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『呂氏春秋』巻第二十五似順論

2018-06-25 10:12:05 | 四書解読

巻二十五 似順論

一 似順

一に曰く。事、倒に似て順なるもの多く、順に似て倒なるもの多し。順の倒為る、倒の順為るを知る者有れば、則ち與に化を言う可し。至長の短に反り、至短の長に反るは、天の道なり。荊の莊王、陳を伐たんと欲し、人をして之を視しむ。使者曰く、「陳は伐つ可からざるなり。」莊王曰く、「何の故ぞ。」對えて曰く、「城郭高く、溝洫(コウ・キョク、堀)深く、蓄積多ければなり。」寧國曰く、「陳は伐つ可きなり。夫れ陳は小國なり、而るに蓄積多きは、賦斂重ければなり。則ち民、上を怨む。城郭高く、溝洫深ければ、則ち民力罷る。兵を興して之を伐てば、陳は取る可きなり。」莊王、之を聽き、遂に陳を取る。田成子の國を有ちて今に至るを得る所以の者は、兄有り完子と曰い、仁にして且つ勇有ればなり。越人、師を興し田成子を誅せんとして曰く、「奚の故に君を殺して國を取る。」田成子、之を患う。完子、士大夫を率いて以て越の師を逆えんことを請う。必ず戰わんことを請い、戰えば必ず敗れんことを請い、敗るれば必ず死せんことを請う。田成子曰く、「夫れ必ず越と戰うは可なり。戰えば必ず敗れ、敗るれば必ず死せんとは、寡人疑う。」完子曰く、「君の國を有つや、百姓、上を怨み、賢良にして又死有るの臣恥を蒙る。完を以て之を觀れば、國已に懼れり。今、越人師を起こし、臣之と戰い、戰いて敗るれば、賢良盡く死し、死せざる者も敢て國に入らず。君、諸孤と國に處らば、臣を以て之を觀るに、國必ず安からん。」完子行き、田成子泣きて之を遣る。夫れ死敗は、人の惡む所なり。而るに反って以て安しと為す。豈に一道ならんや。故に人主の聽く者と士の學ぶ者とは、博からざる可からず。尹鐸、晉陽を為め、下りて趙簡子に請うこと有り。簡子曰く、「往きて夫の壘を夷げよ。我將に往かんとす。往きて壘を見るは、是れ中行寅と范吉射とを見るなり。」鐸往きて之を增す。簡子上りて晉陽に之き、壘を望見して怒りて曰く、「譆。鐸や我を欺けり。」是に於て乃ち郊に舎し、將に人をして鐸を誅せんとす。孫明進みて諫めて曰く、「臣を以て之を私うに(高注:「私」は「惟」なり)、鐸は賞す可きなり。鐸の言固より曰く、『樂しみを見れば則ち淫侈し、憂いを見れば則ち諍治(諫止)す。此れ人の道なり。今、君、壘を見て憂患を念う。而るを況んや群臣と民とをや。夫れ國に便にして主に利なれば、罪を兼ぬと雖も、鐸は之を為さん。』夫れ令に順いて以て容を取る者は(高注:「容」は「説」なり。言いなりになること)、衆之を能くす。而るを況んや鐸をや。君其れ之を圖れ。」簡子曰く、「子の言微かりせば、寡人幾んど過たんとす。」是に於て乃ち難を免がれしの賞を以て尹鐸を賞す。人主、太上は喜怒必ず理に循う。其の次は、理に循わざれば、必ず數々更む。未だ大賢に至らずと雖も、猶ほ以て濁世を蓋うに足る。簡子は此に當たれり。世主の患は、知らざるを恥ぢて自ら用うることを矜り、愎過(過ちを押し通すこと)を好みて聽諫を惡み、以て危うきに至るなり。恥は危うきより大なる者は無し。

二 別類


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『孟子』巻第八離廔章句下 百十七節、百十八節

2018-06-21 10:31:08 | 四書解読
百十七節

孟子は言った。
「君子が凡人と異なる点は、その本心を失わずに保ち続けるところにある。そして君子は仁と禮とを修めてその本心を保つのである。仁者は人を愛し、礼儀正しい人は他人を敬う。人を愛する者は人からも恒に愛され、人を敬う者は人からも恒に敬われる。今、ここに一人の人がいて、その人が自分に対して無理非道なふるまいをしたとしても、君子たる者は、その人を非難するのではなく、必ず、私が仁に欠けており、礼を失していたからに違いない。そうでなければ、こんなことが起こるはずがない、と自らを省みるのである。だが反省してみても、仁も礼も何ら欠ける所がないのに、やはり無理非道なふるまいが続いたとしたら、君子たる者は、必ず振り返って、真心が足りなかったのだ、と反省する。だが反省して、真心を尽くしていると思えるのに、やはり無理非道が続くようなら、そこではじめて、君子は、この男はでたらめな人間なのだ。これでは鳥や獣とどこが違うのだ。鳥や獣では非難しても仕方がない、と断定する。このようであるから、君子には生涯を通じての憂いはあっても、偶然起こる一時的な患いなどはない。その君子の生涯を通じての憂いというのは、舜も人間だ、私も人間だ。だが舜は天下に模範を示し、後世に伝えたが、私は未だに単なる村人にしか過ぎない、というような自分の至らないことへの憂いである。これこそが本当に憂うべきことである。それならこの憂いにはどう対処すればよいのだろうか。ほかでもない、舜のようになることだ。そうなれば、もはや心を煩わされ患うることはない。なぜなら仁に悖ることはなさない、礼に悖ることは行わないのであって、偶然起こる一時的な患いなどあっても、君子はそんなこと少しも患いなどとは思わないのである。」

孟子曰、君子所以異於人者、以其存心也。君子以仁存心、以禮存心。仁者愛人、有禮者敬人。愛人者人恒愛之、敬人者人恒敬之。有人於此、其待我以横逆、則君子必自反也。我必不仁也、必無禮也。此物奚宜至哉。其自反而仁矣。自反而有禮矣。其横逆由是也、君子必自反也。我必不忠。自反而忠矣,其横逆由是也、君子曰、此亦妄人也已矣。如此則與禽獸奚擇哉。於禽獸又何難焉。是故君子有終身之憂、無一朝之患也。乃若所憂則有之。舜人也、我亦人也。舜為法於天下、可傳於後世。我由未免為鄉人也。是則可憂也。憂之如何。如舜而已矣。若夫君子所患則亡矣。非仁無為也。非禮無行也。如有一朝之患、則君子不患矣。

孟子曰く、「君子の人に異なる所以の者は、其の心を存するを以てなり。君子は仁を以て心を存し、禮を以て心を存す。仁者は人を愛し、禮有る者は人を敬す。人を愛する者は、人恒に之を愛し、人を敬する者は、人恒に之を敬す。此に人有り、其の我を待つに横逆を以てすれば、則ち君子必ず自ら反するなり。『我必ず不仁ならん、必ず禮無からん。此の物奚ぞ宜しく至るべけんや。』と。其の自ら反して仁なり。自ら反して禮有り。其の橫逆由ほ是のごとくなるや、君子必ず自ら反するなり。『我必ず不忠ならん。』と。自ら反して忠なり。其の橫逆由ほ是のごとくなるや、君子曰く、『此れ亦た妄人なるのみ。此の如くんば、則ち禽獸と奚ぞ擇ばんや。禽獸に於いて又何ぞ難ぜん。』是の故に、君子には終身の憂い有るも、一朝の患い無きなり。乃ち憂うる所の若きは則ち之れ有り。『舜も人なり、我も亦た人なり。舜は法を天下に為し、後世に傳う可し。我は由ほ未だ鄉人為るを免れざるなり。』是は則ち憂う可きなり。之を憂えば如何にせん。舜の如くせんのみ。夫の君子の若きは、患いとする所は則ち亡し。仁に非ざれば為す無きなり。禮に非ざれば行う無きなり。一朝の患い有るが如きは、則ち君子は患いとせず。」

<語釈>
○「存心」、趙注は、「存」は「在」なり、君子の心に在るのは、仁と禮なり、と解する。伊藤仁斎と中井履軒は、存とは操りて舎かざる意、乃ち本心を失わず保ち続けること、と解す。どちらを採用するか悩む所であるが、後説を採用しておく。○「横逆」、朱注:横逆は、強暴にして、理に順わざるを謂う。無理非道の意。○「不忠」、この「忠」は忠臣などの「忠」ではない。字義本来の、まごころ、まことなどの意味。○「妄人」、でたらめな人。

<解説>
人間、生涯を通じて道を全うすることが出来るか、という生き方の問題こそ、本来患うべきことで。日常の枝葉末節に煩わされてはいけない。そのような境地に達するには、仁を為し、礼を行うことに勉めることである、というのがこの節の趣旨であろう。

百十八節

昔、禹や稷は太平の世に生まれたにもかかわらず、人民のために奔走し、公務に励み、しばしば我が家の門前を通り過ぎながら、中に入って休もうとはしなかった。孔子は彼らを称賛して賢者であると言った。孔子の弟子の顔回は乱世の世に生まれ、裏長屋に住み、ひとわんの飯に、一杯の飲み物という生活で、普通の人には耐えられないような貧乏な生活を送っていたが、それを改めず、自分の道を楽しんでいた。孔子は彼を称賛して賢者であると言った。これについて孟子は言った。
「禹・稷・顏回もそれぞれの行動は異なっているが、その根本の道は同じである。禹は治水の責任者であったので、河川の氾濫などで天下に溺れる者が一人でもいれば、自分が溺れさせたかのように責任を感じた。稷は農耕の責任者であったので、天下に一人でも飢える者がいれば、自分が飢えさせているかのように思った。このように溺れたり飢えたりしている者がいるのは自分の責任であると思っていたので、家にも寄らずに忙しく奔走していたのである。禹・稷・顏回の三人はたとえ立場を入れ替えたとしても、やはり同じことをしたであろう。たとえば同室の者が喧嘩を始めたら、これを引き止めるためには、髪を振り乱し、冠の紐を結ぶ暇もなく、仲裁に入っても差支えはない。だが村で喧嘩が始まった時、村には責任者がいるのに、髪を振り乱し、冠の紐も結ばずに仲裁に駆けつけるのは、本筋から離れており、家の戸を閉じて引っ込んでいるほうがよいのである。」

禹稷當平世、三過其門而不入。孔子賢之。顏子當亂世、居於陋巷、一簞食,一瓢飲。人不堪其憂、顏子不改其樂。孔子賢之。孟子曰、禹稷顏回同道。禹思天下有溺者、由己溺之也。稷思天下有飢者、由己飢之也。是以如是其急也。禹稷顏子易地則皆然。今有同室之人鬬者、救之、雖被髮纓冠而救之、可也。鄉鄰有鬬者、被髮纓冠而往救之、則惑也。雖閉戶可也。

禹・稷は平世に當りて、三たび其の門を過ぐれども入らず。孔子、之を賢とす。顏子、亂世に當りて、陋巷(ロウ・コウ)に居り、一簞の食、一瓢の飲のみ。人は其の憂いに堪えざるも、顏子は其の樂しみを改めず。孔子、之を賢とす。孟子曰く、「禹・稷・顏回は道を同じくす。禹は天下に溺るる者有れば、由ほ己が之を溺らすがごとしと思えり。稷は天下に飢うる者有れば、由ほ己が之を飢えしむるがごとしと思えり。是を以て是の如く其れ急なり。禹・稷・顏子は地を易うれば則ち皆然り。今、同室の人の鬬う者有れば、之を救うこと、被髮纓冠して之を救うと雖も、可なり。鄉鄰に鬬う者有りて、被髮纓冠して往きて之を救わば、則ち惑いなり。戸を閉づと雖も可なり。」

<語釈>
○「三過」、言葉通りの三回ではなく、しばしばの意。○「顏子」、孔子の弟子の顔回。○「陋巷」、うらながや。○「被髮纓冠」、被髮は、髪を束ねず振り乱した状態を言う、纓は冠の紐の意で、纓冠、諸説有るが、紐を結ぶ暇もないという意味に解釈しておく。

<解説>
人にはそれぞれ立場や職責があり、それによって実際の行動は異なるが、「禹・稷・顏子は地を易うれば則ち皆然り。」と述べられているように、賢者はその職責を入れ替えたとしても、同じように人民の為に職務を全うする。それは守るべき根本の道が同じであるからである。

『史記』田儋列伝

2018-06-15 10:29:17 | 四書解読
田儋は、狄の人なり。故に齊王田氏の族なり。儋の從弟田榮・榮の弟田橫、皆豪にして、宗彊く、能く人を得たり。陳涉の初めて起こりて楚に王たるや、周市をして魏の地を略定せしめ、北のかた狄に至る。狄、城守す。田儋詳わりて其の奴を縛るを為し、少年を從えて廷に之き、謁て奴を殺さんと欲す(集解:服虔曰く、古、を殺すは、皆當に官に告ぐべし、儋、令を殺さんと欲す、故に詐りて奴を縛りて、以て謁ぐるなり)。狄の令を見るや、因りて令を撃殺す。而して豪吏子弟を召して曰く、「諸侯皆秦に反きて自立す。齊は古の建國にして、儋は田氏なり。當に王たるべし。」遂に自立して齊王と為り、兵を發して以て周市を撃つ。周市の軍還り去る。田儋因りて兵を率いて東のかた齊の地を略定す。秦の將章邯、魏王咎を臨濟に圍む、急なり。魏王、救いを齊に請う。齊王田儋、兵を將いて魏を救う。章邯、夜、枚を銜みて撃ち、大いに齊・魏の軍を破り、田儋を臨濟の下に殺す。
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『孟子』巻第八離廔章句 百十六節

2018-06-10 10:11:29 | 四書解読
百十六節

齊の大夫の公行子のところで、子供の葬儀があったとき、右師の王驩が弔問に行った。門を入ると、さっそく進み出てきて挨拶する者も有り、席に就くや、その席まで出かけて行って挨拶する者もいた。ところが孟子だけが王驩と言葉を交わさなかったので、王驩は不快に思い、
「皆さんが私に挨拶してくれたのに、孟先生だけが言葉をかけてくださらないのは、私をないがしろにしているのだ。」
と言った。孟子はそれを聞いて言った。
「礼では、朝廷に於いては席を隔てて言葉を交わさない、堂の階段を隔てておじぎなどの挨拶はしない、というのが定めである。私は礼の定め通りに行動しようとしたに過ぎない。子敖がないがしろにされたと怒るのは、どうもおかしな話ではないか。」

公行子有子之喪。右師往弔。入門、有進而與右師言者。有就右師之位而與右師言者。孟子不與右師言。右師不悅曰、諸君子皆與驩言。孟子獨不與驩言。是簡驩也。孟子聞之、曰、禮、朝廷不歷位而相與言、不踰階而相揖也。我欲行禮、子敖以我為簡。不亦異乎。

公行子、子の喪有り。右師往きて弔す。門に入るや、進みて右師と言う者有り。右師の位に就きて右師と言う者有り。孟子、右師と言わず。右師悅ばずして曰く、「諸君子皆、驩と言う、孟子獨り驩と言わず。是れ驩を簡にするなり。」孟子、之を聞きて曰く、「禮に、『朝廷には位を歷て相與に言わず、階を踰えて相揖ぜず。』と。我、禮を行わんと欲するに、子敖は我を以て簡なりと為す。亦た異ならずや。」

<語釈>
○「公行子、右師」、趙注:公行子は齊の大夫なり、右師は齊の貴臣、王驩、字は子敖。○「簡」、朱注:「簡」は「略」なり。おろそかにする、ないがしろにする意。

<解説>
王驩と孟子の関係は、この節と、三十八節、八十五節に見える。王驩は齊王の寵臣で、それを笠に着ている態度が気に入らず、孟子は王驩を嫌っていた。故に礼にかこつけて言葉を交わさなかったのだろう。趙注に云う、「禮を以てするは、心は子敖を惡みて、外は其の辭を順にするなり。」まさにその通りだろう。

『呂氏春秋』巻第二十四不苟論

2018-06-06 10:19:55 | 四書解読
巻二十四 不苟論

一 不苟

一に曰く。賢者の事うるや、貴ばると雖も苟も為さず。聽かると雖も自ら阿らず。必ず理に中りて然る後動き、必ず義に當りて然る後舉ぐ。此れ忠臣の行いなり。賢主の說ぶ所、而して不肖の主の其の說ばざる所は、其の聲を惡むに非ざるなり。人主、不肖なりと雖も、其の忠臣の聲を説ぶは、賢主と同じきも、其の實を行うは、則ち賢主と異なる有り。異なるが故に其の功名禍福も亦た異なる。異なるが故に子胥、闔閭に説ばれて夫差に惡まれ、比干は生きて商に惡まれ、死して周に説ばる。武王、殷郊に至り、係墮す(「係」は糸や紐をかける意、「墮」はこぼつ意、故に鼻緒の紐が切れたと解す)。五人、前に御し、肯て之を為す莫し。曰く、「吾の君に事うる所以の者は係に非ざるなり。」武王、左に白羽を釋き、右に黃鉞を釋き、勉めて自ら係を為す。孔子、之を聞きて曰く、「此の五人の者の王の為にする所以の者は佐なり。不肖の主の安んぜざる所なり。」故に天子にも細民に勝たざる者有り、天下にも千乘に勝たざる者有り。秦の繆公、戎の由余を見て、說びて之を留めんと欲す。由余肯ぜず。繆公以て蹇叔に告ぐ。蹇叔曰く、「君以て內史廖に告げよ。」內史廖對えて曰く、「戎人は五音と五味とに達せず。君、之を遺るに若かず。」繆公、女樂二八人と良宰とを以て之に遺る。戎王喜び、迷惑大亂し、酒を飲み、晝夜休まず。由余驟々諫むれども聽かず。因りて怒りて繆公に歸すなり。蹇叔、內史廖の為す所を為す能わざるに非ざるなり。其れ義として行わざるなり。繆公能く人臣をして時に其の正義を立てしむ。故に殽の恥を雪ぎ、而して西のかた河雍に至れるなり。秦の繆公、百里奚を相とす。晉は叔虎を使いとし、齊は東郭蹇を使いとし、秦に如かしむ。公孫枝、之を見んと請う。公曰く、「客を見るを請うは、子の事か。」對えて曰く、「非なり。」「相國、子を使しむるか。」對えて曰く、「不らざるなり。」公曰く、「然らば則ち子の事とするは子の事に非ざるなり。秦國は僻陋の戎夷、事、其の任に服し、人、其の事を事とするも、猶ほ諸侯の笑いと為らんことを懼る。今子、子の事に非ざるを為す。退け。將に而の罪を論ぜんとす。」公孫枝出でて、自ら百里氏に敷す。百里奚、之を請う。公曰く、「此れ相國に聞く所か。枝、罪無くば奚ぞ請わん。罪有らば奚ぞ請わん。」百里奚歸り、公孫枝に辭す。公孫枝徙りて、自ら街に敷す。百里奚、吏をして其の罪を行わしむ。分官を定むるは、此れ古人の法を為す所以なり。今、繆公、之に鄉う。其の西戎に覇たること、豈に宜ならずや。晉の文公將に鄴を伐たんとす。趙衰、鄴に勝つ所以の術を言う。文公之を用う。果して勝つ。還り、將に賞を行わんとす。衰曰く、「君將に其の本を賞せんとするか、其の末を賞せんとするか。其の末を賞せば、則ち騎乘の存し、其の本を賞せば、則ち臣、之を郤子虎に聞けり。」文公、郤子虎を召して曰く、「衰、鄴に勝つ所以を言う。鄴既に勝つ。將に之を賞せんとするや、曰く、『蓋し之を子虎に聞けり。請う子虎を賞せよ。』」子虎曰く、「之を言うは易く、之を行うは難し。臣は之を言う者なり。」公曰く、「子、辭すること無かれ。」郤子虎、敢て固辭せず。乃ち受く。凡そ賞を行うは其の博きを欲す。博ければ則ち助多し。今、虎は親しく言う者に非ず、而も賞猶ほ之に及べり。此れ疏遠の者の能を盡くし智を竭くす所以の者なり。晉の文公の亡すること久しく、歸りて大亂の餘に因り、猶ほ能く以て霸たりしは、其れ此に由るか。

二 贊能


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