眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

ご案内します

2010-07-14 15:48:41 | 猫を探しています
 猫の案内本を求めると、店員は「こちらへどうぞ」と言いながら、ものすごい速さで動き出した。駆け足でついていくが、店員は振り返りもせずむしろ追っ手を振り切ろうとするかのように、更に加速していく。あちらへ曲がりこちらへ曲がりするのを必死でついて行くには、もはや全力で走らなければならないのだった。「こちらへどうぞ」けれども、その声は後ろに向かって言うようではなく、遠い先の未来の自分に投げかけているように響く。急に方向転換したところで、僕は思わず滑ってしまい、ついに致命的な遅れを取ってしまった。「こちらへどうぞ」と言う声が、遥か向こうで聞こえる。すっかり僕は離されている。もうすぐ周回遅れのランナーとなって、次々と若い足並みに抜かれていくのだ。けれども、これは一体何のレースなのだろうか……。

 ぼろや食堂の前では子供たちが、次々とシャボン玉をふくらませて遊んでいた。たくさん作ってジャグリングしたり、とびきり大きなシャボン玉を作って中にすっぽり納まったり、どちらのシャボン玉が強いかといって戦わせたりして遊んでいた。その内に1つのシャボン玉が間違って、小さな手を離れて高く舞い上がってしまう。気流に乗ったように浮かれて、誰の手にも届かないところに行ってしまう。僕はそれと手を伸ばしてみたけれど、やっぱりダメだった。
「取って、取って、取ってきて」と女の子が見上げるので、僕はぼろや食堂の壁をよじ登って屋根に上がらなければならなかった。屋根の上には、あの日の店員がいて僕は胸の中で叫び、それから冷静な声を作って言った。
「どうして?」
 案内本はどうなったのかと僕は問うた。けれども、女は、もう店員ではないのだと言う。
「私はもうやめたんです」
「どうして?」
「案内することに、疲れてしまったの。いつもいつもお客様のために案内している内に、気がつくと自分が迷子になってしまったの。あの時は、ちょうどそれを決めようとしていた時でした。ごめんなさい」
「それであの時、あんなに速かったのですね」
 シャボン玉を抱きながら、僕は頷いてみせた。
「尋常ではないと思いましたよ」
 彼女も少し微笑んでみせた。
「おーい! 行くぞ!」僕は巨大なシャボン玉を下で待ちわびている少女に手放した。それは惑星に恋焦がれる生命の欠片のように空から少女の手へと、思い出の気流に乗って降下を始めた。
「猫は……」
 答える代わりに、僕は首をただ振った。
「私は思います」
 彼女は、屋根の下の子供たちにも届くような声で言った。
「すべての言葉に、アンテナを張り巡らせておけば、きっとそれは見つかると思うのです。だって、私たちの世界は言葉でできているのだから」
 そう言って少し照れくさそうに彼女は笑った。笑顔の向こうにすっかり折れ曲がったぼろや食堂の細い鉄屑が、日に当たって光るのが見えた。


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