gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『呉子』料敵第二 第三章

2020-11-26 11:27:06 | 漢文
第三章

武侯は尋ねた、「私は、敵の外見を観察して敵の内情を判断し、進軍してくる敵を観察してその先敵がどのような所で止まるかを推測して、勝敗を決したいと思っているのだが、それについて聞くことができるだろうか。」呉起は答えた、「適の来襲してくる様子に、おちつきが無く指揮に慎重な配慮が無く、旗印がごちゃごちゃと乱れており、人も馬もしばしば後ろを振り返るようならば、敵の十分の一の勢力で敗ることができ、必ず敵をあわてて適切な措置がとれないようにさせることができます。又敵の様子が、隣国の諸侯と盟約を交せず助けの兵も無く、君臣上下が乱れており、堀や塞も未だ完成しておらず、軍の規則も未だ周知されておらず、全軍騒然として進むことも出来ず退くことも出来ないようならば、敵の半分の兵力で敗ることができます。百戦しても危険な事はないでしょう。」

武侯問曰、吾欲觀敵之外以知其内、察其進以知其止、以定勝負。可得聞乎。起對曰、敵人之來、蕩蕩無慮、旌旗煩亂、人馬數顧、一可撃十。必使無措。諸侯未會、君臣未和、溝壘未成、禁令未施、三軍匈匈、欲前不能、欲去不敢、以半撃倍。百戰不殆。

武侯問いて曰く、「吾、敵の外を觀て以て其の内を知り、其の進むを察して以て其の止まるを知り、以て勝負を定めんと欲す。聞くを得可きか。」起對えて曰く、「敵人の來ること、蕩蕩として慮無く(注1)、旌旗煩亂し、人馬數々顧みば、一、十を撃つ可し。必ず措くこと無からしむ(注2)。諸侯未だ會せず、君臣未だ和せず、溝壘未だ成らず、禁令未だ施さずして、三軍匈匈として、前まんと欲して能わず、去らんと欲して敢てせざれば、半を以て倍を撃つ。百戰すれども殆うからず。」

<語釈>
○注1、直解:蕩蕩は輕忽なり。粗忽、軽はずみなこと。○注2、直解:必ず之をして倉皇として措くこと無しからしむ。「倉皇」は、あわてる様。敵をあわてさせて適切な措置を取れないようにさせること。

<解説>
武侯の質問に対する呉起の答えは不完全である。武侯の質問は、敵の外を觀て以て其の内を知り、其の進むを察して以て其の止まるを知るにはどうすればよいか、ということである。それに対する呉起の答えは、敵の外を見ることしか述べていないのに、十分の一の勢力で敗ることができる、半分の兵力で敗ることができる、と結論を述べており、内に相当するものがない。又進む、止まるに相当するものがない。不自然な章である。

口語訳『荀子』巻第三 非相篇第五

2020-11-05 11:54:28 | 漢文
非相篇第五
 人相を見るということは、古の聖人の為さない事であり、学問に携わる者は口にしない事であった。昔、趙襄子を相したと言われる姑布子卿という者がいたが、今の世は梁に唐舉と言う者が居り、人の形状や顔色を見てその人の吉凶や禍福を予言し、世の人々はこれを褒めたたえた。しかしそれは古の聖人の為さない事であり、学問に携わる者は口にしない事である。だから人の形状を見て吉凶禍福を占うのは、心のありようを論ずるのには及ばないし、心を論ずるのは行為を判断するのには及ばない。形状は心に及ばないし、心は行為に及ばない。行為が正しくて心がまっすぐであれば、形の見立てが悪くとも、心やその行いは善であり、君子であることに何の問題も無い。形の見立てが善くても、心や行為が悪ければ、小人とみなして差し支えない。君子であることを吉と言い、小人であることを凶と言うのである。体の長短・小大や容貌の善悪は吉凶とは関係がない。だから古の聖人の為さない事であり、学問に携わる者の口にしない事であったのである。思うに帝堯は長身で帝舜は短身、文王は長身で周公は短身、仲尼は長身で子弓(楊注:子弓は、蓋し仲弓なり)は短身であった。昔、衛の霊公の臣下に公孫呂という者がおり、身長は七尺、顔の長さが三尺広さが三寸、それに鼻・目・耳がついている不細工な顔であるが、その賢者としての名声は天下に轟いている。楚の孫叔敖は期思という田舎の人で、突き出た禿げ頭で、左脚が右脚より長いという奇形であったが、坐したまま智謀により楚を諸侯の覇者にした。葉公子高は身長が低く痩せており、歩くのにも衣服の重さに耐えらそうもなかったが、白公の乱が起こり、宰相の子西や司馬の子期らが死亡すると、葉公子高は楚に入り、そこから白公を誅し楚国を定めた。それは手を返すように簡単に成し遂げ、その仁義の徳や功名は後世にまで称えられている。だから大事なことは、背の高さや体の大きさや体重の軽い重い等を問題にするのでなく、その心を知ることである。体の長短・小大や容貌の善悪をどうして論ずる必要があろうか。また徐の偃王の風貌は俯くことができず遠くの馬は見ることができるが近くの馬は見ることができなかった。孔子の風貌は鬼の面をかぶっているようであった。周公の風貌は立ち枯れした木のような背むしであった。皋陶の風貌は皮を削った瓜のようであった。閎夭の風貌は顔中鬚だらけであった。傅說の風貌は魚の背びれのようであった。伊尹の風貌は髭も眉毛も無かった。禹はびっこで、湯は半身不随で、堯・舜は三重瞳であった。学問に従う者はその人を評価するのに、その心を論じて学問の如何を比べるのか、それとも体の長短や容貌の美惡を弁別して、人を侮りあざけりあおうとするのであろうか。昔、桀王や紂王は背が高く美しく天下の傑物で、筋力は強く百人にも匹敵するほどであった。それなのに身は死して国は亡び、天下の大いに辱めるところとなり、後世惡と言えば必ず引き合いに出される。これは容貌による災難ではない。見分が狭く論議が低かったからである。今の世、無頼の徒や村の才ばしった軽薄な若者たちが、綺麗で妖艶に、変わった服で婦女子のように飾り立て、心意気や態度まで婦女子のまねをする。そして婦人たちはそんな彼らを夫にしたいと望み、娘たちは恋人にしたいと望み、親や家を棄ててそんな彼らのもとへ走ろうとする者が続出するありさまである。しかしそんな男は普通の君主でも臣下にするのを恥ずかしいと思うし、普通の父親でも我が子とするのを恥ずかしいと思うし、普通の兄でも自分の弟とするのを恥ずかしいと思うし、普通の人でもそんな人間を友とするのを恥ずかしいと思う。そして罪を犯してにわかに役人に捕らえられ、市場で処刑されることになって、初めて天に向かって泣き叫び、処刑される身を苦しみ傷み、自分の過ちを後悔する。これは容貌に由る災難ではない。見分が狭く論議が低かったからである。それならば学問に従う者は、容貌と志とどちらを取るか。
続きはホームページで http://gongsunlong.web.fc2.com/