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『孟子』巻一梁惠王章句上、第六節

2015-09-27 10:50:46 | 漢文解読
                            第六節
孟子は梁の襄王にお目にかかったが、退出してから人に語った、「王様は遠くから拝見しても、少しも人君らしく見えない。近づいて謁見しても少しも人を治める威厳を感じない。するといきなり、『この乱れた天下はどのように落ち着くだろうか。』とお尋ねになった。そこで私は、『統一されるでしょう。』とお答えすると、『誰が統一できるだろうか。』とお尋ねになられたので、私は、『人を殺すことを好まない仁君こそが統一することが出来ます。』とお答えした。すると、『そのような人物に一体誰が味方になるのか。』とお尋ねになられたので、私は、『天下に味方しない人はおりません。王様はあの稲の苗をご存知でしょうか。七月・八月の間に雨が降らなければ、苗は枯れますが、天にわかに雲がわきあがり、激しく雨が降ってくると、苗は急に元気になって起き上がって来るでしょう。苗がそのようになって来るのを、誰が防げることが出来ましょうか。國の政治も同じことです。今天下の人君で人を殺すのが好きでない者はおりません。それ故にもし人を殺すことを好まない人君が現れたら、世の人々は首を長くして望み、お慕いすることでありましょう。誠にこのようであれば、水が低い所に向かって激しく流れるように、世の民は君の元に集まって来るでしょう。そうなれば、誰がこれを防ぎ止めることができましょうか。』とお答えした。

孟子見梁襄王。出語人曰、望之不似人君。就之而不見所畏焉。卒然問曰、天下惡乎定。吾對曰、定于一。孰能一之。對曰、不嗜殺人者能一之。孰能與之。對曰、天下莫不與也。王知夫苗乎。七八月之間旱、則苗槁矣。天油然作雲、沛然下雨、則苗浡然興之矣。其如是、孰能禦之。今夫天下之人牧、未有不嗜殺人者也。如有不嗜殺人者、則天下之民皆引領而望之矣。誠如是也、民歸之、由水之就下沛然。誰能禦之。

孟子、梁の襄王に見ゆ。出でて人に語げて曰く、「之を望むに人君に似ず。之に就くに畏るる所を見ず。卒然として問うて曰く、『天下惡にか定まらん。』吾對えて曰く、『一に定まらん。』『孰か能く之を一にせん。』對えて曰く、『人を殺すを嗜まざる者、能く之を一にせん。』『孰か能く之に與せん。』對えて曰く、『天下與せざる莫きなり。王、夫の苗を知るか。七八月の間、旱すれば、則ち苗槁(かれる)れん。天、油然として雲を作し、沛然として雨を下さば、則ち苗浡然(ボツ・ゼン)として之に興きん。其れ是の如くなれば、孰か能く之を禦(とどめる)めん。今夫れ天下の人牧、未だ人を殺すことを嗜まざる者有らざるなり。如し人を殺すことを嗜まざる者有らば、則ち天下の民皆な領(くび)を引いて之を望まん。誠に是の如くなれば、民の之に歸すること、由ほ水の下きに就きて沛然たるがごとし。誰か能く之を禦めん。』」

<語釈>
○「卒然」、いきなり。○「油然」、趙注:雲の興る貌。○「沛然」、激しい貌。○「浡然」、急に勢いづく貌。○「人牧」、人民を治める者、乃ち王。○「引領而望之」、首を長くして望む意。

『孟子』第一巻梁惠王章句上、第四節、第五節

2015-09-15 10:34:13 | 漢文解読
                        第四節
梁の惠王は言われた、「私は出来れば落ち着いてあなたに教えを受けたいと思う。」孟子は答えました、「人を殺すのに、杖で打ち据えて殺すのと、刃物で殺すのと、何か違いがあるでしょうか。」「違いはない。」と王様がお答えになりますと、孟子は、「王様の調理場には肥えた肉があり、厩舎には肥えた馬が飼われておりますのに、民は飢えて苦しみ、野には行倒れの餓死者がいます。これではあたかも獣をけしかけて人を食らわせているようなものです。人は獣同士が互いに食らい合いすることでさえ嫌だと思うのに、民の父母たる君主として政治を行いながら、獣をけしかけて人を食らわせるような状態を避けることが出来ないようでは、どこに民の父母たる資格がありましょう。孔子が、『始めて墓に入れる為の俑という土人形を作った者は、天罰で子孫が絶えるであろう。』とおっしゃっておられますが、それは、たとい人形でも人の形をしたものが、墓に埋められるのが堪えられなかったからです。人間はこのように尊いものですから、その民を飢えて死なせるようなことを、決して行ってはいけません。」

梁惠王曰、寡人願安承教。孟子對曰、殺人以梃與刃、有以異乎。曰、無以異也。以刃與政、有以異乎。曰、無以異也。曰、庖有肥肉、廐有肥馬。民有飢色。野有餓莩。此率獸而食人也。獸相食、且人惡之。為民父母、行政、不免於率獸而食人。惡在其為民父母也。仲尼曰、始作俑者、其無後乎。為其象人而用之也。如之何、其使斯民飢而死也。」

梁の惠王曰く、「寡人願わくは安んじて教えを承けん。」孟子對えて曰く、「人を殺すに梃(テイ)を以てするは刃もてすると、以て異なる有るか。」曰く、「以て異なる無きなり。」「刃を以てすると政もてすると、以て異なる有るか。」曰く、「以て異なる無きなり。」曰く、「庖(ホウ)に肥肉有り、廐に肥馬有り。民に飢色有り。野に餓莩(ヒョウ)有り。此れ獸を率いて人を食ましむるなり。獸相食むすら、且つ人は之を惡む。民の父母と為りて、政を行い、獸を率いて人を食ましむるを免れず。惡んぞ其の民の父母為るに在らんや。仲尼曰く、『始めて俑を作る者は、其れ後無からんか。』其の人に象りて之を用うるが為なり。之を如何ぞ、其れ斯の民をして飢えて死せしめんや。」

<語釈>
○「梃」、趙注:梃は杖なり。○「與刃」、刃を以てすとの義。○「庖」、くりや、調理場の事。○「餓莩」、前節に既述。○「俑」、土偶、土人形。

                            第五節
梁の惠王が言われた、「嘗ての強国であった晉を受け継いだ我が国魏は、天下無敵の強国であったことは、先生もご承知の通りです。ところが私の時代になってから、東は齊國に敗られて長男は戦死し、西は秦に侵されて七百里もの土地を失い、南では楚に辱めを受けるという状態である。私はこの三恥に耐えられない。出来れば私が死ぬまでに、この恥を雪ぎたいと思っている。どうしたらこの三恥を雪ぐことが出来るだろうか。」孟子は答えた、「土地は百里四方の小国でも天下の王と為ることが出来るのです。この国のような大国ならなおさらです。王様が若し愛情を以て政治を行い、その恩恵を民に施し、余計な刑罰を省き簡略にし、税を軽くしておやりになれば、民は安心して農事に励み、深く耕作し除草に努めるようになり、若者は農事の暇に孝悌忠信の道徳を学んで身を修め、家の中では父や兄によく仕え、外では年長者によく仕えるようになります。そうなれば王様の人民は棍棒しか持っていなくても、秦や楚の堅い甲や鋭い兵器に勝つことが出来るのです。敵は自国の民の農時を奪い、田畑を耕作して除草して父母や家族を養うこともできないようにしていますので、父母は凍えて飢えて、兄弟妻子は散り散りになるという状態です。このように敵は自国の民を弱らせ苦しめているのですから、若し王様が出かけてこの不仁の者を征伐なされば、誰がこれに敵対することが出来ましょうか。ですから仁者は敵無しと言うのです。どうか王様には私の言葉をお疑い無きことをお願いいたします。

梁惠王曰、晉國、天下莫強焉、叟之所知也。及寡人之身、東敗於齊、長子死焉。西喪地於秦七百里。南辱於楚。寡人恥之。願比死者壹洒之。如之何則可。孟子對曰、地方百里而可以王。王如施仁政於民、省刑罰、薄税斂、深耕易耨、壯者以暇日修其孝悌忠信、入以事其父兄、出以事其長上、可使制梃以撻秦楚之堅甲利兵矣。彼奪其民時、使不得耕耨以養其父母。父母凍餓、兄弟妻子離散。彼陷溺其民。王往而征之、夫誰與王敵。故曰、仁者無敵。王請勿。

梁の惠王曰く、「晉國は天下焉より強き莫きは、叟(ソウ)の知る所なり。寡人の身に及び、東は齊に敗られ、長子は死せり。西は地を秦に喪うこと七百里。南は楚に辱めらる。寡人、之を恥づ。願わくは死する者の比までに、壹たび之を洒(そそぐ)がん。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「地は方百里ならば以て王たる可し。王如し仁政を民に施し、刑罰を省き、税斂を薄くし、深く耕し易め耨らしめ、壯者は暇日を以て其の孝悌忠信を脩め、入りては以て其の父兄に事え、出でては以て其の長上に事えば、梃を制して以て秦楚の堅甲利兵を撻たしむ可し。彼は其の民の時を奪い、耕耨して以て其の父母を養うことを得ざらしむ。父母凍餓し、兄弟妻子離散す。彼は其の民を陷溺す。王往きて之を征せば、夫れ誰か王と敵せん。故に曰く、『仁者は敵無し。』王請う疑うこと勿れ。」

<語釈>
○「晉」、春秋時代の大国晉が、魏・趙・韓の三国に分裂して戦国時代が始まった、これを三晉と呼ぶが、魏が晉を称するのは、晉の中心部を引き継いでいるからである。○「叟」、年寄りに対する敬称、相手への敬称としての先生。○「洒」、雪ぐ。○「耨」、音はドウ、訓はくさぎる、田の除草をすること。○「梃」、木の棒、棍棒。○「撻」、音はタツ、訓はうつ。

<解説>
第四節では、王は人民の父母であるから、民を愛し、安んずることに努めなければならないと述べ、第五節では、その為に民に対して仁政を施せば、民は親に仕えるように、王に仕えるようになり、國は強固になることを説いている。王の資格の第一は民を愛すること、これが第四節の趣旨であり、國を治める上で最も大事なことは、仁政を施すこと、乃ち仁者に敵無し、これが第五節の趣旨である。

『孟子』第三節

2015-09-07 10:02:52 | 漢文解読
                         『孟子』第三節
梁の惠王が、「私が国を治めるについては、精一杯心を尽くしている。河内が凶作で食べるものが無ければ、その民を河東に移して、尚ほ穀物を河内に送るであろう。河東が凶作になっても同じようにするであろう。ところが隣國の政をよく観察すると、私のように人民に心を尽くしている者がいない。それなのに、隣国の民は減少もせず、我が国の民は増加もしない。これはどうしてであろうか。」とお尋ねになられたので、孟子は、「王様は戦闘のことがお好きなので、それに喩えてお話しさせていただきたいと思います。今ドンドンと太鼓を鳴らして軍を進め、敵とぶつかり戦いが始まるや、冑を脱いで身を軽くし、武器を引きずって敗走しました。或る者は百歩で踏み止まり、或る者は五十歩で踏み止まりました。そして五十歩で踏み止まった者が、百歩の人を臆病者と笑ったとしたら、いかがなものでしょうか。」と答えました。王は、「それは許されない。唯走ったのが百歩にならなかっただけで、逃げたのは同じことである。」と述べられたので、孟子はここぞとばかりに、「王様がその事をよくお分かりになられているのでしたら、王様の政治も五十歩百歩と同じで、民が隣国より多くなることをお望みになるわけにはまいりません。正しい政治とは、農繁期に民を徴用して農業を妨害せず、その本業に勤しむようにすれば、穀物は食べきれないほど収穫することができます。池で目の細かい網の使用を禁止すれば、小さい魚やスッポンを取らずに済み、それらの繁殖を妨げることがなく、食べきれないほどに増えるでしょう。山林で斧を以て木を伐採するにも時期を選んで行えば、材木も使い切れないほどになります。こうして穀物や魚やスッポンが食べきれないほどに獲れ、材木も使い切れないほどにあれば、民は生前の生活にも死後の葬祭にも安心して暮らすことができます。このように民が生前も死後のことについても安心して生活を送れるようにすることが、まさに王道の始めであります。農夫一所帯に割り当てられた五畝の宅地に、皆が桑を植えて養蚕すれば、五十才以上の者は皆絹の服を着ることができるでしょう。鶏・豚・狗などの飼育に気を使い、繁殖の時期に殺さないようにすれば、七十才以上の者は、肉を十分に食べることができるでしょう。民は田地として与えられた百畝の地で農作業をしていますが、その忙しい時期に徭役などで邪魔をしなければ、五六人を養うだけの穀物を得ることができ、飢える者はいなくなるでしょう。村々の学校で教える徳行を大切にさせ、更に親や長兄によく仕えることを教えるならば、重い荷物を背負ったり頭上に乗せたりして荷物を運ぶような重労働をする老人を道路上で見かけることは無くなるでしょう。こうして国内が、七十才以上の者が絹の服を着て、栄養のある肉を食べて、飢えたり寒さに苦しむ人民がいなくなるようになれば、それで王者とならない者はいないでしょう。犬や豚が人の食料を食べていても取り締まらず、道に餓死者が倒れているというのに、倉庫を開いて救済せず、人が死ぬのは私の責任ではない、この歳の気候が悪かったのだと言うのなら、人を刺して殺しておいて、私が殺したのではない、武器が殺したのだと言うのと、どこが違いましょうか。王様が、民が飢えて死者が出ているのは、その歳の気候のせいだと言って、それを罰するようなことをせず、王様自身の責任を自覚されるならば、天下の民はこぞって王様のもとへ集まって来るでしょう。」

梁惠王曰、寡人之於國也、盡心焉耳矣。河内凶則移其民於河東、移其粟於河内。河東凶亦然。察鄰國之政、無如寡人之用心者。鄰國之民不加少。寡人之民不加多何也。孟子對曰、王好戰。請以戰喻。填然鼓之、兵刃既接。棄甲曳兵而走。或百步而後止、或五十步而後止。以五十步笑百步、則何如。曰、不可。直不百步耳。是亦走也。曰、王如知此、則無望民之多於鄰國也。不違農時、穀不可勝食也。數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。斧斤以時入山林、材木不可勝用也。穀與魚鼈不可勝食、材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾、王道之始也。五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣。雞豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣。百畝之田、勿奪其時、數口之家可以無飢矣。謹庠序之教、申之以孝悌之義、頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉、黎民不飢不寒。然而不王者、未之有也。狗彘、食人食而不知檢、塗有餓莩而不知發。人死、則曰、非我也、歳也。是何異於刺人而殺之、曰、非我也、兵也。王無罪歳、斯天下之民至焉。」

梁の惠王曰く、「寡人の國に於けるや、心を盡くすのみ。河内凶なれば則ち其の民を河東に移し、其の粟を河内に移す。河東凶なるも亦た然り。鄰國の政を察するに、寡人の心を用うるが如き者無し。鄰國の民少きを加えず、寡人の民多きを加えざるは、何ぞや。」孟子對えて曰く、「王戰いを好む。請う戰いを以て喻えん。填然として之に鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵を曳きて走る。或いは百步にして而る後に止り、或いは五十步にして而る後に止まる。五十步を以て百步を笑わば、則ち何如。」曰く、「不可なり。直だ百步ならざるのみ。是も亦た走るなり。」曰く、「王如し此を知らば、則ち民の鄰國より多きを望むこと無かれ。農時に違わざれば、穀は勝げて食う可からず。數罟(ソク・コ)洿池(オ・チ)に入らずんば、魚鼈も勝げて食う可からず。斧斤時を以て山林に入れば、材木勝げて用う可からず。穀と魚鼈と勝げて食う可からず、材木勝げて用う可からざるは、是れ民をして生を養い死を喪して憾無からしむるなり。生を養い死を喪して憾無きは、王道の始めなり。五畝の宅、之に樹うるに桑を以てせば、五十の者、以て帛を衣る可し。雞豚狗彘の畜、其の時を失う無くんば、七十の者、以て肉を食う可し。百畝の田、其の時を奪う勿くんば、數口の家、以て飢うる無かる可し。庠序の教えを謹み、之に申(かさねる)ぬるに孝悌の義を以てせば、頒白の者、道路に負戴せず。七十の者、帛を衣て肉を食い、黎民、飢えず寒えず。然り而して王ならざる者は、未だ之れ有らざるなり。狗彘、人の食を食らいて檢するを知らず。塗に餓莩(ガ・ヒョウ)有りて發するを知らず。人死すれば、則ち曰く、『我に非ざるなり、歳なり。』是れ何ぞ人を刺して之を殺して、我に非ざるなり、兵なり、と曰うに異ならんや。王、歳を罪する無くんば、斯に天下の民至らん。」

<語釈>
○「填然」、太鼓が打ち鳴らされている貌。○「數罟」、趙注:數罟は、密網なり、密細の網は、小なる魚鼈を捕うる所以の者なり。○「洿池」、ため池。○「五畝之宅」、田地以外に、宅地として五畝の地が与えられた。○「庠序」、趙注:庠序とは、教化の宮(学校)なり、殷は序と曰い、周は庠と曰う。○「頒白」、白髪交じりの老人。○「負戴」、重い荷物を背負ったり頭に乗せて運ぶこと。○「檢」、取り締まる意。○「餓莩」、趙注:餓死する者を莩と曰う。

<解説>
この節では、民の暮らしを安定させることが、王道の始めであり、そうすることによって人々は王のもとに集まり、民が増えて国力が増すという、国政の根本を述べている。
文中の「五十步を以て百步を笑わば、則ち何如」とあるのは、有名な熟語「五十歩百歩」の出典である。