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『孟子』巻第六藤文公章句下 五十三節

2017-05-29 12:07:37 | 四書解読
五十三節

景春が言った。
「公孫衍や張儀は誠に大丈夫といえる人物ではありませんか。彼らが一たび怒って弁舌を振るえば、諸侯はいつ戦争が起きるかととびくびくするし、彼らがおとなしくしていれば、天下は平穏になるのせすから。」
孟子は言った。
「彼らのどこが大丈夫だと言えるのか。あなたはまだ礼を学んでいないのか。礼によれば、男子が成人式を迎えたら、父親は大人としての訓戒を与える。女子が嫁ぐときは、母親が訓戒を与え、門まで送って、『あちらがお前の家だと思って行き、必ず慎み戒めて、夫に逆らわないように。』と注意した。このように従順を正道とするのは婦女子の道であり、この二人は君主におもねり従順なだけで、婦女子と変わらない人物だ。本当の大丈夫とはそんなものではない。天下公認の、仁に身を置き礼に立脚し義を行い、志を得て政治に携わるようになれば、民と共に進み、志を得ず在野にあれば、ただ一人自分の道を行く。その志は裕福になっても乱すことはなく、貧乏になっても志を変えることなく、武威を以て脅されても屈服して志を変えることはしない。こういう人物こそが本当の大丈夫と謂うものだ。」

景春曰、公孫衍張儀豈不誠大丈夫哉。一怒而諸侯懼、安居而天下熄。孟子曰、是焉得為大丈夫乎。子未學禮乎。丈夫之冠也、父命之。女子之嫁也、母命之。往送之門、戒之曰、往之女家、必敬必戒、無違夫子。以順為正者、妾婦之道也。居天下之廣居、立天下之正位、行天下之大道。得志與民由之、不得志獨行其道。富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈。此之謂大丈夫。

景春曰く、「公孫衍・張儀は豈に誠の大丈夫ならずや。一たび怒りて諸侯懼れ、安居して天下熄む。」孟子曰く、「是れ焉くんぞ大丈夫為るを得んや。子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父、之に命ず。女子の嫁するや、母、之に命ず。往きて之を門に送り、之を戒めて曰く、『往きて女の家に之き、必ず敬し必ず戒め、夫子に違うこと無かれ。』順を以て正と為す者は、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行う。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其の道を行う。富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず。此を之れ大丈夫と謂う。」

<語釈>
○「景春~」、趙注:景春は、孟子の時の人、縦横の術を為す者、公孫衍は、魏の人なり、號して犀首と為す、常に五國の相印を佩び、從長(合従)を為す、秦王の孫、故に公孫と曰う、張儀は、合従の者なり(これは趙岐の誤りであろう、張儀は連衡家として知られている)。○「廣居、正位、大道」、趙注:「廣居」は、天下を謂うなり、「正位」は、男子の純乾正陽の位を謂うなり、「大道」は、仁義の道なり。朱注:「廣居」は、仁なり、「正位」は禮なり、「大道」は、義なり。どちらを採用してもよいが、朱説の方がすっきりしているので、朱注を採用しておく。

<解説>
特に解説するほどの事はないが、この節は世に羽ばたかんとする者にとって、真の大丈夫とは如何なるものか、ということで、昔から愛誦された節らしい。

『呂氏春秋』巻第四孟夏紀

2017-05-22 10:22:15 | 四書解読
一 孟夏

一に曰く。孟夏の月。日は畢に在り。昏に翼中し、旦に婺女(ブ・ジョ、北方の宿の女宿のこと)中す。其の日は丙丁、其の帝は炎帝、其の神は祝融(高注:祝融は顓頊氏の後老童の子呉回なり、高辛氏の火正と為り、死して火官の神と為る)、其の蟲は羽、其の音は澂、律は仲呂に中たる。其の數は七、[其の性は禮、其の事は視、](畢注:『月令』に此の二句無し、此の書の前後も亦た此の例無し、當に衍文と為すべし)、其の味は苦、其の臭は焦、其の祀は竈、祭るには肺を先にす。螻蟈鳴き(高注:螻蟈(ロウ・コク)は蝦蟆(ひきがえる)なり)、丘蚓(ミミズ)出で、王菩(オウ・ハイ、蔓草の名、からすうり)生じ、苦菜(のげし)秀づ。天子、明堂の左個に居り、朱輅に乘り、赤駵(リュウ、赤馬)を駕し、赤旂を載て、赤衣を衣、赤玉を服び、菽と雞とを食らう。其の器は高にして以て觕(ソ、「粗」に通じ粗大の義)なり。是の月や、立夏なるを以て(高注:春分の後四十六日は立夏なり、立夏多く是の月に在り)、立夏に先だつこと三日、太史、之を天子に謁げて曰く、「某日立夏なり。盛德火に在り。」天子乃ち齋す。立夏の日、天子親ら三公九卿大夫を率いて、以て夏を南郊に迎う。還りて、乃ち賞を行う。侯に封じ慶賜して、欣說せざる無からしむ。乃ち樂師に命じて、禮樂を合するを習わしむ。太尉に命じて、傑儁を贊し(高注:「贊」は「白」(もうす)なり)、賢良を遂め、長大(背丈が高い)を舉げしむ。爵を行い祿を出だし、必ず其の位に當たらしむ。是の月や、長きを繼ぎ高さを增し、壞隳(カイ・キ、壊毀に同じ、こわす、そこなう意)すること有る無からしむ。土功を起こすこと無く、大衆を發すること無く、大樹を伐ること無からしむ。是の月や、天子始めて絺す(高注:「絺」(チ)は細葛なり。細かい葛布で作った夏服を着ること)。野虞に命じて、出でて田原を行り、農を勞い民を勸め、時を失うこと或る無からしむ。司徒に命じて、縣鄙を循行して、農に命じて作に勉め、都に伏すること無からしむ。是の月や、獸を驅りて五穀を害うこと無からしめ、大いに田獵すること無からしむ。農乃ち麥を升ずれば(高注:「升」は「獻」なり。初穂の麥を献上すること)、天子乃ち彘を以て麥を嘗め、先づ寢廟に薦む。是の月や、百藥を聚蓄す。糜草(ビ・ソウ、なずな)死し、麥秋(麥がみのる秋)至る。薄刑を斷ち、小辠を決し、輕繫を出だす(高注:「輕繫」とは、刑に及ばざる者、解きて之を出だす)。蠶事既に畢り、后妃、繭を獻ず。乃ち繭(ケン)稅を収め、桑を以て均と為し、貴賤少長一の如くし、以て郊廟の祭服に給す。是の月や、天子、酎(三度醸した濃い酒)を飲み、禮樂を用う。是の令を行えば、而ち甘雨至ること三旬なり。孟夏に秋の令をおこなえば、則ち苦雨數々來たり、五穀滋らず、四鄙入りて保つ(高注:四境の民、寇賊の來たるを畏れて、城郭に入りて、以て自ら保守するなり)。冬の令を行えば、則ち草木早く枯れ、後乃ち大水ありて、其の城郭を敗る。春の令を行えば、則ち蟲蝗(いなご)、敗を為し、暴風來たり格(いたる)りて、秀草實らず。

二 勸學

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『孟子』巻第六藤文公章句下 五十二節

2017-05-15 10:04:09 | 四書解読
五十二節

孟子の弟子の陳代が言った、
「先生が諸侯に面会を求めないのは、どうもお心が狭いように思われます。もし一度でも先生にお会いになれば、その諸侯は大きくは天下の王に、そこまでいかなくても覇業をなしとげることぐらいはできるでしょう。それに昔の書物にも、『わずか一尺を曲げて八尺を真直ぐにする。』乃ち小をすてて、大を活かせ、とありますが、先生もそうなさるのがよろしいかと存じます。」
孟子は言った、
「昔、齊の景公が狩をしたとき、狩場の役人を旗で招き寄せた。しかし役人は狩場の役人を呼ぶときは皮の帽子で呼ぶのが決まりであったので行かなかった。景公は怒ってその役人を殺そうとした。孔子はその話を聞いて、その役人を称えて、『志士は義を守る為ならば、たとえ殺されて溝や谷間に棄てられることも覚悟しているし、勇士は勇義の為ならその首を失うことも覚悟している。』と述べているが、孔子は役人のどのような態度を称えているのか。礼に適った正式な招き方で無ければ応じないという態度に感心しているのだ。狩場役人でさえ正式な招きで無ければ往かないのに、私が招かれもしないのに面会を求めるとしたら、それはどういうことになるのか。その上、一尺を曲げて八尺を真直ぐにするなどと言うのは、利益があるからの言葉だ。もし利益を優先して考えるなら、八尺を曲げて一尺を真直ぐにするのも、それが利益になるのならそうやってもよいことになるではないか。昔、晉の趙簡子が名御者の王良に幸臣の嬖奚を乗せて狩をするように命じたことがあった。ところが一日狩りをして一羽の獲物も獲られなかった。嬖奚は戻ってきて、『王良は天下一のへたくそな御者です。』と報告した。ある者がその話を王良に告げたので、王良は趙簡子に、もう一度やらせてください、と願い出て、嬖奚を無理やり承知させた。すると今度は朝のうちだけで十羽の獲物が取れた。嬖奚は戻って、『王良は天下一の優れた御者です。』と報告した。そこで趙簡子は嬖奚に、『それでは彼をお前の御者にしてやろう。』と言って、このことを王良に告げた。王良は承知せず、『私は王良の為に法に則り模範的に車を御しましたら、王良は一羽の獲物も取れませんでした。法を無視してただひたすら獲物を求めて車を走らせたら、朝のうちに十羽も取れました。『詩経』にも、法に違わずに車を御せば、放つ矢も弓勢鋭く必ず中る、とあります。私は法に従って車を走らせて、一羽も取れないような小人と一緒に乗ることに慣れていませんので、お断りします。』と言ったそうだ。御者ですら未熟な射手におもねることを恥とした。おもねることにより、獲物が山のように取れたとしても、そういうことはしないものだ。それなのに私に道を曲げてまで諸侯に從えと進めるとは、なんということだ。ましてお前は間違っているぞ。自分を曲げた者が、どうして他人を直くすることなど出来ようか。」

陳代曰、不見諸侯、宜若小然。今一見之、大則以王、小則以霸。且志曰、枉尺而直尋。宜若可為也。孟子曰、昔齊景公田。招虞人以旌。不至。將殺之。志士不忘在溝壑、勇士不忘喪其元。孔子奚取焉。取非其招不往也。如不待其招而往何哉。且夫枉尺而直尋者、以利言也。如以利、則枉尋直尺而利、亦可為與。昔者趙簡子使王良與嬖奚乘。終日而不獲一禽。嬖奚反命曰、天下之賤工也。或以告王良。良曰、請復之。彊而後可。一朝而獲十禽。嬖奚反命曰、天下之良工也。簡子曰、我使掌與女乘。謂王良。良不可。曰、吾為之範我馳驅、終日不獲一。為之詭遇、一朝而獲十。詩云、不失其馳、舍矢如破。我不貫與小人乘。請辭。御者且羞與射者比。比而得禽獸雖若丘陵、弗為也。如枉道而從彼何也。且子過矣。枉己者、未有能直人者也。

陳代曰く、「諸侯を見ざるは、宜(ほとんど)ど小なるが若く然り。今、一たび之を見ば、大は則ち以て王たらしめ、小は則ち以て霸たらしめん。且つ志に曰く、『尺を枉げて尋を直くす。』宜ど為す可きが若し。」孟子曰く、「昔、齊の景公田す。虞人を招くに旌を以てす。至らず。將に之を殺さんとす。『志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れず。』孔子奚をか取れる。其の招きに非ざれば往かざるを取れるなり。其の招きを待たずして往くが如きは何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて尋を直くすとは、利を以て言うなり。如し利を以てせば、則ち尋を枉げ尺を直くして利あらば、亦た為す可きか。昔者、趙簡子、王良をして嬖奚と乘らしむ。終日にして一禽をも獲ず。嬖奚反命して曰く、『天下の賤工なり。』或ひと以て王良に告ぐ。良曰く、『請う之を復びせん。』彊いて後に可く。一朝にして十禽を獲たり。嬖奚反命して曰く、『天下の良工なり。』簡子曰く、『我、女と乘ることを掌らしめん。』王良に謂う。良可かず。曰く、『吾、之が為に我が馳驅を範すれば、終日一をも獲ず。之が為に詭遇すれば、一朝にして十を獲たり。詩に云う、其の馳することを失わざれば、矢を舍ちて破るが如し、と。我、小人と乘ることを貫わず。請う辭せん。』御者すら且つ射る者と比するを羞づ。比して禽獸を獲ること丘陵の若しと雖も、為さざるなり。道を枉げて彼に從うが如きは何ぞや。且つ子過てり。己を枉ぐる者は、未だ能く人を直くする者有らざるなり。」

<語釈>
○「枉尺而直尋」、「尋」は八尺。この句、日本の“小を殺して大を活かす”と同じような意味。○「宜」、安井息軒云う、王引之云う、「宜」は「殆」なり。○「招虞人以旌。不至」、趙注:虞人は苑囿を守るの吏なり、之を招くに、當に皮冠を以てすべし。○「志士~喪其元」、この句は孔子の言葉である、高注:志士は義を守る者なり、君子固より窮するあり、故に常に死して棺椁無く、溝壑に没するも恨まざるを念う、勇士は義勇の者なり、「元」は首なり、義を以てすれば、則ち首を喪うも顧みず。○「詩」、高注:詩は小雅の車攻篇なり、御者、其の馳驅の法を失わずんば、則ち射る者、必ず之を中つ。

<解説>
弟子の陳代が孟子に少し融通を聞かせることを求めたのに対して、孟子は、それは己を曲げるものだ、と述べて諫めている。それが誤りかどうかは時と場合とに由るだろう。物事を円滑に進める為には己を曲げることが必要な時もある。ただ孟子が言いたいのは、為政者たる者は少しの妥協もなく己を厳しく律することが必要であると言うことであろう。

『孟子』巻五藤文公章句上 五十一節

2017-05-08 11:10:42 | 四書解読
五十一節

墨子学派の夷之が、孟子の弟子の徐辟を通じて孟子に会見を申し入れた。それを聞いた孟子は、
「私もお会いしたいと思っているのだが、今はあいにく病に臥せっている。治り次第おうかがいするつもりですので、今はおいで下さらないようにお願いします。」
と言わせた。その後夷之は又会見を求めてきた。孟子は言った。
「今なら会うことが出来る。直言してその誤りを正さなければ、正しい道は明らかにならないから、今日ははっきりと言わせてもらおう。夷子は墨子学派と聞いているが、墨子学派では喪儀は質素に行う主義だという。夷子はその墨子の教えに従って世の中を変えようとしているのだから、その教えを間違いだとして尊重しないことはないはずだ。それなのに自分の親は手厚く葬っている。それでは自分が軽蔑しているやり方で親に仕えたことになる。」
徐子は孟子の言葉を夷子に告げると、夷子は言った、
「儒者の言葉に、古の王は民を安んずること、赤子を抱くが如し、とありますが、これはどういう意味ですか。私は、愛は尊卑上下の差はないが、実際に行う場合は親しいものから始めて他に及ぼして行くと言う意味だと思いますが。」
徐子はこの言葉を孟子に告げた。孟子は言った。
「あの夷子は、本当に自分の兄の子と隣の赤ん坊とを同じ親しいものだと考えているのだろうか。あの書経の言葉は他の意味があるのだ。赤ん坊がはって行って井戸に落ちそうになると、誰もがかけよって助けるだろう。それは赤ん坊の罪ではなく、保護者の罪である。だから民の保護者である君主は、民を赤ん坊のようにしっかりと守らなければならないというのが、あの言葉の意味なのだ。さらに天が物を生みだすには、一つの根本に基づいているはずだ。人間も自分を生んだ親は一つである。それを夷子は子供への愛は、その子の親も他人の親も同じだと考え無差別の愛を主張している。これは天が物を生み出す根本は二つであると主張していることになる。思うに大昔には、親が死んでも葬らない時代があったようだ。ところが当時のある人が、親が亡くなったので、その亡骸を谷閒に棄てた。後日そこを通りかかると、狐や狸が亡骸を食らい、ハエ・ぶよ・けら等が群がり食らいついていた。そのあまりにもおぞましい光景に、額に冷や汗をかき正視することが出来なかった。この冷や汗は他人の目に恥ずかしいと思ったのでなく、親に対して申し訳ないという気持ちが心の底から顔に出たのである。おそらく、その男は家に帰り、もっことかごを持ってきてその亡骸を埋めたにちがいない。亡骸を埋めるのが誠に人の情として妥当であれば、孝行息子や仁愛深い人がその情に基づいて親を手厚く葬るのは、まさに道理のあることではないだろうか。」
徐子がこの言葉を夷子に告げると、夷子は納得しきれずしばらく黙っていたが、やがて、
「よくわかりました。」
と言った。

墨者夷之、因徐辟而求見孟子。孟子曰、吾固願見、今吾尚病。病愈、我且往見。夷子不來。」他日又求見孟子。孟子曰、吾今則可以見矣。不直、則道不見。我且直之。吾聞夷子墨者。墨之治喪也、以薄為其道也。夷子思以易天下。豈以為非是而不貴也。然而夷子葬其親厚。則是以所賤事親也。徐子以告夷子。夷子曰、儒者之道、古之人、若保赤子、此言何謂也。之則以為愛無差等、施由親始。徐子以告孟子。孟子曰、夫夷子、信以為人之親其兄之子為若親其鄰之赤子乎。彼有取爾也。赤子匍匐將入井、非赤子之罪也。且天之生物也、使之一本。而夷子二本故也。蓋上世嘗有不葬其親者。其親死、則舉而委之於壑。他日過之、狐狸食之、蠅蚋姑嘬之。其顙有泚。睨而不視。夫泚也、非為人泚、中心達於面目。蓋歸、反虆梩而掩之。掩之誠是也、則孝子仁人之掩其親、亦必有道矣。徐子以告夷子。夷子憮然為閒曰、命之矣。

墨者夷之、徐辟に因りて孟子を見るを求む。孟子曰く、「吾固より見んことを願うも、今吾尚ほ病めり。病愈えなば、我且に往きて見んとす。夷子來たらざれ。」
他日又孟子を見るを求む。孟子曰く、「吾今則ち以て見る可し。直さざれば、則ち道見われず。我且に之を直さんとす。吾聞く、夷子は墨者なり。墨の喪を治むるや、薄きを以て其の道と為す。夷子は以て天下を易えんと思う。豈に以て是に非ずと為して貴ばざらんや。然り而して夷子は其の親を葬ること厚し、と。則ち是れ賤しむ所を以て親に事うるなり。」徐子以て夷子に告ぐ。夷子曰く、「儒者の道は、古の人、赤子を保んずるが若しと、此の言は何の謂ぞや。之は則ち以為らく、愛に差等無く、施すこと親由り始む。」徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「夫の夷子は、信に人の其の兄の子を親しむこと、其の鄰の赤子を親しむが若しと為すと以為えるか。彼は取ること有りて爾るなり。赤子、匍匐して將に井に入らんとするは、赤子の罪に非ざるなり。且つ天の物を生ずるや、之をして本を一にせしむ、而るに夷子は本を二にする故なり。蓋し上世は嘗て其の親を葬らざる者有り。其の親死せば、則ち舉げて之を壑に委(すてる)てたり。他日之を過ぐるに、狐狸、之を食らい、蠅蚋姑、之を嘬(くらう)う。其の顙泚たる有り。睨して視ず。夫の泚たるや、人の為に泚たるに非ず。中心より面目に達するなり。蓋し歸り、虆梩(ルイ・リ)を反して之を掩えり。之を掩うこと誠に是ならば、則ち孝子仁人の其の親を掩うこと、亦た必ず道有らん。」徐子以て夷子に告ぐ。夷子憮然として閒を為して曰く、「之に命ぜり。」

<語釈>
○「徐辟」、趙注:徐辟は孟子の弟子なり。○「直」、趙注:直言して之を攻めずんば、則ち儒家の道は見われず。直言して相手の過ちを正すこと。○「若保赤子」、朱注:「若保赤子」は、周書康誥篇の文、此れ儒者の言なり。○「彼有取爾也」、服部宇之吉氏云う、彼の句は外に一種の義を取る所あって然るなり。「爾」は「然」の義に読む、他の意味があるのだという意味。○「夷子二本故」、趙注:天の萬物を生ずるは、各々一本に由りて出づ、今夷子は他人の親を以て己の親と等しくす、是れ本を二と為す。○「蠅蚋姑」、ハエ・ぶよ・けら。○「嘬」、趙注:「嘬」は攅共(群がり集まること)して之を食らう。“くらう”と訓ず。○「顙有泚」、「顙」は額、「泚」(セイ)は汗のにじみ出た貌。○「虆梩」、朱注:「虆」(ルイ)は土籠なり、「梩」(リ)は土轝なり。つちを盛るかごとそれを運ぶもっこ。○「命之」、服部宇之吉氏云う、「命之」は受命というが如し、教えの旨了解したりとなり。

<解説>
この節も前節に続いて他派との論争であり、墨子学派の薄葬にたいして厚葬は人間の情として当然の理であると論破している。趙指に、聖人、情に縁り禮を制し、終わりを奉ず、とある。しかしこの時代、厚葬の風が盛んで社会的弊害も出てきていた。そんな中で薄葬もそれなりの支持を受けていた。
この節の通釈は、前後の意味をより明確にするために、本文にない語句を挿入し、拡大解釈をしている箇所があることをご了承願いたい。

『孟子』巻第五藤文公章句上 五十節

2017-05-01 10:07:37 | 四書解読
五十節

農業の開祖と言われている神農氏の教えを奉ずる許行という者がいた。楚から藤の国へやってきて、城門の前で文公に申し上げた。
「遠方の者でございますが、殿様が仁政を行っておられると聞き及び、はるばるやってまいりました。どうか住居をいただき、お国の民になりとうございます。」
文公は彼に住居を与えたが、一緒に来た仲間たちが数十人もおり、皆粗末な粗布の服を着て、藁を打って靴を編み、蓆を織って生計を立てていた。そこへ楚の儒者陳良の弟子の陳相という者が、弟の辛と共にすきを背負って藤の国へやってきて、
「殿様が聖人の政治を行っておられると聞いております。それならば殿様も聖人であられる。どうか聖人の民になりとうございます。」
と申し出て、文公の民となったが、やがて許行に出会い、大いに感激して、今まで学んできた儒学を棄てて、許行の教えを学び始めた。ある日、陳相は孟子に出会い、許行の教えを孟子に述べた。
「藤の殿様は誠に賢君であられますが、まだ本当の道をご存じありません。本当の賢者は民と共に耕して自分の食糧を作り、朝夕自分で炊事をして國を治めるものです。ところが藤の国には穀物倉や金蔵があります。それは民に苦労を掛けさせて食わさせてもらっているということになります。これで賢君と言えるでしょうか。」
孟子は言った、
「それでは、許先生は必ず自分で穀物を植えて、それを食べているのかな。」
「そうです。」
「許先生は麻布を自分で織って、それを着ているのか。」
「いいえ、許先生は粗末な布を身にまとっておられます。」
「許先生は冠をかぶるか。」
「かぶります。」
「どのような冠をかぶるのか。」
「飾りのない白絹のをかぶります。」
「自分でそれを織るのか。」
「いいえ、穀物でそれと交換します。」
「許先生はどうして自分で織らないのか。」
「農業の妨げになるからです。」
「許先生はか釜やこしきで飯を炊き、鉄の農具で耕作するのか。」
「そうです。」
「自分でそれらを造るのか。」
「いいえ、穀物でそれらと交換します。」
「穀物で道具と交換するのは、陶工や鍛冶屋に苦労を掛けることにならない。陶工や鍛冶屋にしても造った道具類で穀物と交換しても農夫に苦労をかけたとは思うまい。それはそうと、許先生はどうして陶工や鍛冶屋の仕事をしないのか。必要なものは皆自分の家で作り使うことをしないで、職人たちと面倒な交換をするのか。なんとまあ許先生は煩わしいことを嫌がらずになさるのだろうか。」
「職人たちの仕事は、当然農業をやりながら片手間に行えるものではありません。」
「それならば、天下を治めることだけが、農耕の片手間に行えるのか。世の中には人君として民を治める仕事も有れば、農工商のような民としての仕事もあるのだ。それを一人の身で百工の技術を備えて、必要なものはすべて自分で作り使用するとしたら、天下の人々は奔走して疲れ果てて路傍に倒れるだろう。だから昔から、『心を労する者も有れば、力を労する者も有る。』と言われているのだ。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。人に治められる者は、治める者を養い、人を治める者は、治められる者に養われる。これが世の中に通ずる道理である。かの古の聖天子である堯の時代には、まだ天下は平穏でなかった。洪水が起こり、水がはびこり流れ、天下はところかまわず氾濫し、草木は伸びほうだいに茂り、禽獣は繁殖して増えて、穀物は実らず、禽獣は人に迫り、鳥獣の足跡は文明の中心地まで入り込んでいた。堯は独りこれを憂えて、舜を登用してこれを治めさせた。舜は伯益に火の仕事を掌らせた。伯益は火を放って山林や沢地を焼き払ったので、鳥や獣は遠くへ逃げ隠れて人里に出なくなった。更に禹に治水を担当させると、彼は黄河の多くの分流の川筋を通し、濟水と漯水を浚渫して流れをよくして海に注ぎ、汝水・漢水の流れの悪い所を切り開き、淮水・泗水の流れをよくして、これらを揚子江に注いだ。こうして初めて国内は安全と食料を確保して生活できるようになった。この大工事に当たって、禹は八年間も家に帰らず、その間三度も家の門前を通り過ぎたが、少しの時間も惜しんで家の中に入らなかった。これではたとえ禹が望んだとしても、どうして耕作などできようか。又農事を掌る役人は、民に農業を教えて種々の穀物を栽培させた。そのおかげで穀物はよく実り、民は健全に成長することが出来るようになった。さて人間というものは、腹いっぱい食べ、暖かい着物を着て安楽な生活をしていても、教育がなければ鳥や獣とあまり変わらない。そこで聖人舜はこの事を心配して、契を教育を掌る司徒の官職に採用して、民に人の道を教えさせた。乃ち父子の間には親愛、君臣の間には礼儀、夫婦の間にはけじめ、長幼の閒には順序、友達の間には信頼という、それぞれ守るべき道があることを教えたのである。放勳すなわち堯は舜以下の者を戒めて、『民をねぎらい慰め、間違っている者は正しく導き、心の曲がっている者はまっすぐにしてやり、民を助けて本来人が持っている善性を自覚させ、そのうえで恩恵を施して民をにぎわしてやれ。』と言った。聖人はこのように民の事を心配しているのだ。これでどうして耕作している暇があろうか。堯は舜のような人物を得られないことを心配し、舜は禹や皐陶のような人物を得られないことを心配した。百畝の土地の収穫を心配するのは農夫である。人に物を分け与えることを恵みと言い、人に善を教えることを忠と言い、天下の為の人材を得ることを仁と言う。恵や忠は当然大切であるが、それ以上に得るのが困難で大切なものは仁である。だからこそ堯や舜にとって、天下の王たる位を人に与えるのは比較的たやすいことで、天下の民の為に人材を見つけ出すことの方が難しいことであった。孔子も『何と偉大な事よ、堯の王としての行いは。この世で天こそが最も偉大なものであるが、堯だけがその天の道に従って政治を行った。その徳はあまりに広大で、民は其の一部は言い得ても全体を言い表すことが出来なかった。何とすぐれた君主だろう、舜は。その徳はそびえ立つ山のように高大で、天下を保有しながら、政治は臣下に任せて自分から直接関与しなかった。』と述べている。堯や舜が天下を治めたとき、何も心配しなかったなどということがあろうか。ただ農耕については直接心配しなかっただけである。私は中国の文化で野蛮な異民族を文明化させたということは聞いているが、逆に中国の文明が異民族に変えられたということは聞いたことがない。陳良は楚の生まれであるが、周公や孔子の教えに感動して、北上して中国に行き学問を学び、文化の中心地の北方の学者も及ばないほどの学者になった。彼は世に謂う飛びぬけて優れた人物である。あなた方兄弟は、そんな師匠に数十年も師事しながら、師匠が亡くなられると、結局背いてしまった。昔、孔子が亡くなられた時、門人たちは師の喪について礼の定めはないが、それでは気が済まないので、父に順じて三年の心の喪に服した。喪が明けて門人たちは荷物をまとめて郷里に帰るとき、世話役の子貢の部屋に入り挨拶をし、互いに向き合って声をあげて泣き、声をからすまで泣き続け、やっと郷里に帰って行った。子貢は立ち帰って、孔子の墓の側に仮小屋を作り、そこで三年間一人で墓守をして過ごした。後日、弟子の子夏・子張・子游の三人は、同じ弟子の有若という者が孔子に似ていることから、彼を身代わりにして孔子に仕えたように仕えて、師を偲ぼうと相談し、曾子にも呼び掛けた。すると曾子『それはよくない。先生は、たとえば揚子江や漢水の多くの水で洗いあげ、秋の日ざしにさらし、これ以上は白くならない純白の布のようなお方だ。世にこれ以上の人はいない清廉潔白なお方だ。』と言って反対した。ところが今、百舌鳥のような訛りのひどい南の蛮人が現れて、先王の道を非難すると、あなたは師匠の教えを棄てて蛮人の教えを学ぶとは、曾子とは似ても似つかない方ですね。鳥でも暗い谷間から出て、明るい高い木に移り住むというのは聞いたことはあるが、高い木から暗い谷間に移り住むというのは聞いたことがない。『詩経』の魯頌に、西や北のえびすを討ち平らげ、楚や舒の南の蛮人を懲らしめた、とあるように、周公はいつでもこれら蛮人を討ち懲らしめようとしていた。ところが、あなたはこの野蛮人に学んでいる。これは善い変わり方とは言えないね。」
「許先生の道に従えば、市場での物の価格は掛け値なく一定し、国内にはごまかそうとする者がいなくなります。幼い子を市場に使いに出しても、それをだます者はおりません。麻布や絹布の長さが同じなら、その値はみな同じです。麻・麻糸・絹糸・真綿も重さが同じなら、値も同じです。穀物も量が同じなら、値段は同じ、履も大小が同じなら値段は同じということになります。」
「大体物というものは品質の差があるのが自然なのである。それにより値段も或いは倍に、或いは五倍に、或いは十倍百倍に、或いは千倍万倍になるものだ。ところがあなたはこれらを同列に並べて同じ値にしようとするが、それでは天下を乱すことになる。粗末な履も上等な履も同じ値段なら、誰も上等な履は作らないだろう。許子の道に従うのは、みんなでごまかしをすることだ。そんなことでどうして国家を治めることができようか。」

有為神農之言者許行。自楚之滕、踵門而告文公曰、遠方之人聞君行仁政。願受一廛而為氓。文公與之處。其徒數十人、皆衣褐、捆屨、織席以為食。陳良之徒陳相與其弟辛、負耒耜(ライ・シ)自宋之滕。曰、聞君行聖人之政。是亦聖人也。願為聖人氓。陳相見許行而大悅、盡棄其學而學焉。陳相見孟子、道許行之言曰、滕君、則誠賢君也。雖然、未聞道也。賢者與民並耕而食、饔飧而治。今也滕有倉廩府庫、則是厲民而以自養也。惡得賢。孟子曰、許子必種粟而後食乎。曰、然。許子必織布而後衣乎。曰、否。許子衣褐。許子冠乎。曰、冠。曰、奚冠。曰、冠素。曰、自織之與。曰、否。以粟易之。曰、許子奚為不自織。曰、害於耕。曰、許子以釜甑爨、以鐵耕乎。曰、然。自為之與。曰、否。以粟易之。以粟易械器者、不為厲陶冶。陶冶亦以其械器易粟者、豈為厲農夫哉。且許子何不為陶冶。舍皆取諸其宮中而用之。何為紛紛然與百工交易。何許子之不憚煩。曰、百工之事、固不可耕且為也。然則治天下獨可耕且為與。有大人之事、有小人之事。且一人之身、而百工之所為備。如必自為而後用之、是率天下而路也。故曰、或勞心、或勞力。勞心者治人、勞力者治於人。治於人者食人、治人者食於人。天下之通義也。當堯之時、天下猶未平。洪水橫流、氾濫於天下。草木暢茂、禽獸繁殖、五穀不登、禽獸偪人。獸蹄鳥跡之道、交於中國。堯獨憂之、舉舜而敷治焉。舜使益掌火。益烈山澤而焚之、禽獸逃匿。禹疏九河、瀹濟漯、而注諸海、決汝漢、排淮泗、而注之江。然後中國可得而食也。當是時也、禹八年於外、三過其門而不入。雖欲耕得乎。后稷教民稼穡、樹藝五穀。五穀熟而民人育。人之有道也、飽食煖衣、逸居而無教、則近於禽獸。聖人有憂之。使契為司徒、教以人倫。父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信。放勳曰、勞之來之、匡之直之、輔之翼之、使自得之、又從而振德之。聖人之憂民如此。而暇耕乎。堯以不得舜為己憂、舜以不得禹皋陶為己憂。夫以百畝之不易為己憂者、農夫也。分人以財、謂之惠、教人以善、謂之忠、為天下得人者、謂之仁。是故以天下與人易、為天下得人難。孔子曰、大哉堯之為君。惟天為大。惟堯則之。蕩蕩乎民無能名焉。君哉舜也。巍巍乎有天下而不與焉。堯舜之治天下、豈無所用其心哉。亦不用於耕耳。吾聞用夏變夷者、未聞變於夷者也。陳良、楚產也。悅周公仲尼之道、北學於中國。北方之學者、未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之數十年、師死而遂倍之。昔者孔子沒、三年之外、門人治任將歸、入揖於子貢、相向而哭、皆失聲、然後歸。子貢反、築室於場、獨居三年、然後歸。他日、子夏子張子游以有若似聖人、欲以所事孔子事之、彊曾子。曾子曰、不可。江漢以濯之、秋陽以暴之。皜皜乎不可尚已。今也南蠻鴃舌之人、非先王之道、子倍子之師而學之。亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷遷于喬木者、末聞下喬木而入於幽谷者。魯頌曰、戎狄是膺、荊舒是懲。周公方且膺之、子是之學。亦為不善變矣。從許子之道、則市賈不貳、國中無偽。雖使五尺之童適市、莫之或欺。布帛長短同、則賈相若。麻縷絲絮輕重同、則賈相若。五穀多寡同、則賈相若。屨大小同、則賈相若。曰、夫物之不齊、物之情也。或相倍蓰、或相什百、或相千萬。子比而同之、是亂天下也。巨屨小屨同賈、人豈為之哉。從許子之道、相率而為偽者也。惡能治國家。

神農の言を為す者許行有り。楚自り滕に之き、門に踵(いたる)りて文公に告げて曰く、「遠方の人、君の仁政を行うと聞く。願わくは一廛(テン)を受けて氓と為らん。」文公、之に處を與う。其の徒數十人、皆褐を衣、屨を捆ち、席を織りて以て食を為す。陳良の徒陳相、其の弟辛と、耒耜(ライ・シ)を負いて宋自り滕に之き、曰く、「君の聖人の政を行うと聞く。是れ亦た聖人なり。願わくは聖人の氓と為らん。」陳相、許行を見て大いに悅び、盡く其の學を棄てて學ぶ。陳相、孟子を見て、許行の言を道いて曰く、「滕君は、則ち誠に賢君なり。然りと雖も、未だ道を聞かざるなり。賢者は民と並び耕して食し、饔飧(ヨウ・ソン)して治む。今や滕には倉廩府庫有り。則ち是れ民を厲ましめて以て自ら養うなり。惡くんぞ賢なるを得ん。」孟子曰く、「許子は必ず粟を種えて而る後に食するか。」曰く「然り。」「許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。」曰く、「否。許子褐を衣る。」「許子は冠するか。」曰く、「冠す。」曰く、「奚をか冠する。」曰く、「素を冠す。」曰く、「自ら之を織るか。」曰く、「否。粟を以て之に易う。」曰く、「許子、奚為れぞ自ら織らざる。」曰く、「耕すに害あり。」曰く、「許子は釜甑(フ・ソウ)を以て爨(かしぐ)ぎ、鐵を以て耕すか。」曰く、「然り。」「自ら之を為るか。」曰く、「否。粟を以て之に易う。」「粟を以て械器に易うるは、陶冶を厲ますと為さず。陶冶も亦た其の械器を以て粟に易うるは、豈に農夫を厲ますと為さんや。且つ許子は何ぞ陶冶を為さず。皆諸を其の宮中に取りて之を用うることを舎めて、何為れぞ紛紛然として百工と交易する。何ぞ許子の煩を憚らざるや。」曰く、「百工の事は、固より耕し且つ為さざるなり。」「然らば則ち天下を治むる、獨り耕し且つ為す可けんや。大人の事有り、小人の事有り。且つ一人の身にして、百工の為す所備え、必ず自ら為して而る後之を用うるが如くせば、是れ天下を率いて路するなり。故に曰く、『或いは心を勞し、或いは力を勞す。』心を勞する者は人を治め、力を勞する者は人に治めらる。人に治めらるる者は人を食(やしなう)い、人を治むる者は人に食わるるは、天下の通義なり。堯の時に當りて、天下猶ほ未だ平かならず、洪水橫流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獸繁殖し、五穀登らず、禽獸人に偪り、獸蹄鳥跡の道、中國に交わる。堯獨り之を憂え、舜を舉げて治を敷かしむ。舜、益をして火を掌らしむ。益、山澤を烈して之を焚き、禽獸逃れ匿る。禹、九河を疏し、濟・漯(トウ)を瀹(ヤク)して、諸を海に注ぎ、汝・漢を決し、淮・泗を排して、之を江に注ぐ。然る後中國得て食らう可きなり。是の時に當りてや、禹外に八年、三たび其の門に過りて入らず。耕やさんと欲すと雖も、得んや。后稷、民に稼穡を教え、五穀を樹藝す。五穀熟して民人育す。人の道有るや、飽食煖衣、逸居して教え無ければ、則ち禽獸に近し。聖人之を憂うる有り。契をして司徒為らしめ、教うるに人倫を以てす。父子に親有り、君臣に義有り、夫婦に別有り、長幼に序有り、朋友に信有り。放勳曰く、『之を勞い之を來たし、之を匡し之を直くし、之を輔け之を翼け、之を自得せしめ、又從って之を振德せよ。』聖人の民を憂うること此の如し。而るを耕す暇あらんや。堯は舜を得ざるを以て己が憂いと為し、舜は禹・皐陶を得ざるを以て己が憂いと為す。夫れ百畝の易(おさまる)まらざるを以て己が憂いと為す者は、農夫なり。人に分かつに財を以てする、之を惠と謂う。人に教うるに善を以てする、之を忠と謂う。天下の為に人を得る者、之を仁と謂う。是の故に天下を以て人に與うるは易く、天下の為に人を得るは難し。孔子曰く、『大なるかな堯の君為るや。惟だ天を大なりと為す。惟だ堯のみ之に則る。蕩蕩乎として民能く名づくる無し。君なるかな舜や。巍巍乎として、天下を有って而も與らず。』堯舜の天下を治むる、豈に其の心を用うる所無からんや。亦た耕に用いざるのみ。吾、夏を用て夷を變ずる者を聞く。未だ夷に變ぜらる者を聞かず。陳良は楚の產なり。周公・仲尼の道を悦び、北して中國に學ぶ。北方の學者、未だ之に先んずる或る能わざるなり。彼は所謂豪傑の士なり。子の兄弟、之に事うること數十年、師死して遂に之に倍く。昔者、孔子の没するや、三年の外、門人、任を治めて將に歸らんとし、入りて子貢に揖し、相向いて哭し、皆聲を失い、然る後に歸る。子貢は反りて、室を場に築き、獨り居ること三年、然る後に歸る。他日、子夏・子張・子游、有若の聖人に似たるを以て、孔子に事うる所を以て之に事えん欲し、曾子に彊う。曾子曰く、『不可なり。江漢以て之を濯い、秋陽以て之を暴す。皜皜乎(コウ・コウ・コ)として尚(くわえる)う可からざるのみ。』今や南蠻鴃(ゲキ)舌の人、先王の道を非とす。子、子の師に倍きて之に學ぶ。亦た曾子に異なれり。吾、幽谷を出でて喬木に遷る者を聞く。末だ喬木を下りて幽谷に入る者を聞かず。魯頌に曰く、『戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲らす。』周公方に且に之を膺たんとす。子は是を之れ學ぶ。亦た善く變ぜずと為す。」「許子の道に從えば、則ち市の賈貳ならず、國中偽り無し。五尺の童をして市に適かしむと雖も、之を欺くこと或る莫し。布帛の長短同じければ、則ち賈相若く。麻縷絲絮の輕重同じければ、則ち賈相若く。五穀の多寡同じければ、則ち賈相若く。屨の大小同じければ、則ち賈相若く。」曰く、「夫れ物の齊しからざるは、物の情なり。或いは相倍蓰(シ)し、或いは相什百し、或いは相千萬す。子、比して之を同じうせんとす。是れ天下を亂すなり。巨屨・小屨、賈を同じうせば、人豈に之を為らんや。許子の道に從うは、相率いて偽りを為す者なり。惡くんぞ能く國家を治めん。」

<語釈>
○「神農」、古代伝説上の三皇の一人である炎帝神農氏。農業の開祖とされている。○「踵」、趙注:「踵」は「至」なり。○「廛」、音はテン、やしき、住居の意。○「氓」、音はボウ、外来の民、「民」とは区別して使われる。○「饔飧」、服部宇之吉氏云う、「饔」の音は「雍」、朝の食なり、「飧」の音は「孫」、夕の食なり。○「釜甑」、「釜」はかま、「甑」(ソウ)はこしき。○「爨」、“かしぐ”と訓じ、米を炊く事。○「紛紛然」、ごたごたと煩雑な貌。○「路」、朱注:「路」は、道路を奔走し、時に休息すること無きを謂う。○「暢茂」伸び茂ること。○「瀹」、音はヤク、水を通す意。○「蕩蕩乎」、朱注;広大な貌。○「巍巍乎」、朱注:高大な貌。○「三年」、朱注:古は師の為に心喪すること三年、父の喪の若くして服すること無し。○「治任」、荷物を整えること。○「皜皜乎」、潔白の貌。○「南蠻鴃舌之人」、「南蠻」は南の蛮人で、楚の国を指す、「鴃」(ゲキ)は、鳥の名で百舌鳥、百舌鳥は声が良くないと言われており、「鴃舌之人」とは耳障りな声でしゃべる人を云う。○「戎狄」、「戎」は西方の異民族、「狄」は北方の異民族。○「膺」、趙注:「膺」は「撃」なり。○「荊舒」、「荊」は南方の楚、「舒」は同じく楚の近くの国の名。○「麻縷絲絮」、「麻」は原料としての麻、「縷」は麻の糸、「絲」は絹糸、「絮」は綿。○「倍蓰、什百、千萬」、「倍」は二倍、「蓰」(シ)は五倍、「什」は十倍、「百」は百倍、「千」は千倍、「萬」は万倍。○「巨屨小屨」、趙注:巨は粗屨なり小は細屨なり。粗末な履と上等な履。

<解説>
この節は、神農氏の教えを奉ずる許行の思想を孟子が論破する形をとっているが、この様な考えの違う他人を論破するのは孟子の最も得意とする所である。私がかねてより懐いている孟子像の一つがまさにこれである。思想家と云うより論客のイメージである。当然相手を論破するにはそれなりの自己の思想の確立が必要であることは言うまでもないが、孟子の態度は少し教条主義に過ぎるのではないかと思われて仕方がない。