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『呂氏春秋』巻第三季春紀

2017-04-25 10:00:45 | 四書解読
巻第三 季春紀

一 季春

一に曰く。季春の月。日は胃に在り、昏に七星中し、旦に牽牛中す(予備の二十八宿参照)。其の日は甲乙、其の帝は太皞、其の神は句芒、其の蟲は鱗、其の音は角、律は姑洗(予備の十二律参照)に中る。其の數は八、其の味は酸、其の臭は羶、其の祀は戶、祭るには脾を先にす。桐始めて華さき、田鼠(もぐら)化して鴽(ふなしうずら、うずらに似た鳥の名)と為り、虹始めて見われ、萍(ヘイ、うきくさ)始めて生ず。天子は青陽の右个に居り(予備の明堂参照)、鸞輅に乘り、蒼龍を駕し、青旂を載て、青衣を衣、青玉を服び、麥と羊とを食らう。其の器は疏にして以て達す。是の月や、天子乃ち鞠衣を先帝に薦む(「鞠衣」は、畢沅曰く、内司の服、鄭注に云う、鞠衣は黄桑の服なり、色は麹塵(うす黄色)の如く、桑の葉を象る。養蚕がうまくいくことを先帝に祈ること)。舟牧(舟を司る官)に命じて舟を覆せしむ。五たび覆し五たび反し、乃ち舟の備具わるを天子に告げ、天子焉に始めて舟に乘る。鮪(鯉に似た川魚)を寢廟に薦め、乃ち麥の為に實らんことを祈る。是の月や、生氣方に盛んにして、陽氣發泄し、生者畢く出で、萌者盡く達して、以て內る可からず。天子、德を布き惠を行い、有司に命じて、倉窌(高注:地を穿つを窌(コウ)と曰う。倉庫と穴倉)を發して、貧窮に賜い、乏絕を振い(高注:「振」は救なり)、府庫を開きて、幣帛を出だし、天下に周からしむ。諸侯に勉めて(高注:「勉」は「進」なり)、名士を聘し、賢者を禮(礼遇)せしむ。是の月や、司空に命じて曰く、「時雨將に降らんとす、下水は上騰せん(水位が低い水が上昇してくること)。國邑を循行し、原野を周視し、隄防を修理し、溝瀆を導達し、道路を開通して、障塞有ること無からしめよ。田獵の罼弋・罝罘羅の網(高注によれば、「罼」(ヒツ)は掩う網、「弋」(ヨク)はいぐるみ、「罝」(シャ)は兎、「罘」(フ)は鹿、「羅」は鳥を取る網)、餧獸の藥は(獣に飲ませて獲る毒薬)、九門より出だすこと無からしめよ(高注によれば、この九門は、天子の城門は十二、そのうち東方の三門は王の気が宿る所で、常に狩猟用具は持ち出せないので、西南北の九門)。」是の月や、野虞(高注:材を主どる官)に命じて、桑柘(「柘」(シャ)は桑の一種のやまぐわ、桑・柘共に蚕のえさ)を伐ること無からしむ。鳴鳩(しらこばと)、其の羽を拂い、戴任(やつがしら)、桑に降るや、栚曲キョ筐を具う(「栚」(チン)は蚕だなの横木、「曲」は蚕を飼うかご、キョは“たけかんむり”に“豦”の字で、底の丸い器、「筐」(キョウ)は底の四角い器、共に桑を入れる器)。后妃、齋戒し、親ら東に鄉いて躬ら桑とる。婦女に禁じて觀(高注:「觀」は「遊」なり)無からしめ、婦使を省き、蠶事を勸む。蠶事既に登れば(高注:「登」は「成」なり),繭を分かち絲を稱り功を效す。郊廟の服に共するを以て、敢て墮(おこたる)ること有ること無かれ。是の月や、工師に命じ、百工に令して、五庫の量を審らかにし、金鐵・皮革筋・角齒・羽箭幹(「箭幹」(セン・カン)は矢の柄の部分)・脂膠丹漆、良からざるもの或こと無からしむ。百工咸理むるや、工を監して日々號し(「號」は指示を出す意)、時(納期)に悖ること無からしむ。淫巧を作為して、以て上の心を蕩たらしむること或ること無からしむ。是の月の末、吉日を擇びて、大いに合樂す。天子は乃ち三公・九卿・諸侯・大夫を率い、親ら往きて之を視る。是の月や、乃ち纍牛・騰馬・游牝を牧に合わせ(高注:「纍牛」(ルイ・ギュウ)は父牛、「騰馬」は父馬、皆将に羣游して、牝に牧の野風に從い、之を合す)、犧牲・駒犢(仔馬と小牛)は、舉げて其の數を書す。國人儺し(「國人」は國都の人、「儺」(ダ)は陰気を祓う儀式)、九門に磔禳し(「磔」(タク)禳は、犬の皮をを割いて門に掲げ、邪気を払うこと)、以て春氣を畢う。是の令を行えば(高注:「行之是令」は、行是之令なり)、而ち甘雨至ること三旬なり。季春に冬の令を行えば、則ち寒氣時に發し、草木皆肅(ちぢむ)み、國に大恐有らん。夏の令を行えば、則ち民に疾疫多く、時雨降らず、山陵收まらず(収穫がないこと)、秋の令を行えば、則ち天、沈陰多く(「沈」は「霃」の借字とする説がある、どんより曇った天候を言う。これを採用する)、淫雨(長雨)早く降り、兵革並び起こる。

二 盡數

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『孟子』巻第五藤文公章句上 四十九節

2017-04-17 10:10:08 | 四書解読
四十九節

藤の文公は孟子を招いて、國を治める道について尋ねた。孟子は答えた。
「民に関すること、特に農業については片時もゆるがせにしてはいけません。『詩経』にも、『日中は野にでかけて茅を刈り取り、日が暮れてからは縄をなえ。暇が出来たらすぐに屋根に登り、雨漏りの修理をせよ。百穀の種まきが近づいているぞ。』と歌っています。民の日常の実態とは、定まった仕事が有れば、心も安定しますが、定まった仕事がなければ、心も不安定になるものです。もし心が不安定な状態になれば、わがまま勝手にどんな悪事にも手を染めかねません。そのような状態に追い込んでおきながら、罪を犯せばこれに刑罰を加えるのは、網を仕掛けておいて民をそこに追い込むようなものです。いやしくも仁者が君主の位に在りながら、どうして民を追い込むようなことが出来ましょうか。ですから賢君は慎み深く下の者にも礼を尽くし、民から税を取るにも一定の限度がありました。昔、魯の陽虎は、『金持ちになろうとすれば、仁者ではいられない。仁者でいようとすれば、金持ちになれない。』と申しております。古来の税制を見てみますと、夏の時代には民に五十畝の土地を与えて、貢という税法を行い、殷の時代には七十畝を与えて、助という税法を行い、周の時代には百畝を与えて、徹という税法を行いました。それぞれ法は異なっておりますが、その実態は皆十分の一の税を賦すということでは同じです。徹とは収穫高に応じて徹取することで、助とは籍、乃ち借りることで、公田を耕す労力を民より借りてその収穫を徴収するのであります。昔の賢人龍子は、『土地の治め方としては、助法が最善で、貢が最悪である。』と申しております。貢というのは、数年の収穫を平均してそれを定額とするので、豊年の歳には穀物があたりに散乱しているほどなので、多少税が多くても民を虐げることにならないのに、少量の定額しか取らず、逆に凶年の歳には田畑に多くの肥料を与えても、収穫が足りないのに、定額の税は取り立てます。民の父母というべき君主になりながら、民をして休む暇もなく働き続けても、自分の父母さえ養うことが出来ないようにさせ、更に税を払えない者には貸し付けをして、利息を取り立てるから一層負担が増え、ついに老人や子供は溝や谷間に転がり落ちる羽目になる。これでどうして民の父母などと言えるでしょうか。さて、功徳のある家が俸禄を世襲するという周初以来の制度は、藤の国では勿論行われております。『詩経』小雅の大田の篇に、『雨よふれ、我が公田に、ついでに我が田にもふれ。』とありますが、公田というのは唯だ助法だけにあるのですから、この詩に因って考えてみますと、周の税制は徹法でありますが、助法も併用していたようです。ですので藤の国でもこの税制を行われるのがよろしいかと思います。その上で、郷に庠・序・校と呼ばれる学校を、都に學という学校を設けて民を教育するのです。この庠とは老人を敬い養う所で、校とは子弟を教育する所で、序とは弓を射る礼に基づいて礼儀を教える所で、庠・序・校とはそれぞれの意味合いからつけられた名称です。夏の時代は校と言い、殷の時代は序と言い、周の時代は庠と言いましたが、都の学校である學は夏・殷・周の三代を通じて同じ名称でした。これらは皆人間関係の正しい道である人倫を教える為の物です。上に立つ者が人倫を明らかにすれば、一般人民は互いに相親しむようになります。そのような美風が生まれたならば、天下を統一するような王者が現れたとしても、必ずその国を手本にしようとして見に来るに違いありません。そうなれば藤の国は王者の師ということになります。『詩経』大雅の文王の篇に、『周は古い国であるが、王者たる天命を受けたのは新しい。』とありますが、これは文王のことを言っているのです。あなたさまも努力して人倫を明らかにするようになされば、藤の国の面目を一新させることが出来ましょう。」
藤の文公はさっそく実行しようと思ったが、井田法の詳細が分からなかったので、臣下の畢戰を遣わして詳細を孟子に尋ねさせた。孟子は言った。
「あなたの主君は仁政を行おうとして、臣下の中からあなたを選んで私のもとへ遣わしました。どうか期待に添うように頑張ってください。そもそも仁政とは土地の境界を正しく定めることから始まります。境界が正しくなければ、井田の区画も大小が生じ、その収穫に因る俸禄も公平を欠くことになります。ですから暴君や堕落した役人は境界をごまかして利益を貪ろうとします。境界さえ正しく定められていれば、田を分配し俸禄を定めることは、座っていても行えるほど簡単の事です。藤は国土が狭いとは言え、治める立場の役人もあれば、治められる農民もあります。役人がいなければ、農民を治める事は出来ないし、農民がいなければ役人を養うことは出来ません。どちらも大切なものですから、郊外は九分の一の税率の助法により徴税し、城内は十分の一の税率として各自に納めさせるようになさるのがよろしいかと思います。又卿以下の官吏には祭祀用の圭田を与えねばなりません。それは五十畝とします。農民には家長以外で十六歳以上の未婚の弟子には二十五畝の土地を与えます。この法が行われるなら、農民は家長が死んだ時も、転居する時も、郷里を出て流民となることなく、郷里の田は皆井田制のもとで平等で、一井の八家の者は田に出かける時も、家に帰る時も、行動を共にして親しく付き合い、盗賊への警戒も協力し合い、病に罹れば助け合うので、民たちは自然と親しみ合うようになります。その井田制の区画法ですが、一里四方を一井とし、九百畝の土地を井の字の形に区画し、その真ん中を公田とし、その周囲を八家の者に百畝づつ与え、八家共同で公田を耕させ、その作業が終わってから、それぞれ自分の田を耕すようにさせます。これは治める者と治められる者との上下の区別を明らかにするためです。以上が井田法の大略ですが、これを潤色して実情に合わせて行えるかどうかは、あなたの主君とあなた次第とでございます。」

滕文公問為國。孟子曰、民事不可緩也。詩云、晝爾于茅、宵爾索綯。亟其乘屋。其始播百穀。民之為道也、有恆產者有恆心、無恆產者無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不為已。及陷乎罪、然後從而刑之。是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可為也。是故賢君必恭儉禮下、取於民有制。陽虎曰、為富不仁矣、為仁不富矣。
夏后氏五十而貢、殷人七十而助、周人百畝而徹。其實皆什一也。徹者、徹也。助者、藉也。龍子曰、治地莫善於助、莫不善於貢。貢者校數歲之中以為常。樂歲、粒米狼戻、多取之而不為虐、則寡取之。凶年、糞其田而不足、則必取盈焉。為民父母、使民盻盻然,將終歲勤動、不得以養其父母。又稱貸而益之、使老稚轉乎溝壑。惡在其為民父母也。夫世祿、滕固行之矣。詩云、雨我公田,遂及我私。惟助為有公田。由此觀之、雖周亦助也。設為庠序學校以教之。庠者、養也。校者、教也。序者、射也。夏曰校、殷曰序、周曰庠、學則三代共之。皆所以明人倫也。人倫明於上、小民親於下。有王者起、必來取法。是為王者師也。詩云、周雖舊邦、其命惟新。文王之謂也。子力行之、亦以新子之國。使畢戰問井地。孟子曰、子之君將行仁政、選擇而使子。子必勉之。夫仁政、必自經界始。經界不正、井地不鈞、穀祿不平。是故暴君汙吏必慢其經界。經界既正、分田制祿可坐而定也。夫滕壤地褊小、將為君子焉、將為野人焉。無君子莫治野人、無野人莫養君子。請野九一而助、國中什一使自賦。卿以下必有圭田。圭田五十畝。餘夫二十五畝。死徙無出鄉、鄉田同井、出入相友、守望相助、疾病相扶持、則百姓親睦。方里而井。井九百畝、其中為公田。八家皆私百畝、同養公田。公事畢、然後敢治私事。所以別野人也。此其大略也。若夫潤澤之、則在君與子矣。

滕の文公、國を為むるを問う。孟子曰く、「民事は緩うす可からざるなり。詩に云う、『晝は爾于きて茅かれ、宵は爾索を綯え。亟かに其れ屋に乘れ。其れ始めて百穀を播せん。』民の道為るや、恆產有る者は恆心有り。恆產無き者は恆心無し。苟くも恆心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ。罪に陥いるに及んで、然る後從って之を刑す。是れ民を罔するなり。焉くんぞ仁人位に在る有って、民を罔して為す可けんや。是の故に賢君は必ず恭儉にして下に禮し、民を取るに制有り。陽虎曰く、『富を為せば仁ならず、仁を為せば富まず。』夏后氏は五十にして貢し、殷人は七十にして助し、周人は百畝にして徹す。其の實は皆什の一なり。徹とは、徹なり。助とは、藉なり。龍子曰く、『地を治むるは助より善きは莫く、貢より善からざるは莫し。』貢とは、數歲の中を校して以て常と為す。樂歲には、粒米狼戻し、多く之を取るも虐と為さざるに、則ち寡く之を取る。凶年には、其の田に糞するも足らざるに、則ち必ず取り盈たす。民の父母と為りて、民をして盻盻然として、將た終歲勤動するも、以て其の父母を養うを得ざらしむ。又貸を稱して之を益し、老稚をして溝壑に轉ずぜしむ。惡くんぞ其の民の父母為るに在らんや。夫れ祿を世々にするは、滕固より之を行えり。詩に云う、『我が公田に雨ふり、遂に我が私に及べ。』惟だ助のみ公田有りと為す。此に由り之を觀れば、周と雖も亦た助するなり。庠序學校を設け為して、以て之を教う。庠とは、養なり。校とは、教なり。序とは、射なり。夏は校と曰い、殷は序と曰い、周は庠と曰う。學は則ち三代之を共にす。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫上に明らかにして、小民下に親しむ。王者起こる有らば、必ず來たりて法を取らん。是れ王者の師と為るなり。詩に云う、『周は舊邦と雖も、其の命は惟れ新たなり。』文王の謂なり。子力めて之を行わば、亦た以て子の國を新たにせん。」畢戰をして井地を問わしむ。孟子曰く、「子の之、君將に仁政を行わんとし、選擇して子を使しむ。子必ず之を勉めよ。夫れ仁政は、必ず經界自り始む。經界正しからざれば、井地鈞しからず、穀祿平らかならず。是の故に暴君汙吏は必ず慢其の經界を慢にす。經界既に正しければ、田を分かち祿を制すること、坐して定む可きなり。夫れ滕は壤地褊小なれども、將た君子為り、將た野人為り。君子無くんば野人を治むる莫く、野人無くんば君を養う莫し。請う野は九が一にして助し、國中は什が一にして自ら賦せしめんことを。卿以下には必ず圭田有り。圭田は五十畝。餘夫は二十五畝。死徙、鄉を出づる無く、鄉田、井を同じくし、出入相友とし、守望相助け、疾病相扶持せば、則ち百姓親睦せん。方は里にして井す。井は九百畝、其の中公田為り。八家皆百畝を私し、同じく公田を養う。公事畢りて、然る後敢て私事を治む。野人を別つ所以なり。此れ其の大略なり。夫れ之を潤澤する若きは、則ち君と子とに在り。」

<語釈>
○「詩」、『詩経』豳風七月篇。○「索綯」、「索」は縄、「綯」は“なう”と訓じ、縄をなう意。○「放辟邪侈」、「放辟」は、わがまま、「邪侈」は、よこしまでおごる。○「徹」「籍」、趙注:徹は猶ほ人の物を徹取するがごとし、籍は借なり、猶ほ人相力を借して之を助けるがごとし。「徹」は収穫高に応じて徹取することで、「籍」は民の力を借りて公田を耕して、その収穫物に因り王族の生活を助けてもらうこと。○「盻盻然」、趙注:「盻盻然」(ケイ・ケイ・ゼン)は、勤め苦しんで休息せざるの貌。○「庠序學校」、朱注:「庠」は老を養うを以て義と為し、「校」は民を教うるを以て義と為し、「序」は射を習うを以て義と為す、皆郷の學(学校)なり、學は國の學なり。異説もあるが、朱注に従っておく。○「取法」、法は紀、手本とする意。○「為君子」、趙注:「為」は「有」なり、小國と雖も、亦た君子有り、亦た野人有り。○「圭田」、趙注:古者は、卿以下士にに至るまで、皆圭田五十畝を受く、祭祀に共する所以なり。○「餘夫」、服部宇之吉氏云う、餘夫とは、井田の制に、一家の従属、即ち弟子をいう、其の法、十六才にして二十五畝を受け、三十歳にして娶らば百畝に増す。○「守望」、盗賊や外賊にたいする備えをすること。

<解説>
この節は井田制について述べられた有名な節である。周代の税制や井田制に関する論文などで、よく引用される文章である。そこで井田制とはどのようなものか簡単に紹介しておく。九百畝の土地を「井」の字の形に九等分し、周囲の八区画を八家に分与する。一区画は百畝である。中央の百畝を公田として八家の者が耕作し、此の収穫物が税となる。故にこれを九分の一法とも言う。このような井田制が当時実際に実施されていたかどうかは定かでない。この問題に関しては、多くの論文が有り、諸説さまざまである。唯一つ確かな事は、画一的な実施はなかったということであろう。

『孟子』巻第五藤文公章句上 四十八節

2017-04-14 10:16:51 | 四書解読
四十八節

藤の定公が亡くなった時、太子は教育係の然友に言った、
「以前、私は宋の国で孟子と語り合ったことがある。その時の先生の言葉が忘れられない。このたび不幸にして父の喪に遭遇したが、私はお前を孟子の所に使わせて、大喪について尋ねさせ、それを聞いてから喪のことを行いたいと思っている。」
然友は孟子の居る鄒に行き、尋ねた。孟子は言った、
「それは誠に善いお考えです。親の喪は当然自分の心を尽くすものです。孔子の弟子の曾子も、『親の生存中は、礼に従ってお仕えし、亡くなれば葬礼を尽くし、その後は礼に従ってお祭りをする。そうしてこそ孝と謂える。』と言われています。諸侯の礼は私もまだ学んでいませんが、以前にこんなことを聞いたことが有ります。三年の喪に服し、齊哀の喪服を着て、お粥のような粗末な食事をするというのは、上は天子から下は庶民に至るまで皆同じであり、その事は夏・殷・周の三代を通じて変わらない、と言うそうです。」
然友は戻り太子に報告をした。それを聞い太子は三年の喪を定めたが、一族の老臣や官僚たちが皆反対して言った、
「ご本家の魯の先代様がたにも三年の喪をなされた方はおられず、我が先代様にもそのような事をなされた方はおられません。それをあなたさまの代になって代えられるのは、よくない事でございます。更に古い記録にも、喪祭は先祖の定めに從うものだ、とございます。」
太子は、
「これはさるお方から聞いたことなのだ。」
と答えたが、自分でも自信が持てなかったので、然友に言った、
「私はこれまでに学問をせず、馬を乗り回したり剣を振り回したりばかりしてきたので、一族の老臣や官僚たちは、私では頼りないと思っている。これでは父上の喪儀という大事を首尾よく成し遂げることが出来ないのではと不安である。ご苦労だがもう一度孟先生に聞いてきてもらいたい。」
然友は再び鄒に行き孟子に尋ねた。孟子は言った。
「そうでしょう。しかし喪儀のことは他人に求めるべきものでなく、太子ご自身の心次第でございます。孔子は、『君主が亡くなれば、太子は政治を始め表向きの事は家老に任せ、自身は粥を啜り、哀しみの為に顔は黒ずみ、喪主の席について泣き叫べば、役人たちも哀しまない者はいないのは、先に太子が哀しむからだ。大体において上の者が好むことがあると、下の者はそれに輪をかけて甚だしくそれを好むものだ。たとえば上に立つ君子の徳は風みたいなもので、下々の者は草みたいなもので、草は風が吹けば必ず倒れるももだ。』と言っております。ですからこの度の事はひとえに太子のお心次第でございます。」
然友は戻って報告した。太子は、
「そのとおりだ。これは真に私の心次第だ。」
と言い、三年の喪を行うことを決め、もがりの五か月間を仮小屋で過ごし、政事に携わらなかった。これを見て役人や一族の者たちは太子の心を認め、太子は禮をよく知っておられると言うようになった。いよいよ本葬が行われることになると、四方からこれを見ようと人々が集まってきたが、太子の傷ましい顔つきを見、嘆き悲しむ泣き声を聞いて、会葬者は皆立派な葬式だと感動した。

滕定公薨。世子謂然友曰、昔者孟子嘗與我言於宋。於心終不忘。今也不幸至於大故。吾欲使子問於孟子、然後行事。然友之鄒問於孟子。孟子曰、不亦善乎。親喪固所自盡也。曾子曰、生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮。可謂孝矣。諸侯之禮、吾未之學也。雖然,吾嘗聞之矣。三年之喪、齊疏之服、飦粥之食、自天子達於庶人、三代共之。然友反命。定為三年之喪。父兄百官皆不欲、曰、吾宗國魯先君莫之行、吾先君亦莫之行也。至於子之身而反之、不可。且志曰、喪祭從先祖。曰、吾有所受之也。謂然友曰、吾他日未嘗學問。好馳馬試劍。今也父兄百官不我足也。恐其不能盡於大事。子為我問孟子。然友復之鄒問孟子。孟子曰、然。不可以他求者也。孔子曰、君薨、聽於冢宰。歠粥、面深墨、即位而哭、百官有司、莫敢不哀,先之也。上有好者,下必有甚焉者矣。君子之德、風也。小人之德、草也。草尚之風必偃。是在世子。然友反命。世子曰、然。是誠在我。五月居廬、未有命戒。百官族人可謂曰知。及至葬、四方來觀之。顏色之戚、哭泣之哀、弔者大悅。

滕の定公、薨ず。世子、然友に謂いて曰く、「昔者、孟子嘗て我と宋に於いて言えり。心に於いて終に忘れず。今や、不幸にして大故に至る。吾、子をして孟子に問わしめ、然る後に事を行わんと欲す。」然友、鄒に之き、孟子に問う。孟子曰く、「亦た善からずや。親の喪は固より自ら盡くす所なり。曾子曰く、『生けるには之に事うるに禮を以てし、死せるには之を葬むるに禮を以てし、之を祭るに禮を以てす。孝と謂う可し。』諸侯の禮は、吾未だ之を學ばざるなり。然りと雖も、吾嘗て之を聞けり。『三年の喪、齊疏の服、飦粥(セン・シュク)の食は、天子自り庶人に達し、三代之を共にす』。」然友、反命す。定めて三年の喪を為さんとす。父兄百官皆欲せずして曰く、「吾が宗國魯の先君、之を行う莫く、吾が先君も亦た之を行う莫きなり。子の身に至りて之に反するは、不可なり。且つ志に曰く、『喪祭は先祖に從う。』」曰く、「吾之を受くる所有るなり。」然友に謂いて曰く、「吾、他日、未だ嘗て學問せず。好んで馬を馳せ劍を試む。今や父兄百官、我を足れりとせざるなり。其の大事を盡くす能わざるを恐る。子、我が為に孟子に問え。」然友復た鄒に之き、孟子に問う。孟子曰く、「然り。以て他に求むる可からざる者なり。孔子曰く、『君薨ずれば、冢宰に聽き、粥を歠(すする)り、面は深墨、位に即きて哭すれば、百官有司、敢て哀しまざる莫きは、之に先んずればなり。上好む者有れば、下必ず焉より甚だしき者有り。君子の德は、風なり。小人の德は、草なり。草之に風を尚(くわえる)うれば必ず偃(ふす)す。』是れ世子に在り。」然友反命す。世子曰く、「然り。是れ誠に我に在り。」五月、廬に居り、未だ命戒有らず。百官族人、可とし謂いて知れりと曰う。葬るに至るに及び、四方來たりて之を觀る。顏色の戚める、哭泣の哀しめる、弔する者大いに悅ぶ。

<語釈>
○「然友」、趙注:然友は世子の傅なり。○「大故」、趙注:大故は大喪を謂う。○「曾子」、孔子の弟子で、孝の人として有名、著書に『孝經』がある。○「齊疏之服」、趙注:齊疏(シ・ソ)は齊哀(シ・サイ)なり。喪の期間は、三年・一年・九ヶ月・五ヶ月・三ヶ月とあり、喪服もそれに対応して五等に区別されている、それそれ喪服の名は、「斬衰」・「齊衰」・「大功」・「小功」・「緦麻」と言う。○「飦粥」、「飦」(セン)は濃いおかゆ、「粥」(しゅく)は薄いおかゆ、ここでは飦粥で粗末な食事の意。○「孔子曰~」、孔子の言葉がどこまでかはっきりしないが、「草尚之風必偃」までとするのが通説らしいので、それに従った。○「冢宰」、冢宰(チョウ・サイ)は家宰、家老のこと。○「五月居廬」、服部宇之吉氏云う、「居廬」とは、倚廬に居るを云う、倚廬は中門の中に於いて之を造る、父母の喪中に移り居る室なり、「五月」は五個月なり。

<解説>
内容的にはさほど難しい箇所はないが、儒教の言う三年の喪について、この節を読む限り、この当時厳密には行われていなかったようで、意外な感がある。礼とはそのような側面があるのだろう。

『呂氏春秋』巻第二仲春紀

2017-04-07 10:59:38 | 四書解読
巻第二 仲春紀

一 仲春

一に曰く。仲春の月。日は奎に在り。昏に弧中し、旦に建星中す((予備の二十八宿を参照、建星は斗宿の北にある星座)。其の日は甲乙、其の帝は太暤、其の神は句芒、其の蟲は麟、其の音は角、律は夾鐘に中る(予備の音・律を参照)。其の數は八、其の味は酸、其の臭は羶。其の祀は戸、祭るには脾を先にす。初めて雨水し、桃李華さく。蒼庚(ちょうせんうぐいす)鳴き、鷹化して鳩(はやぶさの類)と為る。天子は青陽の太廟(予備の明堂を参照)に居り、鸞輅に乘り蒼龍を駕し、青旂を載(たてる)て、青衣を衣、青玉を服(おびる)び、麥と羊とを食らう。其の器は疏にして以て達す。是の月や、萌牙を安んじ、幼少を養い、諸孤を存む(「諸孤」は諸々のひとり者、「存」は恤、“あわれむ”と訓ず)。元日を擇び(高注:「元」は「善」なり)、人に命じて社せしむ(高注:后土を社祭するは、民の穀の祈りを為す所以なり)。有司(高注:獄を主る者)に命じて囹圄を省き(高注:囹圄は法室(牢屋)、之を省くとは、輕微を赦すなり)、桎梏を去り、肆掠無く(高注:「肆」は極(死刑)、掠は笞うつ)、獄訟を止ましむ。是の月や、玄鳥至る。至るの日は、太牢を以て高禖に祀る(高注:玄鳥は燕なり。高禖は郊禖に同じで、男女交合の神を郊外に祀ること)。天子親ら往き、后妃、九嬪(側目、妾)を率いて御(はべる)る。乃ち天子の御する所を禮し(「御」は「幸」、愛幸)、帯びしむるに弓トク(左に“韋”、右に“蜀”の字、弓トクは弓袋のこと)を以てし、授くるに弓矢を以てし、高禖の前に于てす。是の月や、日夜分しく(春分。高注:「分」は「等」、晝夜鈞きなり)、雷乃ち聲を發し、始めて電し、蟄蟲咸な動き、戸を開きて、始めて出づ(「蟄」は穴に居る虫、「開戸」とは穴から出てくること)。雷に先だつこと三日、鐸を奮いて、以て兆民に令して曰く、「雷且に聲を發せんとす。其の容止(起居動静、日常の行い)を戒めざる者有らば、生子備わらず(生まれた子は不具である)、必ず凶災有らん。」日夜分しければ、則ち度量を同じくし、衡石を鈞しくし、斗桶を角(たいらか)にし、權概を正しくす(「權」は分銅、「概」は桝のとがき)。是の月や、耕者少しく舎めば(「舎」は“やすむ”と訓じ、少し暇が出来る意)、乃ち闔扇(高注:闔扇は門の扇(とびら)なり)を修め、寝廟必ず備わらしむ。大事(軍事や築城)を作して以て、農功を妨ぐること無かれ。是の月や、川澤を竭くすこと無く、陂池を漉くすこと無く(「陂池」(ヒ・チ)は、ため池、「漉」は“つくす”と訓じ、浚いつくす意)、山林を焚くこと無からしむ。天子乃ち羔を獻じ、冰を開き(氷室を開く事)、先づ寝廟に薦む。上丁に、樂正に命じて學に入り舞を習わしめ、(底本は「命樂正入舞」となっているが、孟春に「命樂正入學習舞」となっており、又下文に「命樂正入學習樂」とあることから、「命樂正入學習舞」に改める)、采を舎かしむ(高注:「舎」は猶ほ「置」なり、初めて學に入る官は、必ず先師に禮し、采帛を前に置き、以て神に贄す)。天子乃ち三公九卿諸侯を率いて親ら往きて之を視る。中丁に、又樂正に命じ、學に入り樂を習わしむ。是の月や、祀に犠牲を用いず、圭璧、更に皮幤を用う。仲春に秋の令を行えば、則ち其の國、大水あり、寒気総りに至り(高注は、総至を猥りに至る、と解している)、寇戎、來征す。冬の令を行えば、則ち陽気勝たず、麥乃ち熟せず、民多く相掠む。夏の令を行えば、則ち國乃ち大いに旱し、煗気(ダン・キ、暖気に同じ)早く來たり、蟲螟、害を為す(高注:蟲、稼の心を食す、之を螟と謂う。穀物の茎の芯を食らう虫の総称、ずい虫という)。

二 貴生

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