手を上げてオフサイドをアピールすると1台の車が止まり、ドアが開くとそいつは先入観だった。
「いつもの場所だね」
そう言って、先入観はいつもの場所に僕を運んでくれる。
猫は熱心に漫画を読んでいるので、声をかけられなかった。
「ジャズでもいいよ」
男は何かかけるように言った。今の雰囲気から少し気分を変えて。自由が与えられたかのような怪しげな言葉。騙されてはいけない。この場の空気を支配しているのが誰かは、はっきりしている。断ち切れぬ糸のついたまま泳いだとしても、開ける景色は限られている。手先に過ぎぬ僕が、見せかけの寛大さに笑顔を見せて何になるというのか。パフィーをかけてみればすぐにわかることだった。
「この場所に合わないでしょ」
場所……。ああ、そうだ。夏も冬もない。朝も夜もなく、ここはあなたが牛耳る場所に違いない。あなたが合わないと言えば、それが正解なのだろう。(合わないものは、この場所を去るべきだ)
「カーペンターズでもいいし」
結局、落ち着くところは最初から決まっているのだ。
男は軽快にカーペンターズを口ずさむ。口ずさめることが羨ましい。他の選択肢がまるでないことが寂しい。パフィーはどこも悪くなく、カーペンターズはとても素敵だった。
コーヒーゼリーを思い出させたのは、コーヒーの存在だ。いつまでも手をつけなければ、コーヒーはじっとしていて、動かなかった。体が冷えてしまうのが怖くて、体の中に取り込みたくはなかったのだ。誰も横取りするものはなくて、いつまでもコーヒーは静かに固まっていた。だからそのかたまり具合がコーヒーゼリーを思い出させた。寒い日には、猫は炬燵の何に隠れていたものだった。
「何が楽しいの?」
猫は漫画をめくって、ほんの少しこちらを見た。きょとんとしている。
馬鹿なことを訊いたものだ。楽しい理由を問うなんて、愚か者のすることじゃないか。
あるいは香りだったかもしれない。
じっと見ているとかたまっていくような気がするけれど、かたまっているのは自分だった。
周りに目を向けてみれば、楽しそうに、豊富な話題を持ち寄って会話を楽しんでいる。みんなが同時に声を上げてくれるおかげで、一つも意味に捕らわれることなく聞き流すことができるのが素敵だった。聴き様によっては雨のように聴くこともできる。静かな雨、やむとのない雨、8月の雨、だんだん激しくなっていく雨……。雨の中で僕はコーヒーゼリーがかたまるのを待っている。
たっぷりと苦味をきかせて、たっぷりとミルクをかけるのだ。
「いつものBARでね」
猫は武勇伝を語り始めた。
「サザエさんを見ていたんだ。子供の頃から目をかけていたからね。それが今ではどうだい。大先輩のように見えていたものが、みんな無邪気な子供のように見えるじゃあありませんかい」
「ジャズが心地よくかかっていたんだ」
「ああ、それでカツオはもはやお兄さんではなくなった」
(このあと高校野球は2チャンネルで放送します)
「そうなったら一大事。勝ち目がまったくありません。だから僕たちは焦りに焦った」
(このあと間もなく高校野球は2チャンネルで放送します)
「やばいぞ、これは。大変なことになったぞ」
甘いね。すぐにジャズをかければよかったのだ。
僕は長くコーヒーゼリーを見つめながら、雨を思っていた。
「おまえはどう思う?」
肘で壁を突っついた。
川沿いの道を母と歩いたあの日の雨は、傘がなくても平気なくらいの雨だった。水面のささやかな反応を見て、あらためて雨を思うくらいの、小さな雨だった。少し遠回りになるけど、車の少ない穏やかな道を母は選び、僕はそれに従った。母の向こうに川を見ながら、川に沿って歩いた。ストローでつつくと水面が揺れる。まだかたまっていないようだ。少し口に含むと水位が少し下がって、硝子があらわになった。
「ご飯の時はお茶にしなさい」
壁に沿った席は安心だった。少なくとも敵に取り囲まれることはない。
もしも何もない宇宙に突然放り出されたら……。
突然降って湧いたような、自由な発想が、僕を恐れさせた。
(どこに行ってもいいよ)
そこにふさわしい音はあるのだろうか。
「いつものBARでね」
(いよいよ高校野球は2チャンネルで放送します)
「そうなっては元も子もなくなってしまう」
「僕たちは一致団結して、犬共と戦った。その辺にいるwifi犬は相手にならない。片っ端からパンチをお見舞いしたものだ。白球が音もなく落ちてチャンネルが切り替わってしまう前に、事は終わるかと思われたが、敵の中にも秘められた才能を持つ者が潜んでいたのだ。そいつは蓄えた好意で船を折っていたように遅れてやってきた。先制点を上げて有頂天に達していた僕たちは少し眠りかけてもいたので、夢の境界を明らかにするための準備が必要だった。コーヒーのオーダーと雷が鳴るのとは同時だった」
「そこでニュース速報が入ったのだ!」
(このあと高校野球は2チャンネルで放送します)
「しかし、それはもう周知の事実で誰も驚かずに済んだのだった」
「ガラガラドーン!」
「僕たちは隠すためのへそをみんなで教え合いました」
「その敵を倒さない限り、僕たちに勝ち目はない。急がなければ!」
「額に犬犬犬と3つも勲章をつけた強犬が立ち塞がったのである」
「敵国の犬に3度噛み付いた経験が光っていた」
「そいつだけだぞ!」
「僕たちは他の弱い犬はフリーにして、みんなでそいつを囲ってうまくドリブルさせないようにした」
「作戦勝ちだ!」
待っても待ってもコーヒーゼリーは完成しなかった。待っているだけでは駄目なのだ。幻影が作り出したかたまりにストローを突き刺すとからからと中の物が悲鳴をあげる。かたまるためには時間だけでは足りなかった。時間は一つの重要な要素だが、それと他にもう一つ何かが必要だったのだ。その仕掛けが何であったのか、こうしていてもわかるはずがない。随分と時間を無駄にした。
きーんと音が近づいて、肩に先入観がとまった。払っても払っても、同じ場所に戻ってくるのだった。
「きみのことが好きなんじゃないの?」
睡魔に負けて、払い切れなくなってゆく。
駄目だ。もう、何でもいい……。
「ジャズでもいいよ」
睡魔が瞬きを速めた時、猫はかけてきた。
「賞金は? もらえるんでしょうか?」
「残念ながら、それはまた別の受賞された方がおられまして、そちらの方が」
「私が選ばれたのでは?」
「選ばれる方にも色々ありまして、あなたは選ばれたことに間違いはないのですが、残念ながら最優秀というわけではありませんでした」
「では、何なんですか? 最優秀でなければ、優秀賞とか?」
「まあ具体的には申し上げられませんが、まあ一般的に言うと特別賞のようなものだとお考えください」
「それはなかなかのものなんですか? もう1つ確信が得られませんが」
「それはもう滅多に選ばれるものではないんですよ。特別賞というのは、該当する作品が見当たらないという時には、そのまま誰にも与えられないといったケースもよくあるくらいですから。それにあなたは選ばれたということでして」
「最優秀賞を取った人というのは?」
「それは本当に素晴らしい作品でした。10年に1度あるかないかというくらいの、見事な作品でした」
「誰の作品なんですか?」
「それはある程度名のある方の作品でした。あえて申し上げませんけれど、受賞にふさわしい作品でした」
「有名な人ですか? 誰でしょうか?」
「あえてここでは社内規則で申し上げないことになっているものですから、申し訳ございません」
「はあ、そうですか。いるんですよね、最優秀を受賞した人が」
「勿論、それはそうでございます」
「読んでみたいですねえ」
「また何年後かに、そういう機会も設けられるかと存じます」
「それに比べると私の作品なんて、たいしたことはないんじゃないですか? 本当のところは」
「いえいえ、勝るとも劣らないと申しましょうか、実際あなたの作品も素晴らしいことは素晴らしいわけですから」
「そうですかね」
「私が保証します。ここは1つ先日の件を、検討していただいて、是非とも世間の皆様の目に触れられるようにしてみませんか? その先には、世界だって見えているかもしれませんよ。可能性としては十分開けているはずです」
「世界ですか? 最初にお金が必要になるんですよね」
「まずは100万円ですね。まあ、それはすぐとは申しませんが、近い将来に必ず返ってくる分になりますから、そう慎重になりすぎずに」
「なりますよね、普通は」
「才能があるのですから、やはり踏み出す時に踏み出さなければ」
「私でなくてもよくないですかね」
「いいえ。あなたは……。あなたが、選ばれたんですよ!」