鏡 Blu-ray | |
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IVC,Ltd.(VC)(D) |
齢とともに、タルコフスキー作品ではこれが一番好きかもと思うようになり、また観たくなったので観ました。
BD版は色鮮やかで解像度もよく、また鮮烈な体験となりました。フィルム+劇場での体験とは異質な気もしますが、時代の流れですな。
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「ノスタルジア」などで顕著だが、極めて個人的なものの解決や成就が、
世界の救済につながる、という、いささか「セカイ系」風なテーマがタルコフスキーにはあると思うが、
その個人的なものの解決・成就〜救済とはそもそもなんじゃろか?という問いと探求が、
この映画のひとつの切り口ではないかと思う。
ひとつはノスタルジー。
心に深く根ざしている過去の記憶、出来事、情景、確執を見つめ、大切にすること。
そのことが人の魂を救済する。
確執を明らかにし呪縛から逃れるとかそういうことではなく、
酸いも甘いもそのままのものとして向き合うことで訪れる癒しのようなもの。
二つ目は、超越的なものの理解と交流。
冒頭近く、アナトーリー・ソロニーツィンが語る自然との交流。
冒頭の吃音少年が催眠術により変貌を遂げる(と思われる)こともまた、精神の深遠な作用。
母の留守に現れた祖母が、カップの熱を残して突然消えるのもそれ。
母がぶちまけたバッグの中身を拾う時に生じる静電気もそれ。
この二つは全く別の事柄ではない。
記憶の中の雨、記憶の中で吹く風に舞うシーツ、炎、そういったものは、
心に深く楔を打ち込むと同時に、超越的なものとの交感を伴う。
その交感がまたノスタルジックな感情となって蘇る。
この絡み合う二つの事柄を、タルコフスキーは記憶の中のビジョンを
可視化しようとしたり(森を抜ける風、雨の中の火事、滴るミルク、驟雨)、
断片的なドラマとして想像/創造したり(印刷所の焦燥、父母の会話、祖父母の影)する。
時には大文字の歴史と接続し(泥野の行軍)、あるいは言葉による再解釈を重ね合わせる
(アルセーニーの詩の朗読)。
知情意の総体に多層的に訴えかけようとするタルコフスキーの動機に、
映画という形式が見事に呼応している。そういう宿りをここでは観ることができる。
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今回は鏡のモチーフをよく意識した。
母と訪れた父の故郷の知り合いの家(だと思う)の別室で、
小さな鏡を不穏な意識の元に長く凝視するイグナート少年。
遠い記憶(おそらく父親の幼少期の記憶)の中で、ミルク壺を抱えて静かに鏡に映る少年。
自分を見つめる装置としての鏡、自分を写し出す装置としての鏡。
そこには不可解ながら何故かこの世に在る存在の耐え難い重みのようなものが漂う。
終盤でイグナートが生まれる前の母親が、男の子がよいか女の子がよいか尋ねられ、
逡巡し涙を流すのも、鏡を不穏に見るイグナート少年の心情を先取りしたものだと思われる。
生の不穏。
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イグナートはおそらくタルコフスキー(アンドレイ)自身と思われるが、
彼の父もまた、幼少期の記憶にとらわれ、母親や妻と確執を抱えていて、
それがまたイグナートに影を落としている。
そのことに触れ、父親の記憶にも踏み込んでいるのがとても面白い。
記憶の世代間の遡行は、随所でアンドレイの父アルセーニーの詩が読まれることによりさらに多層化する。
@自宅BD鑑賞
ちなみに前回の記事
「鏡」の本 について
正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く- | |
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垣内出版 |
宮台真司氏が再開した映画評論集。
巻頭に書かれているように、映画評論というよりは「実存批評」という形式をとり、
一般的な映画批評とは趣が違う。
シネフィルさんは怒るかもしれない。
しかし、映画をツマにして社会学的な世相を切るというばかりではない。
現代の社会学的な様相をよく反映し、あるいは社会の構造への気づきを促すような映画がこのところ増えており、
またそういう映画を観客も求め始めているという状況の読みが、宮台氏を再び映画批評へと駆り立てたという面がある。
そういう期待感を持って、映画製作と映画鑑賞のトレンドとはなにかを考える上でも面白い論考だと思う。
もとより映画愛というよりは、映画の体験が自分に何をもたらしているのかを知りたいタイプのワタシとしては、
こういう批評の方がしっくりくるのです。
映画体験が、自分を含めた社会・パーソンもしくは世界の関係性への気づきを促しているのだとすれば、
そのように受け止め、そのように読む力をこちらもつけておきたいところかと。
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内容はもう読んでいただく他はなく、下手な要約など恐ろしくて出来ないんだが。。。
いくつかの(二項対立的な)図式が全体の鍵となっているのだけど、例えば、、
黒沢清の作品の多くは、通過儀礼〔離陸→渾沌→着陸〕の3段階を辿る。
離陸する元の大地は、「世界」ならぬ「世界体験」の生、
言語的にプログラムされた社会を自動機械的に生きる受動的な存在である。
そこに事件が起き、渾沌が訪れる。渾沌とは、コミュニケーション可能な世界=社会の外側にある
「世界」の気づき、言語以前のカオス。
主人公たちは渾沌を経て再び社会を、日常を生き始めるが、
それは最初にいた自動機械としての生を生きることはもはや不可能。
渾沌の中に浮かぶ奇跡の筏としての「社会」を、そうと知りながら「なりすまして」生きる存在となる。
大ざっくりこんな感じであるが、このことの意味を、哲学や社会学、
精神分析や文学から宗教から全動員して多面的に説きほぐして、
昨今の社会の右傾化とかトランプ現象とかに繋げていくので、
深いというか、世の様々な事象の繋がりを考えることができる。
とともに、特に黒沢作品などのページでは、例えば渾沌が映画的にどのように
表現・演出されるのかを掘り下げているので、ファンにも結構面白く読まれるのではなかろうか。
もちろん上記のような単純な図式化では終わらないので、読みでがあるし、繰り返し読みたいところです。
しかし紹介が難しい本だな・・・・
豚小屋 【HDリマスター版】 Blu-ray | |
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紀伊國屋書店 |
豚小屋Porcile
1969イタリア/フランス
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:トニーノ・デリ・コリ、アルマンド・ナンヌッツィ、ジュゼッペ・ルツォリーニ
音楽:ベネデット・ギリア
出演:ピエール・クレマンティ、フランコ・チッティ、ジャン=ピエール・レオー、アンヌ・ヴィアゼムスキー、ニネット・ダヴォリ他
パゾリーニらしい不可解な
寓意に満ちた(と思われる)小品。
冒頭に石版に刻まれた謎めいた文章が朗読される。
ここにはおそらく作品を読み解く鍵が仕込まれているのだが、例によって難解。
1967年以降の世界が舞台だが、冒頭のそれにより、
恐らくは戦後ヨーロッパ世界についての寓話なのだろうとわかる。
映画は二つの世界が並行して展開するが、
レオーとヴィアゼムスキーが登場する世界はまさに現代で、
共産主義革命に沸く一方でファシズムの影が色濃いヨーロッパ。
なんだけど、もう一方の、クレマンティとチッティがつるむ荒野は
時代も場所も判然としない。
中世ヨーロッパ風の意匠なので、そういうことかもしれない。
そして、二つの世界を貫くのが、カニバリズム的なモチーフ。
中世界では文字通り人を殺して食い、残った頭部は黒煙を吹く火口に投げ入れて跡形もない。
現代の方では、ナチスの非人道的行為が随所でかすかに回想されるとともに、
最後にレオーがどうやら豚に「跡形もなく」喰われたらしい、ということになる。
二つの世界の照応が、どうも世界の神話的構造というか
意識/無意識の構造を表しているんだろう。
そういう点では、一切の説明的なことはないが
わかりやすく作られていると言えるのかも。
クレマンティの唯一のセリフである
「私は父を殺し、人肉を喰らい、歓喜に震えた」(だっけ?)
というのはまさに、禁忌があれば無意識には禁を犯す欲望が生まれるという
フロイト的な話であるだろう。
これに戦後ヨーロッパを引っかけてある。
ヒトラーは殺戮的な父親であるが、同時に母性的であるという主旨の冒頭語と、
レオーの両親の姿(男らしい母親と女性的な父親)が繋がっている。
レオーはその両親の子供=戦後ヨーロッパの精神なのだろう。
いずれ豚に食われて跡形もなくなり、
それは我々の無意識の欲望であり
最後は黙っていれば誰にも露見することはない。
てなところかな(全然わからん)
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最後のくだり
ナチス残党と資本家が手を握り新事業を起こすお披露目の席で
使用人達がぞろぞろとやってきて事実を語る。
そして、ナチス残党は「しーっ」
内緒にしておけばOK!
のシークエンスは、パゾリーニらしいリズム感あり。
だいたいいつもそうだが、エンドロールというものがなく、
バッサリと映画はクローズする。
そこが好き。
レオーとヴィアゼムスキーの口元と音声を思わず観察してしまう。
おそらく二人とも違う人物のアフレコだろう。
違和感ありと友人はいうが、
ワタシ的には、そもそもが神話的映画なんで、むしろ嘘くさくて面白いと思われた。
クレマンティとチッティが並ぶと実に濃い(笑)
他の作品では主役を張るチッティだが、こうして2番手として出てくると
これまた子分くささがよく滲み出て、なかなか面白い。
もう一人のパゾリーニ役者のニネットくんは
確かこの辺りでパゾリーニに寵愛されるようになる。
彼がまた異様に嘘くさい顔をしているのだが、
唯一神話界と現実界の両方に出てくる重要な役まわし。
ものすごい低予算な感じも良い。
冒頭の音楽も田舎ヨーロピアンなかんじで良い。
マルコ・フェレーリが役者として出てるとかそういう話は
あちこちに書いてると思うので割愛。