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『中庸』第十節

2014-04-29 10:29:50 | 漢文
                 『中庸』第十節
孔子が謂われた、「鬼神の働きは、誠に盛大であることよ。其の形は見ようとしても見えないし、その聲は聞こうとしても聞えないけれども、それは万物の根幹を成しており、鬼神の気に因って生じない物はないのである。それだから人々は心身ともに清め、礼装して鬼神を祭るのであり、そうすれば鬼神ははっきりと意識出来ないが、あたり一面に充溢して、祭主の上にも左右にも存在しているような気を懐かせるのである。詩経にも、『神が降臨したもうても、我々にはその姿かたちを推測することは出来ない。その存在を認識しようとするのではなく、ただ慎み敬いてこれに仕えなければならない。まして厭倦の情等かりそめにも起してはならない。』と歌われている。このように鬼神でさえも、慎み敬いて仕えれば、我々の周囲にそれとなく現れるものである。まして人の挙止動作などは、どれだけ幽微な者であっても、覆い隠すことは出来ない。それが誠と謂う者である。」

子曰、鬼神之為、其盛矣乎。視之而弗見、聽之而弗聞。體物而不可遺。使天下之人齊明盛服、以承祭祀、洋洋乎如在其上、如在其左右。詩曰、神之格思、不可度思、矧可射思。夫微之顯、誠之不可揜、如此夫。

子曰く、「鬼神の為る、其れ盛なるかな。之を視れども見えず、之を聽けども聞えず。物に體して遺(のこす)す可(ところ)あらず。天下の人をして齊明盛服して、以て祭祀を承け、洋洋乎として其の上に在るが如く、其の左右に在るが如くならしむ。詩に曰く、『神の格(きたる)る、度る可からず、矧(いわんや)や射(いとう)とう可けんや。』夫れ微の顯なる、誠の揜(おおう)可からざるは、此の如きか。」

<語釈>
○「鬼神」、万物の神霊のこと。○「徳」、道徳の「徳」でなく、徳行のこと、乃ち働き。○「可」、鄭注:「可」は猶ほ「所」のごときなり。○「齊明」、鄭注:「明」は猶ほ「潔」のごときなり。「齊」は「齋」のこと、身を清めて清潔にすること。○「盛服」、礼装のこと。○「詩」、『詩経』大雅抑篇、鄭注:神の来るは、其の形象億度(オク・タク、推測すること)して知る可からず、之に事うるに敬を盡くすのみ。○「格」、鄭注:「格」は「來」なり。○「思」、語調を整える助字、『詩経』によく使われる。○「矧」、鄭注:「矧」は「況」なり。○「射」、鄭注:「射」は「厭」なり。

<解説>
「隠し事、世に現る」、「誠は、常に傍らに在り」、この説で述べられていることは、此の如きものである。それは分かっていても、不利益につながることはどうしても隠そうとし、小事が大事になり、後で後悔することになる。やはりいつの時代も「正直」、「誠」が大切であり、肝に銘じておきたいものである。

『中庸』第九節

2014-04-03 10:32:02 | 漢文
               『中庸』第九節
君子が道を行うのは、たとえば遠方に行くには、必ず近くから出発し、高い山に登るには、必ず低いところから登るように、順序を踏んで一歩ずつ確実に進むようにする。詩には、「妻や子とは、大琴と小琴との演奏が調っているように仲むつまじく過ごしている、兄弟たちとは内とけあって、仲良く和やかにして、楽しんでいる。あなたの一族も心から和合し、妻子を楽しまされんことを。」と歌っている。さればこそ孔子は、「妻子・兄弟に善く和合し睦まじく過ごせば、父母にも亦た徳を行うことができ、それに依り一族を和合して順ならしむることができる。」と言われたのである。

君子之道、辟如行遠、必自邇。辟如登高、必自卑。詩曰、妻子好合、如鼓瑟琴、兄弟既翕、和樂且耽。宜爾室家、樂爾妻帑。子曰、父母其順矣乎。

君子の道は、辟ば遠きに行くに、必ず邇(ちかい)き自りするが如し。辟ば高きに登るに、必ず卑(ひくい)き自りするが如し。詩に曰う、「妻子好合すること、瑟琴を鼓するが如く、兄弟既に翕(あう)い,和樂し且つ耽む。爾の室家に宜しく,爾の妻帑を樂ましむ。」子曰く、「父母は其れ順ならしめん。」

<語釈>
○「辟」、「譬」の仮借字で、たとえばと訓ず。○「邇」、「近」の古字。○「好合」、心から和合すること。○「瑟琴」、「瑟」は大琴、「琴」は小琴。○「翕」、鄭注:「翕」は「合」なり。音はキュウ、あうと訓ず。○「耽」、鄭注:「耽」も亦た「楽」なり。○「室家」、一族のこと。○「妻帑」、「帑」は「孥」の仮借字で、子のこと。「妻子」。

<解説>
第八節では、道は身近なものであると説き、この節では道を行うには、身近なところ、足元から始めるべきであると説いている。このように道とは本来身近な所に在り、そこから始めるものであった。それがいつのまにか儒者達が積辯累辭して、深遠高邁なものになってしまったのである。
詩の内容については、鄭玄は、「此の詩は室家を和するの道は近き者自り始むるを言う」と述べている。一族を治めることは、この時代、我々が考える以上に重要なことであり、君主にとっては治國の根幹であった。このような大事な道も身近な妻子・兄弟から始める可きであると詩は歌っている。
「子曰父母其順矣乎」この句の解釈には説が多い。鄭玄は、「其の教令行われ、室家をして順ならしむるを謂う」と述べ、正義は、「父母」を主語、「順」を述語として、父母が室家を和順する意に解している。荻生徂徠は、「父母」を目的語、「順」を子として徳行の意の述語、主語は「子」と解している。私は、この句の主旨は鄭玄が述べていることで、具体的には、徂徠の説が文の頭に隠れており、正義の解釈が、句の内容であると解釈した。