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『大学』第二章第二節

2012-08-27 17:25:13 | 漢文

『史記』はこちら  http://www.eonet.ne.jp/~suqin

『大学』第二章第二節

詩に、「あの淇水の隈を眺めれば、緑色した竹が美しく生い茂っている。その竹のように外に現れた徳があや美しい君子は、骨や象牙を加工するように、又玉や石を磨くように、学問の修得に務めている。それ故に、そのような徳のあや美しい君子は、顔色は自信に溢れ厳かで美しく、性行は寛大で、威厳があり正しく礼儀に適っており、美しく照り亘っている。そのような君子は、人は何時までも忘れられない。」とある。「切するが如く磋するが如く」とは、懼れ慎み善事を学ぶことであり、「琢するが如く磨するが如し」とは、真心を以て身を修めることであり、「瑟たり僩たり」とは、修めた徳を行うに当って、引き締めて慎み深くすることを言っており、「赫たり喧たり」とは、修めた徳を行えば、姿かたちは美しく立派で、その威儀は徧く四方に及ぶことを言っている。「斐たる有る君子は、終に諠る可からず」とは、このように徳を修めた、斐然として文章ある君子は、民が皆これを愛し、忘れることができないことを述べている。詩に、「ああ、先王が忘れられない。」とある。これは、子孫の王たちが、聖王であった文王・武王の教えを受け継ぎ守って、賢者を尊び用いて国を治め、親族を和合させたので、国を安んずることができ、人民はその先王の恵みにより生活を楽しみ、衣食のための利を利することが出来たので、先王が世を去った後も、君子小人皆、忘れることが出来ないことを言っているのである。

詩云:「瞻彼淇澳、菉竹猗猗。有斐君子、如切如磋、如琢如磨。瑟兮僩兮、赫兮喧兮。有斐君子、終不可諠兮。」如切如磋者、道學也。如琢如磨者、自修也。瑟兮僩兮者、恂慄也。赫兮喧兮者、威儀也。有斐君子、終不可諠兮者、道盛至善、民之不能忘也。詩云、「於戲前王不忘。」君子賢其賢而親其親、小人樂其樂而利其利。此以沒世不忘也。

詩に云う、「彼の淇澳(キ・イク)を瞻れば、菉(リョク)竹、猗猗(イ・イ)たり。斐たる有る君子は、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し。瑟たり僩(カン)たり,赫たり喧たり。斐たる有る君子は、終に諠(わすれる)る可からず。」「切するが如く磋するが如し」とは、學ぶを道うなり。「琢するが如く磨するが如し」とは、自ら修むるなり。「瑟たり僩たり」とは、恂慄するなり。「赫たり喧たり」とは、威儀なり。「斐たる有る君子は、終に諠る可からず」とは、盛至善にして、民の忘るる能わざるを道うなり。詩に云う、「於戲(ああ)前王忘られず。」君子は其の賢を賢として其の親に親しみ、小人は其の樂しみを楽しみて其の利を利とす。此れを以て世を沒するも忘られざるなり。

<語釈>
○「詩云」、『詩経』国風、衛風、湛奥篇。○「淇澳」、「淇」は淇水。「澳」は川の隈。○「菉竹」、『詩経』は「緑竹」に作る。古来より三説ある。一は、毛伝による説で、緑を王芻、乃ちかりやすと言う草で、竹を篇竹、乃ちにわやなぎとする。二は、陸璣の『毛詩草木鳥獣魚疏』による説で、「菉竹」で竹に似た草の名とする。三は、朱子の説で、「菉竹」で緑色の竹とする。取り敢えず朱子説に従っておく。○「猗猗」、草木が美しく盛んなさま。○「有斐君子」、「斐」はあやのある美しいさま。斐然として文章ある君子。○「如切如磋」、「切」は骨を加工すること、「磋」は象牙を加工すること。○「如琢如磨」、「琢」は玉を加工すること、「磨」は石を加工すること。○「瑟兮僩兮」、正義に、「瑟然として顔色、矜荘、僩然として性行、寛大なり。」とある。乃ち顔色は自信に溢れ厳かであり、性行は寛大であること。○「赫兮喧兮」、正義に、「赫然として顔色、盛美、喧然として威儀、宣美なり。」とある。乃ち顔色は立派で美しく、威儀は美しく照り亘っていること。○「恂慄」、きびしく慎ましやか。○「君子賢其賢而~而利其利」、鄭注、「聖人既に賢に親しむの徳有り、其の政、又民を利するを楽しむ有り、君子小人各々以て之を思う有り。」聖人とは、文王・武王を指す。君子とは其の子孫の賢王を指す。小人は人民のこと。又正義に、「君子は皆此の前王の能く其の賢人を賢として其の族親に親しむを美とするを言うなり。小人は其の樂しみを楽しみて其の利を利とすとは、後世の卑賤小人、此れ前王能く其の楽しむ所を愛楽するを美とするを言う。」とある。

<解説>
前節の「意を誠にする」を承け、学問修徳の功に因りて、顔色は盛美にして威儀は宣美となり、世を没しても忘れられない君子となることを述べている。人は当然生まれながらの君子たる者はいない。常に怠らず学問修徳に勤め、敬しみぶかくあらねばならない。「切するが如く磋するが如く」、「琢するが如く磨するが如し」特に善事を学び、それによりわが身を磨くことに努力してこそ、君子となりうるのである。いつの時代も努力こそが尊いものである。

『大学』第二章第一節

2012-08-02 14:57:49 | 漢文
史記の解読 http://www.eonet.ne.jp/~suqin

第二章 第一節

前述した「其の意を誠にする」とは、自ら自分の真心を偽らないことである。人が悪臭を悪み、好色を好むのは自然に出でる真情である。このように事の善悪も偽りを入れずに、自然と善を好み、悪を悪み、口に言う所と心に思う所が一致するようにするのである。かくしてこそ人は自ら心に厭き足りて、満足できると言えるだろう。だから君子は誰も見ておらず独りで居るときも必ず真心を以て自分自身を修めようとするのである。それに対して物事を理解できない小人は、誰も見ていない一人でいるときは不善を為すことを何とも思わないが、君子の前に出るとその不善を覆い隠し、いかにも善いことを行っているように見せかける。しかし人は己をよく見ているもので、それは己の体内の肺臓や肝臓まで見透かすほどである。であるので君子の前で幾ら覆い隠し取り繕っても、それは無駄である。これを「心に誠があれば自ずから外に善事となって顕れる。」と謂うのである。だから君子は一人で入るときも真心を以て身を修めようとするのである。曾子は、「己の考えや行動は、多くの人が、注視し指差し注意している所であるから、常に我が身を畏れ慎まねばならない。」と謂っている。富は家を潤すだけだが、徳は身を潤す。乃ち畏れ慎み徳を修めて心が広大になれば、体もゆたかになる。故に君子は必ず自分の意を誠にするのである。

所謂誠其意者、毋自欺也。如惡惡臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必慎其獨也。小人閑居為不善、無所不至。見君子而後厭然掩其不善、而著其善。人之視己、如見其肺肝、然則何益矣。此謂誠於中形於外。故君子必慎其獨也。曾子曰、十目所視、十手所指、其嚴乎。富潤屋,潤身,心廣體胖,故君子必誠其意。

謂う所の其の意を誠にするとは、自ら欺く毋きなり。惡臭を悪むが如く、好色を好むが如くす。此れを之れ自謙すと謂う。故に君子は必ず其の獨を慎むなり。小人は閑居して不善を為すこと、至らざる所無し。君子を見て而る後に厭然として其の不善を掩い、而して其の善を著わさんとす。人の己を視ること、其の肺肝を見るが如くなれば、然れば則ち何の益あらん。此を中に誠なれば外に形ると謂う。故に君子は必ず其の獨を慎むなり。曾子曰く、「十目の視る所、十手の所指す所、其れ嚴(つつしむ)まんかな。」富は屋を潤し、は身を潤す。心は廣く體は胖(おおい)いなり、故に君子は必ず其の意を誠にす。

<語釈>
○「自謙」、「謙」は鄭注によれば、慊であり、厭である。その意は厭足、乃ち満足する、あき足ることである。自謙とは自ら心に厭き足るを云う。○「君子必慎其獨」、『中庸』の鄭注に、「独り慎むとは其れ居の為す所を慎むなり。」とある。○「居」、独りくつろいでいるとき。○「厭然」、覆いかぶせて隠すさま。○「嚴乎」、鄭注に、「嚴乎は畏敬す可きを言うなり。」とある。○「心廣體胖」、「胖」は鄭注に、「胖は猶ほ大のごときなり。」とあり、ゆたかに広がったさまを言う。正義は、「心廣體胖は、内に心、寛廣なれば、則ち外に體、胖大なるを言う。」と述べている。

<解説>
これ以降は朱子が伝であると述べているように、第一章で説いていることの解説になっていく。ここでは「意を誠にする」について解説している。乃ち「意を誠にする」とは、自分の真心を偽らないことで、それが一人で居るときも、人に見られているときも、常に自然と外に現れるように我が身を修徳することである、としている。人は他人が見ているときは善事に務めるが、誰も見ていなければ、悪事を、特に小さな悪事を犯しがちである。