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『孟子』巻第四公孫丑章句下 三十九節 四十節

2017-01-28 10:45:09 | 四書解読
三十九節

孟子は齊に仕えていたが、母が亡くなったので魯に還り、葬儀を済ませて齊に戻る途中に、齊の領内の嬴という町に滞在した。その時弟子の充虞が尋ねた、
「先日はふつつかな私にもかかわらず、棺を作る仕事をお申しつけになりました。その時疑問に思うことが有ったのですが、何分葬儀の事で忙しく、お尋ねすることが出来ませんでした。今日は是非お教え願いたいのですが、棺に使用した木材が少し立派すぎたのではないでしょうか。」
「大昔には内棺も外棺も決まりごとはなかった。中古の周になってから、内棺の厚さは七寸と定められ、外棺の厚さもそれに見合うものになり、それは天子から庶民に至るまで皆同じであった。立派な棺を作るのは、唯だ単に外観を立派にするだけでなく、亡き親に対する気持ちを十分尽くせるからだ。法律により身分の差で葬儀の内容を制限されたりしたら、親への気持ちが十分尽くせず満足できない。又財産がなくて作れなければ満足できない。制度上も許され且つ財産も有れば、昔の人は皆立派に作ったものなのだ。私一人がどうしてそうせずにおられようか。更に埋葬した親の肉体が土に還る日まで、出来る限り土を近づけないようにすることは、子の気持ちとして親への思いを十分に尽くしたと満足させることにならないだろうか。私はこういうことを聞いたことがある、『君子は天下の為だからと言って、親の喪に倹約はしないものだ。』と。」

孟子自齊葬於魯。反於齊、止於嬴。充虞請曰、前日不知虞之不肖、使虞敦匠。事嚴。虞不敢請。今願竊有請也。木若以美然。曰、古者棺槨無度。中古棺七寸。槨稱之。自天子達於庶人。非直為觀美也,然後盡於人心。不得、不可以為悅。無財、不可以為悅。得之為有財、古之人皆用之。吾何為獨不然。且比化者、無使土親膚、於人心獨無恔。吾聞之、君子不以天下儉其親。

孟子、齊自り魯に葬むる。齊に反り、嬴に止まる。充虞、請いて曰く、「前日は虞の不肖なるを知らず、虞をして匠を敦(おさめる)めしむ。事は嚴なり。虞、敢て請わず。今願わくは竊かに請うこと有らん。木以(はなはだ)だ美なるが若く然り。」曰く、「古者は棺槨度無し。中古は棺七寸。槨、之に稱う。天子自り庶人に達す。直に觀の美を為すに非ざるなり。然る後人の心を盡くすなり。得ざれば、以て悅びを為す可からず。財無ければ、以て悅びを為す可からず。之を得ると財有ると、古の人皆之を用う。吾何為れぞ獨り然らざらん。且つ化するときの比まで、土をして膚に親しましむる無きは、人の心に於いて獨り恔(こころよし)きこと無からんや。吾之を聞く、『君子は天下を以て其の親に儉せず。』」

<語釈>
○「自齊葬於魯」、趙注:孟子、齊に仕え、母を喪くし、葬に魯に歸る。○「敦匠」、趙注:敦匠は厚く棺を作るなり。「敦」は“おさめる”と訓じ、「匠」は棺の義。○「事嚴」、喪事、急なり。○「棺槨」、「棺」は、内棺、「槨」は外棺。○「不得~無財~」、服部宇之吉博士云う、國法の定むる所により斯々の身分には斯々の葬儀を営むことを得ずと云えば、孝子たるもの其の心に満足すること能わず、若し國法上にも差障りなく幸いに相応の資財もあらば、誰人も皆十分の葬儀を営まんと欲するなり。「財」の解釈については、資財でなく、木材と解する説もある。○「比化者」、趙注:親の體の変化するときの比まで。土に還る日までという意味。

<解説>
親の葬儀を子としてどの程度の内容にするかは、昔も今も変わらぬ大切な事である。直に觀の美を為すに非ざるなり。然る後人の心を盡くすなり、と述べられているように、残された人の心の問題である。

四十節

齊の大臣の沈同が孟子に個人的に尋ねた、
「燕は伐ってもよろしいでしょうか。」
孟子は答えた、
「よろしいとも。燕王の子噲は天子の命を受けずに勝手に國を人に与えることは出来ないし、大臣の子之も天子の命も無く、勝手に國を譲り受けてはならないのである。仮に家臣がいて、その者を大層気に入り、王様に何も話さず、勝手に王様から与えられている俸禄や爵位をその者に与え、その者も王様の命も無いのに受取るようなことは、許されるだろうか。子噲が国を譲り、子之が受けたのも、どうしてこれと違いがあるでしょうか。」
その後、齊は遂に燕を伐った。そこである人が孟子に尋ねた、
「先生が齊に燕を伐つことを勧めたというのは、本当でしょうか。」
「そのようなことはない。沈同が、燕を伐ってもよろしいか、と尋ねたので、よろしい、と答えたのです。それで彼は燕を伐ったのです。もし彼が、どういう人なら伐ってもよいのか、と尋ねれば、私は、天から使命を受けている天子ならば、伐ってもよろしい、と答えるつもりでした。今、人を殺した者が居り、誰かがこの犯人は殺してもよいか、と尋ねたならば、私は、よろしい、と答えるでしょう。もし、どのような資格のある者ならば、殺してよいのか、と尋ねられたら、裁判官なら殺してもよい、と答えるであろう。今、燕と変わらない無道な政をしている齊が燕を伐つ、どうして私がそんなことを勧めるものですか。」

沈同以其私問曰、燕可伐與。孟子曰、可。子噲不得與人燕。子之不得受燕於子噲。有仕於此。而子悅之、不告於王而私與之吾子之祿爵、夫士也、亦無王命而私受之於子、則可乎。何以異於是。齊人伐燕。或問曰、勸齊伐燕、有諸。曰、未也。沈同問、燕可伐與。吾應之曰可。彼然而伐之也。彼如曰孰可以伐之。則將應之曰、為天吏、則可以伐之。今有殺人者、或問之曰、人可殺與、則將應之曰、可。彼如曰、孰可以殺之、則將應之曰、為士師、則可以殺之。今以燕伐燕。何為勸之哉。

沈同、其の私を以て問いて曰く、「燕伐つ可きか。」孟子曰く、「可なり。子噲は人に燕を與うることを得ず。子之は燕を子噲に受くることを得ず。此に仕うるもの有り。而して子、之を悅び、王に告げずして、私に之に吾子の祿爵を與え、夫の士や、亦た王命無くして、私に之を子に受けなば、則ち可ならんか。何を以て是に異ならんや。」齊人、燕を伐つ。或ひと問いて曰く、「齊に勸めて燕を伐たしむと、諸れ有りや。」曰く、「未だし。沈同、燕伐つ可きか、と問う。吾之に應えて曰く、『可なり。』彼然り而して之を伐てるなり。彼如し『孰か以て之を伐つ可き。』と曰わば、則ち將に之に應えて、『天吏為らば、則ち以て之を伐つ可し。』と曰わんとす。今、人を殺す者有り、或ひと之を問いて、『人は殺す可きか。』と曰わば、則ち將に之に應えて曰わんとす、『可なり。』彼如し『孰か以て之を殺す可き。』と曰わば、則ち將に之に應えて曰わんとす、『士師為らば、則ち以て之を殺す可し。』今、燕を以て燕を伐つ。何為れぞ之を勸めんや。」

<語釈>
○「沈同」、趙注:沈(シン)同は齊の大臣なり。○「子噲~燕於子噲」、趙注:子噲は燕王なり、子之は燕の相なり、孟子、可なりと曰うは、子噲、天子の命を以てせずして、擅に國を以て子之に與え、子之も亦た天子の命を受けずして、私に國を子噲に受けしを以てなり。○「天吏」、二十八節に既出、天命を奉じている天子のこと。○「士師」、十三節に既出、獄官、裁判官のこと。

<解説>
三十七節で、孟子の狡さを述べたが、この節もそれが窺える。齊が燕を伐ち、それが孟子の勧めであるという噂が立ってから、誰が討伐してもよいかと聞かなかったから、よろしいと答えたのであって、齊が伐つ事を認めたわけでもなく、まして勧めたりしないなどと言い訳するのは、まことに見苦しく且つ狡い。この当時、燕の無道は知れ渡り、齊が燕を伐つのは自明の理のようなものであった。故に沈同の言葉には、そのような内容も含まれていると解するのは自然の事であり、それがはっきりしないのならば、教条的な返答をするのでなく、孟子自身が明らかにすることである。
子噲が子之に國を讓る話は、詳しく書けば長くなるので、興味のある方は、私のホームページ(http://www.eonet.ne.jp/~suqin)から、『史記』の燕召公世家の318年の条と『戦国策』巻第二十九の燕策一の四百三十七節を参照してほしい。

『孟子』巻第四公孫丑章句下 第三十七節、第三十八節

2017-01-21 10:30:13 | 四書解読
三十七節

孟子は齊の大夫蚔鼃に向かって言った、
「あなたが靈丘の役人を辞して、諫官を希望されたのは、道理にかなった真に結構な事ですね。王様に直接意見を具申する職責ですから。そこで、あなたがこの官に就かれて数か月たちましたが、まだ王様に申し上げることは何もないのですか。」
蚔鼃はこの忠告に因り、早速王様を諫めたが、容れられず、職を辞して去った。齊の人々は言った、
「蚔鼃の為にあのような忠告をしたのは善い事であるが、孟先生はどうされるおつもりなのか、分かったものではない。」
これを聞いた弟子の公都子は孟子に告げると、孟子は言った、
「私は、官に就いている者が、その職責を果たすことが出来なければ辞職し、意見を述べる立場に在る者が、その意見を用いられなければ辞職するものだと、聞いている。私は官職についているわけでもなく、意見を述べる職責があるわけでもない。だから私の進退はそのような事に縛られずに、余裕綽々であってよいはずである。」

孟子謂蚔鼃曰、子之辭靈丘而請士師、似也。為其可以言也。今既數月矣、未可以言與。蚔鼃諫於王而不用。致為臣而去。齊人曰、所以為蚔鼃、則善矣。所以自為、則吾不知也。公都子以告。曰、吾聞之也。有官守者、不得其職則去、有言責者、不得其言則去。我無官守、我無言責也。則吾進退、豈不綽綽然有餘裕哉。

孟子、蚔鼃(チ・ア)に謂いて曰く、「子の靈丘に辭して士師を請うは、似たり。其の以て言う可きが為なり。今、既に數月なり。未だ以て言う可からざるか。」
蚔鼃、王を諫めて用いられず。臣為ることを致して去る。齊人曰く、「蚔鼃の為にする所以は、則ち善し。自ら為にする所以は、則ち吾知らざるなり。」公都子、以て告ぐ。曰く、「吾、之を聞く。官守有る者は、其の職を得ざれば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ざれば則ち去る、と。我、官守無く、我、言責無きなり。則ち吾が進退は、豈に綽綽然として餘裕有らずや。」

<語釈>
○「士師」、趙注:獄を治める官。十三節に既出、ここでは司法長官の役割より、諫言を主とした職務を言っている。○「似也」、朱注:似也は、言の為す所、理有るに近似す。言うことが道理にかなっているという意味。○「綽綽然」、ゆとりのある貌。余裕綽々という言葉の典拠である。

<解説>
解説する必要性はないと思うが、私には孟子の態度は狡く感じられる。

三十八節

孟子が齊の客卿だったとき、王命により滕君の喪を弔いに出かけた。蓋の大夫王驩が補佐を務めた。王驩は孟子を正使として立てて、朝夕の挨拶をかかさなかったが、齊と滕を往復する間、孟子は一度も王驩と使者の仕事について話し合わなかった。そこで弟子の公孫丑が尋ねた、
「先生の齊の卿という地位は決して低いものではありません。齊と滕の間の道のりも決して近いものではありません。それなのにこの往復の間に使命について王驩と一度も話し合おうとされなかったのは、何故でございますか。」
「あの男が何もかも知っていて独断で行っているようなので、私は何も言う必要はないではないか。」

孟子為卿於齊。出弔於滕。王使蓋大夫王驩為輔行。王驩朝暮見。反齊滕之路、未嘗與之言行事也。公孫丑曰、齊卿之位、不為小矣。齊滕之路、不為近矣。反之而未嘗與言行事、何也。曰、夫既或治之。予何言哉。

孟子、齊に卿為り。出でて滕に弔す。王、蓋の大夫王驩をして輔行為らしむ。王驩、朝暮に見ゆ。齊滕の路を反し、未だ嘗て之と行事を言わざるなり。公孫丑曰く、「齊卿の位は、小と為さず。齊滕の路は、近しと為さず。之を反して未だ嘗て與に行事を言わざるは、何ぞや。」曰く、「夫れ既に之を治むる或り。予何をか言わんや。」

<語釈>
○「孟子為卿於齊」、この卿は家臣の卿でなく、賓客として卿の待遇を受けている。客卿である。○「輔行」、副使。

<解説>
文章そのものは難しい箇所もなく、平易な文であるが、その趣旨は大雑把すぎてよく分からない。何故孟子は王驩と口を聞くのを嫌ったのか。それについて、趙注は云う、王驩は齊の諂人なり、王に寵有り、後に右師と為る、孟子、其の人と為りを悦ばずして、與に使いを同じくして行くと雖も、未だ嘗て之と言わず、と。

『春秋左氏伝』巻第十一定公下

2017-01-14 10:13:26 | 四書解読
定公下

『經』
 ・八年(前502年)、春、王の正月、公、齊を侵す。
 ・公、齊を侵す自り至る。
 ・二月、公、齊を侵す。
 ・三月、公、齊を侵す自り至る。
 ・曹の伯露、卒す。
 ・夏、齊の國夏、師を帥いて我が西鄙を伐つ。
 ・公、齊の師に瓦に會す。
 ・公、瓦自り至る。
 ・秋、七月戊辰、陳侯柳、卒す。
 ・晉の士鞅、師を帥いて鄭を侵す。
 ・曹の靖公を葬る。
 ・九月、陳の懐公を葬る。
 ・季孫斯・仲孫何忌、師を帥いて衛を侵す。
 ・冬、衛侯・鄭伯、曲濮に盟う。
 ・先公を從祀す(杜注:「従」は順、先公は、閔公・僖公なり、将に二公の位次を正さんとす。昭穆の制で、閔公の上に僖公を置いていたのを、入れ替えて位次を正した)。
 ・盗、寶玉・大弓を竊む。

続きはホームページで、http://gongsunlong.web.fc2.com/

『孟子』巻第四公孫丑章句下 三十五節、三十六節

2017-01-08 12:09:07 | 四書解読
三十五節

弟子の陳臻が尋ねた、
「以前、齊では王様が良質の金を百鎰も下されましたが、先生は受け取られず、その後、宋では七十鎰を送られて受け取り、薛でも五十鎰を送られて受け取られました。先の齊でお受け取りにならなかったのが正しいならば、今回、お受け取りになったのは正しくないということになります。今回、お受けになったのが正しいならば、齊に対してお断りになったのは正しくないということになります。先生はどちらが正しいと思っておられるのでしょうか。」
孟子は答えた、
「どちらも正しいのだ。宋の場合、私は遠方に出かけようとしていた。旅立つ者には必ず餞別を送る者だ。使者が来て餞別を送る、と言ったのだ。どうして受け取らずにおられようか。薛の場合、身辺の危険を感じて警戒をしていた時で、その時に使者が来て、身辺を警戒しておられるとのこと、武器を調達するなどの軍資金としてさしあげる、と言ったのだ。どうして受け取らずにおられようか。ところが齊の場合、特にお金を送られる必要性がなかった。必要性もないのにお金を送るのは、私を取り込もうとする下心があるからだ。どうして君子たる者が、賄賂で買収されて言いなりになることが出来ようか。」

陳臻問曰、前日於齊、王餽兼金一百而不受。於宋、餽七十鎰而受。於薛、餽五十鎰而受。前日之不受是、則今日之受非也。今日之受是、則前日之不受非也。夫子必居一於此矣。孟子曰、皆是也。當在宋也、予將有遠行。行者必以贐。辭曰、餽贐。予何為不受。當在薛也、予有戒心。辭曰、聞戒。故為兵餽之。予何為不受。若於齊、則未有處也。無處而餽之、是貨之也。焉有君子而可以貨取乎。

陳臻問いて曰く、「前日、齊に於て、王、兼金一百を餽(おくる)りしも、受けず。宋に於て、七十鎰を餽られ、而して受く。薛に於て、五十鎰を餽られ、而して受く。前日の受けざるが是ならば、則ち今日の受くるは非なり。今日の受くるが是ならば、則ち前日の受けざるは非なり。夫子必ず一に此に居らん。」孟子曰く、「皆是なり。宋に在るに當りてや、予、將に遠行有らんとす。行く者は必ず贐(はなむけ)を以てす。辭に曰く、『贐を餽る。』予、何為れぞ受けざらん。薛に在るに當りてや、予、戒心有り。辭に曰く、『戒めを聞く。故に兵の為に之を餽る。』予、何為れぞ受けざらん。齊に於けるが若きは、則ち未だ處する有らざるなり。處する無くして之を餽るは、是れ之を貨にするなり。焉くんぞ君子にして貨を以て取らる可き有らんや。」

<語釈>
○「兼金一百」、趙注:兼金は好金なり、其の價、常の者に兼倍す、一百は百鎰なり、古は一鎰を以て一金と為す。上質の金で、通常のものより倍の価値がある金。○「鎰」、趙注:鎰(イツ)は二十兩なり。二十四兩とする説もあるが、二十兩の方が一般的である。

<解説>
物事には時と場合があるということを言いたいのであろう。至極当然の事である。ところが孟子にはそれに反して教条的な面が多分にある。

三十六節

孟子が齊の平陸の町に行ったとき、そこの代官に言った、
「あなたの部下の戟を持って戰う兵士が、五人一組の隊列を一日に三度も乱したとしたら、あなたは、その兵士を殺しますか。」
「三度まで待ちません。」
「それならば、あなたも官吏としての隊列から離れて、職務を果たしていないことが沢山ありますよ。凶作飢饉の歳には、王様の人民で、老幼の弱者は、溝や谷間に転がり落ちて死に、壮年の者は家を棄て食を求めて四方に行く者が数千人もおるではありませんか。」
「それは私などではどうすることもできない事です。」
「今、かりに牛や羊を預かって世話をしようとしている者がいるとしたら、その者は必ず牧場と牧草とを求めるでしょう。ところがいくら探しても得ることが出来なければ、あなたはこの牛や羊を返しますか、それとも、何もせずに死んでいくのをじっと眺めていますか。」
「わかりました。先ほどの話は私の責任です。」
後日、孟子は王にお目にかかって、
「王様の都を治めている者を私は五人知っていますが、自分の責任を心得ている者は、孔距心だけでございます。」
と言い、王様に距心との会話をそっくり語った。王はそれを聞いて言った、
「距心が悪いのではない、それは私の責任だ。」

孟子之平陸、謂其大夫曰、子之持戟之士、一日而三失伍、則去之否乎。曰、不待三。然則子之失伍也亦多矣。凶年饑歲、子之民、老羸轉於溝壑、壯者散而之四方者、幾千人矣。曰、此非距心之所得為也。曰、今有受人之牛羊而為之牧之者、則必為之求牧與芻矣。求牧與芻而不得、則反諸其人乎。抑亦立而視其死與。曰、此則距心之罪也。他日、見於王曰、王之為都者、臣知五人焉。知其罪者、惟孔距心。為王誦之。王曰、此則寡人之罪也。

孟子、平陸に之き、其の大夫に謂いて曰く、「子の持戟の士、一日にして、三たび伍を失わば、則ち之を去るや否や。」曰く、「三たびを待たず。」「然らば則ち子の伍を失うや亦た多し。凶年饑歲には、子の民、老羸は溝壑に轉じ、壯者の散りて四方に之く者、幾千人ぞ。」曰く、「此れ距心の為すを得る所に非ざるなり。」曰く、「今、人の牛羊を受けて之が為に之を牧する者有らば、則ち必ず之が為に牧と芻とを求めん。牧と芻とを求めて得ずんば、則ち諸を其の人に反さんか。抑々亦た立ちて其の死を視んか。」曰く、「此れ則ち距心の罪なり。」他日、王に見えて曰く、「王の都を為むる者、臣、五人を知れり。其の罪を知る者は、惟だ孔距心のみ。」王の為に之を誦す。王曰く、「此れ則ち寡人の罪なり。」

<語釈>
○「老羸轉於溝壑~幾千人矣」、これと同じ句が梁惠王下第十九節に在る。ここでは「羸」が「弱」になっているが意は同じである。取り敢えず十九節と同じ解釈をしておくが、安井息軒氏や服部宇之吉氏は、餓死しても葬ることが出来ず、其の尸を溝壑に棄てたとし、溝壑に転げ落ちて死んだのではないと解釈している。
<解説>
この節は人臣の責任について述べられている。趙岐の章指に云う、人臣は道を以て君に事う。否らずんば則ち身を奉じて以て退く、と。

『孟子』巻第四公孫丑章句下 三十四節

2017-01-03 13:18:49 | 四書解読
三十四節

孟子が齊王のもとへ参内しようとしている所に、王からの使者が来て、
「私がそちらへ伺ってお会いしたいと思っているのだが、風邪をひいて、外気にあたるわけにいかず、先生がおいでくだされば、私も朝廷に出てお会いしたいと思っている。どうだろう、お会いできるだろうか。」
と言った。そこで孟子は答えた、
「あいにくと私も病気で、参内することができません。」
翌日、孟子は東郭氏の家に弔問に出かけようとすると、弟子の公孫丑が言った。
「昨日は病気だと言って朝廷にお伺いするのをお断りしておいて、今日大夫の家に弔問に出かけるのは、宜しくないのではありませんか。」
「昨日は病気だったが、今日は治ったのだ。どうして弔問を止められようか。」
孟子が弔問に出かけた後に、王の使者が医者を連れて見舞いに来た。留守居をしていた孟子の従兄弟で弟子の孟仲子が応対して、
「昨日は王様よりお召しがございましたが、あいにく疲れが出たのか朝廷にお伺いすることが出来ませんでしたが、今日は少し良くなったので、参内すると言って急ぎお出かけになりました。病が完全に癒えていないので、無事にたどり着いたかどうかは分かりません。」
とその場を言い繕い、弟子の数人を手分けして、孟子の通りそうな場所へ迎えに行かせ、
「どうかお帰りにならずに、必ず朝廷にお伺いしてください。」
と言わせた。それを聞いた孟子は、帰ることもできず、かと言って参内する気もなかったので、仕方がなく齊の大夫である景丑氏の家に行って泊めてもらった。事情を聞いた景丑は言った、
「家庭内では親子、外では君臣の関係が最も大きな人の道であり、親子は恩愛を主とした繋がりで、君臣は敬意を主とした繋がりではないでしょうか。私の見る所では、王様が先生を敬っておられるのはよく分かりますが、先生が王様に敬意を表しているとは思えないのです。」
「ほう、何をおっしゃる。齊の人々は仁義について王様と誰一人語ろうとしない。それは仁義がつまらないものだと思っているのではなく、王様が共に仁義について語るに足る人だと思ってないのでしょう。もしそうだとしたら、これより大きな不敬はありません。私は堯・舜の行った道以外に王様の前で申し上げようとは思いません。ですから私が齊国の誰よりも王様を尊敬していることになります。」
景子は言った、
「いや、そんな事を言っているのではないのです。礼には、父が呼んだら躊躇せずにすぐに行く、主君がお召しのときは、馬車の用意をする時間も惜しんですぐにかけつける、とあります。もともと先生はご自分の方から参内しようとしておられたのに、王様がお召しだと聞くと、おやめになられた。言われている禮の定めとは異なっているようですね。」
「そのような君臣の禮を言っているのではない。曾子が、『晉や楚の富にはとても及ばないが、彼らがその富を誇るなら、私には仁の徳がある。彼らがその爵位を誇るなら、私には義の徳がある。何も心に引け目を感じるものはない。』と言っています。大体曾子ほどの人が道理に外れたことを言うはずがありません。これも一つの道理です。およそ天下には広く誰にでも尊敬されるものが三つあります。爵位・年齢・徳がそれです。朝廷では爵位が一番であり、郷里では年齢が一番大事であり、世の中を正しく導き、人民の長老となるには徳が一番大事です。どうしてこのうちの一つが有るからと言って、他の二つをおろそかにできましょうか。それゆえ、大事を為そうとする君主には、必ず呼びつけず、相談したいことが有れば、君主自ら出向いていく臣が有るものです。そのような有徳の人物を尊び共に政を楽しむのでなければ、共に大事を成すことは出来ません。故に殷の湯王は先づ伊尹を師として学び、その後に臣として用いたので、それほどの苦労もせずに王者となることができたのです。又齊の桓公も管仲を師として学び、後に臣として用いたので、労せずに覇者と為ることが出来たのです。ところが今や天下の諸侯は領土も人徳も似たり寄ったりで、上に立てて尊ぶほどの者はおりません。それは王が自分の言いなりになるような臣下ばかり好み、意見を述べ、諫めてくれるような臣下を好まないからです。湯王は伊尹を、桓公は管仲を呼びつけようとはしませんでした。あの法家の管仲でさえ呼びつけようとしなかったのに、天下の王道を説く者を呼びつけるなど、とんでもない話ではありませんか。」

孟子將朝王。王使人來曰、寡人如就見者也。有寒疾。不可以風。朝將視朝。不識可使寡人得見乎。對曰、不幸而有疾。不能造朝。明日出弔於東郭氏。公孫丑曰、昔者辭以病、今日弔。或者不可乎。曰、昔者疾、今日愈。如之何不弔。王使人問疾、醫來。孟仲子對曰、昔者有王命、有采薪之憂、不能造朝。今病小愈、趨造於朝。我不識能至否乎。使數人要於路、曰、請必無歸、而造於朝。不得已而之景丑氏宿焉。景子曰、內則父子、外則君臣、人之大倫也。父子主恩、君臣主敬。丑見王之敬子也、未見所以敬王也。曰、惡、是何言也。齊人無以仁義與王言者。豈以仁義為不美也。其心曰、是何足與言仁義也。云爾、則不敬莫大乎是。我非堯舜之道、不敢以陳於王前。故齊人莫如我敬王也。景子曰、否。非此之謂也。禮曰、父召、無諾。君命召、不俟駕。固將朝也、聞王命而遂不果。宜與夫禮若不相似然。曰、豈謂是與。曾子曰、晉楚之富、不可及也。彼以其富、我以吾仁。彼以其爵、我以吾義。吾何慊乎哉。夫豈不義而曾子言之。是或一道也。天下有達尊三。爵一、齒一、德一。朝廷莫如爵、鄉黨莫如齒、輔世長民莫如德。惡得有其一、以慢其二哉。故將大有為之君、必有所不召之臣。欲有謀焉、則就之。其尊德樂道。不如是不足與有為也。故湯之於伊尹、學焉而後臣之。故不勞而王。桓公之於管仲、學焉而後臣之。故不勞而霸。今天下地醜德齊、莫能相尚、無他。好臣其所教、而不好臣其所受教。湯之於伊尹、桓公之於管仲、則不敢召。管仲且猶不可召。而況不為管仲者乎。

孟子將に王に朝せんとす。王、人をして來たらしめて曰く、「寡人如ち就きて見る者なり。寒疾有り。以て風す可からず。朝すれば將に朝を視んとす。識らず、寡人をして見るを得しむ可きか。」對えて曰く、「不幸にして疾有り。朝に造る能わず。」明日、出でて東郭氏を弔せんとす。公孫丑曰く、「昔者(昨日)は辭するに病を以てし、今日は弔す。或いは不可ならんか。」曰く、「昔者は疾あり、今日は愈ゆ。之を如何ぞ弔せざらんや。」王、人をして疾を問い、醫をして來たらしむ。孟仲子對えて曰く、「昔者は王命有りしも、采薪の憂い有りて、朝に造る能わず。今は病小しく愈ゆ。趨りて朝に造れり。我は識らず、能く至れりや否やを。」數人をして路に要せしめて曰く、「請う必ず歸ること無くして、朝に造れ。」已むを得ずして景丑氏に之きて宿せり。景子曰く、「內は則ち父子、外は則ち君臣は、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす。丑は王の子を敬するを見る。未だ王を敬する所以を見ざるなり。」曰く、「惡、是れ何の言ぞや。齊の人は仁義を以て王と言う者無し。豈に仁義を以て美ならずと為さんや。其の心に曰く、『是れ何ぞ與に仁義を言うに足らんや。』爾云えば、則ち不敬是より大なるは莫し。我は堯舜の道に非ざれば、敢て以て王の前に陳ぜず。故に齊の人は我の王を敬するに如くもの莫きなり。」景子曰く、「否。此の謂に非ざるなり。禮に曰く、『父召せば、諾する無し。君命じて召せば、駕するを俟たず。』固より將に朝せんとするなり。王命を聞きて遂に果さず。宜しく夫の禮と相似ざるが如く然るべし。」曰く、「豈に是を謂わんや。曾子曰く、『晉楚の富は、及ぶ可からざるなり。彼は其の富を以てし、我は吾が仁を以てす。彼は其の爵を以てし、我は吾が義を以てす。吾何ぞ慊せんや。』夫れ豈に不義にして曾子之を言わんや。是れ或は一道なり。天下に達尊三有り。爵一、齒一、德一。朝廷は爵に如くは莫く、鄉黨は齒に如くは莫く、世を輔け民に長たるは徳に如くは莫し。惡くんぞ其の一を有して、以て其の二を慢るを得んや。故に將に大いに為す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣有り。謀ること有らんと欲すれば、則ち之に就く。其の徳を尊び道を樂しむこと、是くの如くならざれば、與に為す有るに足らざるなり。故に湯の伊尹に於ける、學びて而る後に之を臣とす。故に勞せずして王たり。桓公の管仲に於ける、學びて而る後に之を臣とす。故に勞せずして霸たり。今、天下、地醜(たぐい)し德齊しく、能く相尚(すぎる)ぐるもの無きは、他無し。其の教うる所を臣とするを好みて、其の教えを受くる所を臣とするを好まず。湯の伊尹に於ける、桓公の管仲に於けるは、則ち敢て召さず。管仲すら且つ猶ほ召す可からず。而るを況んや管仲を為さざる者をや。」

<語釈>
○「王」、齊の王、宣王とする説もあるが、定かでない。○「如就見」、この「如」の解釈について異説が多く、「如し」、「圖る」、「往く」などの説があり、安井息軒は「乃」の意に解す。息軒の説を採用する。○「采薪之憂」、服部宇之吉云う、主君に対して疾を称する謙辭なり、我が身を従僕に比し、疾して薪を採ること能わざる意。○「云爾」、「爾」は「然」に通じ、爾(しか)云う、と読み、そういうならば、という意味になる。○「達尊」、朱注:「達」は「通」なり。達尊は、すべてに通じて尊いもの。○「醜」、趙注:「醜」は、「類」なり。動詞に読み、“たぐいす”と訓ず。○「尚」、朱注:「尚」は、「過」なり。

<解説>
私が孟子を好きになれない理由の一つは、屁理屈が多く、人物が狭量であることである。王の呼び出しを断るのは、当時としては非常に非礼な行為で、むしろ景氏の言の方が道理である。それを齊の人は王を仁義を説くに足る人物でないと思っているから、私の方が王を敬っていると言い、管仲などは小人物だと言い、それを呼びつけないのに、王道を説く私を呼び寄せるなどとんでもないことだと理屈をつけて断っている。勿論この理解の仕方は私の個人的なものであり、違う解釈もあり、昔から孟子像についていろいろ議論のある節である。