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『孟子』巻一梁惠王章句上 第一節、第二節

2015-08-21 10:44:34 | 漢文解読
                         巻一 梁惠王章句上
                            第一節
孟子が梁の惠王にお目にかかった。そこで王はお尋になられた、「先生は、千里の道も遠しとせずに、わざわざ我が国にお越しいただきました。それはやはり我が国に利益をもたらし害を除くお話をしていただけるのでしょうか。」孟子は答えた、「王様はどうして利益の事をおっしゃるのですか。國を治めるには仁義の道があるのみです。王はどうしたら我が国に利益をもたらすことが出来るかと言い、大夫はどうしたら我が家に利益をもたらすことが出来るかと言い、士や庶民はどうしたら吾が身に利益をもたらすことが出来るかと言います。上も下もそれぞれ利益を求めて互いに争うようなことになれば、國は滅亡の危機に瀕します。そもそも萬乘の天子の國で、其の君を弒する者は、必ず千乘の大夫であり、千乘の諸侯で、其の君を弒する者は、必ず百乘の大夫であります。萬乘の兵を持つことが出来る富のうち、千乘分を貰い、千乘の兵を持つことが出来る富のうち、百乘分を貰うのは、決して少ないとは言えません。それでも仁義の道を後にして、利益の追求を優先させると、足るを知ることも無く、全てを奪わずには居れなくなるのです。昔から仁の道に従いながら、其の親を棄てる者は居りません。又義の道に従いながら、君への忠心を後にして、自分の利を優先させる者はおりません。ですから王様も仁義についてこそ心がけるべきであって、どうして利益などを口にされる必要がございましょうか。」

孟子見梁惠王。王曰、叟不遠千里而來、亦將有以利吾國乎。孟子對曰、王何必曰利。亦有仁義而已矣。王曰、何以利吾國。大夫曰、何以利吾家。士庶人曰、何以利吾身。上下交征利而國危矣。萬乘之國弒其君者、必千乘之家。千乘之國弒其君者、必百乘之家。萬取千焉、千取百焉、不為不多矣。苟為後義而先利、不奪不饜。未有仁而遺其親者也。未有義而後其君者也。王亦曰仁義而已矣,何必曰利。」

孟子、梁の惠王に見ゆ。王曰く、「叟、千里を遠しとせずして來たる。亦た将に以て吾が國を利する有らんとするか。」孟子對えて曰く、「王何ぞ必ずしも利と曰わん。亦た仁義有るのみ。王は何を以て吾が國を利せんと曰い、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰い、士・庶人は何を以て吾が身を利せんと曰う。上下交々利を征れば國危うし。萬乘の國、其の君を弒する者は、必ず千乘の家なり。千乘の國、其の君を弒する者は、必ず百乘の家なり。萬に千を取り、千に百を取る、多からずと為さず。苟も義を後にして利を先にすることを為さば、奪わずんば饜かず。未だ仁にして其の親を遺つる者有らざるなり。未だ義にして其の君を後にする者有らざるなり。王も亦た仁義と曰わんのみ。何ぞ必ずしも利と曰わん。」

<語釈>
○「梁惠王」、魏の惠王、大梁に居る、故に号して梁王と曰う。○「叟」、長老に対する敬称。

                           第二節
孟子が梁の惠王にお目にかかった。王は池の畔に立って、大小の雁や鹿を眺めながら、「昔の賢者たちもこれらを楽しんだのであろうか。」と尋ねられたので、孟子は、「賢者であって初めてこれらを楽しむことができるのであって、不賢者ではたとえこのようなものが有っても、楽しむことはできません。『詩経』にも、『文王が始めて霊臺を造ろうとして、土地を測量し、縄張りしたら、庶民は争って工事を行い、さほどの日数もかけずに完成させた。文王は急がなくてもよいと言ったのだが、人々は親に仕える子のように集まって来たからである。王が霊囿に在って眺めると、雌鹿と雄鹿が安らぎ伏せており、その姿はつややかでよく肥えており、白鳥は白くつややかである。王が霊妙な池の傍に立てば、ああ、満々と水をたたえた池の中では、魚たちが嬉しそうに飛び跳ねている。』と詠われております。文王は民の力を動員して台や池を造りましたが、民はそれを労苦と思わずに、反ってこれを喜び楽しみ、文王の徳を称えてその台を霊台と呼び、その池を霊沼と呼んで、そこに大小の鹿や魚やスッポンが居るのを楽しみました。このように古の人は上も下も共に楽しみました。だからこそ本当の喜びを尽くすことができたのでございます。『書経』の湯誓篇には、『桀王の暴虐のこの時代はいつ亡びるのだろうか、桀王が亡ぶならば、たとえ私も一緒に亡んだとしても構わない。』と述べられております。このように民が君を憎んで共に亡んでもよいと思うようでは、たとえ立派な台や池や鳥獣があったとしても、どうして君主一人で楽しむことができましょうか。」とお答えになりました。

孟子見梁惠王。王立於沼上、顧鴻鴈麋鹿、曰、賢者亦樂此乎。孟子對曰、賢者而後樂此。不賢者雖有此、不樂也。詩云、經始靈臺、經之營之。庶民攻之、不日成之。經始勿亟。庶民子來。王在靈囿、麀鹿攸伏、麀鹿濯濯。白鳥鶴鶴。王在靈沼、於牣魚躍。』文王以民力為臺為沼。而民歡樂之。謂其臺曰靈臺、謂其沼曰靈沼、樂其有麋鹿魚鼈。古之人與民偕樂。故能樂也。湯誓曰、時日害喪。予及女偕亡。民欲與之偕亡、雖有臺池鳥獸、豈能獨樂哉。」

孟子、梁の惠王に見ゆ。王、沼上に立ち、鴻鴈麋鹿を顧みて、曰く、「賢者も亦た此を樂しむか。」孟子對えて曰く、「賢者にして而る後此を樂しむ。不賢者は、此れ有りと雖も、樂しまざるなり。詩(『詩経』大雅の霊臺篇)に云う、『靈臺を經始し、之を經し之を營す。庶民之を攻(おさめる)め、日ならずして之を成す。經始亟にすること勿れ。庶民子のごとく來たる。王、靈囿に在れば、麀(ユウ)鹿伏する攸(ところ)、麀鹿濯濯たり。白鳥鶴鶴たり。王、靈沼に在れば、於牣(みちる)ちて魚躍る。』文王、民力を以て臺を為り沼を為り、而して民之を歡樂す。其の臺を謂いて靈臺と曰い、其の沼を謂いて靈沼と曰い、其の麋鹿魚鼈有るを樂しむ。古の人は民と偕に樂しむ。故に能く樂しむなり。湯誓に曰く、『時の日害(いつか)か喪(ほろぶ)びん。予、女と偕に亡びん。』民之と偕に亡びんと欲せば、臺池鳥獸有りと雖も、豈に能く獨り樂しまんや。」

<語釈>
○「沼上」、趙注:沼は池なり。「上」は畔。○「鴻鴈麋鹿」、「鴻」は大きい雁、「麋」は大きい鹿のことで、大小の雁や鹿。○「靈臺」、土を積み上げた霊妙な台。○「經始」、「經」は測量の意で、土地を調べて作り始めようとすること。○「營」は縄張りをすること、○「麀鹿」、雌鹿と雄鹿。○「濯濯」、つややかで肥えている貌、○「鶴鶴」、白くてつやのある貌。○「時日害喪」、この句の解釈は趙岐と朱子の二説がある、「時」は俱に「是」の意に解す、趙説は、「害」を「大」の意に解し、湯王の言葉だとして、この乙卯の日に桀王は大いに亡ぶだろうと解釈し、朱説は、「害」の音は“カツ”で曷に通じ、「何」の意に解し、桀の民の言葉として、桀王のこの時代はいつ亡びるのだろうかと言う意に解す。安井息軒も朱説に従っているので、朱説を採用する。

<解説>
司馬遷をも嘆かせた自己中心的な利益追求の戦国の世にあって、孟子は仁義の実践を説いた。その思想の根本的命題を第一節の梁王との会見で、「王何ぞ必ずしも利と曰わん。亦た仁義有るのみ。」と述べ、明確に打ち出し、第二節では君主も民も上下互いに慈しみあってこそ、世の中は安寧に治まるのであると述べ、仁義の実践の行きつく所を示している。
以後、これらがどのように述べられていくのか、楽しみにしながら解読を進めていきたいと思う。


『孟子』解読、解説

2015-08-05 10:44:33 | 漢文解読
                         『孟子』解説

                         孟子とその時代
 孟子、姓は孟、名は軻、字は子輿、又は子車、子居と言い、孔子の没後約100年後に魯の芻に生まれ、八十歳前後で亡くなっており、没年については諸説が有る。世は当に戦国時代中ごろ、遊説の徒は合従連衡の策を説き、諸侯は富国強兵に務め、それらの遊説の士を重用した。このような利己的な欲望をひたすら追及した時代の中で、孟子は、「王何ぞ必ずしも利を曰んや、亦た仁義有るのみ。」と述べて、自己中心的な利益追求を批判し、仁義を自我の中心に置き、人間の欲望の克服に務めることを主張したのである。しかしながら、このような学説が弱肉強食、富国強兵の時代に於いて、諸侯に採用されることがないのは自明の理であった。このあたりの事情については、『史記』の孟子列伝が刻銘に述べている。
孟軻は、騶の人なり。業を子思の門人に受く。道既に通じ、斉の宣王に游事し、宣王、用うる能わず。梁に適く。梁の恵王、言う所を果たさず、則ち見て以為らく、迂遠にして事情に闊(とおい)し、と。是の時に当たり、秦、商君を用いて、国を富まし兵を彊くす。楚・魏は呉起を用いて、戦い勝ち敵を弱む。斉の威王・宣王は孫子・田忌の徒を用い、而して諸侯は東して斉に朝す。天下方に合従連衡に務め、攻伐を以て賢と為す。而るに孟軻は乃ち唐・虞・三代の徳を述ぶ。是を以て如くする所の者合わず。退きて萬章(孟子の弟子)の徒と、詩書を序し、仲尼の意を述べ、孟子七篇を作る。
更にこの時代の自己中心的な利益追求が、いかに世の中を乱しているかを、司馬遷は孟子評の中で、的確に捉え、嘆いている。
 太史公曰く、「余、孟子の書を読み、梁の恵王の何を以て吾が国を利せんとするか、と問うに至りて、未だ嘗て書を廃して(書を下において目を外す)歎ぜざることあらず、曰く、嗟乎、利は誠に乱の始めなり、と。夫子(孔子)、罕(まれ)に利を言えるは、常に其の原(乱の源)を防ぐなり。故に曰く、『利に放(よる)りて行えば、怨み多し。』天子自り庶人に至るまで、利を好むの弊、何を以てか異ならん。」
かくの如く利の追求に走った戦国時代に於いては、孟子の仁義に基づいた人間の欲を克服する実践論は用いられることはなかったが、その思想は『孟子』という書に残されたのである。
私のホームページから、孟子荀卿列伝を参照してください。
http://www.eonet.ne.jp/~suqin


                          『孟子』とその注釈書
『史記』によれば、上に紹介した通り、七編の著であったが、後漢の趙岐が各篇を二篇に分けて十四篇にして注釈本を著して以来、今日に至るまで『孟子』十四篇として伝えられている。『孟子』は1000年以上の長きにわたり諸子百家の一つの学問に過ぎなかったが、南宋の朱熹が『論語』・『大学』・『中庸』と共に『孟子』をとりあげ、四書として大いに尊び、その名を定着させたことにより、以後経典としての権威を確立したのである。
注釈書については、現存する最も古いものは、後漢の趙岐による『孟子注』である。それ以外にも後漢の学者たち、程曾、鄭弦、劉熙、高誘等も注釈書を作ったとされているが、全て亡佚しており、趙岐の注のみが残存しているのである。趙注以外で代表的なものは、朱熹の『孟子集注』であり、これ以後は多くの注釈書が世に現れている。わが国に於いても、江戸時代に優れた注釈書が作られている。江戸末期の大儒学者安井息軒の『孟子定本』や伊藤仁斎の『孟子古義』などである。
今回の解読には、冨山房刊行の漢文大系に収められている安井息軒の『孟子定本』を使用した。