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1966イギリス・イタリア
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原作:ジュリオ・コルタザール
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ
エドワード・ボンド
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、
サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン
二回観た。最近続けて二回観ないとよくわからんということが多い。
「二度観」は理解するにはいいけれど時間がかかってしょうがない・・・
優雅な生活を送るカメラマン、あるとき公園でカップルの写真を撮った写真を現像してみると、偶然、殺人者と死体が小さく写っていた。そして実際に現場に戻ってみると確かに死体が・・・。しかし、その事実を共有しようと友人を訪ねているあいだに、写真も死体も消えてしまう。
と、よくあらすじに書いてある。けれど実際はそんなサスペンスフルな映画ではなかった。様式美と哲学の映画だった。
写真へのうつりこみを発見するシーンは秀逸。公園での写真の被写体となっている女の視線の先をたどり、部分を引き伸ばしてゆくと、殺人者が見える。そしてそれをさらに引き延ばすと、手にした銃が見える。この発見劇を、全く無言で、たんたんと、引き延ばした写真を順に並べてゆくことで表現している。静止画面の連続によるサスペンス。映画的とはいえない手法が効果をあげているとともに、写真に於ける「意味」は連続した文脈や背景のなかで人間が付与するものだという事実への考察にもなっている。
写真はその後消えてしまうが、かろうじて1枚だけが残っていた。それはまさに引き延ばした死体の写真だが、拡大しすぎて抽象画のような画像である。この写真に証拠としての意味はない。一連の写真のなかで初めて意味を持つものなのだ。
このことは、もくろんだものかどうなのか、主人公の友人の画家が冒頭近くに抽象画について語る言葉のなかで既に提示されていたことでもある。
う~んなかなかさりげなく深い。
死体のあった公園に再度もどってみると、死体は消えている。
途方に暮れる主人公の前に、顔面に白塗りをしたスウィンギング・ロンドンなノリの若者の一団があらわれ、ボールもラケットも持たずにパントマイムでテニスを始める。
ボールを打つ真似をするプレイヤー。ありもしないボールを眼で追う観客達。
これは、非現実でも複数の人間の参加によって現実になりうるということの戯画なのだろうか。一方で、証拠となる写真も死体も消えてしまった今、カメラマンのみが知る殺人は、本当に起こったことなのだろうか。
ほかにもこまか~く「哲学」を混ぜ込んでいる。
プロペラを買うシーンとか、貧困層を扱う写真のシーンとか、
ヤードバーズの演奏シーンでさえ、観客が異常に覚めていて意味ありげ。
いや、意味ありげじゃないシーンなんてどこにもないのかもしれないぞ・・
哲学くささがちょっとウザいかもしれないが、私はあれこれ考えて楽しめました。
*
ジェーン・バーキンがクレジットに入っているんだけれど、どこに出てきたか全然わかりませんでした。昔のジェーンの顔をよく知らないからなぁ。
音楽はほとんど使われていない。静かな映画だ。にも関わらずなぜかDVDには「サウンドトラック」という、画像と音楽のみを再生するトラックが付録で付いている。ほとんど環境ビデオだ。(ああそうか、環境ビデオ用なのかこれ・・)
セックスやマリファナパーティーのシーンなど、当時は非常にセンセーショナルだったということだが、今観るとなんてことはない平和なシーンである。
原題は「Blow Up」、引き延ばし、ですね。「欲望」ってのはちょっとよくわからんです。
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