Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

夏休み

2009-07-31 13:24:19 | diary
麦わら帽子は~
もうきえ~た~
たんぼのかえるは~~
もうきえ~た~

^^;

ということで、夏休み1日めを今日にしました。
今日は猫沢さんのライブがあるので、それに合わせてとったわけですが、
あわよくば昼間に映画を2本見てから行こう・・・

と思っていたのですが、恐れていたことが・・・
このところがんばって出勤しているので、休みの日はひょっとすると
睡眠を取り戻すのにぐうぐう寝てしまうのかもしれん・・と心の隅で思っていたら、案の定、朝ふと起きたはいいけど、結局二度寝して、ついさっきやっと起きた^^;

ぐうぐう寝てしまった

映画にはどうも間に合わん。
「バーダー・マインホフ」と「精神」を見てやろうと思っていたのに~~

ま、しかたないので、洗濯と掃除をしてからライブに出かけよう。


その上、今奥さんが、子供が割り当てられた家事をやらないのに腹を立て
昨日から家出中なんですよね~wwww^^;
その日またたまたまワタシは歓送迎会でちょうしこいてカラオケまで行って
夜遅くなったので余計にまずい感じ~~;;

なので、夕ご飯は子供たちでなんとかしろよ!
ワタシはライブに行っちゃうからね!!!

というのも子供たちが大きくなったので出来る技である。
やれやれ・・・・・

仕方がないのでライブのあと深夜DVDで映画の精を吸収しよう
ファスビンダーでも観るか。




人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シュルツ祭に行ってきました

2009-07-21 00:39:11 | cinema
「七月の夜 ブルーノシュルツ祭」2009.7.20mon
行ってきました。
20世紀前半、ポーランドの(いや、ドロホビチの、かも)作家シュルツを偲び
そしてシュルツ邦訳の一人者工藤幸雄氏の一周忌にちなみ、
映画の上映会などの企画でした。



東大法文2号館1番大教室は八分入りくらいの
ほどよい盛況ぶりでありました。
よく冷えた教室のなか、冒頭ポーランド大使館の方の挨拶があり、
主催者の加藤さんから会の趣旨やシュルツについてなど
簡単なお話のあと、映画上映がはじまりました。

1本目は野中剛監督1994年の「ブルーノ・シュルツ 二度目の幼年期」
木もれ日のソフトフォーカス映像にしずかにグールドによるゴルトベルクのアリア(最終楽章だねあれは)が流れる、繊細で着眼点が確かなドキュメンタリーでした。
幼年期の繊細で大胆なあの感覚はどこへ行ったのか?あの時代の精神は二度と持ち得ないのか?あれは成長前の一過程にすぎないのか?人間が成長するとはあの感覚を失って中身の欠落した世界を認識するようになる、そのようなことなのか?
そんなような問いを軸に、幼年期のマジックを再び持つことの試みとしてシュルツの画業と作家業をコラージュしてみせる。
小説からの引用がポーランド語で朗読され、すると、それに対応するようなシュルツの絵が映し出される。思いのほか画業と小説は密接に関係していたのだなと思う。
「クレプシドラ・サナトリウム」にでてくる謎の望遠鏡もちゃんと絵が残っている。あの装置の感覚は、例えばカントルの舞台装置にも引き継がれているだろう。

次いで、ヴォイチェフ・イエジ・ハス監督1973『砂時計サナトリウム』
20年ほど前に観たきりなので、ほとんど忘れていたが、あのサナトリウム入口の巨大な扉は覚えていた。(記憶ではもっともっと巨大な壁についていた)
あとはベッドの下を主人公がごそごそ這い回るところも。
こうしてみると、全編やたらとせまいところをごそごそ通り抜ける、というのが映画的主題の一つになっていると思う。舞台装置は常に古びてごちゃごちゃしてモノが充満している。そこになにかというと大人数が登場して右往左往するので、いきおい画面が狭い(笑)冒頭から主人公もサナトリウムへ行く道すがら墓石が密集するなかをあるき、茂みを越え、木の枝をはらい、木立の隙間をすりぬけて大扉にたどり着くし。
ベッドの下は言うまでもなく、父ヨゼフの店のあるあたりもどうした?ってくらいごったがえしていて、このギリギリを通り抜けるということが主人公に課せられた課題のようだ。

あとは、後で質疑の際にもでていたが、女性の胸!女性が出てくると必ずといっていいほど胸をあらわにしているか、みえそうでみえないけど結局見えちゃうみたいな(笑)線です。この胸フェチは原作のシュルツにはあまり感じられないものだ。冒頭の看護士さん(今風なよびかたですな)だって、あの胸元の乱れはさっそく原作にはないですからね~~

なわけで、がしゃんと倒れた人間の顔がこわれてゼンマイやら眼球やら飛び出たところに申し訳程度に血が滴る、人形的快楽を味わいつつ、途中でふとうとうとしつつ、冷房に凍えつつ、およそ2時間の映画再訪を楽しみました。。


休憩後は沼野充義氏進行によるちょっとしたディスカッションがありました。
若手研究家の加藤有子さんから原作と映画の関係について、それから赤塚若樹さんからは、シュルツ画集に足フェチを感じさせる絵が200枚中40枚近くあるという指摘があり、足フェチの観点で小説を読返してみると・・というハナシがありました。

ワタシはあまりシュルツの画業を全体的に見たことがないので、その指摘は新鮮でした。ああ、なるほど~足フェチね
質疑応答でも会場からは、足フェチのハナシが蒸し返されたり、映画では胸フェチにすり替わっているがそれについてはどうか?とか、後半はそういうネタで盛り上がった感がありました。

最後に、シュルツ短編「七月の夜」の朗読が、ポーランド語と日本語であり、その余韻のなかで自然解散となりました~
ポーランド語はもちろんさっぱりわかりませんが、女性の声で流れるように語られる異国の言葉に思わずうっとりとしてしまふワタシでした。


終了後、ポーランド文学翻訳者の芝田文乃さんがいらしてたので軽く挨拶し、喫煙所でタバコを1本吸わせてもらい、本郷三丁目スタバに行きました。

それと映画ブログつながりのかえるさんにも会うことができました^^
かえるさんに会えた喜びをいろいろ書きたいけども
公共の場なので控えておきましょう・・
いやいや~^^



配布資料はそれほど目新しいものはありませんでしたね。
沼野氏による「全集」の書評コピー、会の進行と関連人物を簡単に紹介したペーパー、
「七月の夜」のコピー、「二度目の幼年期」DVDのチラシ。そんなとこですね。
「七月の夜」は平凡社ライブラリー版からのコピーで、あれは注釈にちょっとした誤植があって、それがしっかりコピーに載っておりましたね~(笑)

こんな感じで、連休の最終日は終わらんとしております。
あれ?もう日付が変わっていました^^;

ではおやすみなさいzzz






あ、写真忘れてた^^;


赤門入ってふと上を見ると飛行船が・・・



図書館と飛行船~


肝心のシュルツ祭の写真は無く^^;
(だってケータイカメラシャッター音がでかいんだもん)



人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「Live1969」サイモン&ガーファンクル

2009-07-17 00:14:19 | music
Live 1969

SMJ

このアイテムの詳細を見る


S&G公演以来突っ走り気味なmanimaniでございますが、
表に出さないだけで潜在的に密やかにつねにS&Gは脳内ランニング中なのでもありました。
結構歌詞覚えてるし、というか、歌と一緒だと歌える。言葉として思い出したりはしない。

このライブアルバムは、1969年、『明日に架ける橋』をレコーディングはしたが発売前、という状況でのツアーの録音だそうです。
録音は少々荒い感じがするが、ライブでのパワーはしっかり感じられる。

ギター一本でのデュオもいいが(ギターだけでat the zooをやるとは)
バンドスタイルでの曲が聞き物だと思う。
アレンジの時代がかった感じがステキだ。ドラムがバスバスとしまって聴こえると思ったら、やはりハル・ブレインだった。ベースはジョー・オズボーンで、この組み合わせはカーペンターズの黄金期の録音ですね~ベースも結構走り回っていて、他では聞いたことの無いユニークな「ミセス・ロビンソン」を聴かせてくれる。
いいねえ。

この時期、二人の間はけっこうぎくしゃくしていたはずであるのに、このハーモニーの合い具合ときたら、どうしたことだ?合えばいいってもんではないハーモニーだが、外れているくせに息がぴったりという不思議な組み合わせだ。
MISIAのコーラスをやっていた佐々木久美さんが言っていたが、コーラスをやっていると、次に相手がどう歌うかが分かる、決まっている旋律ダケでなく、フェイクをきかせるところまで先が読める、と。事実佐々木さんはMISIAのフェイクにしっかり3度上で乗ったりしているし・・^^;
そういうところは人間の不思議ですねえ


さてと、あとは、このライブアルバムではワタシの好きな2大マイナー曲をやっているのが魅力なのですよ~
「song for the asking」「So Long,FRANK LLOYD WRIGHT」がその二つ。
これをライブでやっていたなんて!来日のときもぜひ聴きたかったな。
あと「明日に架ける橋」のピアノが、後年のちょっとフュージョンな感じではなくてアルバムに近い素朴な感じなのが貴重かも~

のどかなバンドのせいで(笑)ちょっと緊張度はアルバム「ライヴ・フロム・ニューヨーク・シティ 1967」のほうが上だけど、1969も悪くない。いやこれもいいな。



人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ザ・ケープマン」ポール・サイモン

2009-07-16 00:15:19 | music
ザ・ケープマン(紙ジャケット仕様)

ワーナーミュージック・ジャパン

このアイテムの詳細を見る


1998年1月に初演されたミュージカルからの曲をパッケージしたアルバム。
ポール・サイモンのミュージカルというのはなんとも想像できないのだが、やはり、罪と赦しをテーマにした、重いおも~い曲が並んでおりました。
曲調はラテンの香りをちりばめた明るめなものが多いにも関わらず、歌詞を見ながら聴くとそこは間違いなくポール・サイモンの世界でした。

1959年に起きた事件をもとに書かれたということで、プエルト・リコ系少年サルヴァドールが起こした殺人事件と、死刑囚として生き恩赦で釈放されてからの生を描く。ミュージカルとしては不評で、また、事件の犠牲者遺族や支援者らによる反対運動まで起きたという。殺人者に同情はいらないと。また暗い話だったようである。

アメリカという国は・・・とあらためて思い起こすまでもなく、明と暗のくっきりした国だ。「アメリカ」という曲をはじめとして、ポールはそうした国で生きることの深い闇をけだるく歌ってきたわけで、このミュージカルの題材は、どうしようもなくポールなものである。この上なくポール。


掟破りに突き刺さるのは、しかしこのアルバムのジャケットである。荒く青と赤の線で描かれた家のような形のなかに、おそらくは主人公サルヴァドールの幼少のころの写真が、こちらを向いて立っている。
こういう写真の持つ力は、ロラン・バルトを引くまでもなく、強烈だ。かつてそこにあった存在のまぎれもない痕跡であると同時に、すでにココにはないものの、不在の証明であるからだ。それは死のイメージ。写真~死。
(思い出すのはなぜかマイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』村上春樹訳。あれも犯罪もので、ふんだんに挟まれる写真が、おなじように存在と不在の干渉をひきおこしていた。)

写真をアルバムジャケットに据えたことにはなにか深くて強いメッセージがあると思う。

ジャケットを眺めながら曲を聴くとしよう。



心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)
マイケル ギルモア
文藝春秋

このアイテムの詳細を見る

心臓を貫かれて〈下〉 (文春文庫)
マイケル ギルモア
文藝春秋

このアイテムの詳細を見る




人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ポール・サイモン・ソングブック」ポール・サイモン

2009-07-14 23:37:53 | music
ポール・サイモン・ソング・ブック

SMJ

このアイテムの詳細を見る


サイモン&ガーファンクルを聴いて20年以上
しかしポール・サイモンのソロ作はほとんどおさえていないことに
いまさらながら、損失感のようなものを覚え、急遽CDショップに走るも・・
主要なアルバムはまったく置いてなく;;
ただこの「ソングブック」はあったので、購入。

で、さっそく聴いてみましたが、これが、すごくいいですね~~!!
うすうす感づいてはいましたが、ポールはすごくソウルフルで
自由な歌い手なんですよね~
リズムやタイム感や音程すらにも縛られない、歌の持つ非定型なうねりをそのまま歌い出すことができる。
だから、ガーファンクルとのデュエットはそれはそれでいいんだけれど、ポールの持つ根源的なエネルギーを出す場としては制約の多いものだったんだろうなあと、このアルバムを聴いてあらためて思うわけです。

冒頭のI am a Rockからして、テンポを自由に変えて前のめりに歌う歌はその自由な力をみなぎらせているではないですか。
この力が、ガーファンクルとの共同作業を窮屈に感じないはずはないのだろうな~~

このアルバムを20年前に聴いて、よさが分かっただろうか?>自分
微妙だが、いまでこそ心に響くアルバムでした。
なんとなく、ビリー・ジョエルの「コールド・スプリング・ハーバー」と、ティラノザウルス・レックスの最初のアルバム(タイトル省略(笑))を思い出す。
内容が似ているというわけではないけれど、どれもブレイクする前の作品であり、それほど売れず、でも原初の衝動がパッケージされている。
このへんが好きなら、「ソングブック」もOKだろう。

****

Sound of Silenceも、S&Gの最初のアルバムバージョンとはまた違った、パワフルなフォークチューンになっている。荒削りな原型であり、本当の姿なような気がする。この曲を本当にわかった!ような気がする。

Leaves that are Green、Kathy's Song、Flowers never bend with the rainfallなど、S&Gでおなじみの渋いナンバーが魅力的である。

「簡単で散漫な演説」も、ポールのあの時代のアイドルが次々と現れてなにやら胸が熱くなる。
 やつらお固いもんだから
 ディランのことを話していると
 ディラン・トマスのことだと思いやがる
(笑)


***

このアルバムは、アメリカでS&Gとして出したデビューアルバムがまったく売れず、その後ポールがひとりロンドンに渡りそこのフォークシーンで活動していた時期に出したソロアルバム。
65年の作品だと。

S&Gが売れてからは、ポールの意向でずっと廃盤になっていたのだが、割と最近になってようやく復刻されたようですよ。
まあ、差し止める気持ちも分からんではない荒削りな作品ですが、今はかえってそこが受け入れられるんではないかな?



ところで、紙ジャケ仕様とその他の盤でジャケ写真が左右逆なのはなぜ?


ポール・サイモン・ソングブック(紙ジャケット仕様)

ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル

このアイテムの詳細を見る




人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャイコフスキーはどうよ?

2009-07-13 00:55:05 | music
チャイコフスキー:交響曲第4番&プロコフィエフ古典交響曲
フィラデルフィア管弦楽団 オーマンディ(ユージン)
BMG JAPAN

このアイテムの詳細を見る


チャイコフスキーで圧倒的に好きなのは実はヴァイオリン協奏曲なのですが、それをおいておくと、次は交響曲第4番がくるのです。

また4番だ。

これは第1楽章が好きですね。
9/8という変な拍子な上に基本のリズムが真ん中付点のタッタータという形で、
それをさらに2拍目にアクセントをつけるので小説頭が見えにくい。
楽想も和声も非常に落ち着きがなく常にうごめいていてビートもよじれている。

ひとことでいうならば狂気すれすれの激情というところでしょうか。
ここんとこが5番にも6番にもないところですね。なんか危うい形が。

第2楽章もなかなかいいんですよね
冒頭の憂愁っていったらこれ以上ないような素朴で悲しい旋律。
部分的にはバッハの良質なアリアみたいなところもあって、
ロシア大作曲家のなかにヨーロッパとの強い繋がりを見せてくれるですね。
Vコンの第2楽章とも通じるなにかがありますな。

第3楽章は弦は全部ピチカートという個性的なスケルツォです。
前半はそういうわけでなんかぼそぼそ弦が動いてるというかんじなんですけど、中盤管楽器が入ってくると一気に舞曲っぽくなります。

第4楽章は絵に描いたようなフィナーレ。これ以上ないでしょうみたいな、主音ではじまり主音で終わるフレーズを冒頭シンバル一発ではなばなしく歌うのです。これぞ第4楽章。なので、この曲中では一番普通でそんなに好きではありません(笑)

やっぱり第1楽章ですかね~
あのよじれ具合。

*****

で、さて、なんでオーマンディなんでしょう??
というと答えははっきりしていないのです。
オーマンディってちょっとストコフスキー的なイメージっていうか、ちょっと通俗的な音楽家みたいなイメージがあるんですが、どうでしょうね~
なので普通はまあめったにオーマンディに手を出す事はないんですが、どうもチャイコフスキーだけは別で、あの激情+憂愁の曲想には過剰な演出がとてもよくマッチする・・というわけで、マズいかなあ?と思いつつもオーマンディ盤を買ってしまうのでした。

第4も第1楽章をなかなかねっとりと弾いていて、ちょっと狂気臭は薄めなんですが、わりと好みの演奏ですね。走りすぎず、遅すぎず。重く。
第2楽章も良い出来ですね。
ちょっと第4楽章はおとなしめなように思えますが、第1楽章とのバランスでいくとこのくらいがいいんでしょうね。
オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団
1972年の録音です。

カップリングのプロコフィエフ交響曲第1番「古典」は
なんか地味に聴こえます^^;

***

しかし実はムラヴィンスキー盤が一番好きだったりして。
録音は古いのですが、古いゆえか?音圧的にもいい感じで
やっぱローファイ人間なんでしょうかね>自分

第1楽章もちょっと狂気寄りで、その対極への反映であるフィナーレのはじけ具合がまたすごい。16分音符で下がっては登る弦楽器がいかにも狂躁って感じです。

ムラヴィンスキー盤も買おうかなあ
(アナログ盤でしかもっていない)



チャイコフスキー:交響曲第4番、第5番、第6番「悲愴」
ムラヴィンスキー(エフゲニ)
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る





人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Simon & Garfunkel Live at Tokyo DOME20090711

2009-07-12 00:56:39 | music
いや~~~~~~~~~~~~~~~っ!
行ってきました
聴いてきました
観てきました
サイモン&ガーファンクル来日公演@東京ドーム!

なにしろあのビッグネームが
伝説のデュオが
栄光の60年代が
目の前で(いや、遠かったですけど)
歌っているのです。
往年の名曲を
それぞれのソロ曲を
サイショは嬉しかったんですけれど
終盤はその希有な時間を持てたことに感極まり
「明日に架ける橋」を歌い上げた二人の姿に思わず涙してしまいましたよ。
なんだかんだとやはりいいですよS&G

二人とも声質は多少変わっていはいるものの、
歌の「良さ」の部分はまったく変わっていないという印象でした。
質は少し変わっても、アーティーはまちがいなくアーティーでしたし、
ポールはどうしようもなくポールでありました。
そのおとろえのなさにまずは感心しました。

まあ、容姿はしっかり衰えてましたけどね
(特にポール(笑)アートはわりと歳取ってない)

ライブDVDやCDを聴くと、同じ曲でも毎回少しずつ歌い回しが違っていて、
どれだけリハをするのかわかりませんが、その違いを少しも外す事なくしっかりハモる呼吸の合い方もまた感動的です。
曲折ありとうの昔に解散した彼らですが、ときおり再結成してきかせる息の合ったハーモニーは、二人のつよい結びつきを感じますね~

というわけで、バックバンドを従えて、あるいはポールのギター1本で、と多彩に構成された刺激的なステージでした。

***

まだツアー中なのでセットリストは後日~
といってもソロ作品はあまりおさえてないので
分からない曲も何曲かアリ

事前に勝手に「やるかも/やってほしい/やってほしいけどたぶんやらないだろうリスト」をつくってCD焼いたりしてたんだけど、なかなかジャストミートな選曲でしたよ^^
ちょっとマイナーな曲もリストに入れたら、ちゃんとやってくれましたし。

特に終盤やったあれとかね
終盤からアンコールの選曲はそれはもう滂沱という感じで;;



そういや席の後ろのほうで、始まる前にアンコールの曲目を同伴者に教えているヤツがいて
非常に迷惑でした^^;
そういうのは知っててもクチにしちゃいかんでしょうに。。
それもいい歳した大人ですよ

で、お客さんの年齢層、高め~~(笑)
もちろん当然ですけどね。
なかにあんまり若い子が混じっていると、だれか孫を連れてきたんかい?みたいな世代ですよね~
ビートルズなどとちがってS&Gはいまいち若い世代に浸透していないような気もするので、頑張ってほしいです(誰が何を?)

****
【追記】
ようやくセットリストをあげても良さそうです。
アートとポールのソロには知らない曲もあったので、
あちこちのwebのリストを参考にしました
曲順もね。

01. Old Friends ~ Bookends Theme
02. Hazy Shade of Winter
03. I Am a Rock
04. America
05. Kathy's Song

06. Hey Schoolgirl
07. Be Bop A Lula
(ここらへんは若い時はこんなのやってましたという雑談の中で歌われましたね)

08. Scarborough Fair
09. Homeward Bound
10. Mrs Robinson
11. Slip Slidin' Away
12. El Condor Pasa

(Garfunkel solo)
13. Bright Eyes
14. A Heart in New York
15. Perfect Moment ~ Now I Lay Me Down to Sleep

(Simon solo)
16. Boy in the Bubble
17. Graceland
18. Still Crazy After All These Years

19. Only Living Boy in New York
20. My Little Town
21. Bridge Over Troubled Water

(アンコール)
22. Sound of Silence
23. The Boxer
24. Leaves That Are Green
25. Cecilia



いや~
なかでもおっと思った選曲はKathy's SongとOnly Living Boy in New Yorkでしょうか。
ポールのソロでうたわれる前者は前半に出てきて、やっぱりこのうたは彼にとっては大事な歌なのでしょう
from shelter of my mind
through the window of my eyes
I gaze beyond the rain-drenched streets
to England where my hearts lies
ってとこが好きです。rainってのがね

後者は、勝手に青のイメージのある曲だと思っていたら
照明も青っぽかったので、おお~という感じでした。
なんか飛行機が出てくる歌ですね。
スゴい好きな歌だ。

あとは、The dangling conversationとか、song for the askingとかがあったら最高だな。

そうそう、演奏陣もそうとう年齢層高めだったんだけど(笑)
けっこうすごかった。
ギターのおじさんはと中チェロやケーナなどもプレイして目立っていた。
キーボードプレイヤーは1曲だけテルミンを弾いていた。ボクサーの間奏の旋律をあれでやっていたんだけど・・・う~む、あれだけのためにテルミンか!!


【追記終わり】

***

スタジオ盤
どれも名盤ですが、ワタシは後期に行くほど好きですね。

水曜の朝、午前3時

Sony Music Direct

このアイテムの詳細を見る


サウンド・オブ・サイレンス
サイモン&ガーファンクル
Sony Music Direct

このアイテムの詳細を見る


パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム

Sony Music Direct

このアイテムの詳細を見る


ブックエンド
サイモン&ガーファンクル
Sony Music Direct

このアイテムの詳細を見る


明日に架ける橋

Sony Music Direct

このアイテムの詳細を見る



あと、このライブアルバムがすごくいい!


ライブ・フロム・ニューヨーク・シティ 1967

Sony Music Direct

このアイテムの詳細を見る






人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラームスはお好き?

2009-07-10 22:02:12 | music
ブラームス:交響曲第4番

ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る



ブラームスはお好き?
はい好きです。

ルドルフ・シュタイナーは、人間の4つの気質のうち憂鬱質の人は、たとえばブラームスの4番に惹かれる、というようなことをどこかに書いていた。さっき出典を探したが今のところ明らかでない(つーか部屋が世の終わり的に乱雑なゆえ本を漁れず)。

で、ブラームスの交響曲ではダントツに4番が好きなワタシは、たぶん間違いなく憂鬱質。。

ながらくフルトヴェングラーの演奏に親しんでいたのだが、しばらくするとその演奏はどうやら突出して個性的でありエモーショナルであることもわかってきて、だんだん中庸な演奏も求めるようになってきたのです。たとえばカール・ベームとか。

ブラームス:交響曲第3&4番
ベーム(カール)
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る


ベームのブラームス交響曲は、非常に整然としており、透明感があり、重みもそれなりにある。もちろんフルトヴェングラーに慣れた耳には、どうにも淡白すぎる。
もちろんよく聴けば実は淡白ではなく、それなりにロマンティックでありかつ構築的なブラームスの香りをよく伝える演奏だあ・・と思っていたら、しばらく前にCDプレイヤーから取り出す際に盤を落としてしまい、なんと盤がすこし欠けてしまった。こんなこともあるもんだ、よっぽど落としどころが悪かったのだろう。欠けても一応ちゃんと聴けるのでまあよかったのだが、なんとなくそれ以来その盤を聴いていない。

代わりにときおり聴くのは、カルロス・クライバー80年の録音による第4である。これだってもちろんフルヴェン耳にはなんとも淡白だ(笑)が、あらためて聴いてみるとなかなかにエモーショナルだ。

第1楽章の最終部などは、フルヴェンが強迫的にアッチェラレンドするであろう箇所をことごとくむしろじっくりとその旋律と和声のロマンチシズムを強調するように歌いあげる。これはこれでブラームスの構造的な面を浮き立たせて興味深い。

第2楽章はフルヴェンに比べ幽玄さに欠ける気もするが、あちらが幽玄すぎるとも言える(笑)秋から冬の夕暮れの薄赤い光を思わせるフリギア旋律によるテーマとその変奏はいつ聴いても心地よい。

それにくらべると第3楽章はどこかこっけいな感じがして、それほど好みではないのだ。もちろん他楽章に比べ相対的に、ということだが。この楽章も結構じっくりと弾きこむ感じであるが、一つくらいははじけ飛ぶ楽章があってもいいようにも思う。まあ、少ない録音の機会にぶっ飛んだ演奏をするのはよほどの自信家か天才なのだろう。(グールドのような・・?)

第4楽章は、好きなこの曲の中でもさらに好きな楽章で、憂鬱中の憂鬱だ!(笑)すごく好きなのは、この楽章がパッサカリア形式だということにもある。短調のパッサカリアはとても憂鬱な気がする。たとえばバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタのシャコンヌとかも。何度も何度も気のめいる主題がめぐってくる。しかもブラームスの場合はホ短調で!
その暗いテーマを、途中では牧歌的な旋律と和声に読み替える職人技を見せるのだが、そこもまた憂愁といっていい茫洋さに満ちている。いい曲だ。そこの演奏も実に茫洋としたテンポと発声でよいのだ。クライバー盤の最大の見せ場はここだと思う。


クライバー盤をオススメする記事にしようと思ったのだけれど、こうして書いていくうちにやはり、過剰な激情と過度な幽玄をたたえたフルトヴェングラー+BPO盤が恋しくなるのは、もはや逃れられない性なのか?^^;
レコード盤でしか持っていないのでCDを買うかなあ・・でもアナログ盤モノラル録音+ローファイな再生機の独特な音圧にくらべるとCDはやはり平板に聴こえるのが躊躇するところ。

ブラームス:交響曲第4番他
フルトヴェングラー(ウィルヘルム)
EMI MUSIC JAPAN(TO)(M)

このアイテムの詳細を見る




人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進むべき道を真剣に考えたらどうでしょう?

2009-07-09 23:53:39 | diary
悲しい出来事の舞台はたまたまパチンコ店だったのだろうけれど、パチンコ店といわれて思い出すことがある。先日、たまたま道端である男の人がべらんめい調でどこかに電話をしているのを立ち聞きしてしまった。内容からすると彼はパチンコ店の雇われ店長らしかった。そしてこんなようなことを言っていた。

「今は市場が変わって、新人は使い捨てなんだよ。2週間くらいこき使ってダメなヤツはどんどんクビきって。使えそうなやつだけ残せばいいから。パチンコ屋におぼっちゃんはいらないから」

ある面現実的な考えなのだろう。
サバイバルと言う点ではまったく正しく、
生き残る側に立つとさらに真理となる。。

人間にはできるヤツもいればできないヤツもいる。それは能力の差であって、能力順に並べればトップがいてビリがいるのは当然の事実だ。ならば強いものは弱いものを補って、助け合いながら共存共生しようじゃないか・・・というのは正しくないのだろうか?

人間はみな平和共存を求めている、というのはおそらくは素朴な性善説なのだ。社会を動かしていると自分で思っている人間は多かれ少なかれ能力によって人は選別されると思っているに違いないし、ダメなヤツは生きる資格がないと思っている。それが現実なのだろう。自己責任。他者を切り捨てるに都合のよい言葉が世界にははびこっている。

一方で福祉の拡充とか自殺者増加への対策とか、表向きでは共存共生の論理が正論のように扱われている。しかし、ほんとうに共生を望むのであれば、社会の考え方が変わらないとダメだろう。弱者にも生きる資格があると。冒頭の彼のような考えが実質社会をうごかしていくならば、どこまで言っても弱者に生きる道はない。相対的に。

「仕事も金もなく人生に嫌気がさした」とガソリンをまいて火をつけた。その舞台がパチンコ店であったことが、個人的には妙に象徴的なことに思えてしまうのだ。



人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナイショに出来ない・・

2009-07-09 00:43:43 | diary
黙っていよう。。定員に限りがあるし・・
・・と思っても黙っていられないタチ^^;

7月の夜 ブルーノ・シュルツ祭

だと!
しかもハス『砂時計』を上映するそうですよ!^o^/英語字幕だそうですけど。
20日の予定は決まり。




あとは
猫沢エミLIVEが7月31日(金)にあり。
7月10日予約開始~Ou est mon chat?

7月11日は病院のあとS&G@東京ドームに行き
7月12日は都議選~子供のケータイ選び~ヴァイオリン
mayulucaのライブもあるけど行けないかな~さすがに
7月13日~情報処理試験願書受付&チェンバロ
7月14日はSさんと会いブツの授受を
7月15日に仕事の締め切りがアリ

なんか密度濃いんですけど・・



そいから
チャットモンチー レストラン デザート(DVD)が
8月に発売だと^^/




人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「諸怪志異 (1) 異界録」諸星大二郎

2009-07-07 23:37:25 | book
諸怪志異 (1) 異界録 アクションコミックス
諸星 大二郎
双葉社

このアイテムの詳細を見る



いやいや~面白かった^^
中国故事風の、普通の起承転結におさまらない、ちょっと背骨がずれちゃったような奇想に満ちた短編集でございます~。全体として重さと軽さが同居した、どちらにも傾きをもった感じで、好みですな~~

「犬土」
いきなり説明なしに「犬土」に襲われ、説明なしに五行先生と阿鬼が不思議な力を発揮する。この説明なし感が故事風でいい。基本「説明なし」は大好きなのだ。
妖術で動物と人間が遠隔で繋がる際に、顔が入れ替わる、というのは諸星的な感じがする。西遊妖猿伝でも妖術に捕われた玄奘の顔が蜥蜴の顔に浮かび上がる。
諸怪志異の後の作品にも石と顔が入れ替わってしまう話がある。
犬土の呼称についても最後に種明かしがあり、人を食っていて面白い。

「異界録」
これもスゴい!わけわかんない設定がまた中国4千年って気分いっぱいです。
なんで裏返っちゃうわけ?^^;で、「その場所からひきはなされると死ぬ」ってのもよくわからんし。結局あの異界はなんだったのかなんてことはまったく明かされず。これはあれだ、悪い夢をみているような、ってやつだ。すごく気に入った。
異界で中心に光の世界がある、という光景は諸星ではくりかえし現れるモチーフ。

「妖鯉」
これは先が読める。最後の「ワハハハハハハ」という笑い声がすごく好きだ。ほんとうに聴こえてきたよ。鯉の丸焼きは昔食ったことがある。30年くらい前に。いまでもごちそうなんだろうか。あまり食べたくないような気がする。

「幽山秘記」
俗塵を捨て神仙の道を求めて・・・とかいう決意も結局は女人のイメージだけでもろくもついえ去る・・のはほぼ人間的真理なのでしょうなあ、しみじみ
あそこで彼がほんとうに仙人の心を求めていたら、後の世の大乱は起きなかったのです~~女人が罪なのか、女人を求める心が罪なのか(なんか後者な気がする^^;)

「鬼城」
阿鬼と五行先生の出会いの物語。屋根の上に赤い腹掛けをして旗を振る子供、というイメージはなにやら怖い。背筋寒し。『シックス・センス』の肌寒さをふと思い出す。阿鬼が逃げてゆく城の鈍い重々しさも迫力満点、と思ったら殷の亡霊だったとはねえ。。甲骨文字の時代・・・

「小人怪」
いいすね!人生すべて見透かされているというなにやら締念のような教訓のようなよくわからない脱力感がよいですな。ネズミもそうそう家の中では見なくなったので、こういう境地もなかなか味わえませんな。

「魔婦」
これもネタ一発勝負でしかも途中から見えちゃう(笑)阿鬼はちいさいころから優しいヤツだね。こういう人間になりたい。あ、でも見鬼はちょっと怖い。
しかし、こういうお母さんているよな実際。ダンナがどんどん精気がなくなっちゃうタイプ(笑)

「三呆誤計」
どうしたらこんな阿呆な話を考えつくのだろうか??中国故事なのかな。創作なのかな。ほんとにもう阿呆どもの考えることは・・ただ娘に近づきたいというだけであの手この手、しかもいざその段になるとマヌケな穴だらけ。コメディの基本をしっかりおさえていて大笑い。魔法の切り売りのようなこともいにしえの中国にはいかにもありそうで上手い。

「花仙境」
一転してファンタジック。東洋のファンタジー。おしゃまな妖精を描くとなかなかいいのだ。みょうがの根をベッドの上に吊るしておくと寝小便しないそうだ。という「魔婦」のネタをさりげなくここでもつかっているところが可笑しい。

「毛家の怪」
正統派怪談。ちょっと江戸川乱歩か夢野久作風な。死者が亡霊となるのも恐ろしいが、生者の妄執が生霊となって現れるのもまた格別に恐ろしいなあ。語り手が歳若い小間使いなところもますます古風な感じがしてよい。

「連理樹」
植物に生命がある、ということを意識せよ。生命を慈しむことを忘れるな。というのはいまではなにやら環境問題の命題のようであるが、もっと自然な思いとして人には育まれていたのだろう。自然に囲まれて暮らすもよいだろう。こういう物語で学ぶのもよいだろう。


各篇の扉が切り絵風でとてもよい。これはどうやら諸怪志異1巻だけらしい?

各編読み切りで、五行先生と阿鬼がときおり顔を出すところがちょっとつながっている。その適度に独立した感じがまた想像力を刺激するんだな~


人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「不安が不安」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2009-07-05 22:47:19 | cinema
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー DVD-BOX 4 (四季を売る男/不安は魂を食いつくす/不安が不安)

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る


不安が不安Angst vor der Angst
1975ドイツ
監督・脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
原案:アスタ・シャイブ
出演:マーギット・カーステンセン、ウルリヒ・ファウルハーバー、ブリギッテ・ミラ、イルム・ヘルマン 他



ファスビンダーがTV用に制作したもので、観てみるとなんと、ウツ映画だった。

鬱になるには、「強度の」ストレスなどは実は不要で、ちょっとしたことの積み重ねや、理由のない漠然とした不安など、そんなことで十分に原因となるような気がする。
この映画も実在の主婦の手記をもとにつくられたというが、そこには全く「強度な」ストレスなどはない。二人女の子を妊娠出産した若い母親が、次第に不安に襲われ、精神の均衡を失っていく様子を描いたこの映画には、ストレスのモトらしきものは、同じ建物にすむ姑と小姑がちょっとうるさ型なところくらいで、あとは普通の暮らしである。まあ、日常生活に干渉者がいるというのは実は相当辛い事だろうけれど、直接的にそれが原因だとは断定しない。
まさに不安が不安を呼ぶような危うい状態で、本人も訳が分からないまま飲酒に走り、自傷もしてしまう。

TV向けということで、過激な描写はなく、ウツの実態にどれほど迫ったかは分からないが、逆に平明な表現を用いることで、ウツが普通の日常から生まれでるということを妙にリアルに示していたように思う。もっとひどい状態の人は多いのだろうけれど、ひどくなさ具合がワタシにはリアル。

主人公のマーゴットの影のような存在として、向いにすむバウアーさんという男が出てくる。彼はやはり精神を病んでいるらしいのだが、最後に自ら命を絶ってしまう。もちろんそのシーンはいっさい描かれないのだが、窓から向いの家を観るマーゴットの視線で映画は終わる。この視線のなかに、マーゴットの捕われた不安と、不安に対する不安を、観るものはよく想像できるだろう。

****

不安や緊張はファスビンダーが繰り返しいろいろな形で関わるテーマであって、それは個人の心のことだったり、時代の精神の事だったりするけれど、そういう人間のあり方を左右するようなことがらに彼は敏感である。

ホモセクシャルのこととか、外国人差別のこととかと同様に、ウツもまた社会の眼から見ると異質で忌むべきものであるととらえる反射神経のようなものがあることを、この映画でもするどく描いている。マーゴットの夫クルトはよき理解者だが、クルトの母と妹?ローレはマーゴットに厳しい。マーゴットは「おかしい」人間だと嫌悪を隠さない。異質なものとそれへの嫌悪は、ファスビンダーにとって重要なテーマのひとつなのに違いない。
そして彼も観客もまたその嫌悪の回路については当事者であり、自分だけが高所からそれを批判することなどできない、ということを、彼らしい映画の作法=居心地悪さによってよく伝えていると思う。

人生、ファスビンダーを観ずにはすまされない(笑)ような気にさせるのも、ひとえのその居心地悪いメッセージを感じるからなのだと思う。。

****

さて、その居心地悪さにまさに拍車をかけているのが、ペア・ラーベンによるおそろしく趣味の悪い音楽だろう(笑)
一聴して、なんだこりゃ?と思うあのセンスは、かなうモノなしの迫力がある。のちにやはりファスビンダーの『ケレル』によってラジー賞にノミネートされるだけのことはある。
すばらしい。

と言う点では、やはり登場の都度居心地悪さを画面中にふりまく小姑ローレを演じたイルム・ヘルマンも、すばらしくこの映画に貢献しているだろう。彼女は『四季を売る男』で主役級の存在を演じているが、そこでもやはり堪え難いまでのアップを堂々と披露している。
すばらしい。

母親役のブリギッテ・ミラは昨日観た『不安は魂を食いつくす』で見事な主演をした女優さんである。ここでは、歳相応ないかにも口うるさい母親にしっかりおさまっている。脇役としても名人なのだ。

最後のほうにイングリット・カーフェンが出てくるが、彼女はやはり不思議な魅力があるなあ。全然キレイでもオーラ系でもないんだけれど、なんというかな、すりきれてしまった人間になおも残る生命の力って感じかな(??)



人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「不安は魂を食いつくす」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2009-07-05 01:20:04 | cinema
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー DVD-BOX 4 (四季を売る男/不安は魂を食いつくす/不安が不安)

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る



不安は魂を食いつくすANGST ESSEN SEELE AUF
1974ドイツ
監督・脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
出演:ブリギッテ・ミラ、エル・ヘディ・ベン・サレム、イルム・ヘルマン、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 他



イングランド人の8割はレイシストだ、と、ある方のところで読んだ。
ワタシの好きなパリ在住ミュージシャンも近所のスーパーにいるレイシストおばさんについて書いている。
人種によって人を評価することはいけない、というのはとても高尚な思想であるのかもしれない。他民族への評価や偏見には深い歴史や生活実感が背景にあり、それは抽象的な考えではなくて、体が記憶している「業」なのだ。

ということを生々しく感じさせる映画なのだった。その業が恐ろしい形で席巻したヨーロッパの、ドイツという精神にあって、外国人差別を描くことはいささかも教条的にはなりえず、身を切るような自己批判とともに他へも鋭く問うような形になる。劇中にも出てくるが、撮影の時期は72年のミュンヘンでの事件の恐怖と憎悪が生々しいころであり、外国人への嫌悪が、単に偏見で片付けられないものであることもまた確かなことだ。
そうしたことを踏まえて、批判と問いを周到に組まれたメロドラマとして撮ったファスビンダーの姿勢には、やはり真摯なものを感じないわけにはいかない。

ヨーロッパから何かを学ぶには、ヨーロッパに外国人として暮らしてみるのがよい。のではないかと、漠然と思うが、どうだろう。

***

もはや老境にある女性エミとふとしたきっかけで知り合うモロッコ人アリ。
二人はお互いの心にいだく孤独のようなものに共鳴してか、結婚することになるのだが、周囲の眼は厳しい・・・

周囲の厳しさは、差別やイジメというのは幼い者の未熟な精神のゆえではなく、まさに立派な大人が担ってきたことなのだとあらためて思う。
子はそうした大人の社会にとけ込んでいくうちに、他者を蹂躙する技と快楽を学ぶ。負の連鎖は決してなくならない。それは血の中に生きているからだ。

一方でそうしたことに打ちのめされ、心からよきものを願う気持ちもまた同じく存在する。それもまた血の中に生きている。ちょっとした状況、流れの変化で人をめぐる心の環境は変化してしまう。そのことが救いでもあり恐ろしいところでもあるだろう。

アラブ系の夫を持ったことでエミは周囲に辛く当たられるが、二人の愛は深い。堪え難い扱いの中の確かな幸せ。しかしふとしたことでその周囲も慣れや理解を示すようになる。するとそうした環境の変化が今度は二人の気持ちのすれ違いを生む。皮肉なことだ。

最後には二人はその皮肉に自覚的になり、アリの病気を機に苦いハッピーエンドを迎えるのだが、ファスビンダーでハッピーエンドをみるのは初めてではないだろうか?その苦さは、決してほほを紅潮させて、よかったね~と言える類いのものではないのだが、少なくとも希望がないわけではない。苦い希望こそ真実なのではないだろうか?

***

アリを演じたサレムは当時ファスビンダーの伴侶であったということだ。彼はなんとこの映画の公開直前に泥酔して刃傷沙汰を起こして逮捕されてしまう。

ファスビンダー自身もエミの娘婿として(いかにもダメ男として)登場する。彼の風貌は実に個性的なので、他の作品の記憶をみんな引きずっての登場になる。

脇役には『四季を売る男』にも出演のイルム・へルマンやカール・シャイトなど知った顔が多数。



息子がTVを破壊するシーンがある。これは今ワタシは両親に地デジ対応TVを買ってあげようかと思っていることへの後押しなのだ、と受け取っておこう。なにかがそっと背中を押している。


人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「四季を売る男」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2009-07-04 01:49:32 | cinema
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー DVD-BOX 4 (四季を売る男/不安は魂を食いつくす/不安が不安)

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る


四季を売る男DER HANDLER DER VIER JAHRESZEITEN
1971西ドイツ
監督・脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
出演:ハンス・ヒルシュミュラー、イルム・ヘルマン、イングリット・カーフェン、ハンナ・シグラ、クラウス・レーヴィッチュ、グスティ・クライスル 他



ファスビンダーDVDBOX4から「四季を売る男」を観る。
1971年制作。ファスビンダーが映画制作会社タンゴフィルムを設立したばかりのとき。10日で撮ってしまったという話だ。

果物の呼び売りを生業とする小男であるハンス。
妻のイルムガルトに酔って暴力を振るうなど、最低の男だが、自分でもそのことはよくわかっている。
イルムガルトが耐えかねて娘(名前を忘れてしまったが可愛い)を連れて義母の家に逃げ込むと、妻が必要なんだとか言ってすぐに取り戻しにくる。
結局もとの鞘に納まる彼らは、人を雇い果物を売る商売を広げ、そこそこ儲けも出るようになる。しかし、社会的に認められるような立場になってくるにつれてハンスは沼にはまりこむように陰鬱な状態になってゆく。。。


快楽とは正反対の極北にいるような映画。
これぞファスビンダー。
暗い映画はその暗さにドラマや情緒の起伏という点でのカタルシスすら持ちうるというのに、この映画は、メロドラマ的構造とモチーフを持ちながら、そうした負のエネルギーすら拒否する。理由も定かでない破滅を淡々と写し出すばかり。
観るこちらも深いため息とともに、ラストの冷徹ながらも切れ味のないイルムガルトの「判断」に鈍く打ちのめされるほかない。

たとえばさりげなくも美しいカットや切り返しなどもない。音楽もほとんど使われない。セットも無味乾燥だし、なにしろ人物の顔がまったく美しくない。ハンナ・シグラが美女に見えるくらいに(笑)ことごとく人物の顔立ちは歪み左右非対称である。
構図だって考えてはいますけど、こんなんどうですか?みたいな作為丸出しである。
情熱的に映画を量産したけれど、どこかで映画への無償の愛を信じていなかったのではなかろうか、彼は。

世の映画が、愛ある世界もしくは愛の欠如した世界を描くものだとするならば、「四季を売る男」は、そのどちらでもない状態、愛の非在を描いているのかもしれない。ハンスは終わり近くに、唯一の友にむかい「ブタ野郎」とののしるが、友人ハリーもそれを自ら認め、おまえだってブタ野郎だ、と返す。
結局みんなブタ野郎なんだ。どんな出自であれ、なにを成そうとも、人はただ放物線を描いて落ちて終わるだけ。皆罪深く、しかし誰もがその罪の報いを受けるのだ、この愛の非在の世界では。

ダグラス・サークの作品を徹底的に観たあとにこの映画を撮ったという話である。メロドラマを導入しながらも商業的通俗性とは一線を画し、弁証法的な昇華を得た作品・・・と言われているが、具体的になにが成果なのかはよく考えないといけない。けれど、直感的にはそれは物語を語りながらその外に出てしまうような、本質や中心や大事なものなどのない留保なき真空のような「非在」の感覚を指すのだろう、と思う。

そして、非在を、避けられないモノのように感じてならない者に、ファスビンダーの映画は浅いが幅広い擦り傷のようなものを残していくのだ。避けがたく。



人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピナ・バウシュ

2009-07-02 09:57:25 | diary
訃報:ピナ・バウシュさん 68歳=ドイツのバレエ振付師
ドイツのブッパータール舞踊団を率いる著名振付師、ピナ・バウシュさんが30日、死去した。68歳。同舞踊団が明らかにした。死因は、5日前に診断されたばかりのがんとみられる。
バウシュさんは40年、ドイツ西部ゾーリンゲン生まれ。14歳でバレエの巨匠クルト・ヨース氏に師事後、ニューヨークのジュリアード音楽院に留学、メトロポリタンオペラなどで頭角を現した。帰国後、フォルクバンク舞踊団で活躍、さらに振付師としても活動開始。現代舞踊の新たな様式を確立した。73年からブッパータール舞踊団の芸術監督。
日本でも数々の公演をこなし、07年に京都賞受賞。舞踊団によると6月21日に舞台に立ったのが最後となった。
(毎日新聞 2009年7月1日 東京朝刊より)




ということです。
かえるさんに訃報を教えてもらいました。

ヴッパタールは一度だけ公演を観に行きました。
『カーネーション』
舞台が花で敷き詰められるなか、色とりどりの服の女性が歩くイメージ。
調べてみるとあれは89年のことらしい。
どこへ観に行ったのかもよく覚えていない。

『春の祭典』はTVで観ました。
あれは土でした。
そういう過剰がワタシは好きでしたね。

惜しいです。


【追記】
『春の祭典』をTVで観ましたと書きましたが、全編ではなくて抜粋放映を観たのでした。
全編放映はしていないはずだと某氏から指摘をいただきました。
ちゃんと書いていなかったのですみません。
放映についてのデータなどはまったく承知していないので、記しません。




人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする