百九十七節
孟子は言った。「広い土地に多くの人民を有している大国は、君子も欲する所であるが、そこに楽しみを見出すことはない。天下の中央に立って、四海の民を安定させることは、君子も楽しむ所であるが、それは人としての本性とは言えない。君子が本性とする所は、然るべき地位について大いなる行いを為したからと言って、増加するようなもので無く、困窮したからと言って、減損するようなものではない。それは性というものが天から与えられた本性で、自然に備わっており、その分量は定まっているからである。その君子が本性とするのは、仁義禮智の四徳であって、それは人間の心に根ざしており、外に出ては顔色にも表れる。だから四徳に満ちた顔色は清らかで艶やかで、その貌は背中から体中に及ぶので、言葉に出して言わなくても、その体を見ただけで人は分かるのである。」
孟子曰、廣土衆民、君子欲之、所樂不存焉。中天下而立、定四海之民、君子樂之、所性不存焉。君子所性、雖大行不加焉、雖窮居不損焉。分定故也。君子所性、仁義禮智根於心、其生色也。睟然見於面、盎於背、施於四體、四體不言而喻。
孟子曰く、「廣土衆民は、君子之を欲するも、樂しむ所は存せず。天下に中して立ち、四海の民を定むるは、君子之を樂しむも、性とする所は存せず。君子の性とする所は、大いに行わると雖も加わらず、窮居すと雖も損せず。分定まるが故なり。君子の性とする所は、仁義禮智、心に根ざし、其の色に生ず。睟然として面に見われ、背に盎れ、四體に施き、四體言わずして喻る。」
<語釈>
○「廣土衆民」、趙注:「廣土衆民」は、大国諸侯なり。○「睟然」、朱注:「睟然」は、清和潤澤の貌。清らかで、つややかな貌。
<解説>
前節では、「天下に王となることは、その楽しみには含まれない」と述べながら、この節では、「君子之を樂しむ」と述べている。それほど深く考える必要はないのだろう。君子にとっては、王と為ることも楽しみではあるが、それほど大事な楽しみではないのであって、真の楽しみは、天から賦与された本性である仁義禮智を実践することなのである。
百九十八節
孟子は言った。「伯夷は紂を避けて、北海のほとりに隠れ住んでいたが、周の文王が立ち上がったと聞いて、『文王のもとへ参じよう。聞けば、彼は老人を大切にするとのことだ。』と言った。又太公は紂を避けて、東海のほとりに隠れ住んでいたが、周の文王が立ち上がったと聞いて、『文王のもとへ参じよう。聞けば、彼は老人を大切にするとのことだ。』と言った。このように天下に老人を大切にする者が現れると、世の仁人たちは、この人こそ身を寄せるに足る人物だとして、馳せ参じようとする。一軒当たり五畝の宅地の垣根に桑を植えて、一人の婦人が蚕を育て糸を紡げば、老人は絹の衣を着ることが出来る。五羽の雌鶏と二匹の雌豚を飼い、繁殖の時期を見失わないようにすれば、老人は肉を食べることが出来る。百畝の田を一人の男が耕せば、八人家族ぐらいなら飢えることも無い。いわゆる、西伯が老人をよく養ったというのは、このような民の田地や宅地を正しく定め、桑の栽培や畜産を教え、妻子を導いて老人を養わせたことを言うのである。人は五十歳ぐらいになれば絹物を着なければ暖まらないし、七十歳ぐらいになれば肉を食べないと満足しなくなる。暖まらず腹が満足しないことを、凍え飢えると謂うのだ。文王の民には、凍え飢える老人がいなかったとは、このことを言うのである。」
孟子曰、伯夷辟紂、居北海之濱。聞文王作興、曰、盍歸乎來。吾聞西伯善養老者。太公辟紂、居東海之濱。聞文王作興、曰、盍歸乎來。吾聞西伯善養老者。天下有善養老、則仁人以為己歸矣。五畝之宅、樹牆下以桑、匹婦蠶之、則老者足以衣帛矣。五母雞、二母彘、無失其時、老者足以無失肉矣。百畝之田、匹夫耕之、八口之家足以無飢矣。所謂西伯善養老者、制其田里教之樹畜、導其妻子、使養其老。五十非帛不煖、七十非肉不飽。不煖不飽、謂之凍餒。文王之民、無凍餒之老者、此之謂也。
孟子曰く、「伯夷は紂を辟けて、北海の濱に居る。文王作興すと聞き、曰く、『盍ぞ歸せざるや。吾聞く西伯は善く老を養う者なりと。』太公は紂を辟けて、東海の濱に居る。文王作興すと聞き、曰く、『盍ぞ歸せざるや。吾聞く西伯は善く老を養う者なりと。』天下善く老を養う有らば、則ち仁人以て己が歸と為す。五畝の宅、牆下に樹うるに桑を以てし、匹婦之に蠶せば、則ち老者以て帛を衣るに足る。五母雞、二母彘、其の時を失うこと無ければ、老者以て肉を失うこと無きに足る。百畝の田、匹夫之を耕せば、八口の家以て飢うること無きに足る。所謂西伯善く老を養うとは、其の田里を制して之に樹畜を教え、其の妻子を導きて、其の老を養わしむればなり。五十は帛に非ざれば煖かならず、七十は肉に非ざれば飽かず。煖かならず飽かず、之を凍餒(ダイ)と謂う。文王の民には、凍餒の老無しとは、此の謂なり。」
<語釈>
○「盍歸乎來」、「盍」は、「何不」と同じ。「來」は助辞。○「五母雞、二母彘、無失其時」、「彘」は豚、五羽の鶏と五匹の豚、「無失其時」とは、繁殖の時期を失わないこと。
<解説>
「伯夷辟紂~、太公辟紂~。」の文章は、七十四節の文章と同じであり、その趣旨も同じであり、王者にとって最も大切なものは仁であるという孟子の持論が語られている。その仁の中でも、親を愛することと、老人を大切にすることとは、特に重要な事で、王たる者、これを正しく行えば、天下の民は自ずからやってくる者だと述べている。