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中国昔話 巻一食物の怨み 説話三(怨みと恩義)

2015-04-11 10:35:28 | 中国昔話
                説話 3(怨みと恩義)
さて前回まで、食べ物を与えられなかった怨みについてのお話を二つさせていただきましたが、これほど怨みを抱かせる食べ物ですので、逆に与えられたことにより、恩義を強く感じて、それに報いようとするお話もございます。次のお話は、そんな怨みと恩義との両方を味わった人のお話でございます。年代はよく分かりませんが、北方の辺境の地に、中山という國がございました。ある時中山の君主が上級の家臣を集めて宴会を催し、羊の汁物を皆に与えたのでございますが、全員に行き渡らず、一人司馬子期だけが与りませんでした。之に怒った司馬子期は、楚の國へ逃亡し、楚王に謁見を求めて、中山國を伐つことを具申したのでございます。楚はこの意見を採用して、中山國を討伐し、大いに打ち破りました。中山國の君主は命からがら単身で、城を棄てて逃亡したのでございます。必死に逃げて、ふと後ろを振り返ると、武器をひっさげてついてくる士が二人居りました。振り返ってその二人をよく見ると、自分の家臣ではありません。君主は足を止めて、二人に言いました、「お前たちはいったいどこの誰なのか。」二人は答えました、「私たちの父は既にこの世を去っておりますが、亡くなる寸前に、父は私たちに言いました、『わしは、嘗て山で道に迷い食べ物も尽きて、動くことも出来ずに、死を待つばかりであった。そんな時中山の君主が通りかかって、わしに食物を与えてくださった。そのおかげでわしは今日まで生きながらえることが出来た。わしは今この世を去ろうとしている。わしが死んだ後、もし中山國が苦境に陥ったら、お前たちは命を投げ出して中山の為に働け。』私達はこの父の言葉に従って、主をお助けする為に駆けつけたのでございます。」中山の君主は天を仰ぎ歎息して言いました、「人に物を与えて感謝されるのは、与えたものの多少によるのではなく、その人がどれだけ苦境にさらされているかによるものであり、人から怨みをかうのも、怨みの深浅ではなく、どれだけ相手の心を傷つけたかによるものだ。わしは一杯の羊の汁物で國を失い、お椀一杯の飯で、誠の士を二人も得ることが出来た。」こうして中山國の君主は食べ物の怨みと感謝の二つを経験したのでございます。人に怨みをかうのは、怨みの深浅でなく、どれだけ相手の心を傷つけたかにより、物を与えて感謝されるのは、与えた物の多少によるので無く、その時どれだけ苦境に立たされていたかによると言う中山國の君主の言葉は、誠に社会生活を送る上に於いて、心に止めておきたい言葉ではございませんでしょうか。

                                       おわり

中国昔話 食物の怨み 説話 2(食指が動く)

2015-01-26 10:13:24 | 中国昔話
                説話 2(食指が動く)
第二話は、第一話のお話から2年後の同じく鄭のお話でございます。この前年鄭では繆公(ボク・コウ)がお亡くなりになられ、霊公が即位され、この歳は霊公の元年(BC605年)にあたります。そこで鄭の主人である楚の国からお祝いとして、大きなスッポンが献上されて来ました。余談ですが、この時代スッポンは鼈( ベツ)とよばれ、上流階級では結構食べられていた食材で、魚鼈という言葉でこの時代の書物にはよく出てきます。そんな時に公子宋と公子歸生が参内して霊公に謁見する事になったのでございますが、朝廷への参上の途中、公子宋の人差し指が動きました。そこで宋は歸生に其の指を示して、「今までに、このように人差し指が動いたときは、必ずご馳走に預かることができた。」と述べたのです。さても二人が霊公の前に参上すると、料理長が霊公にスッポンの汁物を進めている最中で、それを見た公子宋は笑いながら、「やはりその通りになったではないか。」と歸生に言いました。それを見た霊公は、「あなたは何を笑っているのか。」と尋ねられ、「ここへ來るまでに、私の人差し指が動きました。この人差し指が動いた時は、必ずご馳走にありつくことが出来ました。今日も果たしてその通りになりましたので、思わず笑ってしまったのです。」と答えました。霊公は何となく面白く有りません。そこで意地悪な気を起こし、二人を自分の側に召し、公子歸生にはスッポンの汁物を与えたのですが、公子宋には与えませんでした。この仕打ちに宋は怒り、霊公の汁物に人差し指を漬けて、その指を嘗めながら退出しました。これは主人である君に対して非常に無礼な行為であります。当然霊公は大いに怒り、宋を殺すことを計画したのでございます。それを知った宋は、先に霊公を殺すことを考え、歸生に相談したのですが、歸生は、「家畜でも、老いて用を成さなくなったからと言って殺すことは憚られる。それをまして主人を殺すのはどうであろうか。」と逡巡いたしました。すると公子宋は反って歸生を霊公に讒言したのです。歸生は霊公がそれを信じて自分を殺すのではないかと懼れて、遂に公子宋と共に霊公を殺しました。一杯の汁物が身を滅ぼすことになったのでございます。この物語から“食指が動く”と言う言葉が生まれたのでございます。

                                      つづく

中国昔話 食物の怨み 説話 1

2015-01-08 16:44:54 | 中国昔話
                   第一巻 食べ物の恨み
                      説話 1
世に物欲、食欲、性欲は人にとっての三欲等と申しますが、そのいずれも損なえば人に怨みを買う危険性がございます。その中でも食欲はそれほど危険性が在ろうとは思われないのですが、なかなかどうして、食の怨みは結構深いもので、古来これにより命を落とした人は数多くおられます。今日はそんな食の怨みのお話をさせていただきます。
これは中国の紀元前のお話で、今から約2600年前の出来事でございます。この時代は中国の歴史では春秋時代と呼ばれており、東周の時代で、周は紀元前1050年頃に建国された國で、前770年に異民族に圧迫されて、首都を東に移しました。そこで東に移る前を西周、東に移ってからを東周と呼んでおります。この周も建国当時は72の諸侯(日本の大名みたいなもの)がおられたのですが、時代と俱に次第に整理統合されて、春秋時代には齊・晋・秦。楚等の12諸侯に絞られていました。このお話は、そんな12諸侯の一つである鄭という國のお話でございます。
この時代の国際情勢は、なかなかに複雑で、北に晋、南に楚、東に斉、西に秦の四大国が有り、他の弱小国は、情勢に応じてこれらの大国に附いたり離れたりしておりました。大国は覇王(盟主)の座を争っており、これら弱小国に対して武力、詐謀を用いて、陣営に取り込もうと暗躍していたのでございます。
紀元前608年、12諸侯の一つである宋の国で君主が殺されました。この時代君主を殺すことは大逆非道の事とされていたので、正儀を正すために、宋を伐つことになりました。このような場合、本来は宗主国である周が諸侯を率いて討伐に向うものなのですが、この頃は既に宗主国としての実力を伴わない権威だけの存在でした。そこで大国は周の名代として覇王の座を争っていたのですが、この時名乗り出たのが晋でございます。晋は荀林父という人に諸侯の兵を率いて、宋を伐たせました。宋は敗れて和平を結び、晋を盟主としてその盟を受ける事に為りました。しかし、その時行動を共にした鄭は、「晋は信用することが出来ないので、盟主として仰ぐことはできない。」と言って、楚の陣営に入りました。それからしばらくして、楚を盟主としていた陳の君主の共公が亡くなられたのですが、楚は盟主としての礼を行わなかったので、陳は怒り晋の陣営に入りました。そこで楚は鄭を引き連れて、陳を侵し、更に宋を侵したのです。そこで晋は趙盾を将軍として、諸侯の軍を率いて、陳を救わせ、其の勢いに乗り、晋は斐林という所で、宋・陳・衛・曹の諸侯等と会盟を開き、晋の陣営に入らず、楚に附いた鄭を討伐したのでございます。それに対して楚は蔿賈(イ・コ)を派遣し、両軍は北林という所で戦闘を始めたのですが、晋は将解揚を捉えられ、敗れて兵を引き上げました。その後晋は、この雪辱を晴らすために、再び兵を出し鄭を侵奪したのでございます。
そして翌年(前607年)春、楚は晋が鄭を侵した事に対する報復として、鄭の公子歸生に命じて、宋を攻めさせました。宋は華元・樂呂に命じて之を迎え撃たせ、大棘で陣を構えました。そこへ鄭の軍が攻め込んだのでございますが、その時。鄭の兵士が一人、誤って井戸に落ちました。それを見ていた宋の将の一人狂狡という人が、哀れに思い、自分が持っていた槍のような戟という武器を逆さまにして、柄を落ちた兵士に差し出しました。落ちた兵士はそれにつかまって、無事に井戸から出ることができました。本来ならば、ここで落ちた兵士は、助けてくれた将に、「敵で有る私を助けてくれたあなたの厚情と徳に感謝いたします。敵味方に分かれていなければ、義兄弟の契りを交わして、あなたに兄としてお仕えしたい。しかし今はそのような状況ではないので。あなたの武勇を祈っております。」などと述べて走り去るのが常套の場面でございますが、この兵士は助けてくれた狂狡の武器を奪って逆に殺してしまいました。この出来事をどのように考えるかは、人それぞれでございます。この話しを伝え聞いた当時の君子たちは、敵兵を殺すのが君主からの命であるのに、それを助けることは命令違反で有るとして、兵士を称えて、狂狡を非難しました。
さて華元は鄭の陣地に攻め込んで、勝負を決する決意をしました。そこで其の前夜、士気を高めるために、羊を殺して、肉を兵士たちに振舞ったのでございますが、御者の羊斟だけが、その肉を貰えなかったのです。単に忘れたのか、或いは名前に羊に字が有ることから、シャレで与えなかったのかは、定かでは有りませんが、この仕打ちに羊斟は非常に腹を立てました。余談ですが、この時代の御者は部下の中でも最も信頼の出来る者を抜擢しました。単なる一兵卒でなく、身分の高い人です。いよいよ決戦の日、羊斟は将軍の華元を兵車に乗せて、言いました、「昨日、羊を兵士に食らわし、士気を高めたのは、将軍の仕事として当然のことをされました。今日のこの戰では、私は御者として、自分の考えで車を走らせます。」いい終わると、羊斟はそのまま真直ぐ鄭の陣地に駆け込んだのでございます。当然華元はあっさりと鄭に囚われ、兵車四百六十台を取られ、二百五十人が捕虜となり、百人の兵士が殺されて、宋は敗北しました。ほんに食物の怨みは恐いですね。

                                       つづく