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Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「1900年」ベルナルド・ベルトルッチ

2013-06-28 15:15:12 | cinema
1900年 Blu-ray (2枚組)
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


1900年 (2枚組) [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店



1900年に生まれた二人の人物を中心にイタリアの豪農を舞台に激動の時代を描く。
片や地主の子供アルフレード、片や使用人の子供オルモ。二人は立場の違いを乗り越え親友となるが、長じて立場の違いが時代のイデオロギーの影を二人の間に落とす。

ベルトルッチらしく冒頭から時制が飛ぶが、本作ではそのおかげでどこか安心して全編を観ることができるようになっている。

絶対的とも言える前近代的な地主と使用人の関係で運営されてきた農家は、封建的な中で領分を守っている限りは平穏な緩い日々を送ることが出来、地主と使用人の間にもはかとない友情と気のおけなさがあることが、前半の、主人公の祖父(バート・ランカスター)の時代で示される。

変化が訪れるのは祖父が死に、息子の代になった頃から。運営は実利的で冷淡なものになり、天候不順による不作のしわ寄せを使用人に押し付けるなどの事件で、農家内の関係はギクシャクしたものになる。
同時にヨーロッパを席巻する共産主義の影響は農村にも及び、当然ながら使用人たちはその考え方に傾く。その先鋒に立つのが主人公の一人である使用人の子オルモである。

一方で、地主の子であるアルフレードは、そんな家の雰囲気を嫌い、コスモポリタン的に放浪している叔父ジョバンニを訪ねてパリに行き、都会の生活を楽しみ、妻となる自由な女性アダと出会う。

彼がいない間に農家では使用人の一人アッティラが、監督者の立場を踏み台に使用人を威圧的に管理するようになるとともに、当然な成り行きとして、台頭したファシズムの手兵となり黒シャツを着るようになる。
アッティラ一派の暴虐がエスカレートする一方、彼らの雇い主であるはずの
アルフレードはそれを止めることが出来ない。

地主階級は、ある面では共産主義を抑え込むファシストを利用し、ある面ではファシズムの台頭に戸惑い恐れをなし、あるいは現実を直視せず享楽に走りもし、次第に力を失っていく。
その姿をこの映画はよく描いている。
農家での出来事はそのままイタリア社会の縮図なのである。

***

というようなことは言わずもがななのだが、ワタシはその時代の人々の心に寄り添いつつも、ロバート・デ・ニーロのしなやかなヤサオトコぶり、ジェラール・ドパルデューの純朴な佇まい、バート・ランカスターの古めかしい不器用さ、そして何よりドミニク・サンダの計算され尽くして恥ずかしいくらいな登場シーンと、狂気が顔かたちを持って現れたようなドナルド・サザーランドの奇矯な振る舞い、そうしたキャラ立ちまくりの群像に心震わせて一喜一憂して立ち会ってしまう。これぞ映画だあぁあぁあっ!!と身悶えして5時間を超える時間を一気観しちゃうのだった。

公開時10代だったワタシの家族は、総出でこの長編を観に行った。それ以来ずっと観る機会はなかったにも関わらず、主だったシーンは心に残り(特にドミニクが登場時に髪をかきあげる瞬間と、ドナルドが子供をぶん回すとこと、ジェラールが豚をしめるとこね)また、エンニオ・モリコーネによる雄壮なテーマ曲のメロディは耳の奥でなり続けていた。

待望のDVD/BD化でありました。

***

モリコーネの音楽は最初観た時はブラームスぽいと思ったのだが、今聴くとそうでもない。耳が肥えたんだな。


@自宅BD
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「水の中のナイフ」ロマン・ポランスキー

2013-06-27 02:14:41 | cinema
水の中のナイフNOZ W WODZIE
1962ポーランド
監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロマン・ポランスキー、イエジー・スコリモフスキ、ヤクブ・ゴルトベルク
撮影:イエジー・リップマン
音楽:クシシュトフ・コメダ
出演:レオン・ニェムチク、ヨランタ・ウメツカ、ジグムント・マラノヴィチ


ポランスキー長編第一作。
脚本はスコリモフスキと共作。

求められる結末を明示しないまま又路に佇む車のアップで終わる終幕が印象的。
当局には「どちらかの」結末を付け加えろと迫られたと言うことだ。

ポランスキー作品では例えば『ナインスゲート』でも肝心な結末には至らない。
2作目『反撥』でもそうだと言える。あるいは『ゴーストライター』では結末は明らかではあるが、その瞬間はフレームの外で起きている。そうした資質を始めから近作まで持ち続けていることは、なにやらポランスキーの作家矜恃の表れのような気がして感動的である。

3という数字がヨーロッパではそれなりに特別な意味のあるものであることは言うまでもないが、映画ではしばしば3人であることがドラマを駆動する。
例はいくらでもあるのでしょうが、ワタシの好きな映画では『明日に向かって撃て!』とか『はなればなれに』とか、それと密接した映画である『ドリーマーズ』とか。近くは『オブリビオン』もそうだったかもね。
『水の中のナイフ』脚本を書く上で最初に取り決めたことのひとつは、登場人物をあの3人に限る、ということだったということで、ここには彼らの映画的な野心のようなものが感じられる。

男2女1の三人組が隔離されると、そこに漂うのはやっぱり「微妙な雰囲気」でしょう(笑)
男二人の場の主導権争いとか、女との関係における優位権争いとか、そういう男たちの低レベルなw競争の結果実質場を握るのは女だったりして、彼女の振る舞いや男に対する評価の変化みたいなのがますます場をややこしくもりあげたりして。

そういう「機微」をきっちり描いているところは、むしろ几帳面に過ぎるほどである。
映画の力点はこの「機微」にあるわけで、ことが終わったあとに残された男女がどうするかはもはや映画のあとのことなのである。ここを外部化して終わるのは、もちろん映画の純度を高めるための選択であろうし、観客の想像力を掻き立てる効果でもあろうし、作家としてのセンスの領域のことであるだろう。

女だけが真実を知っていて、告白さえするのだが、男には真実は決してわからない。不安をたたえた引きのショットは心にのこる。

****

「3人」は多くは本作のように男2女1であることが多いような気がするが、女2男1の組み合わせでボートでクルーズする映画を昔昼間のTVで観た記憶があるのだが、今となってはタイトルもなにも定かではないのが残念。とても60年代くさい作風だったが。男が死ぬ。


ナイフという小道具がまた絶妙な効果をもたらしているのがかっこいい。主従関係を一気に決めてしまいそうでいて、決定的な力を決して行使しないあたり、全編を通じて不安定な空気を醸し出すのに成功している。



@イメージフォーラム
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「赤い航路」ロマン・ポランスキー

2013-06-26 00:21:49 | cinema
赤い航路 【HDマスター】 [DVD]
クリエーター情報なし
IVC,Ltd.(VC)(D)



変態男の一大独白映画。

いや、変態ではないのかもしれない。
男女の間の愛情を、先の先のずっと先まで追いつめていくとこうなるという話。

ほのかな期待の芽生える出会いから
惹かれあい強く結ばれる頃へ
倦怠しすれちがい牽制しあうパワーゲームの様相を呈し
ついには憎しみの対象となるのだが
そこから先がまだあって、
互いを復讐の対象とし、せめぎあうことで、むしろ互いを本当に必要とするようになる。
もはや二人を分つものは死しかない。
死だけがふたりに残された唯一可能な変化なのだ。

という話。
だった。


ここまで突き詰めて生きる愛情があるだろうか、
と思い、
いや、実は結構あるだろう
と思う。
それを自覚したり、表現として外部化することをしないだけで、
多くの男女がこの領域に至るのではないだろうか。
それはわれわれの生活のなかに、死を基調とする通奏低音を形作っている。
これは我々の物語だ。



てなことで、濃厚な性生活の告白を聞かされるはめになったヒュー・グラントよろしく
観客も「おいおい、、そこまで言うかよ」と思いながらも、最後はなんとなくなっとくしちゃうのだな。
ヒューも「彼を理解できた」とか口走っちゃうし。

ラストのテンポよい展開は最近では「ゴーストライター」のテンポを思い出す。


エマニュエル・セニエがなかなかよい感じよ。
個性的な顔立ちです。



@自宅DVD
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「反撥」ロマン・ポランスキー

2013-06-25 00:07:14 | cinema
反撥REPULSION
1964イギリス
監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、イヴォンヌ・フルノー、ジョン・フレーザー ほか


心理サスペンスということになるだろうけど、ひとコマひとコマが謎めいていてまた謎の源泉を指し示しているような、一瞬も気の抜けない濃密な映画でした。

パンフによれば、ポランスキーはこの作品を商業的成功を目指しあまり思い入れなく作った、ということだが、むしろ作り手の思いはぎっしり詰まっている。どこか覚めた冷徹な視線がかえって作品の純度を高めているというところだろうか。

「反撥」は主人公キャロルが男性に示す病的な嫌悪のことを指すのだろう。嫌悪が高じて事件となるのだが、ここではその事件自体は結果に過ぎず、そこに至るまでのキャロルの「壊れていき方」が映画の主体だ。

同居姉が連れ込む男の所有物(髭剃りだ)や、言い寄る男友達や、好色そうな家主などがジワジワとキャロルを苦しめて追い詰めるのだが、観客は疑問を持つことになる。キャロルはなぜこんなに男を嫌悪するのか?

その謎は最後の最後まで解き明かされることはない。最後に至り、3度参照されることになる家族写真(そこには幼少のキャロルが家族たちとはひとり違うほうに顔を向けている)に、どうやら謎が潜んでいそうである、ということがほのめかされるに過ぎない。

幼少期の家族の中にあった何かが、キャロルの性質を作り上げているにしても、この解決の明示を避ける構造は、長編第一作「水の中のナイフ」を踏襲している。


壁や舗道の亀裂や、腐敗するウサギ、発芽するジャガイモ、髭剃りナイフの繰り返しなど、いろいろと面白い点が詰まっているのだが、ここでは「フランティック」が「洗顔映画」であったことの潜みに無理やりこじつけて、「反撥」も水の映画であることにこだわってみる。

冒頭瞳のクローズアップから美しい顔を画面いっぱいに広げるキャロルだが、彼女が壊れていくにつれて、だんだん霧吹きで吹いたような水滴を顔につけて登場するようになる。

あるいは姉の情夫の存在に気づく場所である洗面所には頻繁に出入りが繰り返され洗顔や歯磨き、さえ行われ、ついにはバスタブのお湯を溢れさせ洗面所を水浸しにしたりする。

最初の事件の被害者は定かな理由なくバスタブの水に漬けられる。そしてドラマ的なクライマックスである姉と情夫の帰還は、満を時して大雨の降りしきる夜に迎えられる。

この水の充溢に向かって突き進む映画の持つ意味はもちろんわかりようもないのだが(精神分析とかを引っ張ったりすると面白いのかもしれないがそんな技量もなく)、パンフには、編集の人(アラステア・マッキンタイア)が言うにはキャロルは無意識では姉の情夫に惹かれていたということなので、そことのつながりで、水はキャロルの無意識が表出してくることに符合しており、制御不能になるにつれ水が湧き出て、最後には情夫くんにお姫様抱っこされるという欲望の成就が豪雨の中演出されるという、そういう要素としてみることができるのかもしれないと、そう思ったりもするのです。

****


カトリーヌ・ドヌーヴは綺麗だけれど、シェルブールなどとは別人のようなぼんやり度であり、これもまたひとつの魅力であるねえ。
英語が若干たどたどしいのもいい。
(ポランスキー最初の英語長編だそうです)

瞳で始まり瞳で終わるみたいな円環構造風な感じは、作為的にすぎるものになる恐れがあると思いつつもやっぱりワタシはそういうの好みでして、好きだなー。


@イメージフォーラム
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「スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする」デヴィッド・クローネンバーグ

2013-06-24 01:49:54 | cinema
スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする [DVD]
クリエーター情報なし
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント



スパイダー 少年は蜘蛛にキスをするSPIDER
2002フランス/カナダ/イギリス
監督:デヴィッド・クローネンバーグ
原作・脚本:パトリック・マグラア
出演:レイフ・ファインズ、ミランダ・リチャードソン、ガブリエル・バーン他



素晴らしい映画だったと思う。
脚本もよいが、
それを綿密に映像として組み立てた仕上がりが素晴らしい。
舞台内にひとり目に見えない存在が混じっている感覚は
物語の仕組みをよく表しているとともに
主人公の心のありようをよく感じさせる手法だと思う。



【以下ネタバレあります】




ひとつの鍵はクレッグ夫人とイヴォンヌを同じ役者さんが演じていることにあると思う。
殺された母とその後釜に納まった淫売のふたりがいるのではなく、
二人は同一人物、即ち実の母である。

母親の父親を求める側面が、少年の母親であることを凌駕して発露したあの夜に、
少年にとっての母が死んだのだ。
それを父親とパブのふしだらな女との共謀というストーリーに押し込めないと
少年にとっての神聖で優しい母親を守ることができなかった。

少年が知る由もない母が埋められた場所や
そもそもパブでの出来事などについての回想(?)も
そのストーリーを構成する疑似現実であるが故に彼は「知っている」のである。
そこで話される言葉を先取りできる程度によく知っているのだ。

もちろん少年が仕掛けを施して葬ったのはイヴォンヌであると同時に、実の母親であったのだ。

悲しすぎる。



長じてあんなになったデニスは
そのストーリーを再度生きることになり
施設の抑圧者である女性をイヴォンヌと同一視する。
イヴォンヌを葬らなければ。

しかし女性はデニスに声をかける
What have you done?
デニスはおそらく自分が何をしたのかをどこかで知っている
あるいは自分でも何をしたのかを知りたがっている。
この問いでデニスは行動を保留する。

ここから先はもうなにもないように思える。


******

色がよい。

全編小汚い室内が多い
あるいは朽ち果てようとしているかのような家並みとか
殺伐としたガスタンクとか。
汚い映画は基本好きである。
そのうえで色は多彩なのだが。

オープニングの歌がよい。
たぶん全部観た後にもういちど歌詞字幕を観ながら聴くとよいのだろう。

イギリス英語はぜんぜん聞き取れないです・・とくにミランダさんのイヴォンヌ。。



@自宅DVD
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「猫と生きる。」猫沢エミ

2013-06-11 00:20:53 | 猫沢エミ
猫と生きる。
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辰巳出版



猫沢エミさんの新刊「猫と生きる。」読みました。

愛猫ピキさんとの出会いから別れまで、その後の新しい家族ピガちゃんとユピちゃんとの出会い、と、猫との生活を綴ったエッセイと、合間に猫と暮らす上で必要なあるいは生活を豊かにするような情報ルポを差し挟んだ本です。

まさにタイトル通り、猫と正面から向き合って「生きる」姿がここにはあって、感動の一言です。
これは一つの生き方についての本であって、その意味ではたとえば「罪と罰」みたいな(適当に挙げましたが^^;)小説などと、ワタシが思うに全く同格の質を持った本になっているのです。
褒めすぎでしょうか?そんなことはないと思いますが。



猫を独立した対等の人格…猫格として認め、溺愛でもなく放置でもなく尊重し、猫の人生…いや猫生を飼い主の思惑で歪めたり不幸なものにしたりしてはいけないという姿勢は、それは猫沢さんの生きる上での原理のような考え方のひとつであって、猫のことに限らず人との関係や仕事のスタンスなどでもそのような原理を貫こうと努力する、そんな生き方が書かれている。

それは猫沢さんの生きてきた環境で培われていたものであるとともに、初めての飼猫ピキさんと暮らす中で意識され、強化された生き方でもあることもわかる。そういう成長の物語でもあるところも感動的。

拾って育てるところから、日々のごはんとか病気への対応とか、引っ越しとか、パリ暮らしの際の決断とか渡航手続きとか、最期を看取ることとか、そういう猫との暮らしに、迷い悩みつつも心を決めて全力で取り組む姿には、自ずと猫沢さん自身の生き方の姿がにじんできて、読んでいるこちらの方も居住まいを正さずにはいられない。じゃあ自分の人生はどうしようか?と思いながら読み進める感じです。

と言っても堅苦しいものでは全くなく、いろいろな出来事に悩み試行錯誤する猫沢さんに寄り添って、はらはらはワタワタしつつああこんな決断をしたんだ~と涙しながらほっこりしながら読む本です。猫飼ったことがある人なら、わかる~と共感するところ多数だし、猫と無縁の人でもへーこんなことがあるのかーと十分興味の持てる内容だと思います。

****

猫との生活が書かれているのだけれど当然猫沢さん自身に起こるあれこれも書かれていて、特に印象に残ったことのひとつは、まだピキさんを拾う前、交通事故の前に占い師さんと出会う話で。
青い顔して占い師さんが師匠のところへ行けと言ったあとに、駅の券売機から出てきたお釣りにその占い師の名前が書かれていたという逸話はそれ自体十分すぎるインパクトがあるのだけれど、ワタシが驚いたのは、そんなシンクロニシティに出会いながら、占に従ったら負けだと思い、実際に酷い交通事故にあっても、生き延びたことを意識した時に「賭けに勝った」と思ったという猫沢さんの思考。
これは感心というか、面白い考えだと思いました。困難にであった時(や、まあそうでもない時も)何かに支配されて生きるようになるかそうでないかは、こういう考え方のように自分で選び取ることができるのだなと。


それから、ワタシは割と呑気に猫沢さんの次のライブまだかなーとか、ライブに行ったら握手とかしてもらってニコニコしてたんですけど、その頃の猫沢さんの裏舞台は想像以上に凄まじかった!新曲ないのかなーとか思っていた自分を、まあ恥じる必要はないけれども、能天気だなーと思った次第です。
お客さんには裏事情を感じさせないプロ意識ということでしょうね。


あとは、挟まれるルポがとても面白く猫飼いには参考になることばかり。
パリの猫暮らし事情や、獣医さんや、ペットショップや、トリミングやるところとか、里親探しNPOとか、猫専門動物園とか。
読んでいて変化もあり、とてもよい企画の勝利だと思います。



ということで、ただの猫愛本ではありませんよ~
(あ、いや、本当の猫愛本というべきか)


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「フランティック」ロマン・ポランスキー

2013-06-10 02:03:49 | cinema
フランティック [DVD]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ


フランティックFRANTIC
1988アメリカ
監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ
撮影:ヴィトルド・ソボチンスキ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ハリソン・フォード、エマニュエル・セニエ、ベティ・バックリー 他


勝手にポランスキー映画祭敢行中なんですが、
『フランティック』なんだこれ、めちゃめちゃ面白いじゃないですか!
カットがいちいち凝っているし面白いし。
ユーモアも満載だし(登場人物たちはもちろん大マジメだけど)
ヒッチコックみたいなところもあったりして(屋根の上とか)

そう、屋根の上のシーンは実によい。
あれはどうやって撮ってるんだ?ああもタイミングよくスーツケースがばらけるなんて信じられないし、
女神像がよりによってあんなところに落ちるか?

いや、女神像があのばらけた瞬間にあそこに落ちているとは限らないか。
その瞬間はよくわからなくて、後で像があそこにあるアップがある。
とても自然にあそこにあることを観客に納得させるよね。
まるで手品の手口だね。

屋上に至るまでに像を2回手に取るんだけど、怪しいと思いつつ割ってはみない
そういうわかりやすーい焦らしかたもワタシは好みです。
あのスーツケースの登場からしてわかりやすくも面白い。
ウォーカー医師がシャワー浴びてて、奥さんがなにかしゃべっているんだけど聴こえない。
シャワールームからホテルの部屋の中が見えてて、奥さんがフレームアウトすると、
むこうにそのスーツケースがベッドに乗っているのが見える。
計算されていて楽しいじゃないですか。

ポランスキーの映画は実はそんなに観ていないんだけど、
最近の作品については、題材やストーリーのインパクトというよりは
こういう計算された細部の面白さでぐいぐい魅せていくような印象がある。
『フランティック』はそういう映画。

催涙ガスでぼろぼろになったところをミシェルに手を引かれて逃げるんだけど
カフェのテーブルにもう真正面から体当たりして派手にカップが割れるとか
クレイジーなアメリカンだぞっ!って言って気絶して目が覚めたら変なところにいるとか、
パリの警察やら役所やら大使館やらがまったく腹立たしいまでに役に立たないところとか、
デデの部屋のドアを開けるとそこに猫が鎮座しているのが見えるとか、
そうそう、スーツケースをこじ開けたところでさりげなく「ミシェル」って名前がわかるとことか、
細かく細かくツボに入る感じがたまらん。

ストーリーの面白さとか目新しさとか「ポランスキーらしさ」で観ちゃうと面白くないのかもしれないが、
ちゃんとした映画職人としての技能を持っていることが立派に証明されているステキな映画だと思うよ。

****

エマニュエル・セニエ、個性的な顔立ちでワタシは好みです。
『赤い航路』でも踊ってたけどここでもダンスが艶かしいですよ。

あと、これは「顔を洗う」映画だった。
そもそもが登場から二人ともいきなりシャワー行くし。
ハリソン・フォードは要所要所で顔を洗うw
その伏線として異様に汗をかいた顔を撮ったりしているからねー
洗顔映画w

奥さんのベティ・バックリーはデヴィッド・ボウイに似ている・・・

撮影のヴィトルドさんは、なーんと、ヴォイチェフ・イエジー・ハス『砂時計』の撮影の人だ。

音楽はエンニオ・モリコーネで、職人らしくオシャレな音楽を提供している。が、
耳に残るのはピアソラのリベルタンゴ(に歌詞を付けてラテン風妖艶歌謡にしたもの)だw


@自宅DVD
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The Artaud Beats<ワークショップ &ライブ>@東京・荻窪 ルースター(本店)参加しました

2013-06-09 02:13:43 | music
The Artaud Beats(YouTube channel)
2013来日詳細

The Artaud Beats(アルトー・ビーツ)はフリーなイディオムによる即興演奏をするグループで、
メンバーはジェフ・リー、ユミ・ハラ・コークウェル、クリス・カトラー、ジョン・グリーヴス。
つまり元ヘンリー・カウメンバー+ユミさんという豪華なものです。
(追記:ユミさんから指摘があり、彼らは「フリー」でない音楽もやっている、ということです。)

ヘンリー・カウは30年近く前に聴き込んでいたロック+現代音楽みたいな音楽をやるグループで、
解散後も各メンバーがそれぞれ面白いことをやっていて
特にクリス・カトラーがフレッド・フリス、ダグマー・クラウゼとやったアート・ベアーズはもう大好きでした。

そんなわけで、彼らは雲の上の人。
だったので、昨年も来日時にワークショップあるよと聞いてはいたのですが、いやそんな御大たちと演奏なんておこがましくとてもとても・・・・とか思ってたんですが、今年は突然その考えを改め!
彼らと演奏する機会が巡ってくるなんて、長生きはするもんだな!と妙に明るく考え、今回ワークショップに参加することにしたんです。

ワークショップは彼らの他にワタシを含め6人。
全員でセッションしたりグループに分けてやってみたり。
いろいろ学んだり考えたりしたことがありましたが、中味はワタシの胸の内に秘めておきます(笑

とにかく、あのクリスの特徴あるドラムの音が間近で聴こえてるという事実に
興奮というか感慨というか胸に来るものがあり、
それだけでよかったなーとしみじみするのでありました。

ワークショップのあとはお客さんを入れてのライブでした。
最初にアルトー・ビーツが1時間弱、濃密でスリリングな即興をやった後、
ワークショップ参加者+アルトー・ビーツのメンバーで5組つくり演奏しました。
アルトー・ビーツのスゴい演奏のあとにやるのか~と気が重い感じではありましたが、
演奏が始まっちゃうと全霊を今このときの場に捧げちゃうのでwそんな懸念はふっとんでしまうのだ。

ワタシは5セット中の2セットに参加し、そのうちの1つではあろうことかクリス・カトラーのドラムでベースを弾くというこの上ない事態となり、もう光栄としか言いようがないですわ。
クリス・カトラーと共演しちゃった!!わお!


ということでまったく内容のない、単に「共演したぜ!」というミーハー傾向の強い記録でありました。


彼らの公演はあと2回あると思います。(今日日曜日と明日月曜日だと思います)
予約がいっぱいかもしれませんが、興味ある方はコンタクトしてみてください。
(上のリンク先から詳細見れます)


****

ベーシスト3人になると聞いていたので、これはベースアンプ持ってくしかないなと思い、
小型とはいえ重たいアンプをごろごろとキャリアに載せて引っ張っていきました。
行きは意気揚々としているので重量物運搬なんのそのですが、
すべて終わって帰り道はもはや気力も失せて単なる重労働なんだよね(笑
ということで、肩が痛い・・・・


帰りの電車で、今回のワークショップ参加者であり、事実上スタッフの一人でもあり、今回の来日について某紙にレポートを書くレポーターであり、ワタシといっしょに複数のバンドをともにした仲間であり、ジョン・グリーブスにベースを貸すことになった人物でもあり、ワタシの中学の同級生であり、ときおりこのブログにコメントを寄せる人物でもある某氏(肩書き長いよ!)と、クローネンバーグ(デヴィッドね)の映画について話していたら、彼はワタシとまったく同じような考えを持っていたことがわかり、ちょっとおどろいた。類は友を呼ぶのか、友歴が長いから類になってしまっているのか。
(アルトー・ビーツとは何の関係もない話ですw)


2013.6.8sat @荻窪ルースター本店
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「アンチヴァイラル」ブランドン・クローネンバーグ

2013-06-07 00:04:45 | cinema
アンチヴァイラルANTIVIRAL
2012アメリカ
監督・脚本:ブランドン・クローネンバーグ
出演:ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、サラ・ガドン、マルコム・マクダウェル、ダグラス・スミス 他


デヴィッドの息子の作品ということです。
カンヌの「ある視点」で上映されたということで。
ブランドンは2度目の奥さんとの間の子供だそうです。

以上の予備知識にて鑑賞。

-才能は遺伝するー
とはチラシにあるコピーだけれど、
まあ当然ながらデヴィッドの作品とはかなり味わいが違う。

ブランドンの本作は、どちらかというとアーティスティックな(という表現もよくわからないけども)映画を撮りたいのだろうという印象でした。
白い部屋、白い背景に赤い血反吐、とか、
肌のアップにぷすりと針が刺さる瞬間の絵、とか
そういう写真に酔うような、
スタイリッシュな
というか青臭い(笑)意図が見えたように思います。

話の着想はなかなか面白いと思うのですが、上記のような意図のためか、
いまいち設定の詰めが甘いという気もしました。
デヴィッドと比較してどうこうというわけではないんですが、
デヴィッドの初期作品においては「設定の詰め」などという行儀のいい事柄はスコーンとすっ飛んでいってしまう振り切れたなにかがあったわけで、そういうふうに思わせるものには若干欠けていたのかなー。

特に後半はネタ切れという印象でした。

それでも前半はなかなか面白く観たし、この人の場合ちゃんと映画を志せば面白いものが出来そうな予感がします。
主演のケイレブ君のような怪しい人物をちゃんと映画中にはびこらせることが出来ているのだから、あとは外堀を埋めればよいのかと。あ、埋めちゃダメか。。。




・・・しかし・・・
やっぱりあれですよ、ベーコンが好きだからといって、あの映像を出したいがためにあの設定というのは、、ちょっと失笑かもしれん。
それに、、いくらレアもののウィルスだからといっていきなり生を注入ってのもないでしょう?血液型とかあるでしょう。
あとはさあ・・

やめとこう。

******

セレブへのあこがれというのはそんなにあるものなのだろうか。
常日頃セレブリティのゴシップニュースに囲まれていると、あこがれが強くなるのだろうか。
あこがれが強いからゴシップに囲まれようとするのだろうか。
この映画の着想にはそういう幻想風味のあこがれを風刺するような意味合いがあるのかもしれないが、
あこがれにどっぷりと浸っている人には「そういうのもありだな」と受け取られそうな気もするね。
近未来に本当にビジネス化するかも知れないじゃない?
映画のように表立っては起きないだろうけど。


マルコム・マクダウェルには敬意を表しちゃう。


あ、そうだ。
最後に登場する「機械」の造形だけはとても気に入った。
あれはちょっとデヴィッドの傍若無人に似たばかばかしい感覚があった。



@シネマライズ
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「オブリビオン」ジョセフ・コシンスキー

2013-06-05 01:25:33 | cinema
オブリビオンOBLIVION
2013アメリカ
監督:ジョセフ・コシンスキー
原作:ジョセフ・コシンスキー
脚本:カール・ガイダシェク、マイケル・デブライン
出演:トム・クルーズ、モーガン・フリーマン、オルガ・キュリレンコ、アンドレア・ライズブロー


おぶりゔぃよん~ぬっ


ということで観てきました。
トム・クルーズはいつものとおりのトムでした。
状況が違いすぎるのに「アウトロー」での印象とあまり変わらない。
質実剛健で紳士で滅法強いけどこじんまりとコンパクトなやつ。

なんでしょうねこれは。
『宇宙戦争』での彼は若干ヘタレな父親像を描きつつも、道は踏み外さないし。
『マイノリティ・レポート』はもう質実剛健だし。
『ミッション:インポッシブル』もしかり。

あれ?でも『マグノリア』の彼は気持ち悪かったぞ??
と思い彼の出演歴を見る・・
どうもワタシが質実剛健コンパクト路線のものばかり選んで観ているようであるのよね。
マッチョな彼をみたいのかなあ。
あのマッチョな体型で、質実剛健以外の役柄を観たいと思わないのかもしれない。

そういえば『レジェンド/光と闇の伝説』もトムだった。
誰しもそうだが若い頃はスリムだ。例外はあるけど。
『レインマン』とか『アイズ・ワイド・シャット』すら未見だし、すこしトムの他のものを観てみないとだめだね。

『アウトロー』と『オブリビオン』については、主人公の持つ資質が似通い過ぎていて、
パラレルワールドものの姉妹編じゃないかと思う。
(役名までそっくりなのだが・・w)
困難に対してまったく物怖じせず、自分の技術と運動神経で正面から立ち向かう。
そういう人物像を無尽蔵に輩出してきた映画の世界では
その伝統はどうやらまだ健在なようである。



えと、映画については、予告編から想像されるものよりは
だいぶコンパクトというかチープな仕上がりだったなという印象ですね。
もちろんお金はかかっていることはよくわかるし
壊滅後の地球をイメージできるロケ地は過酷な環境だっただろうし
メカの動きや作り込みも凝っているし。

でもチープなんだよね。
スケール感がないのかな。
広大な大地を行動範囲にしながらも、
事件の舞台がだいたいは屋内であるというところは
むしろ狙いだったのかのしれないね。

ストーリーとしては、わりと見え見えでw
きっとこうなるなと思った通りに進んでいってしまったので、
だからといってつまらなかったとは思わないんですけど、
逆に、そうやって先を匂わせる手腕に長けているということだと思うんだよね。
チラ見せ的に伏線をさりげなーくちりばめておくところはなかなか上手いと思いました。

特に感心したのは、仕事のパートナーであるヴィクトリアを演じたアンドレア・ライズブローさんの顔。
きれいな顔なんだけど、とても怪しい雰囲気をただよわせている。
彼女はあの顔だけで「ワタシは怪しい」という隠されたメッセ-ジをその登場シーンから醸し出している。
一番の功労者だと思う。


個人的に残念なのは、種明かしを演説でやるタイプの映画だったという点ですね。
わかりやすさを第一にするとそうなっちゃう気持ちはわかるんだけど、
これはなんでしょうね、芸術的な野心がなかったのか、どこかの段階でなにかに屈したのか、
残念な結果です。
モーガン・フリーマンもおしゃべりが主要任務というのはつまらないんじゃないかなあ。。。


****

私見ですが、『2001年宇宙の旅』との造形的類縁性を見ました。
あの飛んでくるドローンの丸い造形と白い色と「目」に相当する赤いレンズ?は
『2001~』のあのポッドそっくりだし。
あと「切り離し」の場面でのハッチの開閉操作盤(適当な名前を付けてみました)の造形とそれを操作する手順が
『2001~』のあの強制帰還のところとよく似ていたと思います。

あとはねー、ジャックが主に移動手段で用いるあのジェットヘリみたいなのは
造形がオスプレイそっくりなんだよね^^;
なんなんでしょうね。。


よくわからない感想になってしまった。。


@バルト9



【追記】
湖畔で流れるレコードからの曲はいずれもよく知っている曲だが
実はタイトルもアーティストもなんも知らん^^;
いつの日かわかる日が来るのを楽しみにしているw

えいさんに教えてもらいましたが、驚愕の事実に…

【さらに追記】
SFとして観たので上記のような感想になったけど、思い返してみると愛の物語としてなかなかしみじみできる内容で、よい映画だったのかもと思えてきました。
ラスト近くにあの絵が掲げられるところとかもなかなかよいですね。

ラストの出会いは、萩尾望都「A-A'」を思い出させます。あれと同様のテーマ、愛の再生の映画なのだと。
コメント (4)
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「華氏451」フランソワ・トリュフォー

2013-06-02 03:18:09 | cinema
華氏451 [DVD]
クリエーター情報なし
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン


華氏451FAHRENHEIT 451
1966イギリス/フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ 他


トリュフォーの初の英語作品であり、ブラッドベリ原作の本作。
原作の方を読んだので流れでこちらも観てみました。

大部翻案されているけれども大筋はおさえているという感じです。
原作にあったスリリングな逃走劇を期待したけどそれは地味におさえられてました。
あと戦争というモチーフもばっさり落ちています。

原作とくらべてどうこう言うのは野暮なのですが、やはり戦争である種の壊滅があるという状況においてこそ、
愚行をのりこえて人類の英知が再び築かれるのだという「彼ら」の信念が一層映えていたことを思うと、ちょっと残念。
彼らの存在の重みのようなものが、映画のラストでは欠けていたかなと思います。


映画としてはですね、
冒頭の「出動シーン」でぐぐっと心をわしづかみにされましたw
あのチープ感がたまらん。チープなものの上に直立不動で何人も乗っている姿が、
そのあとも時折写るんだけれど、そのたびにしびれるね。

書物を禁止するという強権的な権力のありようが、60年代の社会での保守的な規制にからめて表現されていたのが興味深かった。
書物だけでなく、どうらや長髪も禁止されているらしく、保健省?みたいなのが街角で長髪の若者をとっつかまえてバリカンでぞりぞりしてたり、消防署(じゃないけど)のなかでも、シャツの第1ボタンを外している下っ端を署長がめちゃくちゃにとっちめていたりする。
一種のディストピアものなのだけど、そこでの強権が現代の保守的な抑圧とおなじなんだよっていう風刺的なアイディアなのだろうね。

あとは何回かでてくる焚書のシーンでは、原作と違い、時の話題作や彼らが影響を受けたと思われる小説など(ジュネ、ヘンリーミラー、ベケット、ディケンズ、サド、などなど)が目白押しで出てきては焼かれる。趣味感満載である^^
署長が秘密の図書室を見つけてモンターグに演説ぶつところで、「全部燃やしてやる~」とかなんとか言うときに手にした本がヒトラー「我が闘争」だったというのも、痛烈な皮肉である。
ダリの画集が風に煽られてページがどんどんめくれていくのをずーっと写したりしているし、カイエ・デュ・シネマに石油?がだばだばかけられたり(笑)
本を撮りたくてしょうがないという感じだ。

消防署(?)の赤い壁に青い回転灯の光が映ったり、ときおり赤いフィルターがさっとかけられたり、色使いがヒッチコックっぽいのも面白い。そういえば音楽がバーナード・ハーマンだし(7拍子の「出動のテーマ」(?笑)とかいい感じだ)
署長室に忍び込んだところに署長が現れちゃって、モンターグが気絶しちゃうところとかはなんとなくヒッチコックっぽいリズムだったし。
そういうサスペンスタッチを用いつつ思索的な(かつ若干コミューン的な素朴指向のある)エンディングに持っていくというところにトリュフォーの野心のようなものを感じなくもないが、実際はどうだったのか。

そういやモンターグの家で妻リンダがはまっている参加型テレビドラマ?で列挙された女性の名前は、ひょっとしたらヒッチコックの映画のヒロインたちの名ではないか??と思ったが未確認。(かくにんしろー)
マデリンっていう名前でそう思っただけだけど。



***

あのモノレールもすごいフォトジェニック。
ほんとにあんなのあるのか。あの昇降システムはちょっとびっくりだ。雨風があったら危険だよねえ。しかもあんな原っぱのど真ん中に止まるのかねえ?

妻リンダ(と教師クラリス)を演じたジュリー・クリスティの姿は、どうもどこかで見たことがあるイメージ。直感的に岡田史子のどれかの作品にこんな顔の女性がいたような気がするのだが、これも未確認。
彼女は『赤い影』とか『ナッシュビル』とかに出ているようなのだが、もちろんワタシは見ただけではわからんぜ。

『赤い影』といえば『華氏451』の撮影はニコラス・ローグ。

2つのカットでマーク・レスター坊やが登場するのも見逃せない。
「オリバー!」は1968年ということなので、それよりも前の出演ということになる。

原作はずっと詩的で手が込んでいると思うので、そちらもどうぞ。

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)
クリエーター情報なし
早川書房




@自宅DVD
コメント (2)
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