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『大学』第二章第四節

2012-09-17 11:18:46 | 漢文
   『史記』の解読はこちら  http://www.eonet.ne.jp/~suqin

      『大学』第二章第四節

孔子は、「人々の間に争いごとが起こってから、其の訴えを聞いて、解決するのでは、私も一般の人と変らない。私はそれよりも人々に争いを起こさせないようにしたいものである。」と述べておられる。このように、真心の無い者はその訟も嘘偽りが多いので、其れをどれほど能く聞いて解決しても、それだけでは聖人も並の人と変らない。それよりも修得した徳を以て民を教化し、嘘偽りを以て訴えることは出来ないことを悟らせて、真実でない訴えをすることを畏怖させることである。このように徳を修めて、人民を誠にすることを本を知るというのである。

子曰、聽訟、吾猶人也、必也使無訟乎。無情者不得盡其辭、大畏民志。此謂知本。

子曰く、「訟を聽くは、吾猶ほ人のごときなり。必ずや訟無からしめんか。」情無き者をして其の辭を盡くすを得ざらしめて、大いに民の志を畏れしむ。此れを本を知ると謂うなり。

<語釈>
○「無情者~」、鄭注に、「情は猶ほ実のごときなり。実無き者は虚誕(うそいつわり)の辞多し。聖人の訟を聴くは人と同じきのみ。必ず民の実無き者をして敢て其の辞を尽くさざらしむ。大いに其の心志を畏れしむれば、其の意を誠にして敢て訟えざらしむ。」とある。○「此謂知本」、鄭注に、「本は其の意を誠にするを謂うなり。」とある。この「意」は第一節で述べた「君子の意」でなく、人民の意である。

<解説>
この孔子の言葉は『論語』顔淵篇にある。人々に争いごとが起こり、能くその訴えを聴いて解決することは大事であるが、其れは末事であって、徳を以て民を教化して訟を無くすことが本で、君子はそれに務めなければならないのである。徳を修める、意を誠にする、日々努力し、日々新たにし、見えない所でも善事を行う、これらの前述した事を以て、民を教化することに、日々努めることが、君子の為す可きことである、と述べて第二章の結びとしている。

『大学』第二章第三節

2012-09-11 10:14:45 | 漢文

『史記』の解読はこちら http://www.eonet.ne.jp/~suqin


      『大学』第二章第三節

『尚書』の康誥篇には、「自分の徳を世間に明らかにする。」とあり。同じく太甲篇には、「自分の為す所を思い、それが天命に適っているかどうかを正す。」とあり、更に帝典には、「高大な徳を明らかにする。」とある。これらは皆、修得した至徳を自ら世間に明らかにすることを言っているのである。殷の湯王の盤銘には、「修得した徳を日に新たにし、日々に新たにし、又日に新たにする。」と記されている。康誥には、「人民を新に教化する。」とあり、詩には、「周は旧い国であるけれども、文王は新たな天命を受けて、周の国を新たにした。」とある。このように盤銘の徳、康誥の人民、詩の命の何れも新たにしようと思えば、道の極致を用いなければ不可である。詩には、「畿内の千里四方こそが、人民の止まり住む所である。」とあり、又詩に、「あや美しい黄鳥が丘の一隅に止まる。」とある。これについて孔子は、「鳥でさえ、止まるべきところを知って止まるのに、まして人は仁義のあるところを択んで、止まらなければ、鳥にも及ばないことになるだろう。」と述べておられる。詩には、「奥ゆかしく立派な文王は、ああ、その光明な徳に敬しんで止まっておられる。」とある。人の君としては、仁を拠り所とし、人の臣としては、敬を拠り所とし、人の子としては、孝を拠り所とし、人の父としては、慈愛を拠り所とし、同国の人と交際するには、信頼を拠り所としなければならない。

康誥曰、克明。太甲曰、顧天之明命。帝典曰、克明峻。皆自明也。湯之盤銘曰、茍日新,日日新、又日新。康誥曰、作新民。詩曰、周雖舊邦、其命惟新。是故君子無所不用其極。詩云、邦畿千里,惟民所止。詩云、緡蠻黃鳥、止于丘隅。子曰、於止、知其所止、可以人而不如鳥乎。詩云、穆穆文王、於緝熙敬止。為人君、止於仁、為人臣、止於敬、為人子、止於孝、為人父、止於慈、與國人交、止於信。

康誥(コウ・コウ)に曰く、「克(よく)く徳を明らかにす。」太甲に曰く、「天の明命を顧(おもう)い(ただす)す。」帝典に曰く、「克く峻を明らかにす。」皆自ら明らかにするなり。湯の盤の銘に曰く、「茍(まことに)に日に新たにして,日に日に新た,又日に新たなり。」康誥に曰く、「新民を作(おこす)す。」詩に曰う、「周は舊邦と雖も、其れ命を惟れ新た。」是の故に君子は其の極みを用いざる所無し。詩に云う、「邦畿千里、惟れ民の止まる所。」詩に云う、「緡蠻(メン・バン)たる黃鳥、丘隅に止まる。」子曰く、「止まるに於いて、其の止まる所を知れり、人を以てして鳥に如かざる可けんや。」詩に云う、「穆穆たる文王は、於(ああ)、緝熙(シュウ・キ)にして止を敬す。」人の君と為りては、仁に止まり、人の臣と為りては、敬に止まり、人の子と為りては,孝に止まり、人の父と為りては、慈に止まり、國人と交りては、信に止まる。

<語釈>
○「康誥」、『尚書』康誥篇。○「克明」、鄭注に「皆自ら明徳を明らかにす。克は能なり。」とある。○「太甲」、『尚書』太甲篇。○「顧」、鄭注に、「顧は念なり。は猶ほ正すがごときなり。」とある。○「帝典」、『尚書』の尭典のこと。○「峻」、鄭注に、「峻は大なり。」とある。○「湯」、殷の湯王のこと。○「盤銘」盤は沐浴の器。古は種種の器具にその物の用途に因み、戒めの言葉を記した。盤は沐浴の器なので、髪や身体を洗って新たにすることから、日に新たにする事柄を記す。○「作新民」、人民の習慣を一新し悪習を去り、善につかせること。○「詩曰、周雖舊邦~」、『詩経』大雅文王篇。○「無所不用其極」、疏に、「盤銘の其の徳を新に、康誥の其の民を新に、詩の其の命を新には、道の極みを用いざれば、皆之を新たにする能わず。故に云う、其の極みを用いざる所無し、と。」○「詩云、邦畿千里~」、『詩経』商頌玄鳥篇、○「邦畿千里」、天子の畿内千里四方の地、乃ち甸服。○「詩云、緡蠻黃鳥、~」『詩経』小雅綿蛮篇。○「緡蠻」、小鳥、又はその泣き声。○「止于丘隅」、「丘隅」は鄭玄によれば、樹木が繁って静かなところ。○「子曰、~」鄭注に、「鳥は岑蔚(シン・ウツ、樹木が厳しく生い茂っていること)にして安間なるを択びて之に止處するのみ。人も亦當礼儀楽土を択びて自ら止處すべきを言う。」とある。○「詩云、穆穆文王~」、詩は大雅文王篇。「穆穆」は奥ゆかしく立派なさま。○「緝熙」、鄭注に、「緝熙は光明なり。此れ文王の徳は光明にして其れ以て自ら止處する所を敬するを美とす。」とある。

<解説>
前節の「斐たる有る君子は、終に諠(わすれる)る可からず。」を証するに、自ら徳を明らかにし、修めた徳も日々新たにしなければならないと述べている。そうして我が身を新たにして、其の高所に止まっていればこそ、人民を新に教化し、天命も新に受けることが出来るのである。人は常に止まるべき所に止まるべきで、それが出来なければ、烏にも及ばない、と孔子は述べている。君は仁に、臣は敬に、子は孝に、父は慈に、人との交りには信にと、それぞれに止まるべき所、乃ち拠り所とするものがあり、その拠り所をそれぞれが日々新たにすることに因って、世の中は安寧に治まるのである。