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『孟子』巻第八離婁章句下 九十節、九十一節

2018-01-30 10:24:34 | 四書解読
九十節

孟子は言った。
「舜は諸馮に生まれ、負夏に遷り、鳴條で亡くなった、東方の片田舎の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢で亡くなった、西方の片田舎の人である。それぞれ地を隔てること千餘里、時代を隔てること千餘歳である。それなのに志を得て天下に於いて行った事業は、割符を合わせたように一致している。それは先の聖人も後の聖人も、その考えや行いが同一であるということだ。」

孟子曰、舜生於諸馮、遷於負夏、卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周、卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也、千有餘里。世之相後也、千有餘歲。得志行乎中國、若合符節。先聖後聖、其揆一也。

孟子曰く、「舜は諸馮に生まれ、負夏に遷り、鳴條に卒す。東夷の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢に卒す。西夷の人なり。地の相去るや、千有餘里。世の相後るるや、千有餘歲。志を得て中國に行うは、符節を合するが若し。先聖後聖、其の揆一なり。」

<語釈>
○「符節」、玉に文字を刻み、それを半分にして互いに持つ、割符である。○「揆」、趙注:揆は度なり。考えや行い。

<解説>
趙岐の章指に云う、「聖人、世を殊にして、其の道を合す、地、比ばずと雖も、由りて一軌に通ず、故に以て百王の法と為す可きなり。

九十一節

鄭国の名臣子産が国政をあずかっていたとき、人々が歩いて溱水や洧水を渡っているの見て、自分の車に載せて渡してやったという。孟子はこれを批評して言った。
「非常に仁愛深い行いであるが、本当の政治と言うものを知らない行為である。農繁期に入ったらすぐに人民を集めて橋の工事にかかれば、十一月には歩いて渉る橋が、十二月には車を通せる橋が出来る。そうすれば人民は苦労せずに川を渡ることが出来る。為政者はその政を公正にやりさえすれば、外出した時に前の人民を人払いをさせたとて一向に差し支えない。とてもではないが一人一人を車に載せて渉らせることなど出来ない。為政者は大局的に物事を見るべきで、人ごとに恵みを施し悦ばせようとしていたら、幾ら日にちが有っても足るまい。」

子產聽鄭國之政,以其乘輿濟人於溱洧。孟子曰:「惠而不知為政。歲十一月徒杠成,十二月輿梁成,民未病涉也。君子平其政,行辟人可也。焉得人人而濟之?故為政者,每人而悅之,日亦不足矣。」

子產、鄭國の政を聽き、其の乘輿を以て、人を溱洧に濟せり。孟子曰く、「惠なれども政を為すを知らず。歲の十一月には徒杠成り、十二月には輿梁成らば、民未だ渉るを病まざるなり。君子、其の政を平らかにせば、行きて人を辟けしむるも可なり。焉くんぞ人人にして之を濟すを得ん。故に政を為す者は、人每にして之を悅ばさんとせば、日も亦た足らず。」

<語釈>
○「子產」、鄭の卿で名臣であり、大政治家として有名。○「溱洧」、溱(シン)水、洧(イ)水○「徒杠」、徒歩で渉る仮橋。○「輿梁」、車が渡れる橋。○「行辟人可也」、服部宇之吉氏云う、外出して道を行く時に通行人を拂いて道を避けしむるも差支えなしと云う義。

<解説>
十一月、十二月については、周暦と夏暦の二説がある。趙岐や朱子は周暦とする。阮元は夏暦とする。この説を承けて服部宇之吉氏は云う、十一月、十二月は農事の閑なる時を擇べるなり、夏は徒渉苦しからず、又洪水ありて橋を失うこと多きを以て冬期に至りて架橋するなり、歳の某月と云うは、夏の代の暦を以て云うなり、趙注は誤れり、と。これにより私は夏暦説を採用している。
子産については、『春秋左氏伝』などを読んでいるかぎり、大政治家であり、この程度の事に気づかないとはとても思えない。この話は一つの説話として当時伝わっていたのであろう。

『史記』孝武本紀

2018-01-23 10:52:16 | 四書解読

『史記』孝武本紀

この孝武本紀は司馬遷の手によるものではない。太史公自序に曰く、「今上本紀を作る。」と。然るにこれを奏上するや、その内容が武帝の過誤を隠すことなく記せられていたので、怒りにふれ削り去られた。その後、褚少孫が『封禅書』の武帝の部分を以て本紀にあてたと言われている。索隠に、「褚先生の史記を補うや、合に武帝の事を集めて以て編年すべし、今止(ただ)、封禅書を取りて之を補うは、信に其の才の薄きなり。」と述べられており、これが誠ならば、“信に其の才の薄きなり”で、お粗末としか言いようがない。

孝武皇帝は、孝景の中子なり。母を王太后と曰う。孝景四年、皇子を以て膠東王と為す。孝景七年、栗太子廢せられて臨江王と為り、膠東王を以て太子と為す。孝景、十六年に崩ず。太子、位に即く。孝武皇帝と為る。孝武皇帝初めて位に即き、尤も鬼神の祀を敬す。
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『孟子』巻第七離婁章句上 八十七節、八十八節、八十九節

2018-01-19 15:01:01 | 四書解読
八十七節

孟子は言った。
「不孝には三つあるが、中でも一番大きな不孝は後継ぎがなく家を絶やすことである。舜が親に告げずに妻を娶ったのは、礼には外れているが、家を絶やすことを恐れた為であったので、後世の識者はその舜の行為を、同意を得たも同じだと見なしたのである。」

孟子曰、不孝有三。無後為大。舜不告而娶、為無後也。君子以為猶告也。

孟子曰く、「不孝に三有り。後無きを大なりと為す。舜の告げずして娶るは、後無きが為なり。君子以て猶ほ告ぐるがごとしと為す。」

<解説>
三つの不幸について、趙注に云う、禮に於いて不孝なる者は三事有り、意に阿り曲げて從い、親を不義に陥らす、一の不孝と謂う、家貧しく親老うるに、禄仕せず、二の不孝と謂う、娶らず子無く、先祖の祀りを絶つ、三の不孝と謂う。後無きとは、後継者がいないということであるが、その本意は家を絶やすことである。

八十八節

孟子は言った。
「仁の具体的な内容は、親に仕えること、乃ち孝であり、義の内容は兄に従うこと、乃ち悌である。知の内容は、この孝と悌との大切さをよく知って、この道から離れないことだ。礼の内容は、孝悌の道を行うに際して、節度を守り、それを美しく整える事で、音楽の内容は、この道を楽しむことにある。そのような音楽を楽しんでいれば、自ずから孝悌を大切にする心が生じてくる。このように楽しいという気持ちから生まれた孝悌を大切にする心は、一たび生まれるとどうして止めることができようか。止めることが出来ないというのは、音楽を聞いて知らず知らずのうちに手は舞い足は拍子をとるのと同じように、自然な気持ちで孝悌の道を行うことが出来るということだ。

孟子曰、仁之實、事親是也。義之實、從兄是也。智之實、知斯二者弗去是也。禮之實、節文斯二者是也。樂之實、樂斯二者。樂則生矣。生則惡可已也。惡可已、則不知足之蹈之、手之舞之。

孟子曰く、「仁の實は、親に事うること是れなり。義の實は、兄に從うこと是れなり。智の實は、斯の二者を知りて去らざること是れなり。禮の實は、斯の二者を節文すること是れなり。樂の實は、斯の二者を樂しむ。樂しめば則ち生ず。生ずれば則ち惡んぞ已む可けんや。惡んぞ已む可けんやとならば、則ち足の之を蹈み、手の之を舞うを知らず。」

<語釈>
○「實」、趙注:事には皆實有り。物事の具体的な内容を意味する。○「不知足之蹈之、手之舞之」、趙注:其の心の歓喜するは、音楽を聽く者は、手舞い足蹈み、曲節に應じ、而も自ら知らざるが若きなり。

<解説>
趙岐の章指に云う、「仁義の本は孝悌に在り、孝悌の至りは神明に通ず、況や歌舞の自ら知ること能わざるをや、蓋し諸を中に有し、諸を外に形わす。

八十九節

孟子は言った。
「天下の民が心から喜んで自分に帰服するのを、雑草やごみを視るかのように、気にもせず喜びもしなかったのは、ただ舜だけである。それというのも、親に受け入れられないようでは、一人前の人間と言えないし、親に喜んで従われるようでなければ、子とは言えないと思ったからである。だから舜は心を尽くして親に仕えたので、さすがに頑固な父親の瞽瞍も心を許し、満足して喜ぶようになった。瞽瞍が喜んで満足するようになると、天下の父子も皆感化されたのである。このように父親の瞽瞍が喜びを致して、天下の父子の道が定まった。これこそが大孝と謂うものである。」

孟子曰、天下大悅而將歸己。視天下悅而歸己、猶草芥也、惟舜為然。不得乎親、不可以為人。不順乎親、不可以為子。舜盡事親之道而瞽瞍厎豫。瞽瞍厎豫而天下化。瞽瞍厎豫而天下之為父子者定。此之謂大孝。

孟子曰く、「天下大いに悅びて將に己に歸せんとす。天下悅びて己に歸するを視ること、猶ほ草芥のごときは、惟だ舜をのみ然りと為す。親に得られずんば、以て人と為す可からず。親に順われずんば、以て子と為す可からず。舜、親に事うるの道を盡くして、瞽瞍、豫びを底せり。瞽瞍、豫びを底して天下化せり。瞽瞍、豫びを底して、天下の父子為る者定まれり。此を之れ大孝と謂う。」

<語釈>
○「瞽瞍」、舜の父親、舜を虐待したことで知られている。○「厎豫」、「厎」は「致」なり、「豫」は「樂」なり。

<解説>
孟子の思想の根本は仁義にあり、仁については、前節で、「仁の實は、親に事うること是れなり。」と述べられている。それをこの節では、舜を例にして、親に仕えること、乃ち孝の道を尽くし、それを天下に感化することにより、天下が治まることを説いている。仁義の道は、人道であるだけでなく、国家治平の道でもある。これが孟子の言いたい事であろう。

『呂氏春秋』巻第十六先識覧

2018-01-13 10:26:50 | 四書解読
巻十六 先識覽

一 先識

一に曰く。凡そ國の亡ぶるや、有道なる者必ず先づ去るは、古今一なり。地は城に從い、城は民に從い、民は賢に從う。故に賢主は賢者を得て民得られ、民得られて城得られ、城得られて地得らる。夫れ地得らるるとは、豈に必ずしも足其の地に行きて、人ごとに其の民に説かんや。其の要を得るのみ。夏の太史令終古、其の圖法(図録と法典)を出だし、執りて之に泣く。夏桀迷惑して、暴亂愈々甚だし。太史令終古乃ち出奔して商に如く。湯喜びて諸侯に告げて曰く、「夏王無道にして、百姓を暴虐し、其の父兄を窮しめ、其の功臣を恥かしめ、其の賢良を輕んじ、義を棄てて讒を聽き、衆庶咸怨む。守法の臣、自ら商に歸せり。」殷の內史向摯、紂の愈々亂れて迷惑するを見るや、是に於て其の圖法を載せ、出亡して周に之く。武王大いに說び、以て諸侯に告げて曰く、「商王大いに亂れ、酒德に沈み、箕子を辟遠し、爰に姑と息とを近づけ(姑は婦人、息は寵臣)、妲己政を為し、賞罰に方無く、法式を用いず、三不辜を殺し、民大いに服さず。守法の臣、周國に出奔す。」晉の太史屠黍、晉の亂を見、晉公の驕りて德義無きを見るや、其の圖法を以て周に歸す。周の威公見て焉に問いて曰く、「天下の國孰れか先づ亡びん。」對えて曰く、「晉先づ亡びん。」威公其の故を問う。對えて曰く、「臣比(このごろ)晉に在るや、敢て直言せず。晉公に示すに天妖、日月星辰の行、多く以て當ならざるを以てす。曰く、『是れ何ぞ能く為さん。』又示すに、人事に不義多くして、百姓皆鬱怨するを以てす。曰く、『是れ何ぞ能く傷つけん。』又示すに鄰國服せずして、賢良舉げられざるを以てす。曰く、『是れ何ぞ能く害せん。』是きの如くなれば、是れ亡ぶる所以を知らざるなり。故に臣、晉先づ亡びん、と曰うなり。」居ること三年にして、晉果して亡ぶ。威公又屠黍を見て焉に問いて曰く、「孰れか之に次かん。」對えて曰く、「中山之に次がん。」威公、其の故を問う。對えて曰く、「天民を生じて別に有らしむ。別有るは、人の義なり。禽獸麋鹿に異なる所にして、君臣上下の立つ所以なり。中山の俗は、晝を以て夜と為し、夜を以て日に繼ぎ、男女切倚して(高注:「切」は「磨」、「倚」は「近」なり。「磨」は互いにこすり合う意で、「切倚」は抱き合っている意)、固より休息無く、康樂(淫酒に耽る楽しみ)して、歌謠は悲を好む。其の主惡むを知らず。此れ亡國の風なり。臣故に、中山之に次がん、と曰う。」居ること二年にして、中山果して亡ぶ。威公又屠黍を見て焉に問いて曰く、「孰れか之に次がん。」屠黍對えず。威公固く焉に問う。對えて曰く、「君之に次がん。」威公乃ち懼れ、國の長者を求め、義蒔・田邑(人名)を得て之を禮し、史驎・趙駢を得て以て諫臣と為し,苛令三十九物を去り、以て屠黍に告ぐ。對えて曰く、「其れ尚わくは君の身を終えんか。」曰く、「臣之を聞く、國の興るや、天、之に賢人と極言の士とを遺り、國の亡ぶるや、天、之に亂人と善諛の士とを遺る、と。」威公薨じ、肂(シ、仮葬の義)して、九月葬るを得ず。周乃ち分かれて二と為る。故に有道者の言は、重んぜざる可からざるなり。周鼎に饕餮(トウ・テツ、惡獣の名)を著す。首有りて身無し。人を食いて未だ咽まざるに、害其の身に及ぶ、以て報更を言うなり(人を飲み込まないうちに体が亡くなるという害に見舞われることで、因果応報を言っている)。不善を為すも亦た然り。白圭、中山に之く。中山の王、之を留めんと欲す。白圭固く辭し、輿に乘りて去る。又齊に之く。齊王、之を留めて仕えしめんと欲す。又辭して去る。人、其の故を問う。曰く、「之の二國は皆將に亡びんとす。學ぶ所に五盡有り。何をか五盡と謂う。曰く、之を必すること莫ければ、則ち信盡き、之を譽むること莫ければ、則ち名盡き、之を愛すること莫ければ、則ち親盡き、行く者糧無く、居る者食無ければ則ち財盡き、人を用うる能わず、又自ら用うる能わざれば、則ち功盡く。國に此の五者有れば、幸い無くして必ず亡びん。中山・齊は皆此に當たれり。」若し中山の王と齊王とをして、五盡を聞きて之を更めしむれば、則ち必ず亡びざらん。其の患いは聞かず、これを聞くと雖も又信ぜざるあり。然らば則ち人主の務は、善く聽くに在るのみ。夫れ五割して趙に與え(高注:中山、地を五割して趙に與えども、趙卒に之を亡ぼせり)、悉く起ちて軍を濟上に距げども(高注:齊悉く軍を起こして以て燕人を濟上に距げども、燕卒に之を破る)、未だ益有らざるなり。是れ其の存する所以を棄てて、其の亡ぶる所以を造せばなり。

二 觀世


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『孟子』巻第七離婁章句上 八十四節、八十五節、八十六節

2018-01-04 10:30:14 | 四書解読
八十四節

孟子は言った。
「自分にとっての弊害は、好んで人の師になろうとすることだ。」

孟子曰:「人之患、在好為人師。」

孟子曰く、「人の患いは、好んで人の師と為るに在り。」

<解説>
人に教える器量もないのに、教えたがるのは、己自身の進歩を妨げることになるので、慎むべきであると言うことであろう。

八十五節

孟子の弟子の魯の樂正子が、齊の使者として魯に来ていた子敖が齊に帰るのに随行して齊に行った。そして齊に居る孟子にお目にかかった。すると孟子は言った。
「お前もやはり私に会いに来るか。」
「先生はどうしてそのような事をおっしゃるのですか。」
「お前は、こちらへ来て何日になる。」
「数日でございます。」
「数日も経つのなら、私がそのように言うのも当然ではないか。」
「宿舎が定まっていなかったらでございます。」
「お前は目上の人にお目にかかるのに、そんな礼があると教わったのかね。宿舎が決まってから挨拶に行くものだという礼を。」
「私が間違っておりました。」


樂正子從於子敖之齊。樂正子見孟子。孟子曰、子亦來見我乎。曰、先生何為出此言也。曰、子來幾日矣。曰、昔者。曰、昔者、則我出此言也、不亦宜乎。曰、舍館未定。曰、子聞之也。舍館定、然後求見長者乎。曰、克有罪。

樂正子、子敖に從いて齊に之く。樂正子、孟子に見ゆ。孟子曰く、「子も亦た來たりて我を見るか。」曰く、「先生何為れぞ此の言を出だすや。」曰く、「子來たること幾日ぞ。」曰く、「昔者なり。」曰く、「昔者ならば、則ち我、此の言を出だすも、亦た宜ならずや。」曰く、「舍館未だ定まらざればなり。」曰く、「子、之を聞けりや。舍館定まりて、然る後に長者に見ゆることを求むるか。」曰く、「克、罪有り。」

<語釈>
○「樂正子」、趙注:魯の人樂正克、孟子の弟子なり、齊の右師子敖に從う、子敖、使いして魯に之く、樂正子、之に随い、來たりて齊に之く。○「昔者」、趙注:「昔者」は往なり、數日の閒を謂う。

<解説>
孟子が樂正子に厳しいことを言ったのは、次節とも関係が有るので、次節の解説で詳しく述べたい。

八十六節

孟子は弟子の樂正子に言った。
「お前が子敖に従ってやって来たのは、ただ飲食のためか。私は思ってもいなかった、お前が古の聖人の道を学びながら、それを活かしもしないで、飲食の為だけに行動するとは。」

孟子謂樂正子曰、子之從於子敖來、徒餔啜也。我不意、子學古之道、而以餔啜也。

孟子、樂正子に謂いて曰く、「子之の子敖に從いて來たるは、徒に餔啜するなり。我意わざりき、子、古の道を學びて、而も以て餔啜せんとは。」

<語釈>
○「餔啜」、趙注:學びて其の道を行わず、徒に食飲するのみ、之を餔啜と謂う。

<解説>
前節で孟子は、樂正子がすぐに挨拶に来なかったのを非難したが、その本意はそこに有るのではなく、とかく正道から外れた評判の悪い子敖を匡正することもなく、ただ飲食の為だけに随行してきたことを非難しているのだ。服部宇之吉氏云う、即ち道を以て子敖を匡正する所なく、徒に衣食を目的とするを責むるなり。