Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

J.S.バッハBWV4「キリストは死の縄目につながれたり」

2005-09-05 11:12:59 | music

昨夜、すごい雨で深夜目覚めた。
家の前の河川もいまにも氾濫しそうだ。
これは浸水する地域もあるだろうと思いつつ、
申し訳なくも目覚めた頭でバッハを聴いた。

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「カンタータ全曲シリーズvol.1」ミュールハウゼン時代のカンタータ1
指揮:鈴木雅明 演奏:バッハ・コレギウム・ジャパン

カンタータ4番「キリストは死の縄目につながれたり」
バッハのカンタータ創作では最初期にあたるミュールハウゼン時代の作曲とみられ、その後繰り返し再演された曲であり、現在伝わる稿は再演時の加筆のものとのこと。

全8曲あるが、全曲ルターのコラールに基づく作曲となっており、一本の筋で貫かれた感がある。
初期作品らしく、北部ドイツの古い伝統を素朴に伝えており、後年のイタリア、フランス様式を積極的に取り入れたバッハの楽曲の中では、古風でユニークであり、その分聴く者にストレートに伝わってくるように思う。

構成は以下のとおり。
第1曲 シンフォニア
第2曲 合唱「キリストは死の縄目につながれたり」
第3曲 二重唱(ソプラノ・アルト)「死に打ち勝てる者は」
第4曲 アリア(テノール)「イエスキリスト、神の子が」
第5曲 合唱「驚くべき戦いが起こり」
第6曲 アリア(バス)「これこそまことの過越の小羊」
第7曲 二重唱(ソプラノ、テノール)「かくて私たちはこの尊い祭りを」
第8曲 コラール「食べて、命のよき糧としよう」

見てのとおり、第5曲合唱を挟んでシンメトリックな構造になっている。
バッハではよく見られる構造である。
バッハのカンタータでは、合唱、独唱、レチタティーボなど、歌う主体により語る立場を多元化して、様々な角度で聴く者に信仰の尊さを訴える。
このカンタータでも、死と生の格闘を描く第5曲を中心に、その両脇に独唱による人間の心情独白を配置し、二重唱には物語のト書き的語りを、そして最後に信仰による新しい生を描くコラールを置くことで、多面的に、劇的にイエスの受難と死から復活に至る、恐怖と葛藤と死の克服と生の悦びのドラマを描いている。

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冒頭の簡潔なシンフォニアで、ルターのコラール旋律が憂いを帯びて奏でられる。
初期カンタータでは特にこのような渋い前奏曲が聴かれる。まずここで心をぐっと持っていかれてしまう。

続く合唱曲でもコラール旋律を大きくとらえて、多声部の緻密な合唱が展開し、オルガンによるコラール変奏曲を思わせる。若い頃からすごい作曲能力だ。

第3曲二重唱は死の不可避的な到来を、暗い下降旋律で歌う。
まだ「新進古楽歌手」だったころの米良美一氏の深みのあるアルトが聞き所。

第4曲テノールアリア。アリアといっても、疾走する弦楽器のオブリガードを伴ってコラール旋律を歌い上げる。後半のハレルヤの弦と歌の絡みはなかなか美しい。

第5曲合唱では、渦を巻くような合唱の重なり合いで、死と生の葛藤、そして生が死を飲み込む様が表現される。もちろんコラール旋律をモチーフとして。

第6曲バスアリア。十字架に掲げられたイエスの受難は神の定めたものと厳粛に歌う。

第7曲二重唱では軽快なリズムにより、イエスの復活による贖罪の成就を喜ぶ。

第8曲コラールでは先に述べたようにルターのコラールを合唱で歌う、生の悦びと信仰の誓いである。第8曲は、作曲当初にはなく、後の再演時に追加されたもののようである。バッハのカンタータは、後年、終曲にコラールを配し、受難と贖罪の物語りの後、信仰への新たな気持ちを合唱する、という形式を多く取るようになる。この追加も、バッハにおける内的な意味でのカンタータ形式の完成とともになされた追加だったのではなかろうか。

全曲最後は「ハレルヤ」の朗唱で終わっているのも珍しい特徴だ。

全部聴いても20分前後。
じっくり聴くにはよい長さです。

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バッハ・コレギウム・ジャパンは、精力的にバッハカンタータの全曲録音を進める日本の古楽器演奏グループ。
その清廉で緻密な演奏内容は海外でも評価が高く、この演奏で聞き慣れてしまうと、他の演奏家の演奏がどうしても大味に聞こえてしまうから困りもの。

カンタータシリーズは現在28巻まで出ていて、
私は財政的理由により収集が途中で止まっている状態です。
くやしい。

しかしこのVol1もすでに発売後10年が過ぎようとしているのか~
しみじみ

コメント (4)
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