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『孟子』巻第八離婁章句下 百十一節、百十二節

2018-04-26 10:11:19 | 四書解読
百十一節

孟子は言った。
「徳の高い聖人も普通の人も、そのもたらす恩沢はしだいに薄くなり、五世、百五十年もすれば消えてしまうのが通例である。私は生まれるのが遅く孔子の直弟子と為ることはできなかったが、孔子が亡くなられてから百年ほどなので、その遺風はまだ残っており、それを伝える人たちから、私は学ぶことが出来た。」

孟子曰、君子之澤五世而斬、小人之澤五世而斬。予未得為孔子徒也。予私淑諸人也。

孟子曰く、「君子の澤は五世にして斬え、小人の澤も五世にして斬ゆ。予未だ孔子の徒為るを得ざるなり。予私かに諸を人に淑くするなり。」

<語釈>
○「斬」、朱注:「斬」は「絶」なり。○「五世」、朱注:父子相繼ぐを一世と為す、三十年も亦た一世と為す。○「私淑」、趙注:「淑」は「善」なり、私かに之を賢人に善くするのみ。

<解説>
孟子は孔子に私淑した。「私淑」とは、直接教えを受けていないが、その人を慕い、その言動を模範として学ぶことで、「私淑」という言葉は、この節に因り生まれた。

百十二節

孟子は言った。
「取ってもよく、取らなくてもよいという場合には、取らない方がよい。取れば清廉の徳をそこなう。与えてもよく、与えなくてもよいという場合には、与えない方がよい。与えると真の恩恵の徳をそこなう。死んでもよく、死ななくてもよいという場合には、死なない方がよい。死ねば本当の勇気をそこなうことになる。」

孟子曰、可以取、可以無取。取傷廉。可以與、可以無與。與傷惠。可以死、可以無死。死傷勇。

孟子曰く、「以て取る可く、以て取る無かる可し。取れば廉を傷つく。以て與う可く、以て與うる無かる可し。與うれば惠を傷つく。以て死す可く、以て死する無かる可し。死すれば勇を傷つく。」

<語釈>
○「可以取」、朱注:先づ可以と言うは、略見して自ら許すの辭なり。取ることが出来るという意味でなく、取ってもよいという意味である。下句の「可以」も皆この儀によむ。

<解説>
色々な解釈が有るらしいが、「以可」を語釈で述べた意味に解して、素直に通釈のように読むのが良いと思う。「~してはいけない」ではなく、「~しないほうがよい」という程度である。趙注に云う、「義に違うに至らざれば、但に此の名を傷うも、亦た惡に陥らず。」

『孟子』巻第八離婁章句下 百九節、百十節

2018-04-20 10:07:31 | 四書解読
百九節

孟子は言った。
「夏の禹王は美酒を遠ざけて、善言を好んだ。殷の湯王は中正の道を固く守り、賢者を登用する際にもどこから来たのかを問題にしなかった。周の文王は民に対して傷ついた者をいたわるように、慈愛の心で接し、更に仁道をより多くの人に及ぼすことを望み、常に未だ不十分であると思い、努力を重ねていた。武王は近習の臣下にも馴れ親しんで礼を失するようなことをせず、遠くの者も疎略にしなかった。周公は夏・殷・周三代の善政を兼ねて、禹・湯・文・武四王の行った事を実施しようとした。そしてそれが今の実情に合わなければ、天を仰いで日夜考え続け、幸にその方策が見つかった時は、少しでも早く実行したくて、座ったままで夜の明けるのを待つというほどであった。」

孟子曰、禹惡旨酒而好善言。湯執中、立賢無方。文王視民如傷、望道而未之見。武王不泄邇、不忘遠。周公思兼三王、以施四事。其有不合者、仰而思之、夜以繼日。幸而得之、坐以待旦。

孟子曰く、「禹は旨酒を惡みて善言を好む。湯は中を執り、賢を立つること方無し。文王は民を視ること傷つけるが如く、道を望むこと未だ之を見ざるが而(「如」の義に読む)し。武王は邇きに泄れず、遠きを忘れず。周公は三王を兼ね、以て四事を施さんことを思う。其の合わざる者有れば、仰いで之を思い、夜以て日に繼ぐ。幸にして之を得れば、坐して以て旦を待つ。」

<語釈>
○「禹惡旨酒」、趙注:「旨酒」は美酒なり、儀狄、酒を作る、禹飲みて之を甘しとす、遂に儀狄を疏んじて旨酒を絶つ。○「執中、立賢無方」、趙注:中正の道を執る、惟れ賢は速やかに之を立て、其の何れの方從り來たるかを問わず。○「泄邇」、趙注:「泄」は「狎」、「邇」は「近」なり。○「三王」、趙注:三王は三代の王なり。夏・殷・周の三代。○「四事」、趙注:四事は禹・湯・文・武の行う所の事なり。

<解説>
禹・湯・文・武の四王と周公の事跡について述べられているが、儒教における周公の位置づけがよく表れている内容である。趙岐の章指にも云う、「周公能く三王の道を思い、以て成王を輔く、太平の隆、禮樂の備え、蓋し此に由るなり。」

百十節

孟子は言った。
「周が衰えて、古よりの聖王の恩沢も途絶え、太平の道も衰えてしまった。その為民間の間から王を称える詩も消えてしまった。こうして詩が亡んで世の正しい道理が伝わらなくなったので、これを正そうとして孔子は『春秋』を作った。これは歴史書であって、晉では『乘』と言い、楚では『檮杌』と言い、魯では『春秋』と言ったが、歴史書という点では皆同じである。その『春秋』の内容は、齊の桓公や晉の文公の覇業の事跡を記しており、その文章は史官が記したものを踏襲しているが、それだけではなく、孔子は、『史実の中で、正義のけじめは、私が自らつけさせてもらった。』と述べておられる。」

孟子曰、王者之迹熄而詩亡。詩亡然後春秋作。晉之乘、楚之檮杌、魯之春秋一也。其事則齊桓、晉文。其文則史。孔子曰、其義則丘竊取之矣。

孟子曰く、「王者の迹熄んで詩亡ぶ。詩亡んで然る後春秋作らる。晉の乘、楚の檮杌(トウ・コツ)、魯の春秋は一なり。其の事は則ち齊桓・晉文。其の文は則ち史。孔子曰く、『其の義は則ち丘竊かに之を取れり。』」

<語釈>
○「王者之迹熄而詩亡」、趙注:王者は聖王なり、太平の道衰え、王迹止熄し、頌聲作らず、故に詩亡ぶ。

<解説>
この節は、藤文公章句下の六十節と俱に、孔子が『春秋』を作った根拠の一つとなっている。春秋の時代には各国で史書が書かれていた。それを晉では『乘』、楚では『檮杌』と呼んだが、これは珍しい命名で、たいがいは『百国春秋』、『周之春秋』、『齊之春秋』などと呼ばれていた。これら各国の史書が現在伝わっていたら、春秋時代の研究は大きな変化を遂げていただろう。

『呂氏春秋』巻第二十一開春論

2018-04-17 10:25:01 | 四書解読
巻二十一 開春論

一 開春

一に曰く。開春始めて雷すれば、則ち蟄蟲動く。時雨降れば、則ち草木育つ。飲食居處適なれば、則ち九竅・百節・千脈、皆通利なり(高注:通利は、壅閉せず、疾病無し)。王者、其の德を厚くし、衆善を積めば、而ち鳳皇聖人皆來たり至る。共伯和、其の行いを修め、賢仁を好む。而して海內皆以て來たり稽を為す。周厲の難、天子曠絕して(高注:難は厲王、彘に流さるるなり、周、天子無きこと十一年、故に曰く、曠絕なり、と。)、天下皆來たり謂う(高注:天子を謂うなり)。此を以て物の相應ずるを言うなり。故に曰く、行えば成るなり、と。善く說く者も亦た然り。言、理を盡くせば、得失利害定まれり。豈に一人の為に言わんや。魏の惠王死して、葬、日有り。天大いに雪雨り、牛目に至る。群臣、太子に諫むる者多し。曰く、「雪甚だし。此の如くして葬を行わば、民必ず甚だ之を疾み、官費又恐らくは給らざらん(高注:「給」は「足」なり)。請う、期を弛めて日を更めんことを。」太子曰く、「人の子為る者、民勞と官の費用との故を以て、先王の葬を行わざるは、不義なり。子、復た言うこと勿れ。」群臣皆敢て諫むること莫く、而して以て犀首に告ぐ。犀首曰く、「吾以て之を言うこと有る末し(高注:「末」は猶ほ「無」なり)。是れ其れ唯だ惠公のみなるか。請う惠公に告げんことを。」惠公曰く、「諾。」駕して太子に見えて曰く、「葬、日有り。」太子曰:「然り。」惠公曰く、「昔、王季歷(文王の父)、渦山の尾(ふもと)に葬られ、灓水、其の墓を齧み、棺の前和(和は棺の端を言う)を見わす。文王曰く、『譆、先君必ず一たび群臣百姓を見んことを欲するかな。故に灓水をして之を見わさしむ。』是に於て出だして之が為に朝を張り(朝見の場を設ける)、百姓皆之を見る。三日にして後更めて葬る。此れ文王の義なり。今、葬、日有り。而して雪甚だしく、牛目に及び、以て行い難し。太子、日に及ばんが為の故に、亟やかに葬らんと欲するに嫌い無きを得んや。願わくは、太子日を易えんことを。先王必ず少く留まりて、社稷を撫し黔首を安んぜんことを欲するなり。故に雪を雨ること甚だしからしむ。因りて期を弛めて更めて日を為さば、此れ文王の義なり。此の若くして為さざるは、意者に文王に法るを羞づるか。」太子曰く、「甚だ善し。敬みて期を弛め、更めて葬日を擇ばん。」惠子は徒に說を行うのみにあらざるなり。又魏の太子をして未だ其の先君を葬らざらしめ、而して因りて有た文王の義を説き、文王の義を説きて以て天下に示せり。豈に小功ならんや。韓氏、新城を城き、十五日を期して成さんとす。段喬、司空為り。一縣後るること二日なるもの有り。段喬、其の吏を執らえて之を囚す。囚者の子走りて封人(国境を守る官)子高に告げて曰く、「唯だ先生のみ能く臣の父の死を活かさん。願わくは之を先生に委ねん。」封人子高曰く、「諾。」乃ち段喬に見え、自ら扶けて城に上る。封人子高左右に望みて曰く、「美なるかな城や。一大功なり。子必ず厚賞有らん。古自り今に及ぶまで、功、此の若く其れ大にして、而も能く罪戮有ること無き者、未だ嘗て有らざるなり。」封人子高出づるや、段喬、人をして夜其の吏の束縛を解かしめて、之を出だす。故に曰く、「封人子高の之が言を為すや、己の為を匿して為せるなり。段喬の聽きて之を行うや、己の行を匿して行えるなり。」說の行われること此の若く其れ精なり。封人子高、善く說けりと謂う可し。叔嚮の弟羊舌虎、欒盈に善し。欒盈、晉に罪有り。晉、羊舌虎を誅す。叔嚮之が為に奴となりて朡る(高注:朡は繋なり)。祈奚曰く、「吾聞く、小人位を得て、爭わざるは不祥 なり。君子憂に在りて、救わざるは不祥なり。」乃ち往きて范宣子に見えて說くなり。曰く、「聞くならく、善く國を為むる者は、賞過ぎずして刑慢(みだり)ならず。賞過ぐれば則ち淫人に及ばんことを懼れ、刑慢ならば則ち君子に及ばんことを懼る。其の不幸にして過つに與(「於」の義に読む)いては、寧ろ過ちて淫人を賞すとも、過ちて君子を刑すること毋かれ。故に堯の刑するや、鯀を虞に殛して禹を用う。周の刑するや、管・蔡を戮して周公を相とす。刑を慢にせざるなり。」宣子乃ち吏に命じて叔嚮を出だす。人の患を救う者は、危苦を行い、煩辱を避けざるも、猶ほ免れしむること能わず。今、祈奚、先王の德を論じて、叔嚮、免るることを得たり。學は豈に以て已む可けんや。類多く此の若し。

二 察賢

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『孟子』巻第八離婁章句下 百七節、百八節

2018-04-11 10:20:39 | 四書解読
百七節

弟子の徐子が尋ねた。
「孔子はしばしば水を称えて、『水なるかな、水なるかな。』と言われましたが、水の何を見てこのように言われたのでしょうか。」
孟子は言った。
「原泉から混混と、昼夜の別なく流れ出た水は、くぼみが有れば満たして進み、やがて四海に至る。このように本源の有るものは、すべて尽きることがない。孔子はこの点を取り上げて称賛しているのだ。かりにも水も本源が無ければ、七、八月に集中して雨が降って、田閒の溝を水で満たしたとしても、雨が止めば見る間に枯れてしまう。それと同じで、人も評判だけが先行して、その本源である実がともなわなければ、すぐに忘れられてしまう。だから君子はそのような評判を恥とするのである。」

徐子曰、仲尼亟稱於水曰、水哉、水哉。何取於水也。孟子曰、原泉混混、不舍晝夜。盈科而後進、放乎四海。有本者如是。是之取爾。苟為無本、七八月之閒雨集、溝澮皆盈、其涸也、可立而待也。故聲聞過情、君子恥之。

徐子曰く、「仲尼亟々(しばしば)水を稱して曰く、『水なるか、水なるかな。』何をか水に取れるや。」孟子曰く、「原泉混混として、晝夜を舎かず。科(あな)に盈ちて而る後に進み、四海に放る。本有る者は是の如し。是を之れ取るのみ。苟しくも本無しと為さば、七八月の閒、雨集まりて、溝澮皆盈つるも、其の涸るるや、立ちて待つ可きなり。故に聲聞、情に過ぐるは、君子之を恥づ。」

<解説>
実を伴わない評判には気を付けなければならない。特に今の時代、インターネットの情報に惑わされないように注意をすることが大切である。

百八節

孟子は言った。
「人間が禽獣と異なる所はほんのわずかである。それは仁義の有る無しに由るのだ。庶民はその価値が分からずに棄て去ってしまうが、君子はその大切さを理解して保ち続けるのだ。舜は物事の道理をよく明察し、人間関係の秩序を心得ていたので、心に存する仁義に基づいて物事を実行し、仁義そのものを実行するようなことはしなかった。」

孟子曰、人之所以異於禽獸者幾希。庶民去之、君子存之。舜明於庶物、察於人倫。由仁義行、非行仁義也。

孟子曰く、「人の禽獸に異なる所以の者は、幾ど希なり。庶民は之を去り、君子は之を存す。舜は庶物を明らかにし、人倫を察す。仁義に由りて行う、仁義を行うに非ざるなり。」

<解説>
「庶民去之、君子存之」の「之」は下文の仁義を指す。趙注に云う、衆民、義を去り、君子、義を存すと。「非行仁義也」の解釈は二つある。一つは仁義そのものを実行するのではないという意味、もう一つは外から仁義を取り入れて実行するのではないという意味。私は前説を採用した。

『呂氏春秋』巻第二十恃君覧

2018-04-08 10:30:59 | 四書解読

巻二十 恃君覽

一 恃君

一に曰く。凡そ人の性、爪牙は以て自ら守衛するに足らず、肌膚は以て寒暑を扞ぐに足らず、筋骨は以て利に從い害を辟くるに足らず、勇敢は以て猛を卻け悍を禁ずるに足らず。然れども且つ猶ほ萬物を裁し、禽獸を制し、狡蟲(高注:狡蟲は蟲の狡害する者。害虫)を服し、寒暑燥溼も害すること能わざるは、唯だに先づ其の備有るのみならずして、而も羣を以て聚まるがためか。羣の聚まる可きは、相與に之を利とすればなり。利の羣より出づるは、君道立てばなり。故に君道立てば則ち利羣より出でて、人の備完かる可し。昔太古は嘗て君無し。其の民聚生羣處し、母を知りて父を知らず、親戚兄弟夫妻男女の別無く、上下長幼の道無く、進退揖讓の禮無く、衣服履帶、宮室畜積の便無く、器械舟車城郭險阻の備無し。此れ君無きの患なり。故に君臣の義は、明らかにせざる可からず。上世自り以來、天下亡國多し。而れども君道廢せざるは、天下之を利とすればなり。故に其の君に非ざるものを廢して、其の君道を行う者を立つ。君道とは何如。利して利すること物ければ章わる(兪樾により「物」は「勿」の義に読む)。非濱の東、夷・穢の鄉、大解・陵魚・其・鹿野・搖山・揚島・大人の居、多く君無し。揚・漢の南、百越の際,敝凱諸・夫風・餘靡の地、縛婁・陽禺・驩兜の國、多く君無し。氐・羌・呼唐・離水の西、僰人(ホク・ジン)・野人、篇笮(ヘン・サク)の川、舟人・送龍・突人の鄉、多く君無し。鴈門の北、鷹隼・所鷙・須窺の國、饕餮(トウ・テツ)・窮奇の地、叔逆の所・儋耳(タン・ジ)の居、多く君無し。此れ四方の君無き者なり。其の民は麋鹿禽獸のごとく、少者、長を使い、長者、壯を畏れ、力有る者は賢り、暴傲なる者は尊ばれ、日夜相殘い、時として休息すること無く、以て其の類を盡くす。聖人深く此の患を見る。故に天下の長慮を為すに(高注:「慮」は「計」なり。長慮は先々までの謀)、天子を置くに如くは莫し、と。一國の長慮を為すに、君を置くに如くは莫し、と。君を置くは、以て君に阿るに非ざるなり。天子を置くは、以て天子に阿るに非ざるなり。官長を置くは、以て官長に阿るに非ざるなり。德衰え世亂れ、然る後天子、天下を利とし、國君、國を利とし、官長、官を利とす。此れ國の遞(たがいに)に興こり遞に廢する所以なり。亂難の時に作る所以なり。故に忠臣廉士、之を內にしては則ち其君の過ちを諫め、之を外にしては則ち人臣の義に死するなり。豫讓、趙襄子を殺さんと欲し、鬚を滅し眉を去り、自ら刑して以て其の容を變じ、乞人と為りて往き、其の妻の所に乞う。其の妻曰く、「狀貌は吾が夫に似たる者無きも、其の音の何ぞ吾が夫に似たるの甚だしき。」又炭を吞みて以て其の音を變ず。其の友之に謂いて曰く、「子の道とする所は甚だ難くして功無し。子を志有りと謂うは則ち然り、子を智と謂うは則ち然らず。子の材を以てして、襄子に事うるを索むれば、襄子必ず子を近づけん。子、近づくを得て欲する所を行わば、此れ甚だ易くして功必ず成らん。」豫讓笑いて之に應えて曰く、「是れ先知のために後知に報ゆるなり(知は知遇の意で、ここでは主君を指す、故に先知は智伯で、後知は襄子を指す)。故君の為に新君を賊うなり。大いに君臣の義を亂す者なり、此れ無し。吾が之を為す所為(所以に同じ)を失う。凡そ吾の此を為す所為の者は、君臣の義を明らかにする所以なり。易きに從うに非ざるなり。」柱厲叔、莒の敖公に事う。自ら以て知られざると為して、去りて海上に居る。夏日は則ち菱芡(リョウ・ケン、ひしの実)を食らい、冬日は則ち橡栗(ショウ・リツ、ささぐりの実)を食らう。莒の敖公に難有り、柱厲叔、其の友に辭して往きて之に死せんとす。其の友曰く、「子自ら以て知られざると為し、故に去る、今又往きて之に死せば、是れ知らるると知られざると異別無きなり。」柱厲叔曰く、「然らず。自ら以て知られざると為し、故に去る。今死して往きて死せずんば、是れ果して我を知れるなり(君が不忠の臣であることを知っていたという意味)。吾將に之に死して以て後世の人主の其の臣を知らざる者を醜しめんとするなり。人に君たる者の行いを激して、人主の節を厲ます所以なり。行激せられ節厲まさるれば、忠臣、察を得るに幸いす。忠臣察せらるれば則ち君道固し。

二 長利

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