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『春秋左氏伝』巻第九襄公一

2016-02-28 15:44:30 | 漢文解読
『春秋左氏伝』巻第九襄公一の解読ををホームページにアップしました

『經』
 ・元年(前572年)、春、王の正月、、公、位に即く。
 ・仲孫蔑、晉の欒黶・宋の華元・衛の殖・曹人・莒人・滕人・薛人に會して宋の彭城を圍む。
 ・夏、晉の韓厥、師を帥いて鄭を伐つ。仲孫蔑、齊の崔杼・曹人・邾人・杞人に會してショウ(“おおざとへん”に“曾”の字)に次す。
 ・秋、楚の公子壬夫、師を帥いて宋を侵す。
 ・九月、辛酉、天王崩ず。
 ・邾子、來朝す。
 ・冬、衛侯、公孫剽をして來聘せしむ。晉侯、荀罃をして來聘せしむ。

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『孟子』巻二梁惠王章句下、第十節

2016-02-09 14:21:36 | 漢文解読
                         第十節
齊の宣王が尋ねて言った。
「隣の國と交際するのに何か良い方法は有るのだろうか。」
 孟子は答えて言った。
「ございます。大国でありながら小国と同等の禮を以て交際が出来るのは、仁者であって初めて成し得ることでございます。ですから殷の湯王が葛伯に対して、周の文王が混夷に対して、相手を蔑むことなく禮を尽くして交際することが出来たのがその例です。又小国の身で、大国に侮られること無く、対等の禮を以て交際できるのは、智者であって初めて成し得るのでございます。ですから周の文王の祖父である大王が夷狄の大国獯鬻(クン・イク)と交際し、越の句踐が呉と交際したのがその例です。大国の身で小国を侮らず禮を以て交際できる者は、天命に従うことを楽しんでいる者です。小国の身で大国と対等に交際できる者は、天を畏怖しわが身を慎んでいる者です。天を楽しむものは天下を安らかに、天を畏怖する者は国を安らかにするでしょう。『詩経』周頌の我将篇にも、『天の威力を畏怖し、ここにぞ国を保ちゆくなり。』とございます。」
王は言った、
「まことに立派なお言葉である。しかし私には悪い癖が有るのだ。自分の強さを人に示したくて、畏れ慎んだりすることが出来ないのだ。」
答えて言った、
「王様、どうか小さな勇気を好むようなことはしないでください。そもそも剣の柄に手をかけて、相手をにらみつけて、お前が俺にかなうものか。などと言うのは、つまらない小者の勇気であり、唯だ一人を相手にするだけの勇気です。どうか大きな勇気をお持ちください。『詩経』の大雅皇矣篇に、『文王、ここに激しく怒り、軍を整え、莒を侵すものを、防ぎ止め、周のさいわいを全きものにし、天下の望みに答えたり。』とありますが、これが文王の勇気でございます。文王は一たび怒って天下の人民を安んじたのです。『書経』に、『天、民をこの世に降し、その民の君、民の師として我を立て、上帝の志を助けよと仰せになられ、恩徳を与えてくださった。であるから、天下の罪有る者は罰し、罪無き者は安んじ、天意に適うことが私の責務である。天下の民は其の天意を失墜すること勿れ。』とございます。たとえ一人でも、天の道に順わず、横行する者がいれば、武王は之を恥としました。ですので殷の紂王を誅伐したのであり、これが武王の大勇というものでございます。このように武王も一たび怒って、天下の民を安んじました。王様も一たび怒って天下の民を安んじなさいませ。そうすれば人民も王様が大勇を好まれないことを反って心配されるでしょう。」

齊宣王問曰、交鄰國有道乎。孟子對曰、有。惟仁者為能以大事小。是故湯事葛、文王事昆夷。惟智者為能以小事大。故大王事獯鬻、句踐事呉。以大事小者、樂天者也。以小事大者、畏天者也。樂天者保天下、畏天者保其國。詩云、畏天之威,于時保之。王曰、大哉言矣。寡人有疾、寡人好勇。對曰、王請無好小勇。夫撫劍疾視曰、彼惡敢當我哉。此匹夫之勇、敵一人者也。王請大之。詩云、王赫斯怒、爰整其旅、以遏徂莒、以篤周祜、以對于天下。此文王之勇也。文王一怒而安天下之民。書曰、天降下民、作之君、作之師。惟曰其助上帝。寵之。四方有罪無罪、惟我在。天下曷敢有越厥志。一人衡行於天下、武王恥之。此武王之勇也。而武王亦一怒而安天下之民。今王亦一怒而安天下之民、民惟恐王之不好勇也。」

齊の宣王問いて曰く、「鄰國に交わるに道有るか。」孟子對えて曰く、「有り。惟だ仁者のみ能く大を以て小に事うるを為す。是の故に湯は葛に事え、文王は昆夷に事えたり。惟だ智者のみ能く小を以て大に事うるを為す。故に大王は獯鬻(クン・イク)に事え、句踐は呉に事えたり。大を以て小に事うる者は、天を樂しむ者なり。小を以て大に事うる者は、天を畏るる者なり。天を樂しむ者は天下を保ち、天を畏るる者は其の國を保つ。詩に云う、『天の威を畏れ、時に于て之を保つ。』」王曰く、「大なるかな言や。寡人疾有り、寡人勇を好む。」對えて曰く、「王請う小勇を好むこと無かれ。夫れ劍を撫して疾視して曰く、『彼惡んぞ敢て我に當らんや』と。此れ匹夫の勇にして、一人に敵する者なり。王請う之を大にせよ。詩に云う、『王赫として斯に怒り、爰に其の旅を整え、以て莒に徂くを遏め、以て周の祜(さいわい)を篤くし、以て天下に對う。』此れ文王の勇なり。文王一たび怒りて、天下の民を安んぜり。書に曰く、『天、下民を降し、之が君を作り、之が師を作る。惟れ曰く、其の上帝を助けよ、と。之を四方に寵す。罪有るも罪無きも、惟だ我在り。天下曷ぞ敢て厥の志を越す有らんや。』一人、天下に衡行するは、武王之を恥づ。此れ武王の勇なり。而して武王も亦た一たび怒りて天下の民を安んず。今王も亦た一たび怒りて、天下の民を安んぜば、民惟だ王の勇を好まざるを恐るるなり。」

<語釈>
○「于時」、「于」は「於」、「時」は「是」に読む、是に於いての意。○「有疾」、ここでの「疾」は癖の意で、悪い癖が有るということ。○「疾視」、にらみつける。○「詩云~」、詩は『詩経』の大雅皇矣篇、「赫」は、激しい貌、「斯」も「爰」も共に“ここに”と訓ず、「遏」は「止」の義。○「寵之四方」、之を一句に読む朱子の説と、「寵之」で区切り、「四方」を下文につなげる趙岐の説とがある。私は趙岐の説を採用する。「寵之」とは天が私を寵遇すること。○「越厥志」、「厥志」は其の志と読んで、天意のこと、「越」は“こえる”に読んで、天意を飛び越えて亂を為すという意味に解釈する説と、安井息軒の「越」を“おとす”と読んで、天意を失墜させるという意味に解釈する説とがある、安井説に從う。○「衡行」、趙注:「衡」は「横」なり、天下に一人横行して天道に順わざる者有るを恥とす、故に紂を伐つなり。

<解説>
小勇と大勇とについて述べている。これについて朱子と同時代の張敬夫が、小勇は、血気の怒りなり。大勇は、理義の怒りなり。血気の怒りは有つ可からず。理義の怒りは無きこと有る可からず。此を知れば、則ち以て性情の正を見て、天理人欲の分を識る可し、と述べている。小勇は激しく現れ小に終わり、大勇は静かに現れ大に終わる。人はどうしても血気の怒りに走りがちになるものである。