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『孟子』巻第十三盡心章句上 二百十八節、二百十九節、二百二十節

2019-07-23 10:08:15 | 四書解読
二百十八節
孟子は言った。
「天下に道が行われている時は、わが身に道を従えて、世に出て大いに活躍するが、天下に道が行われていない時は、道にわが身を従えて、道を守って世に隱れるのがよい。身と道とは常に即しているものであって、自分が守っている正しい道を屈して、俗人に從うなどとは聞いたことがない。」

孟子曰、天下有道、以道殉身、天下無道、以身殉道。未聞以道殉乎人者也。

孟子曰く、「天下、道有れば、道を以て身に殉え、天下、道無ければ、身を以て道に殉う。未だ道を以て人に殉う者を聞かざるなり。」

<語釈>
○「以道殉身~未聞以道殉乎人者也」、趙注:「殉」は從うなり。天下、道有れば、王政を行うを得、道、身に從いて功賞を施すなり、天下、道無ければ、道、行うを得ず、身を以て道に從い、道を守りて隱る。正道を以て俗人に從う者を聞かざるなり。

<解説>
君子たる者は、正道が行われている世の中ならば、世に現れて栄達するのもよいが、乱れた世ならば、己の道を守って隠れ住むのがよいとする。このことは各所で説かれている。人にとって大事なことは栄達で無く、如何に道を守るかと言うことである。

二百十九節
公都子が言った。
「滕君の弟である滕更が、先生の門下に学んでおられますが、この方は君主の弟君であり、それなりに礼遇されるべき立場だと思うのですが、まともにご返事なさらないのは、なぜですか。」
孟子は言った。
「身分を鼻にかけて問う、賢いことを鼻にかけて問う、年長を鼻にかけて問う、功勞があるのを鼻にかけて問う、縁故をかさに着て問う。このような問いに対して、私は全て答えない。滕更はこのうち二つもあるのだ。」

公都子曰、滕更之在門也、若在所禮。而不答、何也。孟子曰、挾貴而問、挾賢而問、挾長而問、挾有勳勞而問、挾故而問、皆所不答也。滕更有二焉。

公都子曰く、「滕更の門に在るや、禮する所に在るが若し。而も答えざるは、何ぞや。」孟子曰く、「貴を挟みて問い、賢を挟みて問い、長を挟みて問い、勳勞有るを挟みて問い、故を挟みて問うは、皆答えざる所なり。滕更二つ有り。」

<語釈>
○「滕更」、趙注:滕更は、滕君の弟、來たりて孟子に學ぶ者なり。

<解説>
趙岐の章指に云う、「學は、己を虚にすることを尚び、師は、誨うるに平を貴ぶ、是を以て滕更は二に恃む、孟子應えず。滕更の二について、趙岐は貴と賢だとしている。

二百二十節
孟子は言った。
「止めてはいけない時に止める者は、何事も最後までやり遂げることは出来ない。厚くすべきことを薄くする者は、何でも薄くする。進み方の鋭い者は、退き方も速いのである。」

孟子曰、於不可已而已者、無所不已。於所厚者薄、無所不薄也。其進銳者、其退速。

孟子曰く、「已む可からずに於いて已むる者は、已めざる所無し。厚くする所の者に於いて薄くするものは、薄くせざる所無し。其の進むこと銳き者は、其の退くこと速やかなり。」

<語釈>
○「已」、趙注は棄てるに解し、朱注は止むに解す。朱注を採用する。

<解説>
短文であるが故に、その内容はあいまいである。朱子によれば、不及の弊害と、過ぎたるの弊害を述べている。前の二句が不及の弊害であり、最後の句が過ぎたるの弊害である。安井息軒氏云う、「此の章、趙は人君の人を用うるを以て言う、朱は自ら脩むるを以て言う、義は皆通ず可し。」

『孫子』巻第九行軍篇

2019-07-18 11:14:18 | 四書解読
巻九 行軍篇
孫子は言う。およそ行軍中の軍を宿営させる事、又は戦場での位置を決める事、敵情を判断する事について。まず宿営地又は戦場の位置については、山を行軍する時は谷川の近くで宿営し、生存に適した高所に陣取りせよ。敵が高所に居れば登って攻めてはいけない。これが山地における軍のあり方である。川を渡った時は必ず川から離れて宿営し、敵が川を渡って攻めてきたら、其の先頭部隊を川の中で迎え撃ってはいけない。半ばを渡らせてから迎え撃つのが有利である。敵との戦いを望むならば、川岸に敵を待ち受けるように布陣せず、生存に適した高所に軍を置き、下流にいて上流の敵を迎え撃つ様なことをしてはいけない。これが水辺における軍のあり方である。湿地帯を渡るときは速やかに立ち去り留まるな。もしその湿地帯で敵と戦うことになれば、水草のある所に依り、多くの樹を背にせよ。これが湿地帯における軍のあり方である。平地に於いてはでこぼこの無い車騎が動きやすい地に布陣して、高い所があればそれを右後方にして、生存に適さない地を前にして、適した地を後ろにする。これが平地における軍のあり方である。以上の四つの軍のあり方の有利性は、黄帝が四方の皇帝と称していた諸侯と戦って勝った原因である。およそ軍は高い所をよしとし低い所を避け、陽気の地を善しとし陰気の地を避けて、馬を養う水草が生えており、食糧を確保するのに便利な土地におれば、軍に種々の病気も発生しない。これを必勝の軍というのである。丘や堤防がある場合は、必ず日当たりの善い所で布陣し、丘や堤防が右後ろにくるようにする。これは兵を有利にするには地形の助けを得ると言うことである。上流で雨が降り、泡立った波が押し寄せて流れてくれば、川を渡ろうとする者は水流が落ち着くまで待つのがよい。およそ地形で、奥深い山で大水がやってきそうな谷川、四方を切り立った崖に囲まれた土地、山深く草木が茂り道らしきものもない所で、出口も分からず閉じ込められたような所、自然にできた落とし穴があるような所、山あいが狭く細い所、このような危険な所は素早く立ち去り近づいてはいけない。我が軍はこのような危険な地域からは出来る限り遠ざかり、敵にはこれに近づかしめ、そうして我が軍が敵に向かって進めば、敵は危険な地域を背にすることになる。軍の側に険阻な地、溜水や井戸のある所、葦が群生している所、木が多く茂っている山林、草木が密生している所などが有れば、慎重に敵兵が隠れていないか探索せよ。これらは兵を潜ませておくのに適した場所である。敵が近くに布陣していて静かなのは堅個な守りを頼りとしているのである。遠くに陣を置きながら戦いを挑んでくる者は、我が軍を進撃させようとしているのである。敵が険阻によらず平地に布陣している時は、それにより何か有利になることを見込んでいるからである。多くの木が動いているのは樹木を伐採して道を切り開いているためで、敵がやって來る兆しである。草の多い所で、草を使って物を作ったり通行を妨げたりするのは、我が軍に疑念を興させるためである。鳥が急に飛び立つのは伏兵がいるからである。獣が山林から驚き走り出して来る時は奇襲部隊がいる。塵が舞い上がって鋭いのは戦車が来るのであり、塵が低く広く舞い上がっている時は歩兵が来るのである。塵が所々に細かく断続的に舞い上がっているのは炊事用の薪を採っているのである。塵の上がるのが少なくて、行ったり来たりしているのは陣の設営をしているのである。敵の軍使の言葉はへりくだっているが、守備をより堅くする者は、我が軍を油断させて攻めようとしているのである。語調は強いが偽りに満ちており、馳せ来りて我を伐たんとする勢いを示すのは、退却する時である。戦車が先ず出てきてその傍らを歩兵が固めているのは、将に戦おうとしているのである。敵の軍使が具体的な内容を示さずに講和を求めてくるのは、敵が何か謀をしているのである。敵が走り回って戦車を並べているのは、決戦を期しているのである。敵が進んだり退いたりしている時は我が軍を誘いだそうとしているのである。敵陣に兵器を杖にして立っているものが居るのは食糧が欠乏している証拠である。水を汲むや未だ汲み終わっていないのに先に水を飲むのは飲料水が欠乏している証拠である。敵が有利であるにもかかわらず攻めてこないのは敵が疲弊しているからである。敵の壘の上に鳥が集まっているのは既に敵はおらず見せかけである。夜、敵陣で大きな声で呼び合っているのは、恐怖を紛らわそうとしているのである。敵陣が乱れて騒がしいのは将が無能で威厳がない証拠である。敵陣で旌旗がやたらと動き回っているのは、内部が乱れている証拠である。隊長がやたらと部下に怒っているのは、兵が戦いに倦み部隊がたるんでいる証拠である。大切な馬を食べ、炊事用具を棄て、陣地に帰らないのは、必死の覚悟で決戦しようとしている証拠である。将が丁寧にくどくどと部下に話し聞かせている時は、すでに部下の心が離れている証拠である。しばしば兵に賞を与えるのは、兵たちが追い詰められて苦しんでいる証拠であり、しばしば兵に罰を与えるのは、兵たちが苦しんで軍務に励んでいない証拠である。初めに兵を手荒く扱い、後に彼らが離反するのではと畏れるのは、兵を扱う道に通じていない証拠である。敵が贈り物を携えて詫びを言いに来るのは、休息を欲している証拠である。敵が怒りを持って我が軍の進撃に対応してくるが、久しく対峙して戦おうとせず、それでいて退却しないのは、伏兵を潜ませているか、他の謀がある可能性が有るので、慎重に調べなければならない。互いの兵力が等しい時は、唯だむやみに武力に任せて進むべきでなく、我が軍の力を集中させて敵の実情をよく調べるべきだ。そうすれば敵に勝つことができる。それに対し熟慮することも無く敵を軽んずる者は、必ず捕虜となるであろう。兵が将軍に未だ懐き親しんでいないのに罰だけを行えば兵は将軍に心服しない。心服しなければ将軍は兵を用いることが難しい。兵が将軍に心服するようになって、罰を行わなければ、兵はわがままになり用いることが難しい。だから兵に教令する時は仁愛の心を以てし、兵を整えるには法に従って行う。平素よりこのようにしておれば、これは敵を攻めれば必ず勝つ方法だと言える。教令が平素より行われておれば、新たに動員した兵たちに軍令を教えても彼らは従うだろう。教令が平素より行われていなければ、新たに動員した兵たちに軍令を教えても彼らは従わないだろう。将軍たる者は平素より兵たちに信義や恩恵に基づいて威令を示しておくべきである。そうすれば戦時の時、兵たちに法を立てて命令をしても、兵たちは命令を守り従うのである。

孫子曰、凡處軍相敵、絶山依谷、視生處高。戰隆無登。此處山之軍也。絶水必遠水。客絶水而來、勿迎于水內。令半濟而撃之利。欲戰者、無附于水而迎客。視生處高、無迎水流。此處水上之軍也。絶斥澤、惟亟去勿留。若交軍于斥澤之中、必依水草、而背衆樹。此處斥澤之軍也。平陸處易右背高、前死後生。此處平陸之軍也。凡此四軍之利、黄帝之所以勝四帝也。凡軍好高而惡下、貴陽而賤陰、養生處實、軍無百疾。是謂必勝。邱陵隄防、必處其陽、而右背之。此兵之利、地之助也。上雨水沫至、欲渉者、待其定也。凡地有絶澗天井天牢天羅天陷天隙、必亟去之、勿近也。吾遠之、敵近之、吾迎之、敵背之。軍旁有險阻潢井蒹葭林木翳薈者、必謹覆索之。此伏姦之所處也。敵近而靜者、恃其險也。遠而挑戰者、欲人之進也。其所居者易、利也。衆樹動者、來也。衆草多障者、疑也。鳥起者、伏也。獸駭者、覆也。塵高而銳者、車來也。卑而廣者、徒來也。散而條達者、樵採也。少而往來者、營軍也。辭卑而益備者、進也。辭詭而強、進驅者退也。輕車先出居其側者、陣也。無約而請和者、謀也。奔走而陳兵車者、期也。半進半退者、誘也。仗而立者、飢也。汲而先飲者、渴也。見利而不進者、勞也。鳥集者、虚也。夜呼者、恐也。軍擾者、將不重也。旌旗動者、亂也。吏怒者、倦也。粟馬肉食、軍無懸缻、不返其舍者、窮寇也。諄諄翕翕徐與人言者、失衆也。數賞者、窘也、數罰者、困也。先暴而後畏其衆者、不精之至也。來委謝者、欲休息也。兵怒而相迎、久而不合、又不相去、必謹察之。兵非益多、惟無武進、足以併力料敵取人而已。夫惟無慮而易敵者、必擒于人。卒未親附而罰之、則不服。不服則難用。卒已親附而罰不行、則不可用。故令之以文、齊之以武。是謂必取。令素行以教其民、則民服。令不素行以教其民、則民不服。令素信著者、與衆相得也。

孫子曰く、凡そ軍を處き敵を相するに(注1)、山を絶(わたる)れば谷に依り(注2)、生を視て高きに處る(注3)。隆きに戰いて登る無かれ。此れ山に處るの軍なり。水を絶れば必ず水を遠くにす。客水を絶りて來らば、之を水內に迎うること勿れ。半ば濟らしめて之を撃たば利なり。戰わんと欲すれば、水に附きて客を迎うる無かれ。生を視て高きに處り、水流を迎うる無かれ。此れ水上に處るの軍なり。斥澤を絶れば、惟だ亟かに去りて留まる無かれ(注4)。若し軍を斥澤の中に交うれば、必ず水草に依りて、衆樹を背にせよ。此れ斥澤に處るの軍なり。平陸には易きに處りて高きを右背し(注5)、死を前にして生を後ろにせよ。此れ平陸に處るの軍なり。凡そ此の四軍の利は、黄帝の四帝に勝ちし所以なり。凡そ軍は高きを好みて下きを惡み、陽を貴びて陰を賤しみ(注6)、生を養いて實に處れば(注7)、軍に百疾無し。是を必勝と謂う。邱陵・隄防には、必ず其の陽に處りて、之を右背にす。此れ兵の利は、地の助けなり(注8)。上雨りて水沫至れば、渉らんと欲する者は、其の定まるを待て。凡そ地に絶澗・天井・天牢・天羅・天陷・天隙有らば(注9)、必ず亟かに之を去りて近づく勿れ。吾は之に遠ざかり、敵は之に近づかせ、吾は之を迎えば、敵は之を背にせん。軍の旁に險阻・潢井・葭葦・山林・蘙薈有れば(注10)、必ず謹んで之を覆索せよ。此れ伏姦の處る所なり。敵近くして靜なるは、其の險を恃むなり。遠くして戰いを挑むは、人の進まんことを欲すればなり。其の居る所の者易なるは、利あればなり(注11)。衆樹動くは、來るなり(注12)。衆草障り多きは疑わしむるなり(注13)。鳥起つは、伏なり。獸駭くは、覆なり(注14)。塵高くして銳きは、車來るなり。卑くして廣きは、徒來るなり。散じて條達するは、樵採するなり(注15)。少くして往來するは、軍を營むなり。辭卑くして備を益すは、進むなり(注16)。辭詭にして強く、進驅するは退くなり(注17)。輕車先づ出でて其の側に居るは、陣せんとするなり(注18)。約無くして和を請うは、謀るなり。奔走して兵車を陳ぬるは、期するなり。半ば進み半ば退くは、誘うなり。仗つきて立つは、飢うるなり(注19)。汲みて先づ飲むは、渴せるなり。利を見て進まざるは、勞せるなり。鳥集まるは、虚なり(注20)。夜呼ぶは、恐るるなり。軍擾るるは、將重からざるなり。旌旗動くは、亂るるなり。吏怒るは、倦めるなり。馬に粟し肉食して、軍に缻を懸くること無く、其の舍に返らざるは、窮寇なり(注21)。諄諄翕翕として徐に人と言うは、衆を失えるなり(注22)。數々賞するは、窘しめるなり、數々罰するは、困しめるなり(注23)。先づ暴して而る後其の衆を畏るるは、不精の至りなり(注24)。來りて委謝するは、休息を欲するなり(注25)。兵怒りて相迎え、久しくして合わず、又相去らざるは、必ず謹んで之を察せよ(注26)。兵は益多に非ざるとき(注27)、惟だ武進する無かれ、以て力を併せ敵を料るに足らば、人を取らんのみ(注28)。夫れ惟だ慮無くして、敵を易る者は、必ず人に擒にせらる。卒未だ親附せずして之を罰すれば、則ち服せず。服せざれば則ち用い難し。卒已に親附して罰行わざれば、則ち用う可からず。故に之に令するに文を以てし、之を齊うるに武を以てす(注29)。是を必ず取ると謂う。令素より行われて、以て其の民に教うれば、則ち民服す。令素より行われずして、以て其の民に教うれば、則ち民服せず。令素より信著なる者は、衆と相得るなり(注30)。

<語釈>
○注1、十注:張預曰く、「絶山依谷」自り「伏姦之所處」に至るまでは、則ち軍を處くの事なり、「敵近而靜」自り「必謹察之」に至るまでは、則ち敵を相するの事なり。○注2、十注:杜牧曰く、「絶」は「過」なり、「依」は「近」なり、軍行するに、山険を経過せば、須らく谷に近くして水草の利有るべし。○注3、「生」は生地、死地に対する言葉。生きることのできる場所。○注4、十注:陳皥曰く、斥は鹹鹵の地、水草に惡し。賈林曰く、鹹鹵の地は、多く水草無く、久しく留まる可からず。○注5、十注:張預曰く、平原廣野は車騎の地、必ず其の坦易にして坎陥無きの處を擇び、以て軍を居するは、馳突に利する所以なり。○注6、山の南を陽と言い、北を陰と言い、川の北を陽と言い、南を陽と言うのが普通であるが、ここでは単に陽気の地と陰気の地の意味に解釈しておくのがよいと思う。○注7、十注:梅堯臣曰く、「養生」は、水草に便あり、「處實」は、糧道に利あり。○注8、十注:梅堯臣曰く、兵の利する所の者は、形勢を得て以て助けと為す。○注9、十注:曹公曰く、山深く水大なる者を絶澗と為し、四方高く中央下きを天井と為し、深山にして過ぎる所蒙籠(草木がおびただしく茂っている貌)の若き者を天牢と為し、以て人を羅絶(捕らえて閉じ込める意)する者を天羅と為し、地形陥する者を天陷と為し・山澗迫狭し、地形深きこと數尺、長きこと數丈なる者を天隙と為す。○注10、「潢井」(コウ・セイ)は、水溜まりと井戸、「葭葦」(カ・イ)は、あし、「蘙薈」(エイ・ワイ)は、草木の密生地。○注11、十注:張預曰く、敵人、険を捨てて易に居るは、必ず利有ればなり。○注12、十注:曹公曰く、樹木を斬伐し、道を除して、進み來る、故に動く。○注13、十注:張預曰く、或いは敵、我を追わんと欲して(『直解』は、「或いは退き去らんと欲す」に作る、これを採用して解釈する)、多く障蔽を為り、留まる形を設けて遁れ、以て其の追うを避く、或いは我を襲わんと欲して、草木を叢聚し、以て人の屯と為し、我をして東に備えしめて西を撃つ、皆疑を為す所以なり。○注14、十注:張預曰く、凡そ人を掩覆せんと欲する者は、険阻草木の中由り來る、故に伏獣を驚起し、奔り駭かす。奇襲部隊の事で、伏兵より規模が大きい。○注15、十注:王晳曰く、「條達」は、繊微斷續の貌。「樵採」は薪を採ること。○注16、十注:杜牧曰く、敵人の使い來り、言辭卑遜にして、復た塁を増し壁を堅く我を懼るるが若きは、是れ我を驕らして懈怠せしめんと欲するなり、必ず来りて我を攻めん。○注17、「辭詭而」は原本では「辭強而」に作るが、曹公の注や杜佑の注では、「詭」は詐なりとあることから、「辭詭而」に改めた。○注18、十注:張預曰く、輕車は戦車なり、軍を其の旁に出だし、兵を陳ね戰わんと欲するなり。○注19、十注:張預曰く、凡そ人は食せざれば、則ち困す、故に兵器に倚りて立つ。これにより「仗」は兵器、兵器にすがって立つこと。○注20、十注:杜佑曰く、敵大いに營壘を作り、我が衆に示して、鳥、其の上に集まり止まるは、其の中虚なり。○注21、十注:王晳曰く、馬に粟し肉食するは、力を為し且つ久しくする所以なり、軍に缻無きは、復た飲食せざるなり、舎に返らざるは、回心無きなり、皆死を以て決戦するを謂うのみ。○注22、「諄諄」は、丁寧に言う貌、「翕翕」は、くどく言うこと。将が丁寧にくどくどと部下に話している時は、既に部下の心が離れているという意味。○注23、十注:王晳曰く、衆窘しみて和裕(和らぎゆったりする意)せざれば、則ち數々賞して以て之を悦ばず、衆困しみて精勤せざれば、則ち數々罰して以て之を脅かす。○注24、十注:梅堯臣曰く、先づ嚴暴を行い、後其の衆の離るるを畏る、訓罰精ならざるの極みなり。○注25、十注:張預曰く、親愛する所を以て、質を委き來りて謝す、是れ勢力窮極し、兵を休め戦いを息めんと欲するなり。○注26、十注:梅堯臣曰く、怒りて來り、我を逆え、久しくして接戦せず、且つ又解きて去らざるは、必ず奇伏して以て我を待つ有り。○注27、十注:張預曰く、兵は敵より増多するに非ずとは、権力均しきを謂うなり。我が兵は敵より多いのではないという意味であるが、「兵非益多」を兵は多きを益とするに非ず、と読み、兵力は多い方が有益であると解する説もあるが、張預の説に従っておく。○注28、「取人」とは、敵兵を取るという意味で、敵に勝つこと。○注29、十注:曹公曰く、文は、仁なり、武は、法なり。○注30、原本は「素信著者」を「素行者」に作る、『通典』・『御覧』により、「素信著者」に改めた。十注:杜牧曰く、素は先なり、言えらく、将為りて居するに、無事の時に當りては、須らく恩信威令先づ人に著わすべし、然る後敵に對するの時、令を行い法を立つれば、人人は信伏す、と。張預曰く、上、信を以て民を使わば、民、信を以て上に服す、是れ上下相得るなり。

<解説>
 この篇の解題については、十注:王晳曰く、軍を行るには當に地の便に據り、敵情を察すべきなり、張預曰く、九地の變を知り、然る後以て利を擇びて軍を行る可し、故に九變に次す、とある。
 この篇では行軍中の宿営地や戦場の立地条件や敵陣の様々な動きに対する意味付けなど、指揮官として知っておかなければならない具体的な事が述べられている。戦略の解説から戦術の解説へと移って来たのである。


『孟子』巻第十三盡心章句上 二百十五節、二百十六節、二百十七節

2019-07-13 10:25:40 | 四書解読
二百十五節
齊の宣王は、三年の喪に服すのは長すぎるので、短くしようとした。そこで公孫丑を通じて孟子に尋ねさせた。公孫丑は孟子に言った。
「三年の喪を短くして一年にしても、喪に服さないよりはましでしょうか。」
孟子は言った。
「それは、兄の臂をねじ曲げている男がいて、その男に向かってもう少しゆっくりねじ上げる方がよい、と言うようなものだ。そのような事を言うのはもってのほかで、その男には孝悌の道を教えるべきなのだ。」
齊王の側室であった母に死なれた王子がいた。規則では喪に服すことはできないが、そのお守り役が王子の為に、正夫人との関係等の諸事情があって、三年の喪に服すことが出来ないので、せめて数か月でもよいので喪に服すことを願い出た。それを聞いた公孫丑は孟子に尋ねた。
「このような場合は、いかがでしょうか。」
「この場合は、三年の喪を全うしようとしても、たとえ一日でも服喪の期間が増えれば、やらないよしはましなのだ。先の宣王の場合は、何の差支えも無いのにそれをきちんとしない者の場合を言ったのだ。」

齊宣王欲短喪。公孫丑曰、為朞之喪、猶愈於已乎。孟子曰、是猶或紾其兄之臂、子謂之姑徐徐云爾。亦教之孝弟而已矣。王子有其母死者。其傅為之請數月之喪。公孫丑曰、若此者、何如也。曰、是欲終之而不可得也。雖加一日愈於已。謂夫莫之禁而弗為者也。

齊宣王、喪を短くせんと欲す。公孫丑曰く、「朞の喪を為すは、猶ほ已むに愈れるか。」孟子曰く、「是れ猶ほ其の兄の臂を紾(ねじる)るもの或らんに、子、之に謂いて、姑く徐徐にせよと爾云うがごとし。亦た之に孝弟を教えんのみ。」王子に其の母死する者有り。其の傅、之が為に數月の喪を請う。公孫丑曰く、「此の若き者は、何如ぞや。」曰く、「是れ之を終えんと欲するも、得可からざるなり。一日を加うと雖も、已むに愈れり。夫の之を禁ずる莫くして、為さざる者を謂うなり。」

<語釈>
○「公孫丑曰」、趙注:公孫丑に因りて自ら其の意を以てして孟子に問わしむ。公孫丑を通じて孟子に尋ねさせた。○「其傅為之請數月之喪」、趙注:王の庶夫人死す、適夫人に迫られ、其の親を喪するの數を行うを得ず。正夫人の圧迫があって、三年の喪が行えなかったので、数か月でも喪に服すことを願い出た。

<解説>
其の傅が數月の喪を請うた理由については、諸説があるが、語釈で述べた趙注の意により解釈した。

二百十六節

孟子は言った。
「君子が人に教える方法は五つある。時に適った雨が、草木や穀物を成長させるように、その人を自然と教化する方法、本人の長所を伸ばして、徳を完成させる方法と才能を十分に発揮させる方法、問いに対して答える方法、直接教えて悟らせるのではなく、間接的に自ら修養して悟らせるようにする方法である。この五つが、君子の教える方法である。」

孟子曰、君子之所以教者五。有如時雨化之者。有成德者。有達財者。有答問者。有私淑艾者。此五者、君子之所以教也。

孟子曰く、「君子の教うる所以の者は五あり。時雨の之を化するが如き者有り。德を成さしむる者有り。財を達せしむる者有り。問に答うる者有り。私に淑く艾せしむる者有り。此の五者は、君子の教うる所以なり。」

<語釈>
○「有如時雨化之者」、安井息軒氏云う、「時雨の物を化するは、大なる者は大成し、小なる者は小成す、其の力を用うる所を見わさず、而して物各々其の性を遂ぐ。」○「私淑艾」、趙注:「私」は、獨り、「淑」は善、「艾」は、治なり。

<解説>
特に述べることはない。

二百十七節

弟子の公孫丑が言った。
「道というものは、高尚で美しいものです。まさしく天に登るようなもので、我々にはとうてい達することが出来ないように思われます。道を願えば手が届くほどに近づけて、日々努力する気を引き起こさせるようにはできないのでしょうか。」
孟子は言った。
「すぐれた大工は、拙い職人の為だからといってに縄墨の方法を改廃するようなことはしないし、弓の名人である羿はへたくそな者の為に弓の絞り具合を変えるようなことはしない。それと同じで君子たる者は、名人が弓を引いてまだ発していないのに、その勢いが目の前に現れるかのように、中庸の道を以て、人々を導くのであって、出来る者だけがついていくのだ。」

公孫丑曰、道則高矣、美矣。宜若登天然。似不可及也。何不使彼為可幾及而日孳孳也。孟子曰、大匠不為拙工改廢繩墨、羿不為拙射變其彀率。君子引而不發、躍如也。中道而立。能者從之。

公孫丑曰く、「道は則ち高なり、美なり。宜しく天に登るが若く然るべし。及ぶ可からざるに似たり。何ぞ彼をして幾及す可くして、日に孳孳(シ・シ)為らしめざるや。」孟子曰く、「大匠は拙工の為に繩墨を改廢せず、羿は拙射の為に其の彀率を變ぜず。君子は引いて發せず、躍如たり。中道にして立つ。能者、之に從う。」

<語釈>
○「幾及」、「幾」は、こいねがう、及ぶことを冀うこと。○「孳孳」、シ・シ、つとめはげむ意。○「中道而立」、中道は中庸の道。

<解説>
孟子の教育論の一つである。教えられる者に自発的な意志と努力がなければ教えないことを根本にしている。同じような内容が『史記』孔子世家にもあるので、それを紹介しておく。子貢曰く、「夫子の道は至大なり、故に天下能く夫子を容るるもの莫し。夫子、蓋(なんぞ)ぞ少しく貶せざる。」孔子曰く、「賜や、良農は能く稼す(種を播きつける)、而れども穡(収穫)を為すこと能わず。良工は能く巧みなり、而れども順を為す(人の意に従う)こと能わず。君子は能く其の道を脩め、綱して(大綱をたてる)、之を紀とし、統べて之を理とす、而れども容れらるるを為すこと能わず。今、爾は爾の道を脩めずして、而も容れらるるを為すを求む。賜、而の志は遠からず(遠大ではない)。」

『孟子』巻第十三盡心章句上 二百十二節、二百十三節、二百十四節

2019-07-07 10:12:43 | 四書解読
二百十二節
孟子が范の町から齊の都へ行ったとき、齊の王子を遠くから見かけたとき、嘆息して言った。
「位というものは、その人の気構えを変化させ、位に応じた奉養は、その人の立ち居振る舞いを変化させる。大したものだな位というものは。人の子と言うことでは誰もが同じではないか。それなのに王子だけは違う。」
更に孟子は言った。
「王子の宮殿・車馬・衣服などは、だいたい他の人々と同じである。それなのに、あのように王子に威厳。風格があるのは、その位による気構えがそうさせているのだ。ましてや、仁義という天下第一の広居に身を置いている者が、人と異なるのは当然のことである。魯の君が宋に行かれ、垤澤の城門に着いて、門番に門を開けるように呼び掛けたとき、門番は、『これはうちの殿様ではないはずだが、何とその声の似ていなさることか。』と言った。これは外でもない、居る所の位が同じだから、風格や振る舞いなどすべてが、自然と似てくるのだ。」


孟子自范之齊、望見齊王之子、喟然歎曰、居移氣、養移體。大哉居乎。夫非盡人之子與。孟子曰、王子宮室車馬衣服多與人同。而王子若彼者、其居使之然也。況居天下之廣居者乎。魯君之宋、呼於垤澤之門。守者曰、此非吾君也。何其聲之似我君也。此無他、居相似也。

孟子自、范自り齊に之き、齊王の子を望見し、喟然として歎じて曰く、「居は氣を移し、養は體を移す。大なるかな居や。夫れ盡く人の子に非ざるか。」孟子曰く、「王子の宮室・車馬・衣服は、多く人と同じ。而るに王子の彼の若き者は、其の居、之をして然らしむるなり。況んや天下の廣居に居る者をや。魯の君、宋に之き、垤(テツ)澤の門に呼ぶ。守る者曰く、『此れ吾が君に非ざるなり。何ぞ其の聲の我が君に似たるや。』此れ他無し、居、相似たればなり。」

<語釈>
○「居・養」、朱注:「居」は、處る所の位を謂う、「養」は、奉養なり。○「廣居」、趙注:仁義を行うを謂う、仁義は身に在り、言わずして喩す。

<解説>
趙岐は「喟然歎曰」の文章と「孟子曰」の文章とを分けて二節にしており、朱子は一節に扱っている。どちらでもよいが、一応朱子に従って、一節として扱っておく。
人格は環境により形成されることを述べたものである。趙岐は云う、「人の性は皆同じ、居、之をして異ならしむ、君子は仁に居り、小人は利に處る。」

二百十三節
孟子は言った。
「ただ食べさせるだけで、その者を愛さないようでは、豚を飼育しているのと同じである。愛してはいるが、敬わないようでは、馬や犬を養っているのと同じである。慎み敬う心は、絹布などを礼物として差し出す前からあるものだ。礼物を差し出して表面上恭敬の念を見せながらも、実際には慎み敬う心がないようでは、君子を引き止めておくことはできない。」

孟子曰、食而弗愛、豕交之也。愛而不敬、獸畜之也。恭敬者、幣之未將者也。恭敬而無實、君子不可虚拘。

孟子曰く、「食いて愛せざるは、之を豕交するなり。愛して敬せざるは、之を獸畜するなり。恭敬なる者は、幣の未だ將わざる者なり。恭敬にして實無ければ、君子虚拘す可からず。」

<語釈>
○「獸」、朱注:「獸」は、犬馬の屬を謂う。○「幣之未將者~」、朱注:程子曰く、「恭敬は威儀幣帛に因りて、而る後発見すと雖も、然れども幣の未だ将われざる時、已に此の恭敬の心有り、幣帛に因りて、而る後に有るに非ざるなり。」。他説も有るようだが、朱注に從う。○「君子不可虚拘」、趙注:恭敬は實を貴ぶ、如し其の實無くんば、何ぞ虚にして君子の心を拘致す可けんや。表面上の見せかけだけでは君子を引き止めておくことはできないという意味。

<解説>
趙岐の章指に云う、「人を取るの道は、必ず恭敬を以てす、恭敬は實を貴ぶ、虚なれば則ち應ぜず。實は愛敬を謂うなり。」

二百十四節

孟子は言った。
「耳目鼻口や手足などの形体や態度容貌は、天から与えられたものである。これらはすべての人が持っているが、その性能を十分に尽くす人はいない。ただ聖人だけがそれらの本質を理解して踏みこなすことが出来るのだ。」

孟子曰、形色、天性也。惟聖人、然後可以踐形。

孟子曰く、「形色は、天性なり。惟だ聖人にして、然る後に以て形を踐む可し。」

<語釈>
○「形色」、服部宇之吉氏云う、形色は人の形体顔色を云う。○「踐形」、朱注:「踐」は言を踐むの踐の如し、蓋し衆人は是の形有り、而るに其の理を盡すこと能わず、故に以て其の形を踐むこと無し、惟だ聖人のみ是の形有りて、又能く其の理を盡くし、然る後以て其の形を踐みて歉(ケン、あきたりない)なること無し。

<解説>
短文の故に、解釈に諸説があるが、語釈で述べた朱注の内容に従って通釈した。

『孟子』巻第十三盡心章句上 二百九節、二百十節、二百十一節

2019-07-02 10:23:58 | 四書解読
二百九節

齊の王子墊が尋ねた。
「士たる者が最も大事にしなければならないものは何ですか。」
孟子は言った。
「志を高尚にすることです。」
「志を高尚にするというのは、どういうことですか。」
「仁義を志すだけです。一人でも罪無き者を殺すのは、仁ではありません。自分の所有物でないものを他人から取り上げるのは、義ではありません。身を置くべきところはどこかと言えば、それは仁です。歩むべき路はどれかと言えば、それは義です。仁に身を置き義に進めば、それで大人物たる資格は十分に備わります。

王子墊問曰、士何事。孟子曰、尚志。曰、何謂尚志。曰、仁義而已矣。殺一無罪、非仁也。非其有而取之、非義也。居惡在、仁是也。路惡在、義是也。居仁由義、大人之事備矣。

王子墊(テン)問いて曰く、「士は何をか事とする。」孟子曰く、「志を尚くす。」曰く、「何をか志を尚くすと謂う。」曰く、「仁義のみ。一無罪を殺すは、仁に非ざるなり。其の有に非ずして之を取るは、義に非ざるなり。居惡くにか在る、仁是れなり。路惡くにか在る、義是れなり。仁に居り義に由れば、大人の事備わる。」

<語釈>
○「王子墊」、趙注:齊の王子、名は墊(テン)なり。○「尚」、朱注:「尚」は、高尚なり。

<解説>
孟子の説く王道の根本は、仁義を行うことであり、それは君主だけでなく、士たる者全てが努めなければならないものであるとする。更に「一無罪を殺すは、仁に非ざるなり」とあるが、「不辜を殺さず、有罪を失わず」という趣旨の語句が、この時代、諸書に見える。と言うことは、無実の者が殺され、罪有る者が免れることが多かったのではないかと思う。春秋戦国時代の暴政の現われの一つであろう。

二百十節
孟子は言った。
「清廉潔白で知られた陳仲子は、不義なものであれば、それが喩え齊の国を与えると言われても、受け取らないだろう。だから人々はみな信頼している。しかし彼の清廉潔白は、小さな竹籠に入ったほんの少しの飯や一杯の汁物さえ、義に適わなければ受け取らないという、小事に対する行いであって、齊国のような大きなものならその義も棄てるだろう。人間にとって、親戚・君臣・上下などの人間関係を無視するよりも大きな不義はない。小さな清廉潔白があるからと言って、人の道の大節まで立派だと信用しても良いものか。」

孟子曰、仲子、不義與之齊國、而弗受。人皆信之。是舍簞食豆羹之義也。人莫大焉亡親戚君臣上下。以其小者信其大者、奚可哉。

孟子曰く、「仲子は、不義にして之に齊國を與うるも、受けず。人皆之を信ず。是れ簞食・豆羹を舎つるの義なり。人は親戚・君臣・上下を亡するより大なるは莫し。其の小なる者を以て其の大なる者を信ぜば、奚くんぞ可ならんや。」

<語釈>
○「仲子」、陳仲子、六十一節に既出。その人物像はそこに記されている。○「簞食・豆羹」、「簞」は小さな竹籠、「豆」はお供え用の高坏、「豆羹」は一杯の汁物。○「以其小者~」、朱注:豈に小廉を以て其の大節を信じて、遂に以て賢者と為す可けんや。

<解説>
一応通釈のように訳しているが、齊国を受けない義と、簞食豆羹を受け取らない義との比較がよく分からない。趙注に、「孟子以為らく、仲子の義は、上章の道とする所の簞食豆羹の禮無くんば、則ち受けざるも、萬鐘なれば則ち禮義を辧ぜずして之を受く、と。」あり、仲子の義について、孟子は小さなものは受けないだろうが、大きなものは受けるだろうとしている。ここの解釈については諸説があるが、一応趙岐の説を採用しておく。

二百十一節
弟子の桃應が尋ねた。
「舜が天子となり、皋陶が司法の役人となったとき、舜の父の瞽瞍が人を殺したとしたら、どのような処置をとればよいのでしょうか。」
孟子は言った。
「皋陶は瞽瞍を捕らえるまでのことだ。」
「では舜はそれを差し止めないのですか。」
「そのような局面で、舜はどうして差し止めることができようか。そもそも法律というものは、古来より受け継がれてきたものであり、天子の命でもそれを変えることはできない。」
「それならば舜はどのようにしたらよいのでしょうか。」
「舜は天下を棄てることを、敗れた草履を棄てるのと同じように考えている。だから天下を棄てて、竊かに父を背負って逃れ、海辺に沿うて住む所を見つけ、生涯父に仕えることに喜び楽しんで、天下の事など忘れてしまうことだろう。」


桃應問曰、舜為天子、皋陶為士、瞽瞍殺人、則如之何。孟子曰、執之而已矣。然則舜不禁與。曰、夫舜惡得而禁之。夫有所受之也。然則舜如之何。曰、舜視棄天下、猶棄敝蹝也。竊負而逃、遵海濱而處、終身訢然、樂而忘天下。

桃應問いて曰く、「舜、天子と為り、皋陶、士と為り、瞽瞍、人を殺さば、則ち之を如何せん。」孟子曰く、「之を執らえんのみ。」「然らば則ち舜は禁ぜざるか。」曰く、「夫れ舜は惡くんぞ得て之を禁ぜん。夫れ之を受くる所有るなり。」「然らば則ち舜は之を如何せん。」曰く、「舜は天下を棄つるを視ること、猶は敝蹝(ヘイ・シ)を棄つるがごときなり。竊かに負うて逃がれ、海濱に遵いて處り、終身訢(キン)然として、樂しみて天下を忘れん。」

<語釈>
○「禁之、夫有所受之也」、朱注:禁之云々は、皋陶の法は、傳受する所有り、敢て私する所に非ず。天子の命と雖も、亦た得て之を廢せざるなり。○「敝蹝」、朱注:「蹝」(シ)は、草履なり。「敝」は、やぶれていること。○「訢然」、喜び楽しむ貌。

<解説>
この節の内容も我々には理解し難いものである。舜と言えば天子の中の天子であり、諸子百家誰もが持ち上げる天子である。そのような天子が、父が人を殺したら、天子の位を棄てて、罪人である父と俱に逃げて隠れ住む道を歩むだろうと述べている。又何の書か記憶にないが、父が罪を犯し、それを子供が役所に知らせたら、不孝者であると子供が罰せられたという話がある。このように親に対しては正義はない。このような考え方は清朝の時代まで存在した。これは「義」の問題でも同じで、義理は正義に優先するのである。