諸侯有天下、猶運之掌也。紂之去武丁未久也。其故家遺俗、流風善政、猶有存者。又有微子微仲王子比干箕子膠鬲。皆賢人也。相與輔相之,故久而後失之也。尺地莫非其有也、一民莫非其臣也。然而文王猶方百里起。是以難也。齊人有言曰、雖有智慧、不如乘勢。雖有鎡基,不如待時。今時則易然也。夏后殷周之盛、地未有過千里者也。而齊有其地矣。雞鳴狗吠相聞、而達乎四境、而齊有其民矣。地不改辟矣,民不改聚矣。行仁政而王、莫之能禦也。且王者之不作、未有疏於此時者也。民之憔悴於虐政、未有甚於此時者也。飢者易為食、渴者易為飲。孔子曰、德之流行、速於置郵而傳命。當今之時、萬乘之國行仁政、民之悅之、猶解倒懸也。故事半古之人、功必倍之、惟此時為然。

公孫丑、問いて曰く、「夫子、路に齊に當らば、管仲・晏子の功、復た許す可きか。」孟子曰く、「子は誠に齊の人なり。管仲・晏子を知るのみ。或ひと曾西に問いて曰く、『吾子と子路と孰れか賢れる。』曾西蹴然として曰く、『吾が先子の畏るる所なり。』曰く、『然らば則ち吾子と管仲と孰れか賢れる。』曾西艴然(フツ・ゼン)として悅ばずして曰く、『爾何ぞ曾ち予を管仲に比するや。管仲は君を得ること、彼の如く其れ專らなり。國政を行うこと、彼の如く其れ久しきなり。功烈は、彼の如く其れ卑しきなり。爾何ぞ曾ち予を是に比するや。』」曰く、「管仲は、曾西の為さざる所なり。而るに子、我が為に之を願うか。」曰く、「管仲は其の君を以て霸たらしめ、晏子は其の君を以て顯れしむ。管仲・晏子は猶ほ為すに足らざるか。」曰く、「齊を以て王たるは、由ほ手を反すがごときなり。」曰く、「是の若くんば、則ち弟子の惑い滋々甚し。且つ文王の德、百年にして後崩ずるを以てしてすら、猶ほ未だ天下に洽(あまねし)からず。武王・周公、之に繼ぎ、然る後大いに行わる。今、王たるを言うこと然し易きが若し。則ち文王は法るに足らざるか。」曰く、「文王は何ぞ當る可けんや。湯由り武丁に至るまで、賢聖の君、六七作る。天下殷に歸すること久し。久しければ則ち變じ難し。武丁、諸侯を朝し、天下を有つこと、猶ほ之を掌に運すがごときなり。紂の武丁を去ること未だ久しからず。其の故家遺俗・流風善政、猶ほ存する者有り。又微子・微仲・王子比干・箕子・膠鬲有り。皆賢人なり。相與に之を輔相す。故に久しくして而る後に之を失えるなり。尺地も其の有に非ざるは莫く、一民も其の臣に非ざるは莫し。然り而して文王、方百里より起こる。是を以て難きなり。齊人言える有り、曰く、『智慧有りと雖も、勢いに乘ずるに如かず。鎡基有りと雖も、時を待つに如かず。』「今の時は則ち然し易きなり。夏后・殷・周の盛んなるも、地未だ千里に過ぐる者有らざるなり。而して齊其の地を有せり。雞鳴狗吠相聞こえて、四境に達す。而して齊其の民を有せり。地改め辟かず、民改め聚めず。仁政を行うて王たらば、之を能く禦むる莫きなり。且つ王者の作らざる、未だ此の時より疏(ながい)き者有らざるなり。民の虐政に憔悴する、未だ此の時より甚だしき者有らざるなり。飢者、食を為し易く、渴者、飲を為し易し。孔子曰く、『德の流行する、置郵して命を傳うるより速やかなり。』今の時に當り、萬乘の國、仁政を行わば、民の之を悅ぶこと、猶ほ倒懸を解くがごときなり。故に事は古の人に半ばして、功は必ず之を倍にせん。惟だ此の時を然りと為す。」

<語釈>
○「管仲」、齊の桓公に仕えた名宰相、法家思想を以て桓公を春秋最初の覇者にした、その思想をまとめた『管子』二十四巻が現在伝わっているが、管仲の作ではないと言われている、管鮑の交わりで有名である。○「晏子」、名は嬰、管仲と並ぶ齊の名宰相、霊・荘・景三公に仕えた、博聞の人として有名、著書に『晏子春秋』があるが、彼の著でないと言われている。○「許」、趙注:「許」は猶ほ「興」なり。○「曾西」、趙注:曾西は曾子の孫。子だとする説もある。曾子は孔子の弟子の曾參で特に孝を重視したことで知られており、著書に『孝経』がある。○「蹴然」、畏敬の念を懐き姿勢を正すこと。○「艴然(フツ・ゼン)」、気色ばんで怒る貌。○「由」、「猶」の義に読む。○「由湯至於武丁、賢聖之君六七作」、湯は殷の始祖湯王、武丁は殷の二十代目の高宗で、中興の名君として知られている、六、七人は数は当たらないが、太甲(太宗)・太戊(中宗)・祖乙・盤庚などが知られている。○「故家遺俗、流風善政」、「故家」は勲功の有る古い家柄、「遺俗」は昔からの善き習俗、「流風」は現在に流れてきた祖先の遺徳、「善政」祖先から伝わってきた善い政治。○「鎡基」、趙注:鎡基は田器なり、耒耜(ライ・シ、鋤)の屬なり。○「雞鳴狗吠相聞」、この鶏・狗は家畜で、その家畜の鳴き声が隣近所に聞こえるほどに家が密集している状態を述べている。○「置郵」、宿駅の早馬。○「倒懸」、「倒懸」は逆さ吊りの意で、ここでは逆さ吊りの拷問を指している。

<解説>
この節では、管仲・晏子は取るに足りないものであると述べており、梁惠王章句上の第七節で、齊の宣王が孟子に、「齊桓・晉文の事、聞くを得可きか。」と尋ね、孟子は「仲尼の徒は、桓・文の事を道う者無し。是を以て後世傳うる無し。臣未だ之を聞かざるなり」と答えており、この節と第七節とを併せて読めば、王たる者、國を治めるに、武威を以てせず、王道に基づき、仁政を行うべきであるという、孔孟の考えがより理解できる。

『春秋左氏伝』巻十昭公二

2016-08-08 10:44:53 | 漢文解読
                       昭公二
『經』
・四年(前538年)、春、王の正月、大いに雹雨る。
・夏、楚子・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・除子・滕子・頓子・胡子・沈子・小邾子・宋の世子佐・淮夷、申に會す。
・楚人、除子を執らう。
・秋、七月、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・胡子・沈子・淮夷、呉を伐ち、齊の慶封を執らえて、之を殺す。
・九月、ショウ(“おおざとへん”に“曾”の字)を取る。
・冬、十有二月乙卯、叔孫豹、卒す。

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『孟子』巻二梁惠王章句下 第二十二節、二十三節

2016-08-01 12:05:42 | 漢文解読
                         第二十二節
滕の文公が孟子に尋ねた、
「滕は小国である。国を挙げて大国に仕えても、その侵略から免れることはできそうにない。どうしたらよかろうか。」
孟子は答えた、
「昔、周の大王(古公亶)は邠に居られましたが、異民族が侵入してきました。そこで大王は、毛皮や絹を献上しましたが、侵略を免れることはできませんでした。次いで犬や馬を献上しましたが駄目でした。更に珠や玉の宝石類を献上しましたが、やはり駄目でした。そこで大王は一族の長老たちを集めてお告げになりました、『彼らが望んでいる物は、我が土地である。私はこういうことを聞いている、君子たる者は、人を養う為の物、乃ち土地の為に争って、人を傷つけることはしないものだと。お前たちは私が去ったとしても、君主がいないと云って心配することはない。次の君主が来るのだから。私はここを去ろうと思う。』こうして邠を去り、梁山を越えて、岐山の麓に邑を作り、そこに落ち着きました。すると邠の人々は、あの方こそ仁徳の君主だ。この君を失うことはできない、と言って、大王に従って、まるで市場に出かけるように、ぞろぞろと附いて行きました。これは一つの考え方です。一方、土地は、代々守り継がれてきたものであって、自分の一存で棄て去ることが出来るものではない。たとえ死んでも立ち去るな、と言う考えもございます。王様、どうかこの二つの中から一つをお選びください。」

滕文公問曰、滕小國也。竭力以事大國、則不得免焉。如之何則可。孟子對曰、昔者大王居邠。狄人侵之。事之以皮幣、不得免焉。事之以犬馬、不得免焉。事之以珠玉、不得免焉。乃屬其耆老而告之曰、狄人之所欲者、吾土地也。吾聞之也。君子不以其所以養人者害人。二三子何患乎無君?我將去之。去邠、踰梁山、邑于岐山之下居焉。邠人曰、仁人也。不可失也。從之者如歸市。或曰、世守也。非身之所能為也。效死勿去。君請擇於斯二者。

滕の文公、問いて曰く、「滕は、小國なり。力を竭くして以て大國に事うるも、則ち免るるを得ず。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「昔者、大王、邠に居る。狄人、之を侵す。之に事うるに皮幣を以てすれども、免るるを得ず。之に事うるに犬馬を以てすれども、免るるを得ず。之に事うるに珠玉を以てすれども、免るるを得ず。乃ち其の耆老を屬(あつめる)めて、之に告げて曰く、『狄人の欲する所の者は、吾が土地なり。吾、之を聞く。君子は人を養う所以の者を以て人を害せずと。二三子、何ぞ君無きを患えん。我將に之を去らんとす。』邠を去り、梁山を踰え,岐山の下に邑して居る。邠人曰く、『仁人なり、失う可からざるなり。』之に從う者、市に歸(おもむく)くが如し。或いは曰く、『世々の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり。死を效すも去る勿れ。』君請う斯の二者を擇べ。」

<語釈>
○「珠玉」、「珠」は真珠等の海から取れるもの、「玉」は玉石などの山から取れるもの。「珠玉」で宝石類。○「耆老」、『禮記』に、六十を耆(キ)と曰い、七十を老と曰う、とある。ここでは「耆老」で一族の長老の意。

<解説>
趙岐の章指を舉げる、
「大王の邠を去るは權なり。死を效して業を守るは義なり。義・權は並ばず。故に擇びて之に處ると曰う。」
この「權」と「義」については、朱子が以下の如く述べている。
「蓋し國を遷して以て存を圖るは權なり。正を守りて死を俟つは義なり。己を審らかにして力を量り、擇びて之に處るは可なり。」

                             第二十三節
魯の平侯が出かけようとした。お気に入りの近臣の臧倉という者が、公に尋ねた。
「これまで殿さまはお出かけになる時は必ず係りの役人に行く所をお告げになりました。ところが今、お車に乗られ、馬も繋がれて出発の準備が整っていますのに、係りの役人は未だどこへ行くのか伺っておりません。是非お聞かせくださいませ。」
平侯は言った、
「孟子に会いに行こうと思う。」
「何ということでございますか。貴い身分でありながら軽々しく一平民にこちらから先にお訪ねになるのは、相手が賢者だと思し召すからでございますか。しかし賢者というのは行いが全て礼儀に適っているものでございますが、孟子の母の葬儀は、以前の父の葬儀よりも立派にするという礼儀に外れたものでございました。とても賢者とは言えませんので、殿様、どうかお会いになるのはお辞めください。」
平侯は言った、
「分かった。」
孟子の弟子で、魯の臣である樂正子が平侯に謁見して言った、
「殿様、どうして孟軻にお会いにならないのでございますか。」
「孟子の母の葬儀を、先に亡くなった父の葬儀よりも立派にするという礼儀知らずの人間だと告げる者がいたので、遇いに行かなかったのだ。」
「殿様の仰せになられる立派とは、どういうことでございますか。前には士の禮を用い、後には大夫の禮を用い、前には供物が三鼎で、後には五鼎であったことをおっしゃておられるのでしょうか。」
「いや、そうではない。棺やそれを入れた外棺、衣類や夜着が父の時以上に立派にしたと言うことだ。」
「それは世に謂う踰えたとは申しません。今と当時とでは貧富の程度が違うのですから。」
樂正子は孟子に会って言った、
「私は、殿さまに先生の事を申し上げ、殿様もお会いになろうとされたのです。ところがお気に入りの近臣の臧倉と言う者が、殿様を止めたのです。その為に殿さまは先生にお会いするのをお止めになられました。」
「人が行くときは、そうさせるものがあり、止まるときも止めさせるものが有る。行くも止まるも人の力で勝手にできるものではない。私が魯侯にお会いできなかったのは、天命なのだ。臧氏の小人ごときが、どうして私が魯侯にお会いするのを妨げることが出来ようか。」
 
魯平公將出。嬖人臧倉者請曰、他日君出、則必命有司所之。今乘輿已駕矣。有司未知所之。敢請。公曰、將見孟子。曰、何哉。君所為輕身以先於匹夫者、以為賢乎。禮義由賢者出。而孟子之後喪踰前喪。君無見焉。公曰、諾。樂正子入見、曰、君奚為不見孟軻也。曰、或告寡人曰、孟子之後喪踰前喪。是以不往見也。曰、何哉。君所謂踰者。前以士、後以大夫、前以三鼎、而後以五鼎與。曰、否。謂棺槨衣衾之美也。曰、非所謂踰也。貧富不同也。樂正子見孟子、曰、克告於君。君為來見也。嬖人有臧倉者沮君。君是以不果來也。曰、行或使之、止或尼之。行止所能也。吾之不遇魯侯、天也。臧氏之子焉能使予不遇哉。

魯の平公將に出でんとす。嬖人臧倉なる者請うて曰く、「他日、君出づれば、則ち必ず有司に之く所を命ず。今、輿に乘り已に駕す。有司未だ之く所を知らず。敢て請う。」公曰く、「將に孟子を見んとす。」曰く、「何ぞや。君の為す所、身を輕んじて以て匹夫に先だつとは。以て賢と為すか。禮義は賢者由り出づ。而るに孟子の後喪は前喪に踰えたり。君、見る無かれ。」公曰く、「諾。」樂正子、入り見えて曰く、「君、奚為れぞ孟軻を見ざるや。」曰く、「或ひと寡人に告げて曰く、『孟子の後喪は前喪を踰えたり。』是を以て往きて見ざるなり。」曰く、「何ぞや。君の所謂踰ゆとは。前には士を以てし、後には大夫を以てし、前には三鼎を以てし、後には五鼎を以てしたるか。」曰く、「否。棺槨衣衾の美を謂うなり。」曰く、「所謂踰ゆるには非ざるなり。貧富同じからざればなり。」樂正子、孟子に見えて曰く、「克、君に告ぐ。君、來たり見んと為す。嬖人に臧倉なる者有り、君を沮む。君是を以て來たることを果たさざるなり。」曰く、「行くも之を使しむる或り、止まるも之を尼むる或り。行止は人の能くする所に非ざるなり。吾の魯侯に遇わざるは、天なり。臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」

<語釈>
○「嬖人」、寵愛している近臣。○「後喪・前喪」、前喪は先に亡くなった父の葬儀、後喪は後で亡くなった母の葬儀。○「樂正子」、趙注:孟子の弟子なり、魯の臣と為る。名は克、後文に出てくる。○「孟軻」、孟子の名。○「棺槨」、「棺」は、ひつぎ、「槨」は、棺を入れる外側の棺。○「衣衾」、「衣」は衣類、「衾」は夜着。○「尼」、「止」の義に読む。

<解説>
この章の趣旨は、最後の「天なり。」に尽きる。朱子も、此の章は、聖賢の出處は時運の盛衰に關る、乃ち天命の為す所は、人力の及ぶ可きに非ずを言う、と述べている。
最後の、「臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」という言葉は、孟子の人間性を表しているような気がする。