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『孟子』巻第十萬章章句下 百三十三節

2018-10-31 10:20:36 | 四書解読
百三十三節

北宮錡は孟子に尋ねた。
「周の王室の爵位と俸禄の制度はどのようなものでございますか。」
孟子は答えた。
「その詳しいことは私もわからない。諸侯たちが自分に都合が悪いので、其の記したものを捨て去ったからだ。しかし私はその大まかな事は以前に聞いたことがある。爵位については、天子・公・侯・伯はそれぞれ一階級で、子と男は併せて一階級で、全部で五階級である。国における階級は、君・卿・大夫・上士・中士・下士の六階級である。俸禄の制度は、天子の領地は千里四方、公・侯の領地は百里四方、伯の領地は七十里四方、子と男の領地は五十里四方の四階級である。五十里未満の国で、直接天子に姓名を通じて挨拶できず、大国の伝手により取り次いでもらう国を附庸と言う。天子に仕える卿は、侯に準じ、大夫は伯に準じ、上士は子・男に準じる。百里四方の領地をもつ大国での俸禄は、君は卿の十倍、卿は大夫の三倍、大夫は上士の二倍、上士は中士の二倍、中士は下士の二倍、下士は庶民で役人になっている者と同じ俸禄であり、その禄は、在職中は耕すことが出来ないので、農夫一人が耕して得られる額を支給する。七十里四方の領地をもつ中堅の国での俸禄は、君は卿の十倍、卿は大夫の三倍、大夫は上士の二倍、上士は中士の二倍、中士は下士の二倍、下士は庶民で役人になっている者の俸禄と同じで、農夫一人の耕して得られる額である。五十里四方の領地をもつ小国での俸禄は、君は卿の十倍、卿は大夫の二倍、大夫は上士の二倍、上士は中士の二倍、中士は下士の二倍、下士は庶民で役人になっている者と同じで、農夫一人の耕して得られる額である。農民一人に与えられる土地は百畝であるが、地味による収入の差により区別されており、上農夫は一家九人を養うことができ、上の次の農夫は八人を、中農夫は七人を、中の次は六人を、下農夫は五人を養うことができる。庶民で役人になっている者の俸禄は、その職務に応じて農夫の五等級に応じて支給されるのだ。」

北宮錡問曰、周室班爵祿也、如之何。孟子曰、其詳不可得聞也。諸侯惡其害己也、而皆去其籍。然而軻也、嘗聞其略也。天子一位、公一位、侯一位、伯一位、子男同一位、凡五等也。君一位、卿一位、大夫一位、上士一位、中士一位、下士一位、凡六等。天子之制、地方千里、公侯皆方百里、伯七十里、子男五十里、凡四等。不能五十里、不達於天子、附於諸侯、曰附庸。天子之卿受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。大國地方百里、君十卿祿、卿祿四大夫、大夫倍上士、上士倍中士、中士倍下士、下士與庶人在官者同祿、祿足以代其耕也。次國地方七十里、君十卿祿、卿祿三大夫、大夫倍上士、上士倍中士、中士倍下士、下士與庶人在官者同祿、祿足以代其耕也。小國地方五十里、君十卿祿、卿祿二大夫、大夫倍上士、上士倍中士、中士倍下士、下士與庶人在官者同祿、祿足以代其耕也。耕者之所獲、一夫百畝。百畝之糞、上農夫食九人、上次食八人、中食七人、中次食六人、下食五人。庶人在官者、其祿以是為差。

北宮錡問いて曰く、「周室の爵祿を班するや、之を如何。」孟子曰く、「其の詳は聞くを得可らざるなり。諸侯、其の己を害するを惡みて、皆其の籍を去れり。然り而して軻や、嘗て其の略を聞けり。天子一位、公一位、侯一位、伯一位、子・男同じく一位、凡そ五等なり。君一位、卿一位、大夫一位、上士一位、中士一位、下士一位、凡そ六等なり。天子の制は、地は方千里、公侯は皆方百里、伯は七十里、子・男は五十里、凡そ四等なり。五十里なること能わずして、天子に達せず、諸侯に附くを、附庸と曰う。天子の卿は、地を受くること侯に視(なぞらえる)え、大夫は地を受くること伯に視え、元士は地を受くること子・男に視う。大國は地、方百里。君は卿の祿を十にし、卿の祿は大夫を四にし、大夫は上士に倍し、上士は中士に倍し、中士は下士に倍し、下士は庶人の官に在る者と祿を同じくす。祿は以て其の耕に代うるに足るなり。次國は地、方七十里、君は卿の祿を十にし、卿の祿は大夫を三にし、大夫は上士に倍し、上士は中士に倍し、中士は下士に倍し、下士は庶人の官に在る者と祿を同じくし、祿は以て其の耕に代うるに足るなり。小國は地、方五十里、君は卿の祿を十にし、卿の祿は大夫を二にし、大夫は上士に倍し、上士は中士に倍し、中士は下士に倍し、下士は庶人の官に在る者と祿を同じくし、祿は以て其の耕に代うるに足るなり。耕す者の獲る所は、一夫に百畝なり。百畝の糞、上農夫は九人を食い、上の次は八人を食い、中は七人を食い、中の次は六人を食い、下は五人を食う。庶人の官に在る者は、其の祿、是を以て差と為す。」

<語釈>
○「班」、趙注:班は列なり。序列のことで、等差階級の制度。○「元士」、朱注:元士は上士なり。○「百畝之糞」、服部宇之吉氏云う、百畝の田に糞して能く其の地味を肥沃ならしむるものは上農夫にして、一家九人を養うことを得べし。○「其祿以是為差」、趙注:庶人の官に在る者の食禄の等差は、農夫の上中下の次に由り、亦た此の五等有り。

<解説>
特に解説することはない。だがこの節の内容は、周の制度を知るうえでの一助になる。それが正しいかどうかは定かではないが。

『孟子』巻第十萬章章句下 百三十二節

2018-10-26 10:25:36 | 四書解読
百三十二節

孟子は言った。
「伯夷は、心を害うような色は見ない、心を害うような声は聞かない、君として立派な人物でなければ仕えず、それなりの人民で無ければ使わなかった。世の中が治まっていれば進んで仕え、乱れていれば退いて隠れてしまった。横暴な政治をする朝廷や横暴な民と俱に居ることに堪えられなかったのである。そのような礼儀をわきまえない村人と一緒に居ることは、伯夷にとって朝廷に出るときの衣服や冠をまとって、泥や炭の上に座っているようなものであったのだ。紂王の時代には北の海辺に隠棲し、濁った世の中が清むのを待っていた。そのような人物だから、後世、彼の風格を聞いた者は、貪欲で頑なな人物でも感化されて清廉になり、意気地のない人物でも感化されて志を立てるようになるのである。それに対して伊尹は、『どんな君でも君であり、仕えてならぬことはない、どんな民でも民であり、使ってならぬことはない。』と言って、世の中が治まっている時も乱れている時も進んで仕官した。伊尹は言う、『そもそも天がこの世に人間を生じさせるに当たっては、先に物事を知った者に、まだ知らない者を教えさせ、先に目覚めた者が、まだ目覚めていない者を目覚めさせようとしているのであって、私は当にその先覚者だ。私が堯・舜の道を以てこの民を目覚めさせよう。』と言った。かくして伊尹は天下の人民の内、一人の男、一人の女でも堯・舜の恩沢を被っていない者が有れば、あたかも自分が彼らを溝の中へ突き落したかのように感じたのであった。このように人民を幸福にするという天下の重大事を己の任務としたのだ。柳下惠はけがれた君主でも仕えることを恥だとは思わなかったし、つまらない官職でも断らなかった。進んで官に仕えその才能を隠すことはなかったが、自分の信じる道は貫き通した。だから人から見捨てられても恨むことはなく、生活に困窮しても気にせず、村人と共に暮らし、ゆったりとした生活に満足し、去り難い風であった。そして『お前はお前だ、わしはわしだ。たとえおまえがわしの前で裸になるという無作法なことをしても、わしを穢すことはできない。』と考えた。だから柳下惠の風格を聞いた者は、心の狭い男でも感化されて寛大になり、薄情な男でも感化されて情が深くなったのである。孔子が齊を去ったとき、米を水に漬けながら、炊飯する暇も惜しんで、米をそのまま持って去るほどに、足早に去って行った。しかし故郷の魯を去るときは、『遅々として進まぬ吾が歩みよ。』と言われた。これは父母の国を去るのだから当然の姿である。去るべき時は速やかに去り、久しく留まるべき時は久しく留まり、隠棲すべきときは隠棲し、仕えるべきときは仕える、このようにその時の状況に合わせて行動するのが孔子である。」
又孟子は語を改めて言った。
「伯夷は聖人の中でも清廉に徹した人である。伊尹は聖人の中でも自分の役割を理解していてそれをやり遂げようとする人である。柳下惠は聖人の中でも、周囲との調和を重んじた人である。孔子は聖人の中でも、時の宜しきに応じて事を行う人である。だから私は孔子を集めて大成する者と言うのだ。集めて大成する者とは、音楽を奏するのに、まず金鐘を鳴らして始め、最後は玉器を鳴らして終わることで、金鐘を鳴らすとは、演奏の筋を示し、調和を引き出すことで、玉器を鳴らして終わるとは、それを締めくくることである。物事の筋道を示し調和させるということは、智に属することであり、それをまとめて終えることは、聖に属することである。弓術に喩えると、智は技巧であり、聖は力である。百歩以上離れた所から的を射た場合、的まで届くかどうかは力の問題であるが、当たるかどうかは力の問題ではない。だから力と技巧が、乃ち智と聖が必要なのである。」

孟子曰、伯夷目不視惡色、耳不聽惡聲。非其君不事、非其民不使。治則進、亂則退。橫政之所出、橫民之所止、不忍居也。思與鄉人處、如以朝衣朝冠坐於塗炭也。當紂之時、居北海之濱、以待天下之清也。故聞伯夷之風者、頑夫廉、懦夫有立志。伊尹曰、何事非君。何使非民。治亦進,亂亦進。曰、天之生斯民也、使先知覺後知、使先覺覺後覺。予、天民之先覺者也。予將以此道覺此民也。思天下之民匹夫匹婦有不與被堯舜之澤者、若己推而內之溝中。其自任以天下之重也。柳下惠、不羞汙君、不辭小官。進不隱賢、必以其道。遺佚而不怨、阨窮而不憫。與鄉人處、由由然不忍去也。爾為爾、我為我、雖袒裼裸裎於我側、爾焉能浼我哉。故聞柳下惠之風者、鄙夫寬、薄夫敦。孔子之去齊、接淅而行。去魯、曰、遲遲吾行也。去父母國之道也。可以速而速、可以久而久、可以處而處、可以仕而仕、孔子也。孟子曰、伯夷、聖之清者也。伊尹、聖之任者也。柳下惠、聖之和者也。孔子、聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者、金聲而玉振之也。金聲也者、始條理也。玉振之也者、終條理也。始條理者、智之事也。終條理者、聖之事也。智譬則巧也。聖譬則力也。由射於百步之外也、其至、爾力也。其中、非爾力也。

孟子曰く、「伯夷は目に惡色を視ず、耳に惡聲を聽かず。其の君に非ざれば事えず、其の民に非ざれば使わず。治まれば則ち進み、亂るれば則ち退く。橫政の出づる所、橫民の止まる所、居るに忍びざるなり。鄉人と處るを思うこと、朝衣朝冠を以て塗炭に坐するが如きなり。紂の時に當り、北海の濱に居り、以て天下の清むを待てり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り。伊尹曰く、『何れに事うるとして君に非ざらん。何れを使うとして民に非ざらん。』治まるも亦た進み、亂るるも亦た進む。曰く、『天の斯の民を生ずるや、先知をして後知を覺らしめ、先覺をして後覺を覺らしむ。予は天民の先覺者なり。予將に此の道を以て此の民を覺さんとす。』天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を與被せざる者有るを思うこと、己が推して之を溝中に内るるが若し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすればなり。柳下惠は、汙君を羞ぢず、小官を辭せず。進みて賢を隱さず、必ず其の道を以てす。遺佚せられて怨みず、阨窮して憫えず、鄉人と處り、由由然として去るに忍ぶざるなり。『爾は爾為り、我は我為り。我が側に袒裼裸裎すと雖も、爾焉くんぞ能く我を浼(けがす)さんや。』故に柳下惠の風を聞く者は、鄙夫も寬に、薄夫も敦し。孔子の齊を去るや、淅(セキ)を接して行く。魯を去るや、曰く、『遲遲として吾行く。』父母の國を去るの道なり。以て速やかにす可くして速やかにす、以て久しくす可くして久しくす、以て處る可くして處る、以て仕う可くして仕うるは、孔子なり。」孟子曰く、「伯夷は、聖の清なる者なり。伊尹は、聖の任なる者なり。柳下惠は、聖の和なる者なり。孔子は、聖の時なる者なり。孔子を之れ集めて大成すと謂う。集めて大成すとは、金聲して玉之を振するなり。金聲すとは、條理を始むるなり。玉之を振すとは、條理を終うるなり。條理を始むるは、智の事なり。條理を終うるは、聖の事なり。智は譬えば則ち巧なり。聖は譬えば則ち力なり。由ほ百步の外に射るがごとし。其の至るは、爾の力なり。其の中たるは、爾の力に非ざるなり。」

<語釈>
○「頑夫廉」、「頑」は、趙岐は貪に、王念孫は「鈍」に解する。「頑夫」は、この二つを合わせて、貪欲で頑固な人物に解する。「廉」は清廉。○「懦夫」、朱注:「懦」は柔弱なり。意気地のない人物。○「由由然」、ゆったりする、自得する貌。○「袒裼裸裎」、「袒裼」は、はだ脱ぎ、「裸裎」は全身裸。「袒裼裸裎」で裸になることで、無作法な態度を指す。○「鄙夫」、心の狭い男。○「薄夫」、薄情な男。○「接淅而行」、服部宇之吉氏云う、「接」は乾かすなり、「淅」は水に漬せる米なり、「接淅」は水に漬せる米の水を去り、乾かし、炊がずして去ると云うことなり、去ること急にして、飯を炊ぐの暇なく。米のままににて持ち去るなり。○「集大成」、趙注:孔子は、先聖の大道を集めて、以て己の聖徳を成す者なり。○「振」、朱注:「振」は「収」なり。○「條理」、朱注:條理は脈絡なり。筋道のこと。

<解説>
この節は他章との重複が多いが、古より聖人として尊ばれている、伯夷・伊尹・柳下惠・孔子の四人を並べての人物評は面白い。これらの誰に共感を覚えるかは人によって違うだろう。

『史記』傅靳蒯成列伝

2018-10-21 10:25:49 | 四書解読
傅靳蒯成列伝

陽陵侯傅寬は、魏の五大夫騎將を以て從い舍人と為り、橫陽に起こる。從いて安陽・杠裏を攻め、趙賁の軍を開封に撃ち、楊熊を曲遇・陽武に撃つに及んでは、首を斬ること十二級、爵卿を賜わる。從いて霸上に至る。沛公立ちて漢王と為る。漢王、寬に封を賜いて共德君と號す。從いて漢中に入り、遷りて右騎將と為る。從いて三秦を定め、食邑を雕陰に賜わる。從いて項籍を撃ち懷に待つ。爵通德侯を賜わる。從いて項冠・周蘭・龍且を撃ち、將いる所の卒、騎將一人を敖下に斬り、食邑を益す。淮陰に屬し、齊の歷下の軍を撃破し、田解を撃つ。相國參に屬し、博を殘い、食邑を益す。因りて齊の地を定め、符を剖きて世世絕つ勿からしむ。封じて陽陵侯と為す。二千六百戶、前に食む所を除く。齊の右丞相と為り、齊に備う。五歲、齊の相國と為り、四月、陳豨を撃つ。太尉勃に屬し、相國を以て丞相噲に代わり豨を撃つ。一月、徙りて代の相國と為り、屯に将たり。二歲、代の丞相と為り、屯に将たり。孝惠五年卒す。謚して景侯と為す。子の頃侯精立ち、二十四年卒す。子の共侯則立ち、十二年卒す。子の侯偃立つ。三十一年、淮南王と反を謀るに坐し死す。國除かる。
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『孟子』巻第九萬章章句上 百三十一節

2018-10-15 10:12:05 | 四書解読
百三十一節

弟子の萬章が尋ねた。
「あの賢者で知られる百里奚は、羊の皮五枚で秦の犠牲を養っている者に、自ら身売りし、牛の世話をしながら秦の繆公に用いられる機会を窺っていた、と言う人がいますが、本当でございますか。」
孟子は答えた。
「いや、それは違う。物好きな人間が言ったことだ。百里奚は虞の人である。晉が虢を伐つために、垂棘の地で採れた美玉と屈で産した名馬とを贈り物にして、虞の国内の通過を求めてきた。宮之奇は晉の野望を見抜いて主君を諫めたが、百里奚は諫めなかった。それは諫めても主君が聞き入れないことを知っていたからである。そこで虞を去って秦に行ったが、その時既に七十歳だった。それほどの年になって、牛を養いながら仕官を求めることの醜ささを知らないとすれば、智者とは言えない。諫めても無駄だと知って諫めないのは、不智と言えようか。虞公がやがて亡びることを知って、先だってそこを去ったのは、不智と言えようか。秦に用いられ、秦の繆公が共に事を為すに足る人物であると見抜いて、その宰相になったのは、不智と言えようか。秦の宰相となって、その主君の名を天下に顕現し、後世にまで伝えることが出来たのは、愚者にできる事だろうか。自ら身売りしてまで主君を成功させることは、村里の名声欲に駆られた人間でも為さないことだ。それなのに百里奚のような賢者がそのような事をすると言うのか。」

萬章問曰、或曰、百里奚自鬻於秦養牲者五羊之皮、食牛、以要秦繆公。信乎。孟子曰、否、不然。好事者為之也。百里奚虞人也。晉人以垂棘之璧與屈產之乘、假道於虞以伐虢。宮之奇諫、百里奚不諫。知虞公之不可諫而去、之秦。年已七十矣。曾不知以食牛干秦穆公之為汙也、可謂智乎。不可諫而不諫、可謂不智乎。知虞公之將亡而先去之、不可謂不智也。時舉於秦、知穆公之可與有行也而相之、可謂不智乎。相秦而顯其君於天下、可傳於後世、不賢而能之乎。自鬻以成其君、鄉黨自好者不為。而謂賢者為之乎。

萬章問いて曰く、「或ひと曰く、『百里奚は自ら秦の牲を養う者に五羊の皮に鬻ぎ、牛を食いて、以て秦の繆公に要む』と。信なるか。」孟子曰く、「否、然らず。事を好む者は之を為すなり。百里奚は虞の人なり。晉人、垂棘の璧と屈產の乘とを以て、道を虞に假りて以て虢を伐たんとす。宮之奇諫めて、百里奚諫めず。知虞公の諫む可からざるを知りて去り、秦に之く。年已に七十なり。曾ち牛を食うを以て、秦の穆公に干むるの汙為るを知らざるや、智と謂う可けんや。諫む可からずして諫めざるや、不智と謂う可けんや。虞公の將に亡びんとするを知りて先づ之を去るや、不智と謂う可けんや。時に秦に舉げられ、繆公の與に行う有る可きを知るや、之に相たるは、不智と謂う可けんや。秦に相として其の君を天下に顯わし、後世に傳う可きは、不賢にして之を能くせんや。自ら鬻ぎて以て其の君を成すは、鄉黨の自ら好する者も為さず。而るを賢者にして之を為すと謂わんや。」

<語釈>
○「百里奚」、虞の国の賢人で、後秦の繆公に仕えた賢者。○「自好者」、趙注:自ら好名を喜ぶ者は、尚ほ為すを肯ぜず。名声を得ることに喜びを感じている人のこと。

<解説>
百里奚は虞の賢人で、秦の繆公に仕え、繆公をして覇王と為さしめた名臣として有名な人物である。秦に仕えるまでの話は『史記』秦本紀に、「五年(繆公の五年、前655年)、晋の獻公、虞・虢を滅ぼし、虞君と其の大夫百里傒とを虜にす。璧と馬を以て虞に賂いし故なり。既に百里傒を虜にし、以て繆公の夫人の為に秦に媵(ヨウ、諸侯に嫁ぐ女に付き従って世話をするもの)たらしむ。百里傒、秦を亡げて、宛に走る。楚の鄙人、之を執らう。繆公、百里傒の賢なるを聞き、重く之を贖わんと欲す。楚人の與えざるを恐れ、乃ち人をして楚に謂わしめて曰く、「吾の媵臣百里傒は焉れに在り。請う、五羖(コ、黒い羊)羊の皮を以て之を贖わん。」楚人、遂に許し、之に與う。是の時に當りて、百里傒、年已に七十余歳。」とある。

『孫子』巻三謀攻篇

2018-10-10 10:21:54 | 四書解読
巻三 謀攻篇

孫子は言った、大体において戦争を行う場合の法則は、自国を損なわないことが上策であり、自国を損なうのは下策である。自軍を損なわないのが上策であり、自軍を損なうのは下策である。自軍の兵士を損なわないことが上策であり、自軍の兵士を損なうのは下策である。全軍を挙げての戦いでは自軍を損なわないのが上策であり、自軍を損なうのは下策である。軍を構成する旅団を損なわないのが上策であり、旅団を損なうのは下策である。旅団の下の卒を損なわないのが上策であり、卒を損なうのは下策である。更に卒を構成する一番下の隊列である伍を損なわないのが上策であり、伍を損なうのは下策である。このようなわけで、百度戦って百度敵に勝ったとしても、自国も傷ついているので、最善の方策とは言えない。戦わずして敵兵を屈服させるのが最善の方策である。それゆえに、戦争を行う際の最善の方策は、敵の謀を打ち破ることであり、その次は敵の同盟関係を伐ち破り孤立させることである。その次は敵兵と正面から戦うことであり、一番の下策は城を攻めることである。城を攻めるという方法は、あらゆる手を尽くした後、やむなく用いる最後の手段である。城を攻めるとすれば、攻城の為の大楯や兵車、その他の器具は、三か月かかってやっと揃えることが出来る。城壁を乗り越える為に土を積み上げるにはやはり三か月はかかる。そうして準備が整っても、武将はそれまで抑えていた戦意を抑えきれずに強引に兵士を蟻の如く城壁に登らせ、兵士の三分の一を殺してまで攻めても、城は落ちない。これが城攻めによくある災難である。したがって戰に巧みな者は、敵の謀や同盟関係を伐ち破り兵力を用いずに敵兵を屈服させ、同じく敵の城も攻城器械などを用いずに攻め落とし、敵国を滅ぼすにも長期戦にならないように心掛けるものである。こうして自軍自国を損なうことなく天下に勝ちを得るようにすれば、兵力の損失を招くことなく、富国強兵の利をもたらすことが出来る。これが謀を以て敵を攻める場合の法則である。だから実際兵力をもって戦う場合は、敵よりも十倍の兵力を持っているときは敵軍を包囲する、五倍の兵力の時は攻撃する、二倍の兵力の時は兵力を二分して、二面から敵を攻め、勝てると思えば戦い、我が兵力よりも敵の方が多い時は、素早く逃れ、始めから勝算がないと分かった時は、戦いを避けるべきである。この原則を無視し、弱小の兵力をもって大軍とがむしゃらに頑固に戦えば、ただ捕虜となるだけである。将軍は君主を補佐する重要な存在であり、その関係が密接であれば、国は必ず強くなるし、反対に間隙があるようでは国は必ず弱くなる。このように将軍という者は非常に重要な存在であるので、君主が将軍に口出しすることで、軍から疎まれるものに三つある。一つは進むべき時でないのに進軍を命じ、退くべき時でないのに退却を命ずることである。これを縻軍、乃ち軍を拘束するということである。二つ目は君主が軍の事を何も知らないで、政治の理念で軍政に口出しをすることにより、兵を率いる者たちが戸惑うことである。三つめは君主から派遣された臨機応変の用兵も知らない役人が、将軍たちと籍を同じくして口出しすることにより、兵を率いる者たちに不信感を呼び起こさせることである。こうして全軍が戸惑い疑えば、その隙をついて諸侯が攻めてくるという災難がやってくる。これを自ら軍を乱し、自ら勝機を奪うと言う。それゆえ、勝利を収めるためには条件が五つある。彼我の戦力を計算して、有利不利を把握しているものは勝つ。兵力に応じた戦い方を知る者は勝つ。君主と国民とが目標を同じにする者は勝つ。警戒準備を万全にして、敵の隙につけこんで攻める者は勝つ。将軍が有能で、君主が将軍を制御しない者は勝つ。この五つが勝利を収めるための条件である。故に次のように言われる。敵を知り己を知るならば、百たび戦っても危ういことはない。敵を知らず己だけを知っているならば、勝ったり負けたりする。敵も知らず己も知らなければ、戦えば必ず危うい、と。

孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。是故百戰百勝、非善之善者也。不戰而屈人之兵、善之善者也。故上兵伐謀。其次伐交。其次伐兵。其下攻城。攻城之法、為不得已。修櫓轒轀、具器械、三月而後成。距闉又三月而後已。將不勝其忿、而蟻附之、殺士三分之一、而城不拔者、此攻之災也。故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。拔人之城、而非攻也。毀人之國、而非久也。必以全爭于天下。故兵不頓、利可全。此謀攻之法也。故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能逃之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也。夫將者、國之輔也。輔周則國必強、輔隙則國必弱。故軍之所以患于君者三。不知軍之不可以進、而謂之進、不知軍之不可以退、而謂之退。是謂縻軍。不知三軍之事、而同三軍之政、則軍士惑矣。不知三軍之權、而同三軍之任、則軍士疑矣。三軍既惑且疑、則諸侯之難至矣。是謂亂軍引勝。故知勝者有五。知可以戰與不可以戰者勝。識眾寡之用者勝。上下同欲者勝。以虞待不虞者勝。將能而君不御者勝。此五者、知勝之道也。故曰、知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼、不知己、毎戰必殆。

孫子曰く。凡そ兵を用うるの法は、國を全くするを上と為し、國を破るは之に次ぐ(注1)。軍を全くするを上と為し、軍を破るは之に次ぐ。旅を全くするを上と為し、旅を破るは之に次ぐ。卒を全くするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全くするを上と為し、伍を破るは之に次ぐ(注2)。是の故に百戰百勝は、善の善なる者に非ざるなり。戰わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は、已むを得ざるが為なり。櫓・轒轀(フン・オン)を修め、器械を具え、三月にして後に成る。距闉(イン)又三月にして後に已む(注3)。將其の忿に勝えずして、之に蟻附し(注4)、士を殺すこと三分の一にして、城拔けざるは、此れ攻の災なり。故に善く兵を用うる者は、人の兵を屈するも、戰うに非ざるなり(注5)。人の城を抜くも、攻むるに非ざるなり。人の國を毀るも、久しきに非ざるなり。必ず全を以て天下に爭う(注6)。故に兵は頓(やぶる)れずして、利全かる可し(注7)。此れ謀攻の法なり。故に兵を用うるの法は、十なれば則ち之を圍み、五なれば則ち之を攻め、倍なれば則ち之を分け、敵すれば則ち能く之と戰い、少なければ則ち能く之を逃れ、若かざれば則ち能く之を避く。故に小敵の堅は、大敵の擒なり(注8)。夫れ將は、國の輔なり。輔、周なれば則ち國必ず強く、輔、隙あれば則ち國必ず弱し(注9)。故に君の軍に患えらるる所以の者三あり。軍の以て進む可からざるを知らずして、之に進めと謂い、軍の以て退く可らざるを知らずして、之に退けと謂う。是を縻軍と謂う(注10)。三軍の事を知らずして、三軍の政を同じくすれば、則ち軍士惑う(注11)。三軍の權を知らずして、三軍の任を同じくすれば、則ち軍士疑う(注12)。三軍既に惑い且つ疑わば、則ち諸侯の難至らん。是を軍を亂し勝ちを引くと謂う(注13)。故に勝を知るに五つ有り。以て戰う可きと以て戰う可からざるとを知る者は勝つ(注14)。衆寡の用を識る者は勝つ。上下欲を同じうする者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ(注15)。將能にして君御せざる者は勝つ。此の五者は、勝を知るの道なり。故に曰く、彼を知り己を知れば、百戰して殆うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負。彼を知らず己を知らざれば、戰う毎に必ず殆し。

<語釈>
○注1、「國」について、自国、敵国どちらに解するか二説ある。十注:杜佑曰く、敵國來たり服するを上と為し、兵を以て撃破するを次と為す。とあるように、十注では、敵國に解する説が多い。しかしこの句は、自国と解して読む方が自然であるような気がするので、私は自国と解した。○注2、十注:張預曰く、周制は、萬二千五百人を軍と為し、五百人を旅と為し、百人を卒と為し、五人を伍と為す。○注3、轒轀(フン・オン)は幌付きの兵車。十注:曹公曰く、「櫓」は、大楯なり、轒轀は、轒牀なり、轒牀は、其の下四輪、中從り之を推して、城下に至るなり。器械は、機關攻守の総名なり。距闉は、土を踴(あげる)げ積むこと高くして、前みて以て其の城に附くなり。○注4、「將不勝其忿」の解釈には二通りある。十注:曹公曰く、将忿り、城を攻むるの器を待たずして、士卒をして城に縁りて上らせしむ。張預曰く、攻むること二時を逾え、敵猶ほ服さずんば、将の心は忿躁し、久しく持すること能わず、戦士をして蟻縁して城を登らしむ。曹公の説では、攻城の器械の完成を待ちきれずに、強引に兵士に城を登らせることで、張預の説では、城攻めをしても敵は容易に降服しないので、強引に兵士を城に登らせる意味になる。張預の説の方が自然な気がするので、こちらを採用する。○注5、十注:杜佑曰く、謀を伐ち交わりを伐ち、戰いに至らざるを言う。○注6、十注:張預曰く、戰わざれば、則ち士傷まず、攻めざれば、則ち力屈せず、久しからざれば、則ち財費えず、完全を以て勝ちを天下に立つ。○注7、十注:張預曰く、戰わざれば、則ち士傷れず、攻めざれば、則ち力屈せず、久しからざれば、則ち財費えず、完全を以て勝を天下に立つ、故に兵を頓り刃を血ぬるの害無くして、國富兵強の利有り。○注8、十注:張預曰く、小敵は強弱を度らずして、堅く戰い、必ず大敵の擒とする所と為る。○注9、十注:賈林曰く、國の強弱は必ず将に在り、将、君を輔けて、才其の國に周ければ、則ち強し、君を輔けざれば、内其の貮を懐く、則ち弱し、人を擇び任を授くるは、愼まざる可からず。○注10、「縻」は、つなぎとめる意。「縻軍」は、軍を拘束すること。○注11、十注:杜牧曰く、禮度・法令自ら軍法有りて、事に從う、若し尋常の治國の道に同じうせしむれば、則ち軍士惑いを生ず。○注12、十注:張預曰く、軍吏の中に兵家權謀を知らざるの人有りて、同じく将帥の任に居らしめば、則ち政令一ならずして、軍疑う。張預の言う、「兵家權謀を知らざるの人」について、私は君主から派遣された役人との意に解す。○注13、十注:曹公曰く、「引」は「奪」なり。張預曰く、軍士疑惑し、未だ肯て命を用いざれば、則ち諸侯の兵、隙に乘じて至る、是れ自ら其の軍を潰し、自ら其の勝ちを奪うなり。○注14、「可以戰」と「不可以戰」との解釈について、戦場での判断なのか、戰う前の判断なのかはっきりしない。戦場での判断としては、十注:張預曰く、戰う可くんば、則ち進攻し、戰う可からずんば、則ち退守す、能く攻守の宜しきを審らかにすれば、則ち勝たざること無しとある。戰う前の判断としては、計篇で、「之を校するに計を以てして、其の情を索む」と述べられているように、彼我の戦力を計算して、こちらが有利であれば戦い、不利であれば戦わないという意味に取るかは難しい所であるが、後者の考えを採用する。○注15、十注:杜佑曰く、虞は、度なり、我、法度有るの師を以て、彼法度無きの兵を撃つ。度は前もって慮ることで、警戒準備を整える事。

<解説>
十注:杜牧曰く、廟堂の上、計算已に定まり、戦争の具、糧食の費え、悉く已に周ねく備わり、以て攻むるを謀る可し、故に謀攻と曰う。
戦争における最善の方策は、自国を損なわないことで、その為には戦わずして敵を屈服させることである。その為には敵を知ることが最も重要視される。ここで『孫子』の中でもっとも有名な、「彼を知り己を知れば、百戰して殆うからず。」という言葉が出てくる。戦争だけでなく、何事においても通用する言葉である。