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お知らせ

2017-11-27 16:23:49 | 四書解読
私のブログを閲覧して下さる皆様方、ありがとうございます。
この度私のブログに張り付けているホームページのURLがリンクされていないことが判明しました。私の保存文書からコピーして貼り付けていたのですが、原因は不明なのですが、コピー元にない文字が追加されて張り付けられていました。それに気づかず放置したままでしたので、過去のブログ全てリンクできない状態でした。ご迷惑をおかけしました。
今回過去の分までさかのぼり訂正し、リンクできるようにしました。今後ともご愛読を宜しくお願いいたします。
猶ほ私のホームページには、今までに手掛けてきた史書の解読を掲載しております。この機会に是非ホームページまでお越しください。
URL :  http://gongsunlong.web.fc2.com/  

『呂氏春秋』巻第十三有始覧

2017-11-26 16:23:20 | 四書解読
巻十三 有始覧

一 有始

一に曰く。天地に始め有り。天は微にして以て成り、地は塞(「満」の義に読む)ちて以て形す(高注:天は陽なり、虚にして能く施す、故に微にして以て萬物を生ず、地は陰なり、實ちて能く受く、故に塞ちて以て形兆を成すなり)。天地の合和するは、生の大經なり。寒暑日月晝夜を以て之を知り、殊形殊能異宜を以て之を說く。夫れ物は合して成り、離れて生ず。合を知り成を知る、離を知り生を知れば、則ち天地平す(高注:「平」は「成」なり。天地が萬物を成すさまを知ることが出来る)。平なる者は、皆當に其の情を察し、其の形を處(「審」の義に読む)らかにすべし。天に九野有り、地に九州有り、土に九山有り、山に九塞有り、澤に九藪有り、風に八等有り、水に六川有り。何をか九野と謂う。中央を鈞天と曰う、其の星は角・亢・氐。東方を蒼天と曰う、其の星は房・心・尾。東北を變天と曰う、其の星は箕・斗・牽牛。北方を玄天と曰う、其の星は婺女・虚・危・營室。西北を幽天と曰う、其の星は東壁・奎・婁。西方を顥(コウ)天と曰う、其の星は胃・昴・畢。西南を朱天と曰う、其の星は觜嶲・參・東井。南方を炎天と曰う、其の星は輿鬼・柳・七星。東南を陽天と曰う、其の星は張・翼・軫。何をか九州と曰う。河・漢の間を豫州と為す、周なり。兩河の間を冀州と為す、晉なり。河・濟の間を兗(エン)州と為す、衛なり。東方を青州と為す、齊なり。泗上を徐州と為す、魯なり。東南を揚州と為す、越なり。南方を荊州と為す、楚なり。西方を雍州と為す、秦なり。北方を幽州と為す、燕なり。何をか九山と謂う。會稽・太山・王屋・首山・太華・岐山・太行・羊腸・孟門なり。何をか九塞と謂う。大汾・冥阨・荊阮・方城・殽・井陘・令疵・句注・居庸なり。何をか九藪と謂う。吳の具區・楚の雲夢・秦の陽華・晉の大陸・梁の圃田・宋の孟諸・齊の海隅・趙の鉅鹿・燕の大昭なり。何をか八風と謂う。東北を炎風と曰い、東方を滔風と曰い、東南を熏風と曰い、南方を巨風と曰い、西南を淒風と曰い、西方を飂(リュウ)風と曰い、西北を厲風と曰い、北方を寒風と曰うなり。何をか六川と謂う。河水・赤水・遼水・黑水・江水・淮水なり。凡そ四海の內、東西は二萬八千里、南北は二萬六千里、水道(海に注ぐ河川)は八千里、水を受くる者も(河川に注ぐ川)亦た八千里、通谷(大きい谷)は六、名川は六百、陸注は三千、小水は萬數なり。凡そ四極の內、東西は五億有九萬七千里、南北も亦た五億有九萬七千里なり。極星、天と俱に游びて、天極移らず。冬至の日は遠道(地上に遠い道)を行き、四極を周行す、命づけて玄明と曰う。夏至の日は近道を行き、乃ち上(頭上)に參(いたる)る。樞(北極)に當るの下は晝夜無し。白民(西極にある空想の国)の南、建木の下は(高注:建木は廣都の南方に在り、衆帝の從りて上下する所。空想上の場所)、日中影無く、呼ぶに響無し。蓋し天地の中なり。天地萬物は、一人の身なり。此を之れ大同と謂う。衆は耳目鼻口なり、衆は五穀寒暑なり(この二句の「衆」の義は理解し難いが、要素の意に解しておく、前句の「衆」は人の身の要素、後句の「衆」は天地の要素)。此を之れ衆異と謂い、則ち萬物備わるなり。天は萬物を斟り、聖人は焉を覽て、以て其の類を觀わす。解は天地の形する所以、雷電の生ずる所以、陰陽材物の精、人民禽獸の安平なる所に在り。

二 應同

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『孟子』巻第七離婁章句 七十五節、七十六節

2017-11-21 14:00:58 | 四書解読
七十五節

孟子は言った。
「冉求は魯の卿である季氏の家老になったが、主人の悪徳を改めさせることが出来なかっただけでなく、租税をそれまでの倍にした。そこで孔子は、『冉求は我々の仲間ではない。お前たちよ、陣太鼓を鳴らして彼を攻めたててもよいぞ。』と言われた。これによると、君主が仁政を行わないのを諫めもせずに、ただ財政を富ませるだけの者は、皆孔子に見捨てられる者だ。ましてや、主君の欲を満たすために戦いを起こし、土地を争って戰い、死者で野を満たし、城を争って戰い、死者で城を満たすような者は、なおさらである。これはまるで土地に人の肉を食べさせているようなものだ。その罪は死を以てしても償いきれるものではない。だから戰が上手で、すぐに戦争を引き起こすような者は、極刑にすべきで、諸侯を同盟させて戦争をするような者は、これに次ぐ重い刑にすべきで、荒野を開墾して民に重労働を課すような者は、その次の刑に処すべきである。」

孟子曰、求也為季氏宰、無能改於其德、而賦粟倍他日。孔子曰、求非我徒也。小子鳴鼓而攻之可也。由此觀之、君不行仁政而富之、皆棄於孔子者也。況於為之強戰、爭地以戰、殺人盈野、爭城以戰、殺人盈城。此所謂率土地而食人肉。罪不容於死。故善戰者服上刑、連諸侯者次之、辟草萊、任土地者次之。

孟子曰く、「求や季氏の宰と為り、能く其の德を改めしむる無く、而も粟を賦すること他日に倍せり。孔子曰く、『求は我が徒に非ざるなり。小子、鼓を鳴らして之を攻めて可なり。』此に由りて之を觀れば、君、仁政を行わずして之を富ますは、皆孔子に棄てらるる者なり。況や之が為に強戰し、地を爭いて以て戰い、人を殺して野に盈て、城を爭いて以て戰い、人を殺して城に盈つるに於いてをや。此れ所謂土地を率いて人の肉を食らわすなり。罪、死に容れず。故に善く戰う者は上刑に服し、諸侯を連ぬる者は之に次ぎ、草萊を辟き、土地に任ずる者は之に次ぐ。」

<語釈>
○「求」、趙注:求は孔子の弟子冉求。○「季氏」、季氏は魯の卿、季康子。○「率土地而食人肉」、朱注:人を殺し、其の肝脳をして地に塗らしむ。則ち是れ土地を率いて人の肉を食らわすなり。○「罪不容於死」、朱注:其の罪の大なること、死に至ると雖も、猶ほ以て之を容るるに足らず。

<解説>
孔子曰くの言葉は、孔子の毅然たる態度を見る思いである。服部宇之吉氏は云う、凡て其の君に仁政を行わしむることを務めずして、妄りに其の國の富強を謀るものは、功愈々多くして罪愈々重し、と。

七十六節

孟子は言った。
「人を観察し、その人物を見抜くものとしては、瞳に勝るものはない。瞳はけがれ無きものなので、その人の心の惡を蔽い隠すことはできない。胸の内が正しければ、その瞳は明るく澄んでいる。胸の内が正しくなければ、瞳は暗く沈んでいる。だから、その語る言葉を聞き、その瞳を観察すれば、誰もがその胸の内を隠しきれるものではない。」

孟子曰、存乎人者、莫良於眸子。眸子不能掩其惡。胸中正、則眸子瞭焉。胸中不正、則眸子眊焉。聽其言也、觀其眸子、人焉廋哉。

孟子曰く、「人を存する者は、眸子より良きは莫し。眸子は其の惡を掩うこと能わず。胸中正しければ、則ち眸子瞭(あきらか)らかなり。胸中正しからざれば、則ち眸子眊(くらい)し。其の言を聽きて、其の眸子を觀れば、人焉くんぞ廋(かくす)さんや。」

<語釈>
○「存乎人者」、趙注:「存人」は、人の善悪を存在するなり。これを受けて、焦循の『孟子正義』は、「存」を以て「在」の義に解し、「在」を以て「察」の義に解し、蓋し人の善悪を察するなりと云う。朱子を始めとして異説が有るが、採らない。

<解説>
目は誠に心の鏡である。幼子の目は澄んでいてとても綺麗だが、大人になるにつれて汚く濁っていく。いつまでも澄んだ目でいたいものである。

『呂氏春秋』巻第十二季冬紀

2017-11-14 10:24:13 | 四書解読

巻十二 季冬紀

一 季冬

一に曰く。季冬の月。日は婺(ブ)女に在り、昏に婁中し、旦氐中す。其の日は壬癸、其の帝は顓頊、其の神は玄冥、其の蟲は介、其の音は羽、律は大呂に中たる。其の數は六、其の味は鹹、其の臭は朽。其の祀は井(底本は「行」に作るが、孟冬紀により、「井」に改める)、祭るには腎を先にす。鴈北に鄉い、鵲(かささぎ)始めて巢くい、雉雊(なく)き雞乳す(卵を生む意)。天子、玄堂の右個に居り、玄輅に乘り、鐵驪を駕し、玄旂を載て、黑衣を衣、玄玉を服び、黍と彘とを食らう。其の器は宏にして以て弇なり。有司に命じて大いに儺(ダ、おにやらい)し、旁く磔し(「旁」はあまねく、「磔」は四方の門に犠牲の犬を磔にすること)、土牛を出だして(高注:耕を勸むるの土牛を東門の外に出だす)、以て寒氣を送る。征鳥厲疾なり(高注:「征」は猶ほ「飛」なり、「厲」は「高」なり)。乃ち畢く山川の祀りを行い、帝の大臣、天地の神祇に及ぶ(「神」は天の神、「祇」は地の神)。是の月や、漁師に命じて始めて漁せしむ。天子親ら往き、乃ち魚を嘗め、先づ寢廟に薦む。冰方に盛んに、水澤も復んなり(高注:「復」も亦た「盛」なり)。命じて冰を取らしむ。冰已に入れば、令して民に告げ、五種を出ださしめ、司農に命じて、耦耕の事を計り、耒耜を修め、田器を具えしむ。樂師に命じて、大いに吹を合わせしめて罷む。乃ち四監に命じて、薪柴を收秩せしめ(四監とは、周制、天子の畿方千里の内、分かちて百縣と為す、縣に四郡有り、郡に一大夫有り、之を監しむ、故に四監に命じて薪柴を収掌せしむ)、以て寢廟及び百祀の薪燎(かがり火)に供す。是の月や、日、次(十二次、日と月が交会する宿)に窮まり、月、紀に窮まり、星、天を迴り、數、將に終わりに幾からんとし、歲、將に更始せんとす。農民に專らにして、使う所有ること無かれ。天子乃ち卿大夫と國典を飭え、時令を論じ、以て來歲の宜しきを待つ。乃ち太史に命じて、諸侯の列を次し、之に犧牲を賦せしめ、以て皇天・上帝・社稷の享に供す。乃ち同姓の國に命じて、寢廟の芻豢を供せしむ(高注:牛・羊を芻と曰い、犬・豕を豢と曰う)。宰に令して卿大夫より庶民に至るまでの土田の數を歷(かぞえる)えて、之に犧牲を賦せしめ、以て山林名川の祀に供す。凡そ天下九州に在るの民は、咸其の力を獻ぜざるは無く、以て皇天・上帝・社稷・寢廟・山林・名川の祀に供す。是の令を行う、此を一終と謂う。三旬二日(この句のみでは解釈できない事から、脱文があるとされている)。季冬に秋の令を行えば、則ち白露蚤に降り、介蟲妖を為し、四鄰入りて保ず(高注:四境の民、城郭に入りて、以て自ら保守するなり)。春の令を行えば、則ち胎夭(お腹の子と乳幼児)多く傷われ、國に固疾(難病)多し。之を命けて逆と曰う。夏の令を行えば、則ち水潦、國を敗り、時雪降らず、冰凍消釋(「消釋」の義は、とける)す。

二 士節

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『孟子』巻第七離婁章句上 七十三節、七十四節

2017-11-04 10:02:59 | 四書解読
七十三節

孟子は言った。
「臣下として主君に信頼されないようでは、民の信頼を得て治める事は出来ない。主君に信頼されるには道が有る。すなわち友に信頼されないようでは、主君の信頼を得ることはできない。友の信頼を得るには道が有る。親に仕えて悦ばれないようでは、友の信頼を得ることはできない。親に悦ばれるには道が有る。わが身を反省して誠が無いようでは、親に悦ばれない。わが身を誠にするには道が有る。何が善であるか明確に知らなければ、我が身を誠にすることはできない。だから誠は天の道なのであり、その誠を求めようとするのが人の道なのである。誠を尽くして感動しない人はいないし、誠ならずして人を感動させる者もいないのである。」

孟子曰、居下位而不獲於上、民不可得而治也。獲於上有道。不信於友、弗獲於上矣。信於友有道。事親弗悅、弗信於友矣。悅親有道。反身不誠、不悅於親矣。誠身有道。不明乎善、不誠其身矣。是故誠者、天之道也。思誠者、人之道也。至誠而不動者、未之有也。不誠、未有能動者也。

孟子曰く、「下位に居りて、上に獲られざれば、民得て治む可からざるなり。上に獲らるるに道有り。友に信ぜられずんば、上に獲られず。友に信ぜらるるに道有り。親に事えて悅ばれずんば、友に信ぜられず。親に悅ばるるに道有り。身に反して誠ならずんば、親に悅ばれず。身を誠にするに道有り。善に明らかならずんば、其の身に誠ならず。是の故に誠は、天の道なり。誠を思うは、人の道なり。至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり。誠ならずして、未だ能く動かす者有らざるなり。」

<語釈>
○「至誠而不動者、未之有也」、服部宇之吉氏云う、至誠を以て人に接すれば、之に感動せざる者無し。

<解説>
この節の結論は、「是の故に誠は、天の道なり。誠を思うは、人の道なり。」と述べられている通りであるが、孟子の思想と『中庸』との関連性を指摘する際によく引用される節である。冒頭の「下位に居りて~其の身に誠ならず。」までの文章は『中庸』の第十八節とほぼ同分であり、その下文は第十九節と同分である。『中庸』の本文を読まれたい方は私のホームページにアクセスしてください。http://gongsunlong.we¬b.fc2.com/

七十四節

孟子は言った。
「あの清廉の士で知られる伯夷は暴虐の殷の紂王を避けて、北海のほとりに住んでいたが、周の文王が仁政を行うと聞いて、『さあ、周の文王に見よ寄せようではないか。文王は年寄りを大切に養ってくれるそうだ。』と言った。又太公望も紂王を避けて、東海のほとりに住んでいたが、文王のうわさを聞いて、『さあ、周の文王に見よ寄せようではないか。文王は年寄りを大切に養ってくれるそうだ』と言った。この伯夷と太公望とは、誰もが認める天下の大長老であり、この二人が文王に身を寄せたのである。天下の父ともいうべき二人が文王に帰服したのであるから、その子である人民は他のどこへ行くだろうか。今、もし諸侯の中で文王のような仁政を行うものが有れば、七年の内には、必ず天下を治める事になるであろう。」

孟子曰、伯夷辟紂、居北海之濱。聞文王作興、曰、盍歸乎來。吾聞西伯善養老者。太公辟紂、居東海之濱。聞文王作興、曰、盍歸乎來。吾聞西伯善養老者。二老者、天下之大老也。而歸之。是天下之父歸之也。天下之父歸之、其子焉往。諸侯有行文王之政者、七年之內、必為政於天下矣。

孟子曰く、「伯夷は紂を辟けて、北海の濱に居る。文王作興すと聞き、曰く、『盍ぞ歸せざるや。吾聞く、西伯は善く老を養う者なり、と。』太公は紂を辟けて、東海の濱に居る。文王作興すと聞き、曰く、『盍ぞ歸せざるや。吾聞く、西伯は善く老を養う者なり、と。』二老者は、天下の大老なり。而して之に歸す。是れ天下の父、之に歸するなり。天下の父、之に歸せば、其の子は焉にか往かん。諸侯に文王の政を行う者有らば、七年の內、必ず政を天下に為さん。」

<語釈>
○「伯夷」、孤竹の国の人、弟の叔齊と共に清廉潔白の士として知られる伝説上の人物。○「盍歸乎來」、「盍」は、何ぞ~せざる、「來」は「哉」に通じて、疑問の終助詞、~や、~か。○「西伯」、朱注:西伯は即ち文王なり、紂命じて西方諸侯の長為えい、征伐を專らにするを得しむ、故に西伯と稱す。

<解説>
趙岐の章指に云う、
「老を養い賢を尊ぶは、國の上務なり、文王之に勤め、二老遠きより至る。父來たり子從うは、天の順道なり、七年政を為めて、以て諸侯に勉めしめ、善を行うを庶幾わしめんと欲す。」