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『大学』第四章

2012-11-27 10:35:29 | 漢文

    史記の解読はこちら http://www.eonet.ne.jp/~suqin

第一章の第二節で、「家の中を秩序正しく整えようとする者は、それに先立って我が身を善良に修めることに在る。」とあるのは、人は己が親しみ愛している者に対して、自分は何を以て此の人を親愛しているのか、卑しみ憎んでいる人には、何を以て此の人を賤惡しているのか、畏敬している人には、何を以て畏敬しているのか、悲しみ憐れんでいる人には、何を以て哀矜しているのか、軽んじている人には、何を以て敖惰しているのかと、常に人に対する感情を己の心に問いかけ、自分と比べ、誰に対しても、一面的に知るのではなく、善悪含めて理解することが大事である。そのように我が身を修めてこそ、家を和合させることが出来るということなのである。自分が嫌いな人に対しても、進んで其の悪しきとする所を理解するように務め、悪みながらもその善いところを知ろうとする人は、此の広い天下にもわずかである。だから諺にも、「人は、子供への愛情が深ければ、わが子の欠点に気づくことが出来ない。他人をうらやんでばかりいると、自分の苗が大きくなっているのが分からない。」と言っている。このように自分を公平に保つことは難しい。自分が公平でないと、一家の和合は崩れる。だから我が心を公平にし、我が身を善良に修めなければ、その家を秩序正しく和合させることが出来ない、と言うのである。

所謂齊其家在修其身者:人之其所親愛而辟焉,之其所賤惡而辟焉,之其所畏敬而辟焉,之其所哀矜而辟焉,之其所敖惰而辟焉。故好而知其惡,惡而知其美者,天下鮮矣!故諺有之曰:「人莫知其子之惡,莫知其苗之碩。」此謂身不修不可以齊其家。

所謂る其の家を齊うるは其の身を修むるに在りとは、人、其の親愛する所に之きて辟(たとえる)え、其の賤惡する所に之きて辟え、其の畏敬する所に之きて辟え、其の哀矜する所に之きて辟え、其の敖惰する所に之きて辟う。故に好みて其の惡しきを知り、惡みて其の美を知る者は、天下に鮮し。故に諺に之れ有り、曰く、「人は其の子の惡しきを知る莫く、其の苗の碩(おおい)いなるを知る莫し。」此れを身修まらざれば、以て其の家を齊う可からざるを謂う。

<語釈>
○「人之其所親愛而辟焉~」、鄭注に、「之は適なり。辟は猶ほ喩のごときなり。彼に適きて心を以て之を度りて、曰く、『吾、何を以て此の人を親愛するや。其の徳の美有るを以てに非ざるか。吾、何を以て此の人に敖惰するや。其の志行の薄きを以てに非ざるか。』反りて以て己に喩うれば、則ち身の修まると否と、自ら知る可きなり。」○「賤惡」、いやしみにくむ。○「哀矜」、かなしみあわれむ。○「敖惰」、軽んじ怠る。

<解説>
家を治めようとすれば、家人に対して常に公平でなければならない。しかし人は親愛・賤惡・畏敬・哀矜・敖惰等の感情に左右されて、心を公平に保つことは難しい。故に身を修めて、公平な心を保つことに務めなければならない。その為には、己の感情を制さなければならない。前節の「我が身を善良に修めようとする者は、それに先立って心を正しくするに在る。」も同じく感情を制すべきことを言っており、其の身を修めるとは、己の心を制することが出来るように修得することとも言えるだろう。
更に人との付き合いに於いて、嫌いな人に対しても、其の嫌いなところを理解することに務め、善い所を見つけようとすることが大事であると述べているが、其れを実践できる人は少ない。しかし少しでもそのように勤めようとする人が増えれば、世の中の争いごとは減少するであろう。