「お待たせいたしました」
それは待望のトーストか。注文した品が届けられることを、誰もが心から待ちわびるとは限らない。もう少し、もう少し、主人公の到着をただ待っていたい人もいるだろう。まだ現れぬ風景を想像しながら静かに過ごす時こそが宝物だとも考えることができる。実際にその時が来たら、時は急速に終点に向けて動き始めてしまう。「お待たせいたしました」届けられたトーストは、止まっているように見えた時計の針を押してしまうのだ。「ありがとう」感謝の言葉の裏には切なさも見え隠れしている。
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「急ぎたくない道がある」
テレビがまだ半分くらい信じられていた頃、鬼のようにゆっくり歩く技術を極めた人がいた。スーパー・スローウォークだ。素人目には完全に止まって見えたが、実際はほんの少しずつだが前進している。簡単なようでいて特別な筋肉を使っている、というような運動だ。すごさを検証する企画としてだるまさんが転んだに挑戦するも、AIの目を欺くことはできなかった。世の中には奇妙なチャレンジがあるものだ。尊敬や憧れを持ちつつテレビを見ていたことを思い出す。
急ぐ必要のない道がある。たどり着きたくない目的地がある。着いたところであの人と顔を合わせる。早く着いたら儲かるの? 好きな人でも待っていてくれるの? だからと言って……、留まってゆっくりできるほどの時間もない。だから、僕は歩きながら時間をコントロールできたらと考えるようになった。
昔は、人を追い抜いて歩いて行くのがいいと思っていた。歩く速さを誇ってもいるようだった。(行きたいとこがあったのだろうか)だが、今はそれとは逆だ。人よりもゆっくりと歩いて行きたい。
「ゆっくり動いて進まないのは当たり前だ」
そうではない。目指すべき理想のフォームとは?
自然に動いて、きびきび歩いているように見えながら、実際にはさほど前進に至っていない。運動はしているが、効率的な前進を第一目的としていない。そのような歩きが好ましい。歩行者の中に違和感なく溶け込んでいるが、不思議と周りから遅れを取っていく。まるで別の時空にいるように……。
人にどんどん抜かされて行っても、少しも負けているようには感じない。なぜなら、抜かされているのではなく、抜かせているのだから。
「どうぞお先に」
どん尻はずっと僕が受け持つのだ。